唐辛子とキムチのお話



人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

唐辛子


日本人は誰しもカレーライスが大好きですが、それを日本の「伝統食」だなどとは思ってる人は誰もいません。
日本人は、カレーはインド生まれだと誰もが知っているし、本家インドカレーも美味しいと楽しむし、味をさらに日本化することで、さらに美味しくして、ただみんなで喜んで食べているだけです。
昔、日本のカレーライスを食べて、「あまりの美味しさにインド人もびっくり!」などというCMもありましたが、あくまでそれは工夫の問題であって、カレーを日本生まれだなどと言う人は、おそらく子供でも、いません。

これと比較するのもおかしな話ですが、実はキムチは、朝鮮族にとって外来文化です。
そもそもキムチは朝鮮半島の伝統食ではありませんし、使われている唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではありません。
キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、実は日韓併合後のことです。

キムチの主役の唐辛子は、そもそも南米のチリ産です。
だから唐辛子ソースのことをチリソースといいます。

もともと唐辛子は、南米のチリで、現地の人たちが、すりつぶして下剤として使っていました。
それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、そのスペイン人によって、ほとんど日をおかずに日本にもたらされたのが、戦国時代の終わり頃のことです。

ですから当初は日本でも、唐辛子は、漢方薬と呼ばれていました。
ちなみに江戸時代初期まで、外来の薬品や薬草は、それが支那からのものであれ、スペインやオランダからのものであれ、すべて「漢方」です。
オランダのものだけが、蘭方とされるようになったのは、江戸中期以降のことです。

そもそも漢方薬の「漢」という国は、3世紀初頭には滅びてなくなっています。
それを日本人が丁寧に「漢」と呼び続けたのは、日本人がただ律儀なだけのことです。

唐辛子は、薬品として、秀吉の朝鮮出兵のときに朝鮮半島に伝わりました。
これをキムチの発祥としている本などもありますが、違います。
この頃の唐辛子は、あくまで下剤や寒さ対策の塗り薬でしかありません。食用ではないのです。
秀吉の朝鮮出兵から、80年ほどあと、日本でいったら江戸中期にあたる1670年に書かれた朝鮮の料理本の「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチは出て来るのですが、ここに唐辛子を用いたものは、ひとつも書かれていません。
そこにあるのは、ただの漬け物です。

朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期にあたる文化6(1809)年の「閨閤叢書」で、ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれています。
日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れますが、要するにそれとおなじものです。

キムチがいまのような辛味主体のものに近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、これは文政10(1827)年の書です。
ではなぜ、文政年間に、あの辛いキムチが広がったのか。
これに実におもしろい歴史があります。

江戸の町の両国に薬研掘(やげんぼり)というところがあります。
ここの町名がどうして薬研掘というかというと、これが読んで字の如くで、お堀の形状が、漢方医が使う「薬研(やげん)」に似ていたからなのだそうです。

薬研
薬研


この地名からなのか、その薬研掘界隈には、不思議なことに薬屋さんや薬品問屋さんが集まりました。
また薬屋さんが近いからと、漢方医たちもここにたくさん開業しました。
いまでも調剤薬局などは病院の近くにありますが、それと同じです。

寛永2(1625)年といいますから、徳川家光が三代将軍に、まだなったばかりくらいの頃、この江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業しました。

この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。
なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行でした。
そこで、とくえもんさん、この蕎麦の薬味(やくみ)に、唐辛子が使えないものかと考えたのです。

ところが唐辛子をすり潰しただけでは、ただ辛いばかりであじけない。
そこで唐辛子に、麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、一緒にすり潰したものを、開業の翌年「七味唐辛子、やげん堀」として売り出したのです。

なんと、これが大ヒット!
なにせ風邪の妙薬で元気が出て、しかも蕎麦汁(つゆ)に入れると美味しい。
またたくまに、とくえもんさんのお店は大繁盛するし、徳川家光の菊の宴に献上したら、これが家光にいたく気に入られて、なんと徳川家の「德」の一字まで賜って、おかげで名前もあらため、中島德右衛門。
このお店は、代々続いていて、いまでも七味唐辛子本舗となっています。

江戸で流行ったものは、全国に波及します。
蕎麦やうどんに、唐辛子をちょっと入れておいしくいただくという習慣は、こうしてはじまりました。
ただし、その唐辛子は一味ではなく、七味です。
唐辛子は、日本で、七味になることで、一般の食用に供されるようになったということを、ひとつ押さえてください。

