伊沢修二と台湾



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伊沢修二0104


伊沢修二と台湾のことを書いてみようと思います。
教育とは何かを考える手がかりになると思うからです。

「仰げば尊し」は、一定の年齢以上の方なら、みなさん卒業式の思い出と重なる曲です。
もともとスコットランド民謡の「Song for the Close of School」が原曲ですが、これを伊沢修二が文部省音楽取調掛だったときに移植し、明治17(1884)年に文部省唱歌としたのが、そもそもの始まりです。

また以前、このブログで「ヤマハさんとカワイさん」のお話をご紹介しましたが、ヤマハの創業者の山葉寅楠(やまはとらくす)が、河合さんと一緒に、日本の子供たちのためにと必死になって作った日本製のオルガンを、ちゃんと使えるものにし、また全国に普及させる手がかりをつくってくれたのも、当時、東京の音楽取調所(現東京芸術大学)で西洋音楽の指導所長だった伊沢修二いればこそでした。

そしてこの伊沢修二が、実は台湾の教育制度の確立した最初の人でもあるのです。

伊沢修二の生まれは、長野県伊那市です。
ここは昔の高遠藩で、もともとは諏訪氏の一族だった高藤家が治めていたところなのですが、武田信玄の傘下にはいり、江戸時代には、ここには会津藩の初代藩主だった保科正之(ほしなまさゆき)や、家康の重臣だった鳥居元忠(とりいもとただ)直系の鳥居家、同じく家康の重臣だった水野守信(みずのもりのぶ)の子孫の内藤家が藩主となっていたところです。

実はこのことが、伊沢修二とたいへんに重要な関わりをもっていて、高藤藩が代々幕府直参の大名が治めた土地だっただけに、たいへんに教育、それも実学としての教育に熱心だった藩でもあったのです。
と申しますのは、幕府の高官を勤める家というのは、たいへんなお金がかかります。

これは日本の武家社会の特徴でもあるのですが、いまではすっかり、権力のある人=潤沢な経費を使える人と思われているようですけれど、江戸の武家社会というのは全然違っていて、幕府の高官を務めるということは、下級役人なら「俸禄があがる」という意味になりますけれども、高官の場合は、逆に「持ち出しが増える」という社会だったのです。

ですから大身の大旗本で藩主の地位得るということは、名誉なことではあるけれども、経済的には持ち出しが増えてたいへんなことになる。
なぜなら、その藩に封ぜられたということは、その藩をもっともっと富ませなければならないということでもあるからです。

高藤藩は、長野の山の中の藩であり、石高も決して多くありません。
そこを豊かにして、お殿様が幕府高官として活躍できるようにし、同時に藩民の生活を豊かにする。
そのために、高藤藩では、藩をあげて実学の教育に力を入れ、その教育の成果として、桑園や蚕の生産の向上、生糸生産、紡績産業の育成、薬草生産など、産業奨励にものすごく力を入れていたわけです。
そしてその原点が、教育の充実におかれていました。

もっとも、そだけ産業育成に力を入れながらも、代々の高藤藩主は、幕府の要職を歴任した関係で出費が嵩み、藩の財政状態そのものは、江戸時代を通じて幕末まで火の車です。

本題から逸れますが、たとえば讃岐うどんはとても有名で、これについて戦後の教科書などは讃岐が幕府直轄領であったために、年貢の負担が重くて生活に困ったお百姓さんが、田んぼのあぜ道に小麦を植えたのがはじまり、などと意味不明の解説をしていますが、実は全然違います。

明治から大正、昭和初期にかけて、国会議員というのは「井戸塀政治家」などと言われました。
「井戸塀政治家」というのは、政治家になると経費が嵩み、親から受け継いだ莫大な財産も、政治家を引退する頃には井戸と塀しか残らないくらい、持ち出しばかりで財を失うから、そのように呼ばれたものです。

実はこれは江戸時代からの伝統で、要するに幕府直轄領などで、幕府の要職を歴任するような大藩の場合は、幕府の要職を勤めるために経費が嵩み、どの藩も、みんな財政が逼迫したのです。
しかし、だからといって藩のお百姓さんたちから苛酷な税の取立をして藩内の反感を買えば、逆に民政に不祥事ありとして藩がお取り潰しに遭いかねません。

