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=======近代国家というのは、住民から税をとり、国家としての共同体として、公共の事業を執り行ないますが、そのためには、税を納める人、つまり国民を政府がきちんと管理していなければなりません。
ところが、当時の有色民族たちには、たとえその民族が住む一定のエリアに、なんらかの「王」や「行政府」があったとしても、近代国家としての体裁をきちんと整えた地域は、ほぼ皆無だったわけです。(実際、日本くらいなものです。)
ですから当時の国際連盟に加盟するような近代国家は、そうでない民族の住む地を「無主地」とし、そのようなエリアは、近代国家が統治することが「正しい」とされていました。
この理屈によって、欧米各国は世界の有色民族を植民地統治していたわけですけれど、その一環として、日本は、第一次世界大戦の賠償のために南洋諸島を手放したドイツに代わり、南方の島々を国際連盟から統治をするよう、委任されていたわけです。
ただ、日本の統治は、それまでの欧米列強による植民地支配とは、まったく別なものでした。
日本は南洋の島々の人々から教育を奪い、彼らの財産を支配・収奪するどころか、まったく逆に教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆるものを与え続けました。
なかでもパラオは、日本の南洋庁が置かれたところで、日本の委任統治の中心地となったところです。
そのパラオは、当時の南洋諸島や台湾、朝鮮半島、満州、樺太を含む日本領全域で開催された小学校の算数の学力大会で、なんと優勝するほどの実力を身に付けています。
そしてそのことを、当時の日本人は、たいへん喜んでいます。
いま、パラオは、もちろん独立国です。
けれどパラオの人たちは、日本が与えた教育その他よりも、実は、もっともっとはるかに大切で大きなものを、いまも大切にしてくださっています。
それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。
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昭和16(1941)年12月、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させました。
パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の防衛圏上の、重要な拠点となったのです。
ちなみに以前、「大東亜戦争で日本が負けたのは、海軍が広大な太平洋に戦力を分散して展開したためであり、東南アジアに海軍力を集中していたら日本は負けなかった。つまり戦争に負けたのは海軍の”せい”だ」と言っている人がいました。
なるほど、戦力というのは、分散するより集中した方が得策なのは事実で、いっけんもっともらしい議論ですが、これは大きな間違いです。
日本本土を守るためには、戦場は日本から遠いほど良いからです。
日本が太平洋側に広く防衛ラインを広げていたからこそ、戦争の中期まで日本本土が空爆されずに済んだのです。
もし、最初から防衛ラインが日本側に寄っていれば、日本本土は開戦早々から空襲や艦砲射撃の危険に晒されています。
だからこそ、パラオをはじめとした南洋諸島や、アッツ島などにまで、日本は陸軍や海軍を派遣し、防衛に勤めていたのです。
いいかえれば、日本にとって防衛上の重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。
当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきました。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
パラオの人々は、これはパラオ本島でも同じですが、重要な意思決定をするときには、村ごとに男は男だけの建物、女は女だけの屋敷に、全員がこもり、そこで会議をします。
そしてひとりの反対もなく、全員の意見が一致するまで、何日でもそこに寝泊まりしながら、議論を重ねます。
米軍が攻めて来る。
この情報がもたらされたときも、そうでした。
ペリュリューでは、全島民が屋敷にこもり、自分たちがどのようにするかを会議しました。
どんな些細なことでも、全員一致で何事かを決めるときには、たいてい1週間から10日かかります。
けれど、このときの会議は、わずか数時間で、ペリュリューの島民全員の意見がまとまりました。
それは「自分たちは、日本とともに戦おう!」というものでした。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、島民を「人」として扱ってくれる日本軍を、すでに心から尊敬していたのです。
東日本大震災に現れた自衛隊、「帰らないでくれ」とデモまで起きた中東サマワの自衛隊と同じです。
彼らの全会一致は、「全員で団結して日本人と一緒に米軍と戦おう」というものでした。
そう決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍大佐(死後特進して中将、以下中将で統一して書きます)です。
中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生で、日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長でした。
その中川中将がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことです。
米軍が圧倒的火力をもってペリュリューを攻めて来る。
その守備隊責任者としての赴任です。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えています。
「永劫演習」というのは、生きて帰らないという意味です。
たとえ見事、敵の攻撃を防ぎきったとしても、多くの味方の兵が死ぬことになる。
その責任者として任地に赴く中将の心には、たとえ勝っても、生きては帰らないという決意が込められていたのです。
温厚で、日頃からやさしいく尊敬する隊長さんです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねました。
そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です!」
中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、沈黙が訪れました。
しばしの沈黙のあと、中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
そして耳を疑いました。
「俺たちのことを土人と言った? 俺たちは仲間じゃなかったの? 差別していたの? 軽蔑していたの?」
そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかったのです。
日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけ?