そして江戸中期、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のために、第12回朝鮮通信使が、日本にやってこようとしました。
あくまでも、「やってこようとしました」。文化8(1811)年のことです。

この朝鮮通信使というのは、隣国からの慶賀の使者という意味においては、ありがたい存在だけれど、なにせ相手は儒教の国です。自国を立派に見せるためにと、いちどきに600人からの一個大隊でやってきます。
それが朝鮮半島から対馬を経由して、福岡に上陸し、そこから半年がかりで陸路はるばる江戸までやってくるわけです。
対馬から先の旅費は、祝賀を受ける側、つまり日本側の負担です。一回の通信使で、100万両(約6億円)の接待費がかかります。

当時の幕府の経済力からしたら、金額自体はたいしたことはありません。
勅使下向の接待は毎年のことですが、同程度の経費がかかります。

問題は、朝鮮通信使が、そこが日本であることをまったくわきまえず、沿道の民家を襲って農作物や鶏を泥棒するし、大声で騒ぐ。
さらに指定された旅館では、そこいらにある器物が軒並み泥棒される。
宿泊させれば翌朝には、朝の大きな御用を、日本人ならちゃんと厠でするのに、彼らは彼らの国の風習で、一斉に街道の路上でこれをする。
600人が路上でするのです。後始末がどんなに大変か。

要するに、野生の猿のような野蛮人たちが、延々江戸までやってくるわけで、これは民衆にしたら、たいへんな迷惑なのだけれど、いちおうカタチは国賓です。粗略には扱えない。

そんなわけで、毎度迷惑千万な使いだったわけで、ついに徳川家斉は、この朝鮮通信使について「易地聘礼」といって、江戸までやってこさせるのではなく、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替える(ようするにカンベン(勘弁)してほしいということ)よう求めました。

こうしてやっとのことで第12回朝鮮通信使は、対馬藩足止めとなったわけです。
この足止め成功によって、対馬藩はなんと2万石が加増されています。
どんなにホッとしたか、ということです。

この第12回朝鮮通信使の際に、お土産(みやげ)となったのが、当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子でした。
食事の際に、ちょっとおつゆに七味を入れるだけで、食事がめちゃくちゃおいしくなる。
「これは何か」と聞かれて、帰りのお土産に持たせたのが、七味唐辛子と、唐辛子の実です。
おかげで、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行する。

けれど、この段階では、朝鮮では、あくまで唐辛子は貴族の宮廷料理としてだけのものです。
なにせ庶民は食事の際に箸(はし)もスプーンも使わない。

実は朝鮮半島で、一般の庶民が食事の際に、箸やスプーンを使うようになったのは、明治43(1910)年以降のことです。
それまでは、朝鮮半島における庶民の食事は、インド式(手づかみ)です。

このように書くと、「そんなはずはない。日本文化は食事の作法まで、支那から朝鮮半島を経由したものだし、箸も朝鮮が日本に教えてやったものだ」という反論がどこかから聞こえてきそうですが、それが事実がどうかは、下の写真を見たら、一目瞭然です。

この写真は、日韓併合の少し前の平壌辺りの庶民の食事の写真ですが、お椀はあるけれど、どうみても箸もスプーンもありません。

日韓併合前の朝鮮庶民の食事(平壌)
日韓併合前の朝鮮庶民の食事-1


日本が朝鮮を統治した時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」があります。
それまでの半島には、トイレがなく、路上脱糞があたりまえの習慣だったのですが、これではあまりに衛生面でよろしくない。

そこで朝鮮総督府が路上脱糞を禁止したわけですが、ところが人間、食べれば必ずもよおすわけで、ところが路上では禁止されてしまっている。
そこで朝鮮ではじまったのが、室内で穴を掘り、そこで脱糞するという習慣でした。

穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘って、そこでする。
これを何年か繰り返しますと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱してたいへんに温かくなる。
その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物をする。
すると、おいしい漬け物ができる。

ところが雨が降ると、雨水があふれる。
甕の中に、その・・・有機物の汚水がはいる。
こうなると、せっかくの漬け物に、妙な臭いがついてしまいます。
そこでこれを食べるために、唐辛子をどっさりと入れて臭みを消した食品が、いまのキムチになったわけです。
おかげでキムチは、各家庭ごとに味が違うのだとか。