ですから、徳川の旗本の各藩では、藩内の殖産興業に力を入れました。
それが讃岐の小麦(うどん)だし、高藤の薬草や高藤焼と呼ばれる焼き物、あるいは木綿や絹糸の生産だったわけです。
こうしてできた物産品は、江戸に運ばれ、大きな市場を形成し、藩民の生活を豊かにしていたのです。

特に高藤藩では、産業育成には教育が欠かせないと、藩内の教育に熱心に取り組みました。
そういう藩風に生まれ育った伊沢修二は、ですから新政府の教育に、たいへん熱心かつ精力的に取り組んでいたわけです。

そしてその伊沢修二は、日清戦争が終わった明治28(1895)年の下関条約が締結された直後に、台湾へ渡って、台湾総督府民政局の学務部長心得に就任しています。

この経緯がとても素敵です。
下関条約が締結されたのは、明治28(1895)年4月17日です。
このとき、台湾の初代総督として、薩摩出身の樺山資紀(かばやますけのり)が内定したのですが、このときに伊沢修二は、樺山資紀に会いに行っているのです。
そして、「新領土台湾では教育こそ最優先にすべき」と意見具申しています。

伊沢修二は、この20年前に、米国に留学した経験を持っています。
そして冒頭にも書きましたように、東京音楽学校の初代校長などを歴任している、いわば日本を代表し、日本国家によって育成された明治日本の教育界の大御所だったわけです。
その伊沢に、樺山資紀は、「では、あなたが台湾に行ってそれをしてください」とやったわわけです。

これが何を意味しているかというと、ひとつには、、日本は、日本を代表する教育者を台湾に送り込んだということだし、ふたつめには、それだけ日本は台湾に誠実だったということだし、みっつめには、これを引き受けた伊沢も、まさに良心のかたまりだった、ということであろうと思います。

ところがこの頃の台湾は、マラリア、赤痢、コレラなどの風土病が蔓延する、いわば危険地帯です。
しかも日本に割譲される10年前から清朝が台湾に台湾省を置いて、China史上初(実はほんとうに初)の台湾
統治に乗り出していたのですが、現地の人々の反発が強く(あたりまえです)、三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に対する住民の強い反乱が繰り返されていたのです。

要するに、治安のままならない、しかも病気の蔓延する危険地帯のわけですが、そこに、樺山資紀をはじめ、伊沢修二など、まさにわが国を代表する優秀な人材が、自ら進んで「行こう」と決意しているわけです。

民族や人種が持っている傾向性というのは、千年や二千年でそうそう変わるものではありません。
もちろん個体差というのはあって、良い人もいれば、よからぬ人もいる。
けれど、民族として集団になったとき、その民族の傾向性というは、明確に出ます。

この伊沢修二の訪台に先立つこと21年前に、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)というのがありました。
宮古島の漁民54名が遭難して台湾に漂着したときに、台湾の原住民に襲われて全員殺されたという事件があり、これに対して日本は清国に賠償を求めたところ、清国は台湾は自国の領土ではない(化外の民)だとの回答だったために、日本が、台湾に出兵したものです。
実はこれが明治日本における初めての海外出兵です。

このとき台湾に向かったのは、総大将西郷従道、谷干城・赤松則良などが指揮する3600名の精鋭です。
戊辰戦争の経験を持つ近代装備軍です。
対する台湾側は、ナイフと弓だけの台湾パイワン族です。
ところがこの戦いで、なんとパイワン族は、30名の死者を出しながらも、銃や大砲などの火器による近代装備に身を固め、戊辰戦争での戦いの経験も持つ日本軍を見事に押し返しているのです。
パイワン族の人たちが、どれほど勇敢だったかわかります。

