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=======古来、わが国では、天皇は政治権力者として政治を行う存在ではなく、政治を行う者に親任を与える権威としてのお立場とされてきました。
ですから天皇となられた方が、直接政治に携わるためには、たとえば上皇となって院政を行う等の工夫があえて行われていたわけです。
ちなみに、皇帝(Emperor)というのは、王(King)の上に立つものという意味です。
「皇帝」の文字は、支那に秦の始皇帝が登場したとき、秦王「政(せい)」が、俺は諸国の王よりも偉いんだと自称して、自分で付けた名前です。
「皇帝」という称号が登場して以来、「王」という称号は、皇帝よりも下位の称号になりました。
最高君主が皇帝であり、王はその下というわけです。
支那でも西洋でも、王権や皇帝の権力は、天の神によって委ねられたものと解されています。
神の命、つまり天命によって王や皇帝となったということで、その地位が正当化されるわけです。
支那古代にあった隋王朝は、天命によって「楊」氏が最高権力者となりました。
その王朝が乱れ、唐が建国されて、皇帝は「李」氏へと姓が代わりました。
これが、天命が改(革)まって支配者の姓が代わる(易わる)ということで、易姓革命です。
その唐では、皇帝の下に国政の発案機関である中書省、国政を審議する門下省、国政の執行機関としての尚書省が置かれていました。そしてこの3つを統括するのが皇帝でした。
つまり、皇帝は国政の最高権力のすべての決定権を握っていたわけです。
ところが日本では、大化の改新の際に、わが国の伝統に従って、天皇の下に「太政官」が置かれました。
この太政官は、支那における中書省、門下省、尚書省の機能を、全部まとめた役所です。
つまり、太政官は、支那の皇帝が持つ権力を全部持っているわが国の最高政治権力機構となったわけです。
これは、支那で言ったら、皇帝の権力そのものです。
ところが日本では、太政官と並ぶ役所として朝廷の祭儀や各地の神社の管理をつかさどる「神祇官(じんぎかん)」という役所をつくり、この2つの上に、天皇の存在を置きました。
これが何を意味しているかというと、日本の天皇は中国のような「専制独裁権力者の位置にいない」ということです。
専制独裁君主の位置には、太政官という役所があるのです。
国政は、そこできりもりされます。
つまり、日本式にいえば、支那皇帝は、日本の太政官の地位でしかないわけです。
そしてさらに神祇官があって、これが太政官より上位にあります。
そしてその上に、天皇がおいでになります。
つまりわが国における天皇の存在は、政治権力者ではなく、それよりもはるか上位におわして、政治権力に正当性を与える神聖な「権威」です。
これを支那と対比すると、天皇は、支那でいうなら皇帝に天命を発する神の地位におわすわけです。
この天命を下す神の位置に、人の身である天皇がおわす、ということが、実に大事なことです。
西欧においても支那においても、皇帝や国王は、天命、つまり神の命令によってその地位が正当化されますが、神は言葉を発しません。
ですから、神の御意思なるものも、神の代理人である皇帝や国王が勝手に解釈し、捏造し、変造し、その権力を用いて勝手し放題をして利権をほしいままにし、大量の民衆を虐殺したとしても、それさえも神の御意思だと、とぼけていることができてしまうのです。
ところが、その神の位置に、天皇という存在がおわすと、だいぶ様子が異なってきます。
民は、天皇の民なのです。
その民の暮らしが酷い状態なったり、権力者がその権力を乱用してデタラメな政治を行えば、それは当然にわが国最高の存在である天皇のお耳に達します。
そして権力者は、その責任を問われることになってしまうのです。
天皇は、政治権力者ではありません(政治権力を揮うのは昔なら太政大臣、いまなら国会や内閣です)から、直接政治に関わることはされません。
ただし、そのときどきの天皇の御心は、歌にして発表されていました。
ですから、天皇の詠まれた歌だけは「御製」と呼ばれています。
その「御製」が、今年は宮内庁始まって以来、はじめて新年の御製として、昨年陛下が詠まれた御製の中から、特に5首、今年の元旦に宮内庁のHPで公開されたわけです。
この御製についての解説は、1月2日の当ブログの記事でご紹介しました。
本来なら、こうした陛下の御製については、全メディアが採り上げ、国民に向けて陛下の御心をきちんと説明、解説すべき事柄です。
評論家などは、まさにそのためにある存在ではないかと思います。
ところが、不思議なことに、現行憲法でさえ、その第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と明記されているにもかかわらず、陛下の年頭の御製について、これを最低限、きちんと報道するという、あたりまえのことさえも、まったく行われていません。