もうひとつ、キムチに使われる白菜です。
これも、白菜が一般に栽培されるようになったのは、名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけです。
それまでは、白菜は栽培されていません。

こうしてキムチは、日本から渡来した箸文化と、唐辛子、これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」に、大正時代の白菜の普及が加わって、いまのカタチとなりました。

つまりキムチは、朝鮮の伝統食などではぜんぜんなくて、ほぼ、大正時代にいまのキムチのカタチとなったものにすぎません。
要するに、キムチはあくまで「朝鮮名物」であって、「伝統食」ではないのです。

韓国の歴史教科書では、オクレていた日本に、あれも教えてやった、これも教えてやったなどと、様々な文化を日本に教えてあげたのだと記載しているのだそうです。
けれど、日本が韓国から教わったものって、何があるのでしょうか?

仏教ですか?
仏教は、韓国発祥ではありません。
陶磁器ですか?
陶磁器は、日本では縄文時代から長くつくられています。
キムチですか?
もともとは漬け物でしかありません。しかも発酵食品文化というのは、日本古来の食文化です。
文字ですか?
ハングルを朝鮮族の公式な文字として採用したのは日本です。
他に何がありますか?

=======

書店さんでのご注文情報はコチラ

=======


人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
\  SNSでみんなに教えよう! /
\  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

あわせて読みたい

こちらもオススメ

コメント

キサラギ=アリス

お蕎麦について
面白いお話をありがとうございます。
でも、一つだけ、「この頃の江戸で流行っていたのが、お蕎麦屋(そばや)さんです。
なにせ簡単にツルツルっと食べれてお腹がふくれるから、気の短い江戸っ子には大流行」というのはちょっと違います。
蕎麦切りが初めて考案されたのは関ケ原の合戦の頃です。しかし、当時は「そばがき」を細く切ったもので、コシがないどころか箸で取ろうとするとぼろぼろ崩れてとても「つるつる」っとはできません。
これにツナギを加えて今の蕎麦になるのはおよそ百年後の元禄頃です。
しかし、この段階でも江戸っ子に好まれていたのはうどんであり、蕎麦は少数派でした。赤穂浪士が蕎麦屋の二階で着替えしたというのは全くの創作です。
さらに百年、文化文政の頃に今度は濃口醤油が発明されます。ツナギを入れたしっかりした蕎麦と濃口醤油を使った濃厚なつゆ、これが江戸っ子に好まれて爆発的に広まります。そうです、江戸っ子が蕎麦を好むようになるのは19世紀以降なのです。
ですから、家光の頃に蕎麦がはやったということはありませんので、恐らく当時はうどんや奈良茶飯などに入れたのではないかと思います。

takechiyo1949

一年振り!連投です。
皆様こんばんは。
キムチって好きですか。
私は昔から濃い味が苦手なので好きではありません。
仕事で半島に渡った時のホテルでは、パンと珈琲なのにキムチが山ほど出てきました。
街中でもキムチ食べ放題の店ばっかりでビックリしました。
何でキムチ三昧?
理解できません。
キムチは不味い食べ物ではありませんが、半島での民間のキムチ仕込み風景を見てしまうと、食べる気にはなりませんね。
ですから、安全な筈の国産キムチですら遠慮しています。
妻はキムチ鍋を食べたいでしょうけど、私相手にやったことはありません。

takechiyo1949

訴えられそう(汗)
何でも半島説にはウンザリですが『日本が唐辛子を持ち込んだから「火病」が持病になった~!』って訴えられそうですね。
クワバラ!クワバラ!

No title
祖母の作ってくれた朝鮮漬は本当に美味しかったです。
白菜の中にほんの少し唐辛子が入っていました。

初めてこちらに来ました。面白かったです。

-

No title
Tumblrでコピペが回ってきましたので今頃コメントです。
楽しく読ませていただきました。
七味の開発者の名前が分かるところが日本らしくて、嬉しくなりました。

ところで、
>おかげでキムチは、各家庭ごとに味が違うのだとか。
なんの「おかげ」で各家庭ごとに味が違うのかを
(各家庭の味付けのおかげなのか、「有機物」のおかげなのか)少し考えましたw

-

承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです

-

承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです

-

No title
「朝鮮もやし」という食品があります。
ソーセージのような感じにビニールに詰められているやつ。
満州帰りの祖父母が大好きで、私も幼少の頃から食べていた
懐かしいものですが、最近では「キムチもやし」に
名前が変わってしまったようです。
なんでもかんでもキムチって言えばいいものではないと思うですがね。