風土病が蔓延する厳しい土地で、思いやりをもって互いに助け合って暮らしながら、身を護るために戦うべきときには断固として戦う。
そうした台湾の人々の気質は、まさに、日本人に勝るとも劣らない。
だからこそ伊沢修二は、台湾の人たちについて、「台湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文明を知らないだけで、その能力は日本人と同等である」と、実際に台湾に足を踏み入れ、台湾の人たちと起居を共にして、そのように結論づけました。
そてい台湾の人々が、さらに高い教育を受け、文明化していけば、またたく間に立派な民族に育つと信じたのです。


日本が日清戦争に勝利し、下関条約で台湾の割譲を受けたのが明治28(1895)年4月17日です。
伊沢修二が台湾総督府の学務部長心得として台北に赴任したのが、同じ年の5月18日です。
そして6月26日には、伊沢は台北の芝山巌に学堂を設置し、そこに地元の長老たちとの懇談によって6名の台湾人の若者を、新たな台湾人教師として育成するために、提供してもらっています。

伊沢は長老たちに説きました。
「自分たちがここに来たのは、戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもありません。日本国の良民とするための教育を行うためだ。」

そしてこの6名と起居をともにし、彼らに必要な教育論と、日本語教育を施しました。
この若者達が、どれだけ優秀だったかというのは、その6名が、わずか4ヶ月で日本語をマスターし、さらに教育論や教育実務についてまでも、優秀な成績で学堂の卒業に至ったという事実です。

もちろん、そもそも彼ら6名に漢文の素養があり、明治の頃の日本語の文章が、ほとんど漢字ばかりだったということも幸いしたろうとは思います。
けれども一般に、むつかしいとされる日本語をたった4ヶ月でマスターしたということは、彼ら6名が優秀だったということに加えて、それだけ熱心に伊沢の授業を受けたという結果でもあったろうと思います。

その彼らの卒業が11月末のことです。
ところが、翌年のお正月、伊沢が日本に帰国していたときに、その6名は約百名のゲリラの襲撃を受けて、全員斬殺されてしまうのです。

このゲリラ、日本の台湾統治を不服とする清国人の工作によって、君たちは日本人によって皆殺しにされるのだなどと、嘘を言ってあおられた台湾人によるものであったといわれていますが、その事実を知った伊沢の悲しみ、そしてそんな優秀な子供を失ってしまった親御さんたちの悲しみを思うと、胸がつぶれる思いです。

伊沢は、2月11日、日本で台湾に赴任する教師を募る講演をしています。
そのときの言葉です。
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お亡くなりになった6名について、悲しみに絶えません。
しかし、これから台湾で教育の任にあたろうという人たちには、この亡くなられた6名と同じ覚悟を持ってもらわなければなりません。
教育者は、ただの官吏ではないからです。
教育は、生徒たちの心の中に入らなければできません。
役所の中にあって人を呼びつけるようにするようでは、決して教育などできないのです。
身に寸鉄を帯びず、人々の中に入り込むのでなければ、教育などできません。
なぜならそこまでして、はじめて人は、相手の心の底にはいれるからです。
=======

実は、伊沢が台湾での教師を新聞で募集したとき、応募者は800名もあったのです。
ところが、この芝山巌事件の衝撃で、大量の辞退者が出、結局45名が、伊沢とともに、たとえどのような危険が待ち受けていようと、台湾の教育に命をかけようと覚悟を決め、このとき台湾にわたっています。

この45名は、同じ年の6月には台湾に渡り、約2ヶ月かけて台湾の日常語を覚えると、台湾に14カ所設置された日本語伝習所の教諭となって散っていきました。

この日本語伝習所は、20歳以上の若者と、7歳以上の子供たちを対象としました。
前者は、日本語のできる官吏を育成するため、後者は未来の台湾を担う人材を育てるためです。
そして、前者には一日25銭、後者には一日10銭の日当が支給されました。
いまでいったら、前者が日当2万5000円、後者が1万円くらいです。
しかも全部食事付きです。

当時の日本は、決して豊かな国ではありません。
台湾統治をするにしても、そんなに予算に余裕があるわけでもない。
日本語伝習所の教師たちにしても、8畳間に5人で寝起きするような貧しい生活です。
けれど、台湾と日本の一体化のため、限られた予算を最優先で人材育成のために、日本は使いました。