これは実におかしなことです。
陛下は、わが国最高の権威でおわすのです。
その陛下の御心をきちんと受け止め、施政に活かすというのは、古来、日本ではあたりまえの常識でもあるのです。
なぜなら、それが日本の歴史であり、伝統であり、文化の根幹だからです。
陛下の御製について、私などのような一介の市井の者が、その解説をするのは畏れ多いことです。
けれど、誰もしないから放置して良いというものでもありません。
一度書いたものを、また、ここで改めて書くことは、しつこいようではありますが、どうしても、これは書かずにはいれないことと思いますので、改めて書かせていただきたいと思います。
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【年頭にあたっての御製五首】(平成二十五年)
あんずの里
赤き萼の反りつつ咲ける
白き花のあんず愛でつつ妹と歩みぬ
大山ロイヤルホテルにて
大山を果たてに望む窓近く
体かはしつついはつばめ飛ぶ
水俣を訪れて
患ひの元知れずして病みをりし
人らの苦しみいかばかりなりし
皇居にて二首
年毎に東京の空暖かく
紅葉赤く暮れに残れり
被災地の冬の暮らしはいかならむ
陽の暖かき東京にゐて=========
1 赤き萼の反りつつ咲ける
白き花のあんず愛でつつ妹と歩みぬこの最初の御製は、とても不思議な御歌です。
なぜなら、アンズの花は白くないからです。
アンズの花は、ピンク色です。
そのピンクの花を、あえて「白き花」と詠まれているわけです。
ということは、そこに注目してもらいたいということです。
この「白き花」は、アンズの真っ赤な萼(がく)と対比されています。
アンズの花の萼(がく)は、緋色、つまり真っ赤です。
そして花の萼というものは、円形です。
つまり、「赤き萼」は、日の丸を暗示します。
そして萼のまわりを彩るのが「白き花」です。
つまり「赤き萼」と「白き花」は、日章旗を意味すると拝せられます。
日章旗は、日本そのものを意味します。
「妹と歩みぬ」の「妹」は、古来妻のことを意味しますから、これは皇后陛下のことを指しておいでです。
つまり陛下は、日章旗=国を愛しつつ、皇后陛下とともに歩んで来られたと詠まれているわけです。
問題は、この歌のテーマです。
テーマが「あんずの里」で、歌の中にも「あんず愛でつつ」とあります。
ということは、アンズに何やらメッセージがありそうです。
そのアンズですが、アンズはヒマラヤが原産です。
もともとは梅と同じ品種です。
梅が象徴するのは、支那です。
梅は支那の国花だからです。
一方、いま日本にあるアンズは、支那産のアンズから別れ、日本独自に発達したアンズです。
もはや別品種と言っても良いくらい、その様相は異なっています。
つまりアンズは、支那文明から決別し、わが国独自に発展した日本文化を象徴しています。
そしてお題は「あんずの里」です。
アンズが日本文明のことを指すなら、「あんずの里」は、日本文明の里です。
「里」は家であり、家族をあらわします。
つまり「あんずの里」は、日本文明における日本的家族、すなわち家族国家日本を意味します。
そしてその「あんずの里」、つまり日本という家族国家において、陛下は、白地に赤丸、すなわち日の丸(=日本そのもの)と、アンズに象徴される日本文明を、皇后陛下とともに愛し、愛で、歩んで来られてきた、そのように仰せと拝します。
つまり陛下は、わたしたち日本人に、自分個人を愛するばかりではなく、国という共同体の一員として、国家そのものを愛する気持ちを思い出しなさい、とおっしゃられていると拝します。
二首目の御製は、「大山ロイヤルホテルにて」と題されて、次のようにお詠みです。
2 大山を果たてに望む窓近く
体かはしつついはつばめ飛ぶ大山をはるかに望む窓の近くで、体をかわしつつ「イワツバメ」が飛んでいるとお詠みになられています。
大山は、おおきく険しい山です。
「イワツバメ」というのは、ツバメよりもひとまわり小さな鳥で、春になると日本に飛来する渡り鳥です。
ですから「イワツバメ」は、ひとつには春が来たことを象徴します。
ただ、はるかにそびえる大山を背景に、からだをかわしつつ飛んでいる「イワツバメ」は、何を象徴しているのでしょうか。
そしてどうして、ただのツバメではなく、「イワツバメ」なのでしょうか。
他のツバメとイワツバメの最大の違いは、もちろん体の大きさもありますが、それ以上に目立つ特徴が、イワツバメは集団で巣をつくる、という点です。
イワツバメは、単に夫婦で巣を作るのではなくて、いわばマンション住まいのようなもので、多数の夫婦が一カ所に集中して巣をつくり、そこで子を産み育てます。
つまり「イワツバメ」が象徴しているのは、核家族ではなくて、その集合体もしくは各家族の共同体であろうと拝します。