アンペイ

今のキムチは アミの塩からが入っている。これの発酵がキムチの味を決めると思う。
では、塩からは朝鮮で、ポピュラーな食文化として発達したのか?
否! 在日か 頭の良い日本人かが、創作したのではないかな。

アジア

糞バカチョンとかはカスですね。まぁ奴らが暴れても征伐されて終わりましたが。

catnet

No title
そういえばピザも韓国が元祖だと言い出してましたね。余りにも多過ぎるので全ては覚え切れませんがw さて、この記事を読んでフォーチュン・クッキーを思い出しました。サンフランシスコ在住ですが、チャイニーズレストランに行くと必ず出てくるのがこのフォーチュン・クッキーで、アメリカ人の誰もがチャイニーズの文化だと信じています。しかしこれはサンフランシスコに住む日系人が辻占煎餅を元に考案したものであり、ゴールデンゲートパーク内の日本庭園でお茶と一緒に出したのが始まりです。戦後在米中国人がチャイニーズレストランに出し始めて普及しました。また、チャイニーズレストランにある回転テーブルも日本人が考案したものですが、今では中華料理のシンボル的存在になっていて、これもアメリカ人はチャイニーズの物だと思っています。ただ日本人はその事実を躍起になって広めようとも必死になって訴えようとも思っていません。真実は一つですからね。

長州侍

地梨(チリ)辛子漬けと称しては?
思い出しました、子供のころ、確かに朝鮮漬けでした。でも本当は、日本式ちり辛子野菜あさ漬けだったのですね。キムジャン文化の世界遺産とはなりすまし世界遺産ではないですか(でもにょくまむはうまいですが)。驚きです。

一有権者

No title
昔といっても十年位前は韓国産のキムチも食べてもいましたが彼らの反日姿勢の正体を知るようになり、さらには製造工程での衛生上の問題やあえて日本向けの物に不衛生な事をする作業員の事を知るようになり以後韓国産品とわかるものは徹底して不買しております。

日本国民の健康問題にも直結する食品の品質問題ですが米国では人糞汚染が検査結果から考えられるとして輸入禁止措置をした食品を我が国日本では民主党政権下の時代に検査をしなくても輸入できるようにした。これによる健康被害は無いのでしょうか。?

そして今は厚労省はどのようにしているのだろうか。?

とにかくそのような不衛生な食品を避けて買わぬようにして自分の身を自分で守らぬようにしていかないとならないのが今の日本なのか。?とてもではないがこのような日本国や日本国民に知らせるべき事をシナや朝鮮に都合の悪い事を報道しないマスメディアに秘密情報保護法可決や施行に反対する資格があるのか。?特にチョンイル新聞や○Hケイ等の報道姿勢には明らかに常軌を逸したものがあると思わざるおえません。

私達日本国民はマスメディアの世論や印象操作と歪曲、偏向報道工作に十分過ぎるほどの注意を払うべきです。

私達庶民のできる事は限られているでしょうがやれる事はやる、それだけでもだいぶ違う結果を引き寄せる事ができる事でしょう。
売れなければ輸入しないのですし選挙において売国政治家を当選させぬ事は我々庶民でもできる事です。もちろん金を払う価値の無い新聞等もね。

-

No title
今風のキムチがさすがにそんなに新しいものだとは思いませんでした。
豊臣時代の朝鮮の役で唐辛子が向うに伝わったとはよく聞きますが。
まあキムチに限ったことではなく、現代人に当たり前になっている食生活なんて、案外新しいものなのですよね。唐辛子同様、新大陸起源の農産物も少なくないし、そういう農産物がイタリア料理のトマトなどのように、旧世界の料理の代表的な食材になっていたりしていますしね。

団塊の世代の後輩

No title
私の家内はキムチが大好きです、ちなみに私はコリアの際限のない馬鹿さ加減を知るにつけ、キムチが大嫌いになりました。しかしながら家内の食べるキムチは日本産につき、それでよしとしていましたが・・そうでしたか・・我が国がキムチ発祥となれば食べてもいいかな・・これから本格的寒波もくることだし・・もちろん日本産ですよ!!