台湾統治の始めの頃には、Chinaの工作や、一部のはき違えた日本人などによる様々な悲劇がありました。
けれど、向学心に燃えた台湾の若者達、そして身の危険も省みず生徒たちと起居をともにして、新たな未来を築こうと努力した教師たち、そして日本の国をあげての台湾への取組みのなかで、台湾の人々は、ほんとうに日本人でよかったという実感を得るまでになっていきました。

武力で無理強いして征圧し、国を奪い、自国民の奴隷にするということが、世界の常識であった時代に、日本は、むしろ徳をもって高い民度を養い、みんなが一体化していこうという和と絆と結(ゆ)いの精神をもって、海外と接し続けました。

台湾で、日本時代を知る多くの方々、いまはもうご高齢となっていますけれど、みなさん、日本をいまだにとても愛してくださっています。
それだけでなく、むしろ積極的に「自分は日本人だ」ということに、たいへんな誇りをもっておいでの方もたくさんおいでになります。

伊沢修二が最初に学堂を開いた芝山巌には、いま芝山巌神社が建てられています。
そしてそこには、台湾教育に殉じ、命を失った日本人と台湾人、330名が祀られています。

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台湾で歌い継がれる 仰げば尊し


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コメント

あ.

乃木大将は、台湾総督でした。
ねずさん先生、おはようございます。
台湾と言ったら、ザ武士道これぞ代表的日本人、陸軍の軍神乃木希典大将が、台湾総督をされていました。
明治29(1896)年から、明治31年まで。
乃木大将の赴任は、台湾の方々に歓迎されたそうです。
乃木大将のお母さんは、台湾でマラリアに罹り亡くなっており、台湾の地に埋葬されています。
このことから、乃木大将自身もきっと台湾に骨をうずめるつもりで総督の任命を引き受けたのではないかな~と、真剣に台湾を良くしようと取り組まれた方ではないかな~と、私は個人的に思っています。
日本の自衛隊さんもPKOで地元の方々に歓迎されるなど、マスゴミでは報道されませんが、ネットで読んだりすると今も昔も日本の気質は変わらないー、ねずさん先生のおっしゃる通りと思い、誇りに思います。
岡田幹彦先生著「乃木希典~高貴なる明治~」より
元気勇気自信を取り戻せる本です。
日本が世界に誇る代表的日本人乃木希典大将、陸上自衛隊の御方々には、ぜひ、読んで頂きたい一冊です。
いつも日本を守ってくれてありがとう、自衛隊さん!
日本を取り戻す!
では。

団塊の世代の後輩

No title
貴重なお話、誠にありがとうございました。アメリカも田中角栄もシナの甘言によって籠絡されたことが今日までの田中の子分:小沢の行動によって証明されました。あやうく我が国はシナに呑み込まれるところにありました。ことさように売国民主政権がやろうとしたことは明白であり、マスゴミがシラをきりつつ取捨選択し垂れ流す情報操作は今だ代わっておりません。ぐっとこらえ自分の出来ることを続けるのみです!!卑怯者どもに負けてなるものか!!!

転載

すみません
以上は下記ブログからの転載です。
現在更新はストップしています。

無党派日本人の本音

http://blog.goo.ne.jp/mutouha80s/e/d04bcea2e58af9652e40904eae48d2d5


転載

NHK番組とは大違い。これが真実です
[鉄道網の整備]
・日本が台湾を領有したとき、(本格的な)鉄道というものはなかった、おかしん言い方だが、非常にひどく作られ、運営されていたために、殆ど使えない鉄道の断片はあった。乗車賃や運賃は毎日変わり、汽車は「都合の良い時」に走った。、
・台湾が基本的に何が必要かを理解していた日本人は、系統的に島の多くの地域で道路を作り始めた。最近の米国の報道によれば、1,000マイルの道が既に作られている。
 同時に日本政府は総合的な鉄道整備計画を建て、2、880万円を支出を提案している。 それは日本にとっては信じられない様な数字だ。
・既存の断片的な鉄道は完全に再建されている。そして新しい台湾縦貫鉄道の建設は両方のターミナルから同時にかつ精力的に始められている。1897年から1903年の間95マイルの鉄道が敷かれ、37の駅が建設され、210の貨車と客車、20の機関車が導入された。
・この期間の乗客数は4倍に、貨物数は10倍に増えた。その他に軽便鉄道も導入され、その内125マイルが数カ月間で敷設された。さらに52マイルが建設されるところだ。
・郵便・電信・電話もまた導入されて非常に成功した。1896年から1902年までに87の郵便局が全島に亙って開設され、1902年に1,328万の手紙と葉書と11万の小包33万の為替を取り扱った。 (電信、電話の具体例は省略)