多数の家族が巣を作り、集団で共同体生活を営む。
そして、ある意味密集して生活していながら、イワツバメ同士は、体をかわしつつ飛び、互いにぶつかることがない。
つまり、互いに対立したり闘争したり争ったりするのではなく、お互いがお互いに気を遣いながらも、仲良く共同体を営む姿が、この御製に描かれていると拝します。
ということは、この御製が象徴しているのは、日本という国の家族と、その共同体としての日本の姿そのものといえようかと思います。
陛下の御製の三首めは「水俣を訪れて」です。
3 患ひの元知れずして病みをりし
人らの苦しみいかばかりなりし水俣で、患いといえば、この御製が指し示しているのは、水俣病のことであろうと拝せられます。
ところが、考えてみると、水俣病というのは、いまから半世紀も前の事件です。
なぜ、いまさら水俣病なのでしょうか。
水俣病事件は、いわゆる「公害問題」の先駆けです。
ですからひとつには、一度、こうした問題が起こると、その被災者は、その後何十年もずっと苦しみ続ける。
民の苦しみを取り除くのが施政というものなら、その施政は、たとえ何十年経とうが、何百年経とうが、民の苦しみを我が苦しみとして、それに対してキチンとした対応をしていかなければならいし、それを教訓として、二度と同じことが起きないようにしていかなければならない。
報道や事件が、まるで一過性の出来事のように、次々と風化させられてしまう昨今において、今だけでなく、過去も、現在も未来も、全部がずっと続いているのだということを、陛下はあえて水俣病を取り上げることで、御製にお示しになられているのではないかと思います。
また、これは私の考え過ぎかもしれませんが、水俣病といえば公害汚染問題の走りです。
そしていま、公害が深刻な事態をひき起こしているのが、隣国の大気汚染です。
陛下が呼びかけられている「警戒」は、果たして大気汚染のことだけなのでしょうか。
もしかすると、陛下は、隣国という汚染への警戒を、この御製に込められているのかもしれません。
四首めと五首めの御製は「皇居にて」です。
4 年毎に東京の空暖かく
紅葉赤く暮れに残れり
5 被災地の冬の暮らしはいかならむ
陽の暖かき東京にゐてはじめの御製は「年毎に東京の空暖かく紅葉赤く暮れに残れり」です。
この御製の不思議なことは、新年の祝賀のお歌に、あえて「紅葉」を持って来られていることです。
もちろん御製そのものは、昨年一年間の間に陛下がお詠みになられた御製の中から選択されているわけですから、紅葉があってもおかしくはないのですが、それが何故、お正月の年頭の賀歌なのか、ということです。
「年毎に東京の空暖かく」は、わかりやすいです。
今年のお正月三が日も、まるで春かと思えるほどに暖かくうららかでした。
ただ、そこにあえて「紅葉」を持って来られたということは、昨年の秋以降に、何か東京で「陽の暖かき」をイメージする慶事を述べられているようにお見受けできます。
慶事の場所が東京であることは明確です。
秋以降に東京に関連してあった慶事としては、ひとつは東京オリンピック開催決定、ふたつめは歳末の安倍総理の靖国参拝です。
そのいずれを詠まれた御製かはわかりませんが、私はおそらくは総理の靖国参拝を、陛下がお喜びになられての御製だろうと思っています。
そして最後の御製が「被災地の冬の暮らしはいかならむ陽の暖かき東京にゐて」です。
皇居におわして、被災地をご心配なさるというこの御製は、実は、「暖かなところにいても、被災地にいても、等しく同じ日本人として、互いに協力し、日本国民があらためてひとつにまとまって国を築いていきなさい」というメッセージであろうと拝します。
さて、もったいなくも身のほどもわきまえず、勝手な評釈をしてしまいました。
しかし、歌というのは五七五七七という短い語の中に、かならず深い意味が込められるものです。
わたくしごときが僭越ではありますが、国民として、その意味をちゃんと解する努力をすることは、私は必要なことだと思います。
そしてそういうことが、ちゃんと背景も含めて、きちんと国営放送局を経由して、国民にちゃんと伝わること。
すくなくとも、陛下の年頭のご感想も5つの御製も、まるでメディアから「なかったこと」にされてしまうという、いまのわが国の現状は、これは、ご不敬であり、絶対に放置できない由々しき問題であると思います。
さて、歌の解釈というのは、受けてによって様々なものです。
しかし、五七五七七という短い文で、古来、私たちの国では、数多くのメッセージを聞き手に伝えてきました。
そこから、何を受け止めるかは、それぞれのことだと思います。
ただ、陛下の年頭の御製を、無にすることだけは、あってはならないことと思いますが、みなさまはいかがでしょうか。
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拡散しよう!日本!