名無しK

No title
非礼な朝鮮通信使を11回も江戸に招いた江戸幕府の頃から、日本人のお人好しぶりは変わりませんね。
仏の顔も三度まで・・・で対応すればいいものを。

それにしても「路上脱糞禁止令」には爆笑しました。
子供にも教えたら、「明日、友達に教えよう」と言ってました。
朝鮮から学んだものなど何もないということをちゃんと伝えねばなりません。
韓国からの旅行客が日本の文化遺産を見ながら「これは自分たちが教えたもの。なのに日本は発展して悔しい。」みたいな眼差しで観光してる姿がとても不快です。
そうそう「利休にたずねよ」も酷い内容ですね。
日本政府は韓国を甘やかし、つけ上がらせ過ぎました。
私は大人の対応には『躾ける』ことが大切だと思います。
韓国起源の妄言にはきちんと世界にむけて反論して欲しいです。









ポッポ

No title
キムチは唐辛子がなかったら、ただの漬け物なのですが、その唐辛子は日本からの伝来品では、反日国の立場がないように思います。
もっとも、日本からの伝来であっても感謝をするような国柄ではないでしょう。



ダイソーの2店舗で買い物をしました。ありがとうございます、と言われた挨拶は両方とも紛れもなくコンスでした。
女性の場合、コンスはチマチョゴリを着れば、両手が丁度チマの上端位になるようですが、これに合わせた挨拶なのでしょうか?
チマチョゴリを着てこの挨拶をすると、手の位置が丁度よく格好が治まるのです。
そう思うと、納得できました。

にっぽんじん

マスコミに良心はあるか
国民の知る権利を恣意的に奪うと言ってマスコミは「特定秘密保護法案」に大反対しました。公正中立なマスコミが下記の韓国記事を報道するでしょうか。報道したマスコミがいれば、そこは良心的です。以下は韓国日報の報道記事です。

基地村の女性たちに名誉回復と被害補償を~米軍相手に売春させられた百万人以上の女性たちの実態調査求める[12/16]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1387190097/

1 :蚯蚓φ ★:2013/12/16(月) 19:34:57.65 ID:???

米軍基地村で働いていたキム某(70)ハルモニは京畿(キョンギ)平沢市(ピョンテクシ)彭城邑(ペンソンウプ)アンジョン里のみな壊されて行く平屋の部屋一間が唯一の安息所だ。米軍基地キャンプ・ハンフリーズ向い側の路地には行く場所がなく離れられない同じ境遇のハルモニ数十人が居住する。

ところが最近、平沢米軍基地拡張でこの一帯が開発され家が一軒二軒壊されている。'産業の担い手'と呼ばれ国家統制の下、米軍に若さを捧げたが相変らず冷遇を受けている'基地村の女性'に対する支援法案制定の動きが初めて本格化している。

キム・グァンジン民主党議員室と基地村女性人権連帯は16日、国会で'基地村女性支援などに関する特別法'(仮称)公聴会を開催すると15日明らかにした。米軍が韓国に駐留した1945年9月以後、100万人を越える女性たちが基地の村で米軍らを対象に売春したことが分かったが、国家次元の実態調査は一度もなかった。

特別法は基地村の女性がどれほどいるのか、どのように暮らしているのか、彼女たちの子供の社会・経済的状態はどうかなどを調査して名誉回復と共に被害者に対する実質的補償をしようというものだ。キム議員は「日本軍慰安婦問題に先立ち、自国民保護責任があるわが政府も過去のことについてちゃんと反省し、対策を用意しなければならない」と強調した。

基地村の女性たちは1年に100ドルを稼ぐのも難しかった時期、1カ月に100ドル稼いで産業発展の軸になった。公娼制が廃止された後も政府は強制的に基地村女性たちに性病検査を受けさせたし、性病にかかれば法的手続きなしに診療所に強制拘留するほど執拗に統制した。性病が米軍の戦闘力を落とせば韓半島安保が危うくなるという論理だった。

1960年代までも政府は基地村の女性たちに日帝残滓の'慰安婦'という名称を使い、1961年、堕落防止法が施行された後も売春を事実上黙認する特定地域104カ所を運営した。このように自国民を保護できない間にも数多くの基地村女性たちが米軍の暴力の前に凄惨にさらされた。

基地村女性人権連帯共同代表のウ・スンドク日差し社会福祉会院長は「米軍を相手にした基地村女性たちは国家間の利害関係の隙間で徹底した管理の対象だっただけに歴史のスケープゴートとみるべきだ」と話した。

キム・ジャンフン記者
非公開コメント

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

02 | 2023/03 | 04
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク