波紋は岸辺に

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服部ケサ
服部ケサ


ハンセン病という病気は、かつては全世界に猛威をふるった病気です。
皮膚がまるで像のように固く厚くなり、全身から膿が吹き出すというたいへんな病気でした。
日本では、この病気はライ病とか腐りの病といって恐れられました。

細菌性ですが、感染率は決して高くなく、昭和40年代にはいってから特効薬が開発され、いまでは世界中からほぼ駆逐された病気です。

昔は、この病気に罹れば、もはや隔離するしか方法がなく、やむなく無人島のようなところに患者たちを隔離するのがあたりまえに行われていました。
けれど、それはただ隔離するというだけのもので、いってみれば体のいい姥捨のようなものでした。

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たいへんに恐れられた病気ですが、わが国では8世紀の始め頃、光明皇后陛下が、このハンセン病患者たちのための収容施設をつくっています。
光明皇后はこのとき、重症のハンセン病患者の膿を吸ってあげたところ、その病人が阿閦如来(あしゅくにょらい)であったという伝説が残されています。

以前、ハワイのかつての王朝のことを紹介させていただいたことがありますが、そのハワイでは、18世紀の終わり頃から白人たちがやってきたときに、このハンセン病を持ち込みました。
やむなくハワイでは、ハンセン病の患者を、ハワイ諸島のモロカイ島に隔離していたのですが、病気の蔓延に人口も急速に失われていきました。

このためハワイのカラカウワ大王は、同一種族である日本との合邦を望み、明治14(1881)年に来日をしています。
実は、外国の国王級の要人が来日したのは、このカラカウワ大王の来日がわが国初のできごとです。

このときカラカウワ大王は、江戸の神田猿楽町にあったハンセン病専門の「起廃(きはつ)病院」を視察しています。
この病院は、江戸中期に杉田玄白に学んだ漢方医の後藤昌文(ごとうしょうぶん)が明治4(1871)年に開業した病院で、同じ年に静岡県の浜松市にも分院を設立しています。

実は、西洋をはじめ世界中で不治の病とされていたハンセン病なのですが、17世紀初頭にインドで「大風子油(だいふうしゆ)」という薬草の種の脂肪分を塗ることで、症状の悪化を防げることが確認されたのです。
これが発見からわずか後には日本に伝えられ、江戸時代を通じて治療薬として使われていたのです。

そしてさらに幕末近くには、後藤昌文が大風子油を使って、これをただ塗るだけでなく、丸薬にして服用すること、大風子の実の絞り糟などを入れた薬湯に浸かること、栃の実を使用すること、温浴することなどを組み合わせた総合療法を開発し、不治の病とされていたハンセン病患者に、世界初の完治者を出すに至っていたのです。

これを視察したカラカウア大王は、ハワイに帰ると、当時ハワイで大富豪でありながらハンセン病に罹ってしまっていたギルバート・ウォーラー(Gilbert Waller)に、日本での治療を薦めます。
そして来日して起廃病院で治療を受けたギルバート・ウォーラーは、なんと完治して帰国しています。

これが明治18(1883)年の出来事で、ハワイに帰国したルバート・ウォーラーは、ハワイの衛生局に、「後藤医師の有する知識と経験は、千年に渡る日本・中国漢方医の研究結果であり、何百名もの患者が治癒に至っている(The knowledge and experience possessed by the Gotos, was the result of the study of Japanese and Chinise Physicians for over a thousand years.)」と喜びの報告をしました。(*1)
そして、ハワイの衛生局に、後藤医師の治療法を試すように強く勧めました。

このため同年末、後藤昌文の息子の後藤昌直がハワイに招かれ、ハワイでのハンセン病患者の治療にあたることになりました。

当時のハワイに、ハンセン病の守護聖人といわれる人がいました。
それがベルギー人のダミアン神父(Father Damien)です。
ダミアン神父は、自らモロカイ島に渡り、姥捨状態にあったハンセン病患者のために、収容施設の建設やその運営までこなしていたのです。

ところがそうやってハンセン病患者に接しているうち、ダミアン神父もまたハンセン病患者となってしまっていました。
病状は深く、もはや助かる見込みさえない状況になっていました。

そこへやってきたのが、後藤昌直でした。
後藤の治療により、ダミアン神父のハンセン病は一旦軽快しましたが、快癒する前にこの世を去りました。
そのダミアン神父の言葉です。
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私は欧米の医師を全く信用していない。
後藤医師に治療してもらいたのだ。
(I have not the slightest confidence in our American and European doctors to stay my leprosy, I wish to be treated by Dr. Masanao Goto.)
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New York Timesに、ダミアン神父の追悼記事が載りました。
そこには、ハンセン病と戦う後藤昌直の治療が掲載されていました。(*2)