コメント
悲しい爺
聞き覚えた事を言うと、『神』=『ゴット(絶対神)』は恐らく日本の古代からの概念では有りません。19世紀に西欧人のキリストに対する対訳として生まれたと聞いて居ます。
日本の概念は恐らく『お天道様』であったり『上』から来る何か尊いものではないでしょうか(日の光は正にそうなんですが)。
また、日本の神社等の『かみさま』は、総て実在した人間です恐らく?したがって悠久の過去からの私達の御先祖様と言う事でしょうか?西欧における絶対神は日本では消えてしまって居ます、しかも神道には教義が有りませんから宗教と言えるのかどうか・・・もっと単純で根源的な命の法則では無いかしら・・・
古来人間も含めて、自然に寄り添う以外に生きる方法は無かった(実は今もですが)。それ故自然を感じる事が一番大切なサバイバルでした。季節がめぐる事・小動物の営み・他の生き物が回遊する事等々(地震も津波も)、自然から恵みを受ける事と、予期せぬ恐れを鎮める事・・・これを発展継続して来たのが日本人です。
思想的にも歴史的にも日本は世界の孤児です。長い継続を持たない諸民族は日本に理解が及ばないからです・・・理解が少しづつでも及べば世界に貢献できる民族だと誇らしく思って居ます。
感じた事を書きました・・・
2014/01/19 URL 編集
愛国日本!反日撲滅!
まるこさんが、神について少し触れられているので、私も少し触れてみたいと思います。
私は常日頃、色々と考え事をしています。何を考えているのかといえば、日本を良くするには、ひいてはそこから世界を良くするには、それを根本に据えて私利私欲の外で考え事をしています。勿論、実生活でそれら全てを体現出来るほどの聖人でもなんでもないですが、一応考えた結果を踏まえて出来うる限り、それを体現していきたいという想いだけは常に持っています。
とまぁ、私がこんなことを考え始めたのは、約一年ほど前に色々と知り始めてからです。それ以前は神道とか、保守とか、反日とか、そんな言葉すら「何それ?」といった感じでした。それどころか不正や理不尽がまかり通る今の日本に対して憎悪すら覚えていました。自覚していなかったとはいえ反日売国左翼思想であった様に思えます。しかし今思えば無知なりに、そこそこ考えていたからだという事も言えるかと思えます。
さて、神についてですが、これに関しても色々と考えてみました。その結果、現時点での私の神に関する見解ですが、全ては神道に答えが出ているような気がしてなりません。
私は、ありとあらゆる現象には、人の意識が関わることによって善にも悪にもなると考えています。善は良いこと、悪は悪いことです。「善」は「良」で表現されていますが、「悪」は「悪」で表現されています。善は必ずしも善でなくてはいけないのではなく、良でも良いということではないかと考えます。しかし悪はどこまでいっても悪なのだということのように思えます。
要は、善悪は人の心で有るということです。人には心が在るから善悪もあるということです。
では獣には善悪はないのか、と言えば、獣にも善悪はある様に思えますし、ない様にも思えます。どちらとも言えません。しかし人が関われば、獣に対して獣がやって良い事と悪い事は区別できます。鳥や昆虫でも同じです。生物であればそういう区別ができます。人に害を及ぼす生物には良し悪しの区別をします。そしてそれは、害を及ぼすから良し悪しの区別をするのであって、それそのものが良し悪しという存在ではない筈です。
更に言えば、自然現象もそうです。洪水、津波、地震、雷、火事、親父、っと、親父は余計でしたが、どんな現象でも、それ自体は善でも悪でもありません。そこに人が関わって初めて良し悪しと区別されます。
つまりはこの世に存在する全ての現象には人間の意思が乗って初めて善悪・良し悪しと区別されるのだという事が言えると思います。
さて、少し難しい問題ですが、神道と八百万の神についてです。
神道は、神の道でしょうか、または神への道、神道の教えのもと道を歩めば神の存在が判る、という風にも取れます。
八百万の神とは、この世のありとあらゆるものには神が宿る、ということでしょうか。人にも獣にも、草花や石ころにも、果ては自然現象にも、神は宿る、ということでしょうか。
それらを踏まえて、仮に、人が関わらなくとも、ありとあらゆる現象は自ら善悪・良し悪しの区別が出来るのだとしたらどうでしょう。それら全ての現象には、人と同様に心・意識、そういったものが存在することになります。それはつまりは、この世に存在するありとあらゆるものには、心や意識が存在するということにもなるかと思います。
だからそれを知れば、つまりは常識に囚われず、常にありとあらゆる情報、最低限その時点で得られる全ての情報をもとに考えに考え抜き、正しい選択を心がける限りは、善または良い答えが出るということにも繋がる、ということのように思います。
それが神道が宗教ではなく、神の教えであり、真理であり、日本凄い!の源であるように感じます。
この世に存在するありとあらゆるものには心・意識といったものがあり、それらは絶対的に正しい方向へ進み、間違うことはない。しかしそこに、未完全な人という存在の善悪というものが加わることによって、それらは良くも悪くもなる。人が善ならそれらは善となり人にとって良き存在となり、人が悪ならそれらも悪となり人にとって悪しき存在となる、のではないでしょうか。
神道の教えの本質は、そういうことを言っているのではないでしょうか。そしてそれを身をもって体現されているのが天皇という存在ではないか、だから天皇は神と呼ばれていたのではないか、私はそう感じる次第です。
そしてここでいう神というのは、諸外国での認識下にある神というものではなく、善良なる行いを当たり前のように出来る心・意識、つまりは、この世のありとあらゆるものが当たり前のように在るがままの姿を世に示す様に、人もそれに習い、当たり前の様に在るがままを世に示す、そういったものではないでしょうか。
この世のありとあらゆるものが当たり前の様に行う現象は即ち、人のように未熟ではないが故、その現象は善良そのもので有り、そしてそれが「神」と云われる所以であり、八百万の神、万物に神宿る、ということではないでしょうか。だから神社は、そういう心・意識を持って善良なる行いをした方々を祭ってきて、神としたのではないでしょうか。
私自身まだまだ未熟故、巧く言葉に出来ているか解りませんし、間違っているかもしれませんが、現時点で感じたことを述べさせて頂いた次第です。長文ですが、読んで頂けると幸いです。
2014/01/19 URL 編集
悲しい爺
日本って本当に凄い国です。過去の伝統の相続者である私達も確りしなくちゃね。自戒を込めて・・・
2014/01/18 URL 編集
mari
ところで、今年の歌会始の御製
「慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり」
は、平成二十四年の御製
「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」
とよく似ているように感じました。
ねずさんはどう読まれましたでしょうか?
もしよろしければ、歌会始の御製についてもねずさんの解説をお聞きしてみたいです。
2014/01/18 URL 編集
まるこ
コメントありがとうございます。
ヲシテに関しては、やたらスピリチュアルなとらえ方をしているのをよく見かけますが、私はそういうのには組しません。あれはあくまでも「文献」で、それ以上でもそれ以下でもなく、今私たちが本を読むように接するものだと思っています。
私はヲシテ宣伝の回し者ではありませんが、ヲシテ文献研究の第一人者である池田満氏を信頼しております。彼は分からないところは正直に「分からない」と言い、「後世の研究を待つ」と謙虚であるからです。世の中に「お偉い先生」はたくさんいますから。
ホツマツタヱに書かれている「天岩戸」のエピソードも「神武東征」のエピソードもどれも必然で理にかない、今の私たちでも理解できます。カミのもともとの意味も、漢字でもひらがなでもカタカナでもわかりませんがヲシテで書かれると分かります。私たちのご先祖様たちがどういう意味を込めて「カ・ミ」という言葉を作ったのか … ああ、ついつい熱くなってしまいました(苦笑) だってそこに神道の源流があるのですよ? そこに書かれている古代日本人の心のあり方は今の私たちにも通じて全然違和感がない。このカミガミの末裔が現皇室であり、カミガミと一緒に社会を築いていった縄文人の末裔が私たちであると知ると、凡人の自分の背筋も伸びるというものです。長文失礼いたしました。
2014/01/18 URL 編集
-
2014/01/18 編集
確かに
日の本は 百に杏の 咲き初める 春めき芽吹く アーモンドの花も
2014/01/18 URL 編集
博多のおばぁ
2014/01/18 URL 編集
愛国日本!反日撲滅!
色々とネットで調べるようになって日本には相当古い歴史が在り、もしかしたら・・・。という感じで色々想像していたら、ホツマツタエというものがあるというコメントを見て点と点が繋がったかも?みたいな感じで、つい衝動でコメントしたんですが、良く調べもしないでザッと見ただけでは、知識不足から何か誤解を招くような気がしたので、一応その旨を補足した次第です。
という訳で、ホツマツタヱを肯定も否定もしていません。残念ながら今の私には良く解りません。ネットの情報には色々と問題もあるので、じっくりゆっくり調べてみようかと思います。
>>悲しい爺さん
私的には、日本の太古の歴史がどうであれ、皇室を敬う事には変わりはないと思います。
昔はどうあれ今は今で、昔がこうだったから今を変えなければいけない、という理由にはならないからです。
例を挙げれば、私は今日本を良くしたいという想いでいます。しかしある時、私の祖先が日本人じゃなく〇〇人だった!と解っても、それを理由にいきなり反日にはなったりしません。それを受け止めてそれを知る前と同じように日本を良くしたいという思いを持ち続けます。
もうひとつ例を挙げれば、ネットではスピリチュアル系みたいなのが在りますが、そういうところでは人間は太古の昔に地球にやってきた宇宙人に創られた、
みたいなことが言われています。これの真偽はさておき、それが真実だとしても、日本は2674年以上の歴史が在り、今はその歴史の途中です。なので今を生きる私達は、現在進行形の日本の歴史の中で繁栄してきたのであり、宇宙人に創られた人類として繁栄した来たのではありません。今、日本の歴史の中で生きている私達は日本の歴史の中で生きれば良いのです。いきなり宇宙人崇める必要など有りません。
ただその事実を受け止めて、今をより良くすることが肝要だと私は思います。なので皇室の在り方も根本的には変わらない、と私は考えます。一部不貞な輩どもがネタにして無理やり問題にして騒いだりはするかもしれませんが。
2014/01/18 URL 編集
まるこ
これが江戸時代に存在していたことは確かですが、もしここに書かれている壮大な数の人物などが空想の産物であるとすれば、これだけ複雑な、源氏物語をはるかに超える人間関係その他の物語を、いくつもの視点からまったく破綻させず作りあげることができた作者は天才を超えた大天才であり、必ずや歴史に名を残していたはずです。
歴史学会では無視されていますが、ホツマツタエに書かれていることが真実であることは、現代の考古学技術により逆に証明されつつあります。
2014/01/17 URL 編集
junn
宮本輝著「ひとたびはポプラに臥す〈4〉」(講談社)
http://peko55665.exblog.jp/2284366/
2014/01/17 URL 編集
悲しい爺
偽書きにしては、あまりに出来過ぎで、創作だとすると相当な大天才だと思われますが・・・研究する人が少なすぎて文献学者等にも無視されて居ます・・・もし本当に伝え書きの一部とすると日本史がひっくり返りますからね。
2014/01/17 URL 編集
古希のネトウヨ
従って、A級戦犯の合祀を嫌って靖国に参拝されない等と出鱈目を言ってはいけない。もし本当にそうならば、例大祭の都度勅使を派遣されたりしないはずだ。
天皇は人に非ず。勿論人権もない。ひとたび即位すれば肉体が滅ぶまで、天皇であり続けねばならない。
天皇陛下の一挙手一投足、一言一言に125代の大御心が込めれれているはずです。
ですから、仰る通り陛下のお言葉には細心の注意を払って聞きもらさないようにすると同時に、その深い意味を心で理解するようにしなければならない。
今日の御製五首は、ねずさんの解説をもって知ると、なんとも幸せな気持ちになる。
天皇は日本国民がこぞって大切に大事に宝物用に護らなければならないものです。
2014/01/17 URL 編集
愛国日本!反日撲滅!
だたし、この「ホツマツタヱ」が本物であると「仮定」した上でのコメントである事を補足しておきます。あくまで仮定での話しなので誤解なきようお願いします。
「ホツマツタヱ」に関して、「古事記」や「日本書紀」の原書と「されている」のであって、原書だと確定していないということを良く踏まえてください。
私の言いたかったことは、コメント後半の、「どんな現象も、そこに人の善悪の意図が加わるだけで全くの別物になる」という部分です。
誤解を招きそうな題材を用いてしまったので、投稿した後すぐに非公開をお願いするコメントを投稿したのですが、そのコメントを書いている間に、承認>公開になった様なので、このコメントで補足させて頂きます。ねずさん、お騒がせしました。
2014/01/17 URL 編集
愛国日本!反日撲滅!
私はねずさんの記事で、神代文字でしたか、大和文字でしたかのお話をされているのを見た記憶が有りますが、それ以前にそういうものが在るということを、別の場で知り少し興味を持っていましたが、それ以上掘り下げて調べようと思うほどでは有りませんでした。
しかし今回、上で申したように、古事記や日本書紀の原書とされている、という情報を目にしました。確かに日本の史書?で良いのでしょうか、それほど重要な文献が「神話」で、またそれが作り話とは少し考えにくいと思います。何かしらの似た状況を元に記されていると考えるのが妥当です。
「ホツマツタエ」というものがどういう内容かは、まだざっとしか見ていませんが、古事記の内容の元になっているという仮説には頷けます。
これが真実だと仮定して、なぜ、そのまま伝えなかったのか、民への教育も兼て、簡潔にして解り易くし、かつ物の道理も解る様にしたとも考えられます。それ以外にも色々と可能性は考えられます。
そして漢字が日本に伝えられて、日本は文明国への仲間入りをしたという風な自虐史観が喧伝されているように、日本を貶めようとする意図がそこかしこに見受けられることを考えれば、なぜそうするのかも伺えるような気がします。
日本には漢字が伝来する以前から文字が使われていたという情報はそこかしこで見かけ、そんなことはない、とするほうが不自然です。だとすれば、世界四大文明などという教育がされていた意図からも、日本にはそれよりも古い文明が在ったと見るのが妥当です。それを知るだけでも、古来より日本人は凄かった、となりますし、日本人としての誇りも養われるのではないでしょうか。時系列を見れば、これは少し考えすぎかもしれませんが。
ひとつ、ヤマタノオロチを例に挙げても、巨大な八頭の大蛇と戦う、普通に考えれば在り得ません。何か元になった出来事があったと見るのが妥当です。
これをもって、ねずさんが良く引用されている「古事記」を否定するなどという意図はありません。古事記は古事記で日本人の教科書として、人が生きていく上での教訓が盛り込まれた大変為になる内容だと感じます。
私が言いたいのは、より日本を良くする為に、古事記は創られたのかなと感じたということです。ただひとつ、韓国起源?の嘘八百からなる与太話みたいな作り話は悪だと思いますが、私の仮定したような意図で古事記が創られていたとしたら善である様に思います。どんな現象も、そこに人の善悪の意図が加わるだけで全くの別物になる、私はそう思います。
是非一度、この「ホツマツタエ」について記事にして頂きたいと思い、今回のコメントをさせて頂きました。今はまだ、色々とご多忙な時かと思われますので、いずれこの話題が取り上げられることを楽しみに待ちたいと思います。
2014/01/17 URL 編集
桜子
日本人として生まれ、天皇の御心に包まれ人間として生きられる幸せ、感謝でいっぱいです。
比べたくもありませんが、民に向けられるのが権力のみの隣国、同じ人間として哀れにさえ思えてきます。
あらためて日本人に生まれさせて頂いた事に感謝します。
2014/01/17 URL 編集
ken
少し前から、貴サイトが一回でつながらなくなっています。
妨害されているのではないでしょうか?
2014/01/17 URL 編集
-
2014/01/17 編集
団塊の世代の後輩
2014/01/17 URL 編集
斉藤一
恐れ多くも陛下の御心を推察するならば、雅子妃への不快感、嫌悪感、怒りを感じます。
2014/01/17 URL 編集
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2014/01/17 編集
-
2014/01/17 編集
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2014/01/17 URL 編集