集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。
何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、島民たちがパラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本の兵隊さんは、誰ひとり見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みました。
島を去ることよりも、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったそうです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。
次の瞬間です。
島からものすごくたくさんの「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして、日に焼けた真っ黒になって、ヒゲがボウボウに生えた顔から白い歯を出し、満面の笑顔で、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。
そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと考えたのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。
岸辺で手を振る日本の兵隊さんたちの様子に、船にいる島民全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
彼らは、日本の兵隊さん、ひとりひとりの、その全員の笑顔を、かすむ目に焼き付けようとしました。
誰もが笑っていました。
中川隊長の姿もありました。
いつものように、やさしそうな笑顔で、他のみんなと一緒になって手を振ってくれていました。
当時を知る人は、その笑顔が、いまも、あれから70年経った今でも、はっきりと目に焼き付いて離れないでいるそうです。
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍は、総員48,740人です。
火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。
最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。
島はじっと沈黙したままです。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。
そのとき、突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲いました。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。
この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

オレンジビーチ10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。
戦いは、このときまで、日本側守備隊の一方的な勝利でした。
敗北した米軍は、支援部隊をペリュリューに差し向けました。
一方、日本側には、補給が一切ありません。
海上を封鎖されているからです。
食料も水もない。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。
だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあいました。
日本軍の抵抗は次第に衰えました。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定しました。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決しました。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして11月27日、ペリリュー島は落ちました。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。
中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、嘉賞11度、感状3度を与えられています。

中川州男大佐
明治31(1898)年1月23日生まれ
昭和19(1944)年11月24日戦死
享年47才戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。
戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。
戦後、パラオは、米国の信託統治領となりました。
けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
あまりの仕打ちに、島民たちはパラオ本島と一緒になって独立運動を開始しました。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。
独立したとき、パラオの人々は、独立記念の歌を作りました。
以下がその歌詞です。
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる
(注:ペ島=ペリュリュー島のこと)
二 小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧もない
三 兵士は桜を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四 日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の”桜"は散り散りに
玉砕れども勲功はとこしえに
五 今もののふの姿なく
残りし洞窟の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂守る
六 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七 どうぞ再びペリリューヘ
時なしさくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
わかりますか?
彼らの独立記念の歌の歌詞の1番から7番までのすべてが、日本のパラオ守備隊のことなのです。
そして、下にあるのが、独立したパラオ共和国の国旗です。
この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗なのだそうです。
パラオ共和国国旗

周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわしています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。
また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。
【ペリリュー島の戦い】
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
村人の死者、負傷者、0名
古来、人類の戦争は、常に略奪と支配によるものでした。
戦いにあたっては、どこの国でも、先頭に立つのは、被支配者側の人たちでした。
けれど、日本は違いました。
それがどんななに苦しい戦いであっても、常に日本人が先頭に立ちました。
なんのために?
そのことが意味する日本人の心を、是非、感じ取っていただきたいと思います。
そうそう。パラオについて、読者のNさんから、次のようなお便りをいただきました。
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最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。
今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。
日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて
「君たちは日本人か?」
と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そのとき老人が言ったことは家内が言うに
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。
この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。
私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
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このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。
海に沈むゼロ戦
旧日本軍のトロッコ跡

上の写真は、島に散ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が、当時のままに眠っている。
もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。
すこし、パラオのことを書きます。
パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。
スペインが植民地として支配したのです。
スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。
けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。
もともと、人口2万人くらいの島国です。
そのうちの90%が命を奪われた。
それがどういうことか、想像してみてください。
忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。
ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。
米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。
「植民地になる」ということは、そういうことなのです。
そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。
私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。
そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。
さて、スペイン統治によって、パラオは、人口の9割が失われたパラオは、もともと、産業のある国ではありません。
スペインは、もうこれ以上パラオから収奪するものがなにもないとなったとき、わずか450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいました。
買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのだけれど、あまり効率はあがらない。
同時に、ドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。
パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。
日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦のあとに行われたパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。
けれど、これは英米の頑強な抵抗にあって、頓挫してしまいます。
代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治です。
これは、ひとつには、日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と一緒になり、植民地支配者としての収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたものであったと言われています。
ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治の委任を受けるとすぐに、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。
それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。
ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめました。
その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始した頃の、パラオの先住民の人口は、わずか6,474人です。
それが、いまやパラオは、人口20,303人(2005年)、なんと人口が3倍にも増えたのです。
当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。
中島敦といえば、「山月記」や、「李陵、弟子、名人伝」の著作で有名です。
彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人とまでいわれ、絶賛を浴びた人です。
そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂掛として現地に赴任したりしていたのです。
日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。
これには理由があります。
パラオには、パラオ語を書くための文字がなかったのです。
そして近代教育を施すため、たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。
ですから、すくなくともいったんは、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。
パラオの子供たちは、実によく勉強してくれました。
なんとパラオの子供達は、日本本土を含む、日本の支配地域の全域が参加する全日本共通テストで、総合第二位、算数では一位の成績を勝ち取っています。
これは、パラオで日本が、優秀な教育を施していたということの証拠であるとともに、パラオの子供達が、いかに教育を受けることを歓迎していたかがわかる逸話でもあります。
ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。
まったくそういう都市インフラの整備事業にずっと接してこなかった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり東京タワーを作れ、といわれるのと同じで、そうそう易々とできることではありません。
では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したかというと、日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。
まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。
日本パラオに派遣した職員の数は、軍隊を除いても、なんと2万5千人です。
そして日本は、パラオにあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄いました。
そして戦後は、前々からの宣言の通り、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。
日本統治時代のコロールの街並み

ちなみにこの写真、大正から昭和初期頃に撮影されたとみられるパラオの町並みなのですが、写真の右側にハングル文字が映っているのがおわかりになりますでしょうか。
昨今の在日朝鮮人などは、日本が彼らの言語を奪ったなどとわけのわからないことを言いますが、日本人とともにパラオに来て働く彼ら朝鮮人のために、日本人はちゃんと彼らの文化を尊重したお店を作り、彼らのためのハングル文字の看板まで出しています。
短い期間でしたが、日本は委任統治を受けたパラオで、たくさんのことをしました。
学校をつくり、教育を与え、司法、行政、立法を教え、街のインフラを整備しました。
けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。
中川隊長以下、勇敢に戦い、散って行かれたみなさまに、あらためて黙祷をささげたいと思います。
※この記事は08/09/17の記事をリニューアルしたものです。
<ご参考>
◆アンガウルの戦いと人種差別
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-890.html◆ランボーは日本人だった! 舩坂弘軍曹物語
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-708.html
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コメント
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日本が悪かった的描写かな?と思いながら見たのですが
しっかりとこの記事にある住人退避、芸者「久松」の話も出て来ました。フジちょっと見直した。
そこでふと思ったのですが、
私はねずさんの記事を読ませて貰い、その話が実際にあった事実と理解しておりますが
何も知らずにこのドラマだけ見た人はきっと
「良く出来た話だなぁ。そんな話あったの?うそ!」なんて思うかもしれないな、と。
少し悔しくなりました。
祖国を離れ遠い場所で、国の為に命を懸けて戦った英雄達が居た。
涙を堪え切れません。
陛下が近々パラオに、とTVで言ってましたが、とても良い事かと。
英霊の皆様、さぞお喜びになられる事でしょう。。
2014/08/16 URL 編集
-
2013/12/18 編集
さおり
今から15年前、私はダイビングをしていました
パラオといえば・・・ペリリュー島・・・といえば仲間内でも憧れダイビングのスポット。
こんな悲しくて切ない戦争のお話があるとはきっと当時の仲間の誰も知らなかったでしょう
日本の教科書に載せるべき話だと思うのに
これを知っていたら無理をしてでもパラオに行ったのにと、
残念でなりません。
(パラオは初心者では潜るのが難しいのです・・・)
サイパン、グアムの近くにあるチューク諸島(旧名トラック)に言った時、海底に沈んだ日本の軍艦がダイビングポイントでした
(ここは初心者でも楽しめる海なので行けました)
仲間のリーダーはここに何回も来ているベテランダイバー。
さすが気が利きます、海に潜る前に玉砕した日本兵の為、持って来た日本酒を海に流しました。(私も心の中でお祈り・・・)
蒼く深い海底にある沈没船は美しい魚と珊瑚の為の住処になっていました。
黒い大きな塊を見た時は何とも言えない気持ちでした
チューク諸島にはそれはそれはたくさんの日本船が沈んでいるのです
真っ二つに切り裂かれ沈んだ船の傍らに日本の白いお茶碗や機関銃の弾やらが生々しく残されてました
メンバーの一人が夜、海岸からたくさんの日本兵が陸に上がって向かってくるのを見たそうです
霊感などなく、未だかつて霊も見た事がない彼は、自衛隊員だったのですが、何か呼び合う波長があったのかもしれません。
現地でレストランを経営している日本人が言うに、その辺の林などで軍服を着た兵をよく見ると、当たり前のように淡々と話してくれました。
人が潜れる海底にある遺体は現地に住むみんなで引き上げたそうです。
ただ、それより深い所は出来なかったと・・・
自虐史観でしか戦争を知らなかった私はごめんなさい、ありがとうございますと心の中でずーーーーっと思っていたのです。
本当の歴史を知っていたら、チュークの人ともっと違った話が出来たかもしれないのにな。
きっと不思議だったでしょうね、訪れる日本人ダイバーはアメリカと勇敢に戦った日本兵を何故誇りに思わないのか
未来の日本の為に死んだというのに自分達が悪者にされて・・・
死んでいった彼らはやり切れないでしょうね
やっぱり、教育は大事です
これから私達で変えていかなくちゃいけない
上でパラオにもシナ人がたくさん来てると書かれてたけど物凄く心配。
2013/11/17 URL 編集
平
この記事をメルマガで読んで、鼻水垂れ流して大泣きしました。
心にある汚れが、一気に流れ落ちた感じだったのを、強く覚えています。
私たちの先祖は、なんて立派な人達だったのか
誇らしい。
先輩達を見習わなきゃ!
2013/11/16 URL 編集
パイク
これぞ全うな人対人との出来事ですよね
コメントも全て読んだ上での感想は、日本や南朝鮮おまけに中国も世界から見たらすごく特異 変な国だと思います。
日本人の島国根性は肌身に染み込んでますから今更ですが 南朝鮮の特異性には興味があります。なんか動物を視ているみたいでコリアンダーには失礼な話しですがどうか寛容なで
ここまでキチガイだといや国中ね 全部ひっくるめてだよ おかしいおかしいと我々常人が思う事がおかしいのかなと。 思うに、コリャ遺伝子レベルで違うと これなら納得 おかしくな~い(笑)
同じ人として接したら駄目だって事ですかね
2013/11/15 URL 編集
小倉っ子
2013/11/12 URL 編集
反日サヨク敗走
■「TBS Nキャス 韓国反日の正体」(2013/11/09)
http://www.youtube.com/watch?v=dh42nl6Jv4s
再生回119,825
高評価 751 低評価 78
■北原みのりがTBSにネトウヨ認定し発狂閉経
http://livedoor.blogimg.jp/shitterusoku/imgs/f/c/fc949b5d.png
2013/11/11 URL 編集
渡辺 誠
父の没直後、サイパンは訪れました。バンザイクリフで海亀を目撃し、父に思いを馳せ涙しましたのは5年くらい前でしたか。
妻が外国人なので、グアムのビザが面倒でサイパンにしたのですが、今から思えばパラオにすべきでした。
必ずパラオ、そしてペリュリュー島に行くぞと心に決めています。
2013/11/10 URL 編集
Tarmac
2013/11/10 URL 編集
応援する会
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/ref=pd_dp_ts_b_1#4
ただいま、57位です。
驚いた事に、この100冊の中で既に私が読んだ本は、ねずさんの本を含め7冊ありました。
これから読もうと思っている本が4冊ほどです。
かなりの確率で、このベスト100は読まれるということですね。
ねずさんの本は、かなり内容が面白いですから、あとはどれだけ話題性、宣伝力があるかにかかっていると思います。
毎日、超人的な努力と才能でブログ更新されてるねずさんに学ばせていただいているお礼として、ねずさんの本をベストセラーにしたいですね。
皆様、どうぞ応援よろしくお願い致します。
2013/11/10 URL 編集
コージ
先日TV東京の「未来世紀ジパング」でパラオの特集を
やっていました。(11/4)放送
日本とパラオの関係にも少し触れていますが
なによりパラオに今、中国企業が進出している旨
しかも高級リゾートの開発、現地雇用を使わず
大量の中国人労働者がパラオに滞在している事を
紹介していました。
非常に危機感を感じます。
余談ですが、韓国に作ってもらった橋が
崩落して日本が新しい橋を作りました。
2013/11/10 URL 編集
ポッポ
パラオが日本の国際連盟の委任統治領になった後、日本は南洋庁を設置し、パラオのインフラを整備しました。日本のこの姿勢は、台湾も朝鮮も変わらなかったと思います。そして、台湾とパラオはこれに感謝して、朝鮮は1000年経っても、恨みを忘れないといいます。
人間何事かをなしたとき、その厚意に感謝をされれば、もっとやってあげられることはなかったかと、気にするものだと思いますが、せっかく多額の援助でインフラ整備をしても恨み言をいわれては馬鹿らしいと、次の援助をする気は無くなると思います。
今までは、韓国が日本に文句を言うと、日本は面倒くさいので(多分、キックバックがあったのかも知れません。)多額の資金を渡して終わらせていました。
もう十分、日本に文句を言えば、金になるとの覚えられました。しかし、日本は永年の円高で財政が悪化して無駄金はなくなりましたから、何を言われても金を渡す必要は無いと思います。
韓国との状況が悪化するとの心配ですが、これだけ世界に悪口を言って回られたのですから、これ以上何を言われても気にならなくなりました。
アメリカのニュージャージー州で建立された少女像ですが、外務省が竹島のために日本の主張を発表したことから、いわゆる従軍慰安婦のことについてもこれまでよりは、日本の正しい主張をするでしょう。このまま、日本全体が正しい歴史を認識し主張をし続ければ、「従軍慰安婦像」は「親に売られた少女像」に名前を変えると思います。
2013/11/10 URL 編集
幸せゆたか
同じ日本人であることを誇りに思います。
この方たちがいてくれたから、今の豊かな日本があることを、多くの人たちが知らなければならないと思いました。
日本を愛します。
すばらしい内容でした。ありがとうございます。
ねずさんの本、書店に入りしだい買います。
2013/11/10 URL 編集
桜子
日本統治になり劇的にパラオの住民の生活は向上。
その二つを経験してるからこそ本当の意味で日本に感謝できるのだと思います。
勿論、日本は感謝される為に行ったのではありません、
日本国として当たり前の事を当たり前に行なっただけです。
パラオの国民が国を挙げて日本に感謝の意を表すということは裏を返せば、欧米列強の植民地支配の愚政(愚政はまだましな方で、愚政という言葉にさえ引っかからないほどの事をやっていたのでしょう)を物語っています。
方や韓国ですが、日本の統治により併合前の生活と併合後の生活が劇的に変わりました。
パラオと同じ経験をしているのにも関わらず、併合にしてもあたかも日本が強制的にといったニュアンス、この嘘がいつの間にか韓国では通説になってしまっているこの現実の恐ろしさ、慰安婦問題の嘘もこのままでは世界の通説になるやも知れません。
嘘は嘘として発信し続けなければなりませんね。
「やって見せて、言って聞かせて、やらせて見て、ほめてやらねば、人は動かず」
この言葉の続きがあります。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず、やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」山本五十六の名言です。
言って聞かせて、やって見せたら、普通の人間だったら理解します。
言って聞かせて、やって見せても、おまけに何よりも経験しているのにも関わら理解出来ない民族がいるという現実、どう考えてよいのやら、、、全くもって理解不能です。
要は、韓国とパラオの違い、ハッキリ言って人間の質の違いそれにつきます。
人間の質を見極めお付き合いしないと、このような目に合うという究極の教訓ですね。
日本は、明治以来、先人が命を賭け護りぬいたおかげで植民地支配という悲惨な経験をせずにすみました。
しかし、いま日本を取り巻く状況は極めて厳しいものがあります。
国が亡くなるというのはどういう事なのかを、歴史に学ばなければなりません。
歴史だけではありません、現に今、チベット、ウイグルが教えてくれています。
あらためて英霊の皆様に感謝します。
2013/11/10 URL 編集
red-bean38
ネット徘徊中に拾ったものです。朝鮮売春婦の記事です、拡散よろしく!!
‘基地村女性管理’朴正熙 親筆署名文書 公開 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/15985.html
2013/11/10 URL 編集
お猪口
このような死と隣り合わせの状況で、自分が悪者になってでも他を救おうとする気持ちを失わず、冷静に判断をし、できるだけ犠牲を出さないよう配慮ができる隊長に頭が下がります。
2013/11/10 URL 編集
にっぽんじん
河野野談話の根拠が崩れたいまこそ日本政府は韓国に対して応戦する必要があります。アメリカで慰安婦問題を拡散させるのなら、史実をもとに、「韓国人洋公主問題」を世界に拡散し、韓国とアメリカのダブルスタンダードを拡散すべきです。
2009年1月7日のニューヨークタイムズに韓国人慰安婦たちが韓国政府とアメリカを告訴したニュースが掲載されています。下記のURLは韓国における従軍慰安婦の実態です。
世界に拡散願います。
韓国政府が、韓国人慰安婦を強制連行し米軍の性奴隷にした証拠
軍相手の従軍慰安婦 ~彼女たちの叫びが聞こえますか (日本語版)
http://youtu.be/KZ2d1bqycmw
【英語版】
http://www.youtube.com/watch?v=7jlfAqR8uBc&feature=player_embedded#t=33
2013/11/10 URL 編集
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中国は城管と言う国や地方が雇っている暴力団があるんですね。 テレ朝が珍しく映像を放映していました。 無抵抗の中国の民衆に殴る蹴る、やりほうだいです。 経済がいびつに発展しても、暴力で民衆をねじ伏せようと言うヤクザ国家であるのは変わりないですね。
中国の共産政権はもう持たないですね。
民衆の怒りや恨みが物凄く積みかさなっています。
2013/11/10 URL 編集
terag3
つまりそれは、統治国に対して奪うのではなく逆に与える統治をしたと言うことです。それにしても、その統治国に対しての、インフラ整備は、莫大な国家予算が費やされることに対して、日本国民はそれを非難もせずに許していたという寛容さに驚くとともに、戦前戦中の日本国民の民度の高さに敬服しています。
当時の欧米諸国の植民地政策は、その国の国民を9割も殺傷して政治上の主権の無い完全な属領にしてしまったこと。現代の世界でもチベットなどがそのような状況に置かれていますが、日本では反戦平和主義を未だに声高く叫んで自衛隊も軍隊と認めず9条と言う平和憲法が有るから、現在の平和が維持できていると言う、妄想が罷り通っています。誠に愚かな人々だと思います。
それにしても、パラオの人々と朝鮮、韓国人を比較してみた時に感じるのは、日本統治時代に与えられたインフラ整備や教育に感謝もせずに、ただ一方的な「恨み節」で、反日一本やりの朝鮮、韓国人は、本当にもう救いようがありません。
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2013/11/10 URL 編集