平成7(1995)年6月4日、ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世は、ダミアン神父を列福しました。
さらに平成21(2009)年には、ローマ教皇ベネディクト16世からダミアン神父は「聖人」に列せられました。
ハワイ出身のバラク・オバマ大統領も、ダミアン神父の列聖を祝福するコメントを発表しています。(*3)
(*1,2)WIKI[「ダミアン神父」より引用

ダミアン神父が亡くなったのが、明治22(1889)年のことです。
その頃日本では、東京大学の内科医の教授であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ教授が、草津温泉をたいへん気に入り、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と大絶賛し、さらにハンセン病にも、温泉が良いと紹介をしました。

ちなみに、このベルツ教授、赤ちゃんのおしりに出る「蒙古斑」の命名者でもあります。

このことから、草津温泉にハンセン病の療養施設を造ろうという動きがあがるのですが、近隣の住民の反対にあって、話がなかなかすすまない。
そこで、誘致派の人たちが行ったのが、明治40(1907)年の英国人宣教師、コンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Legh)女史の招へいでした。

コンウォール女史は、草津に聖バルバナ教会を建てるとともに、そこにハンセン病患者を収容する聖バルナバホームを併設し、さらに医療事業として聖バルナバ病院を設立します。
しかし、相手はハンセン病です。
医者も看護婦もなかなか集まらない。

そんなときにコンウォール女史が出会ったのが、看護婦の三上千代(みかみちよ)でした。
看護婦となった以上、もっとも重い病気の患者の友になるんだ、という固い決心をしていた千代は、優秀な医師がほしいというコンウォール女史の求めに応じて、千代よりも少し年上で、千代と志を同じくする女性医師、服部ケサに、草津に来てくれるようにと依頼しました。

服部ケサは、もともと看護婦をしていたのですが、もっと患者さんたちと前向きに深く接したいとの思いから猛勉強し、明治38(1905)年、21歳で東京女子医科大学に入学した女性です。
ところがこの在学中に、赤痢患者の治療中、赤痢に感染し、さらに心臓や腎臓まで悪くしてしまいます。

奇跡的に一命をとりとめた服部ケサは、医師の免許を取得しながら、東京の慈善病院(現在の三井記念病院)に、看護婦として勤務しました。
これは女性医師が差別されたとかいうことではなくて、服部ケサ自身が、より患者の近くで勤務できる看護婦の仕事が、医者以上に大切な仕事と思えたからだと伝えられています。

このあたり、当時の日本人の気質がたいへんによくあらわれていると思います。
名声や肩書きや経済力などよりも、人としてたいせつな生き方を選んだのです。

そしてこの病院で出会ったのが、三上千代でした。
服部ケサは、千代の求めを快諾し、草津の山奥の聖バルナバ病院の勤務医となります。
もちろん、千代が看護婦です。

この聖バルナバ病院は、草津温泉駅を降りてから、山道を40キロも入ったところにありました。
当時は、もちろんバス便もタクシーもありません。
病院までは、歩いて行きます。

病院でのケサは、毎日百人以上の患者を診たそうです。
患者からも、若いが腕は確かだと頼りにされたといいます。
看る病気は、ハンセン病ばかりではありません。
当時の山奥の医者というのは、みんなそうですが、内科から外科、産科や皮膚科に至るまで、あらゆる医療を施さなければなりません。

しかも、当時の医者というのは、病院で患者を待つばかりではなく、要請を受ければ、どこへでも往診に出かけるのが常でした。
山奥のことです。近隣といっても片道徒歩5㎞の往診というのは普通のことです。

ときには10㎞も離れた所に、往診かばんやお産道具を持って治療に駆け付けた事もありました。
雪の日は特に苦労したといいます。

信頼される医師として、ケサの仕事は多くなり、休む時間はどんどん減っていきました。
心臓の弱いケサは、ついにぜんそく発作のため倒れてしまいます。

それでもケサは、休もうとはしません。
自分たちの病院を建てたいという夢があったからです。

大正13(1924)年、ケサと千代子は、スズランの咲く土地に夢にまで見た病院を建てました。
そこに、スズラン病院の看板をかけます。

その3週間後、ケサは、突然心臓発作を起こして亡くなりました。
40歳の若さでした。

ハンセン病の特効薬であるリファンピシンが開発されたのは、昭和40年になってからのことです。
これが特効薬となり、いまではハンセン病は、不治の病ではなくなり、また罹患者も大幅に減っています。

ハンセン病の治療薬として大風子油を見つけたのはインド人でした。
その発見後、10年もしないうちに、その治療法はわが国に取り入れられ、幕末から明治のはじめには治療院もでき、世界中で不治の病とされていたハンセン病が、日本では完治例も出るようになりました。

そしてこれを受けて、親日国であったハワイ王が、日本から医師を招き、ベルギー人の神父がその治療を受け、そして日本で処方されていた丸薬が、イギリス人によって、注射液と錠剤となり、さらに米国の研究医などによって治療薬が開発され、いまではこの病気は、なんら恐れることのない病気となっています。

服部ケサの葬儀のときの千代の弔辞です。
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池の中に投じた小石はもはや浮かび上がることはないけれど、その波紋は必ず岸辺に達します。
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たったひとりの小さな一歩でも、波紋はかならず大きく広がり、みんなの力は次第に大きくなって、かならず岸辺に達します。

世界がハンセン病を克服する中で、服部ケサが果たした役割は、けっしておおきなものではなかったかもしれません。
けれど、ケサのような女性がいたこと、そしてそれを支えてくれた千代のような女性がいてくれたこと。
それは、小さな石であり、沈んでしまったものにすぎないかもしれないけれど、波紋は世界に広がり、多くの人の命を今も救い続けています。

わたしたちが、日本を取り戻すためにできることも、ひとりひとりにできることは、それこそ小さなことにすぎないものかもしれません。
服部ケサと同様、一生懸命に生きても、池に沈んでしまうかもしれない。
けれど、その小さな波紋は、かならず大きく広がる。

波紋のために。
いまできる小さな努力を積み重ねていきたいと思います。
先人達に感謝です。

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コメント

takechiyo1949

現代の偉人って誰ですかね
『人。その友のために生命を捨てる。これより大いなる愛はなし』
正に武士道そのものですね。
我国には偉人が大勢います。
現代の偉人って誰ですかね?
三上千代さんも凄いです。

アンノーン@

息子に
ねずさん、いつもありがとうございます。本日の記事も小学生の息子に読ませます。ねずさんの記事をよく読ませるのですが、まだ学校で自虐歴史を習っていないので素直に感動してくれます。
春になったら親子で剣道を習いにいこうと計画してます。
わたしが若ければ自衛隊員を目指したのにな~…。
40代のおばさんなので…さすがに間に合いませんでした(笑)

日本の国を守るため、一国民としてなにが出来るのか、いつも考えてしまいます。
ちなみに従兄弟は、剣道を極めつつ、航空自衛隊員として頑張ってくれています。感謝です。


yosinaripon

No title
松本英子と田中正造の記事を読みました。本当にお二人とも
立派な方だったのですね。それに比べて某太郎や朝日新聞は何と卑しい存在なのだろうと思いました。早く天罰が下ってほしいものです。

桜子

No title
池の中に投じた小石はもはや浮かび上がることはないけれど、その波紋は必ず岸辺に達します。
===================================
今日の教示はこの言葉に集約されていると思います。
人間として生まれてきたからには何だかの使命がある、それはその人に与えられ、それが大きい物であるか小さい物であるかは天が定めた事だと私は思います。

その中で、先人は開国依頼、そして戦前までは人間としていかに生きるか、そして国を護るとは、日本主義でこの国を護ってきました。
その中で日本人は誰一人として偉業を誇り、名声を求め、金を求めてはいません。
その人の足跡は後世の人が評価するものだと思います。

今、この国難にあたり国を護るということ、それがたとえ小さくてもいい、自分に与えられた何かを見つけ、一人一人が行動する、今の日本が求めているものだと思います。

名無しの日本人

No title
終戦直後、朝鮮半島のハンセン病患者を虐殺から救ったのは旧日本軍。虐殺から日本へ逃れてきたくせに病気と国籍で二重に差別されたと騒ぐ。全くどうかしてるわ。

団塊の世代の後輩

No title
我が国には数多くの“偉人”がおられます。偉人といわれるゆえんは自らをかえりみず、多くの方々への奉仕する姿勢が並はずれて偉大であることでしょうか・・あまりにも多くの方々がおられることから、また、自虐史観で我が国を貶めようとする輩の企みによってこうした事実がほとんど無視されていることに憤りを覚えます、やはり道徳の授業を復活させ、多くの偉人のなされたことを若い方たちに伝えることが重要かと存じます。本日は誠によいお話、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
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出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
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