[産業の開発]
・日本人が台湾に到着した時の現地の産業は非常に不満足なものだった。豊かな土地での科学的な耕作どころか詳細な耕作法さえ知られてなかった。土地の人達は他からの援助も受なしに自然の恵みに頼るだけだった。台湾は2~3毛作だったが、収穫は彼らの労力と比例しなかったし、収入は全く不十分なものだった。
・日本人によって持ち込まれ改善された方法で、米の生産高は1896年から1902年までてに10%上がった、茶の生産は同じ期間に5倍に、砂糖、薩摩芋、黍、ラミー、ジュート、「うこん」などの農産物の生産高も大きく伸びた。
・膨大な森林資源の利用も不十分だった。土地の人達が無駄なことをしている例を上げると、樟脳を木から抽出する業者は樟脳油は廃棄物として扱っていた。日本人の改革により、樟脳の生産高は1897年の153万斤から1903年の358万斤に上がり、樟脳油は同様に63万斤から260万斤にあがった。
・鉱業も同様に小手先で先見性のないやり方をしていたために、生産高は最小限に留まっていた。
 しかし辛抱強い指導や優しい説得によって、日本人は全ての産業での改善に成功した。 農場はより良い収穫を上げ、森林は科学的に利用され、何百万という樟脳の木が適地に植えられた。そして鉱業は最近の数年の間に大きな発展をした。

[銀行と通貨制度]
・台湾の貿易や産業の改善をするためには、明らかに銀行や通貨システムの改善の必要を生じた。従って島の中心的な銀行組織として台湾銀行が設立された、民間銀行(複数)も重要な地点(複数)に開かれた。
・郵便貯金銀行(文のまま、複数)もまた開かれ、非常に満足すべき成功を納めた。預金者の数は1896年の5,847人から1902年の41,145人に、預金額も1806年の22万8千円から1902年の76万3千円に増えた。
・台湾の通貨もまた改革された。台湾はかっては清国と全く同じに流通手段は貨幣でなく地金(bullion)だった。かさばる銅の地金はどの規模の商業取引でも使用出来なかった。この時代後れの通貨制度は日本の近代的なものに取って変わられた。

[経済の発展]
・日本は湯水のように台湾に金を注ぎこんだ。日本は黒砂糖、白砂糖、ガラス、製紙などの工場を建設し、多くの有能な行政官を派遣した。そして日本はその内にその進んだ政策の成果受け取るだろう。
・台湾が完全に平和になって僅か数年しかたっていない。然し既に達成した経済進歩は非常に素晴らしいものだ。住民の富裕度の上昇は、政府の業務と事業(アヘン専売、関税、種々の税金)から主に得られる一般歳入が、1986年の272万円から1903年に1,235万円のと言う様に、既に今まで殆ど10倍に増加した事実からも見られるだろう。 (一見、計算が合はないが多分、台湾領有時と比較して10倍の意味か?) (*注記:アヘン専売の目的)
・地方の経常歳入は主に土地、家屋、事業などからなるが、1898年に75万円から1902年には195万円と4年間に殆ど3倍になっている。一般歳入と地方の税金を併せて、これだけの素晴らしい結果を得るために、なんらの特別な困難を要しなかった。
 だから台湾の人口がその資源の開発と共に急激な増加をしたのは当然過ぎることだ。1897年の人口が245万だったのが、1903年には308万に増加した。

[私の意見]
 昨日と今日の記事を通じて見ると日本の台湾統治政策の礼賛ばかりで、明らかにNHKの第一回目のNHKスペシャル「アジアの"一等国"」の内容と全く違います。
 これを見ても戦後、シンガポールと共に、何故、日本の統治下にあった台湾が韓国が、日本についでに世界で素早く復興した理由が良く判ります。
 NHKは多方面からの抗議にたいして、番組全体をみれば公平な放送だと判ると言っているそうです。
 然し報道のあり方は、番組制作者の意図が聴取者に通じねば何も成りません。
 NHKが公平な番組を意図して作って居たとしても、そう取られ無ければ、番組としては失敗作でしょう。
 それは第1回目と同じ政策方針で作っているとすれば、第2回目の「天皇と憲法」の放送への抗議が第1回目の抗議に比べて遥かに少ないの比べて見れば判ります。
そしてネット情報によれば、今日8,300人によるNHKへの集団提訴が行われるそうです。
 その勝敗の行方は判りませんが、いずれにしてもNHKの信用低下は確実です。
 NHKはその失敗の反省をしているのでしょうか。
 NHKの返答としては全体として見れば判ると言うだけで、反省の様子は全くないようです。
 この返事を第三者の立場からみれば、NHKは他人に言えない本当の意図を隠しているとしか思えませんが。
 先の心配をすれば限りがありませんが、今後予定されていると言う、韓国を取り扱う番組がまた問題を起こしそうな気がするのですが。

凡くら

政治家への提言
安倍首相の靖国参拝に心より感謝申し上げます。本年の靖国初詣は過去にない賑わいだったそうです。
以下、歴史観について述べます。「侵略の定義は専門家にまかせる」などと言わないでください。
常識でご判断を。たとえば現在の歴史学界が「従軍慰安婦は日本の犯罪である」とか
「建国記念日は時代錯誤である」と決議したら、それに従うのですか?
侵略とは様々な定義があり、私は「領土的野心をもって他国領土を侵すこと」と定義します。
ここからは各自日本人の歴史判断です。私は満州事変にしろ大東亜戦争にしろ、日本には
領土的野心は無かったと考えています。出先の軍隊が暴走した事実はあります。
けれども、満州は混乱きわまりない地域に満州民族中心の国家を建設し日本の権益を守ろうとしたもの、
大東亜戦争も国家の安全保障のための戦争です。ちなみに数十年前にカルロス駐日フィリピン大使が
「世界における日本の使命」と題して日本で講演したとき「フィリピンは日本軍によって独立を
与えられました。長年、禁止されていた国旗が初めて高々と掲げられたときの感激。占領下でさえ日本は、
フィリピンの旗を唯一の国旗としていたこと。占領軍のフィリピン人に対する態度は、それまでの
どんな植民地時代よりも好意的であった」と述べています。日本人がどのような歴史判断をもつべきか、
それは各自の自由であり政治が押し付けるものではありません。各自が自分で調べて虚心坦懐に
振り返るものです。逆に現代において領土的野心をむきだしにしてきたのは中国や韓国であったことも
認識する必要があります。

凡くら

日本人によって変身させれられた、未開の島台湾
[日本人によって変身させれられた、未開の島台湾]
他国が征服に失敗したことを日本がなし遂げた驚異 ----他の植民地を持っている国へのレッスン   
ロンドン、9月24日, 1904 (1895年 台湾が清朝から日本に割譲される)
[領有当時の台湾]
・どんなことを最初の試みは失敗するのが普通だ。
・その点で日本の最初の植民地である台湾の植民地化は特に興味がある。何故ならその台湾は他の多くの国に乗り越えられない障害を与えてきたからだ。
・台湾は清国や他の国の無法者には良い獲物だった。そして野蛮で手に負えない多くの住民がいたので、その一部は何度も征服されたが植民地になるまでいたらなかった。
・スペインとオランダは台湾の植民地化を試みたが失敗した。清国人はその土地を未開発のまま放っていた。フランス人や英国人はそれを得ようと思えば出来たが、その野蛮な地に足を踏み入れたがらなかった。
・日本が日清戦争の結果台湾を要求した時、清国は嬉しくはなかったが喜んで譲歩した。
(交渉に当たった)清国人の一人は日本は後で酷い商売をしたと気付くだろうと皮肉った。

[台湾安定化の経緯]
・日本が台湾に入った時はその海岸の海賊によって荒されるがままだった。内地は部分的に野蛮な原住民、無法者や盗賊の支配下にあった。彼らは難波した船を襲撃し、島に近づく船員殺した。
台湾がまだ清国に属したいたとき、米国などの国とこのことでトラブルを起こしていたので、彼らはこの無法の島を手放すことを喜んでいたのかも知れない。
・1年掛かった征服のあと1896年に民政下に置かれた。しかし前からいた清国の職員はその地位を失うのを恐れて、台湾の不平分子と組んで、新しい支配者に反乱するように煽動した。それで1901年に軍隊が反乱分子を除くまで迄は島は不安定と騒動が続いた。

[寛大な法の施行]
・日本の統治下で平和に成り始めて、僅か数年間にの内に、台湾の様相と未開な住民の考えは既に完全に変わっていた。現地人は日本の統治の慈悲深さ(blessing)を理解し始め讃え始めた。
・日本の素晴らしい成功をもたらした政策は次のようなものだ。
 できる限り住民の抱く偏見に留意すること、そして文明化への道へ彼らを強制するのでなくて、むしろ優しくみちびくことだ。
・たとえば、無法者の攻撃、火事、洪水、天災から住民を守るために中国人で作られた古めかしい「平和部隊」(Peace Corps)はそのまま残す一方で、より進んだ日本の法律を導入した。
これは主として島の日本人たちに適用されるものだったが、文明の恩恵に浴していないため文明の環境の良い所を知らぬ、そしてその文明を支えるための法律を尊重することの必要性を知らぬ原住民向けにその法律を変えた。

[アヘン常用の習慣の改善」
(省略)

[原住民への配慮]
・(アヘン撲滅活動の間)日本政府は原住民達の宗教や習慣を直して彼らの感受性を損なうようなことは決してしなかった。そしてあらゆる面で人々の環境を改善することで、日本統治の明らかな証拠を彼らに見せた。第一に法を守る人達は最早盗賊団によって恐怖に晒されたり、圧政のもとに置かれることはなかった。そして本当の政府の下で自由を楽しむことができた。第二には彼らの健康福祉のために多くのことがなされた。
・台湾は多くの伝染病で悩まされていた。それらは澱んだ水溜まりや汚れた川の水を使っていたためだった。日本人は綺麗な水をすぐさま提供し始めた。
・掘られていた殆どのの自噴式の井戸は使えなかった。台湾の10%の人達が住んでいた台北地域だけでも、800以上の井戸が潰れていた。

[優れた教育制度]
・教育が全ての発展の起点だとして、日本は素晴らしい教育システムを台湾に導入した。 日本人用には2.000人の生徒と60人の教師がいる学校(複数)と、原住民には521人の教師がいる130の小学校があった。 彼らは18,149人の子供たちを教育し教養ある人にした。
・然し日本は原住民に小学校を提供するだけで満足しなかった。何故なら彼らの野心は台湾に最善のものを与えることだったからだ。日本は医学の学校、日本語学校、師範学校を設立した。
・台湾の医科大学は非常に大きな(日本流教育制度の)特徴だ。それは元清国人の学生のために近代化学と医学のレギュラーのコースを提供する極東では唯一のものだ。それは台北にあり、現在では150人の生徒が有能な日本人教授から医学を学んでいる。
・日本語学校には二つの目的がある。一つは日本語を原住民にひろげること、一つは日本人に土地の言葉を覚えさせ、奥地で教師兼通訳として活動する準備をさせることだ。
・人の幸福は安全、暴力からの開放、健康福祉だけでなく、繁栄(prosperity)にもよるものだ。日本は新しい植民地をより繁栄させることでそその目的を達成してきた。

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更新ありがとうございます。
実は勿論全部では、ありませんが、日本に帰属したいと想っている台湾の人達はかなりおられると聞いています。それは、戦前の命掛けの徳化教育のお陰なんですね。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
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