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■ISBN-13: 978-4434184727■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版
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今日は、「条文至上主義は国を滅ぼす」ということを、述べさせていただきたいと思います。
昨今、とにかく法の世界においては、条文に書いてあるかないかばかりが取り沙汰されるようです。
実はこれが大きな間違いです。
そのような思考が世間に蔓延するから、条文に書いてないことなら何をやっても良いという世相を招くのです。
以前、
「民族の価値観」という記事で、「世界初の近代憲法は、アメリカ合衆国憲法だ」と書かせていただきました。
米国は、移民国家です。
ですからもともと、民族ないし国家として共通べき歴史伝統文化が存在しません。
だから歴史、伝統、文化に代わる価値観として、わざわざ合衆国憲法を制定したのです。
これが天明7年(1787)のことで、合衆国憲法は世界最古の近代憲法と呼ばれるゆえんです。
けれど、本来、歴史のある国ならば、そこにはその国の民族の歴史伝統文化に基づき、無意識に共有している理念ないし価値観があります。
ですから、たとえばイギリスなら、古い国ですから、憲法などわざわざつくらなくても、国家として共有すべき価値観がちゃんと蓄積されている。
だからこそイギリスは、不文憲法の国なのです。
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=======憲法だってそうなのです。
そしてその国のあらゆる法律は、憲法の上に成り立っているものですから、当然のことながら、その国のあらゆる法律は、その国の歴史伝統文化に立脚したものであるし、また、そうでなければならないものであるといえます。
このことはとても重要なことです。
というのは、憲法にしても法にしても、その条文の解釈は、同様に「その国の歴史伝統文化に立脚したものであるし、また、そうでなければならない」ということだからです。
たとえば憲法9条ですが、そこには次のように書いてあります。
【第九条】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1項で戦争の放棄、国際紛争解決の手段としての武力行使の放棄を、
2項で、1項の目的のための陸海空軍、その他の戦力は保持せず、国の交戦権も認めない、としているわけです。
けれども、我が国は自国の防衛のために古くは防人を起き、また宮中の警備のために北面の武士などの武力を保持し、また元寇のように、外敵が襲って来たとき、具体的な対処として、軍を用いてこれを撃退しているわけです。
つまり私たちの国は、自国の防衛のため、他国による我が国への蹂躙に対して対抗するための軍事力は、古代の昔から現代にいたるまで、ちゃんと保持してきてるわけです。
そしてそのことは、歴史上の事実であり、我が国の誇りある歴史、伝統、文化に基づきます。
つまり我が国の歴史、伝統、文化に立脚すれば、たとえ現代の成文憲法に、戦争放棄、武力行使放棄、戦力放棄、交戦権放棄が書いてあったとしても、我が国の国民の外敵からの安全を守り、我が国国内の内戦や混乱にに備え、また大震災のような突発的な自然災害に備えるために、平時からちゃんとした武力を保持することは、そもそもの私たち国民の生存権に相当することであり、それは有効である、ということができます。
つまり九条を単に条文の字面だけに拘泥して解釈しようとするから、おかしくなるわけで、憲法以前に我が国には、ちゃんとした価値観や道徳が備わっているという視点にたてば、憲法九条にいう戦争放棄、武力行使放棄、戦力放棄、交戦権放棄というのは、「我が国が外国に対して侵略的行為を行うために武力を用い、戦力を保持することを」放棄しているだけのことにすぎないという解釈になります。
そもそも憲法九条以前に、我が国には我が国の国家共同体としての生存権があり、その生存権の行使は国家としての正当な防衛行為を行使する権限と国家として、国民としての義務があるのです。
そしてさらに、我が国は世界最古の国家です。
我が国は、その世界最古の国家としての歴史と伝統と文化の中に、我が国固有の国民的価値観が厳然と存在しています。
つまり、日本国憲法の改正(あるいは破棄や無効)の問題以前のこととして、我が国には、古代から現代に至る長くて古くて価値ある歴史伝統文化に基づく価値観が、厳然と存在しているのです。
最近問題になっている外国人犯罪の問題も同じです。
そもそも我が国では、盗みはいけない、強盗はしてはいけない、強姦をしてはいけないと法律で決まっているから「してはいけない」のではありません。
法があろうがなかろうが、民族的価値観として、そんなことは「しないのがあたりまえ」だったからしないのです。
そしてそれは、宗教上の戒律ですらありません。
戒律なんてなくても、人に迷惑をかけること、人を悲しませるようなことそのものを「してはならない」というのは、我が国の民族の共通の歴史的、伝統的、文化的価値観であり、「しないのがあたりまえ」だから、しないのです。
会社に行って仕事をするのも、仕事をしないと罰せられるとか、仕事をしろと法律に書いてあるから仕事をするのではありません。
職場に行ったら、誠実に仕事をするのがあたりまえだから、誠実に仕事をします。
それは、法律以前の歴史的伝統的文化的価値観の問題です。
ですからわたしたちの国では、たとえば江戸の享保年間の20年間(これは将軍吉宗の時代です)に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された囚人の数はゼロだったし(これこそ永遠のゼロです)、日本中いたるところに、無人の農作物販売所があるし、誰もいない暗がりにポツンと自動販売機があるし、そもそも昔は夜寝るときや外出するときに、家の玄関に鍵をかけたり、戸締まりを厳重にするような家さえ、なかったし、国法の宝物殿である奈良正倉院は、ずっと鍵はただの紙でできたお札一枚だったのです。
江戸の風呂は銭湯でしたが、江戸時代の銭湯は、脱衣所こそ男女別々でしたが、浴槽と洗い場は、男女混浴です。
それでいて間違いなんて、まったく起こらなかったのが、そもそも日本という国なのです。
強姦どころか、目の前に素裸の女性がいても、間違いなんて起こらない。
それが日本だったのです。
そういう民族的な価値観は、実は法律や憲法以前のものとして、厳然と存在します。
ですから、あくまでも法にしても憲法にしても、そうした日本的伝統的価値観の上に、本来、あくまでも成り立っているものなのです。
ところが昨今の法学者や司法担当者、あるいはメディア、教育さえも、いつの間にかそうした民族的伝統的価値観を忘れ、ただの条文主義に陥っています。
彼らにいわせれば、「法律に書いてあるかないか」が問題であって、書いてなければ何をしても良い、あるいは書いてあれば、それ以前にあるはずの民族的生存権の存在さえも忘れて、九条死守などと馬鹿なことを言い出す。
こういうのを「曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)」とか「学者の空論」というのです。
だから、外国人参政権についても、「外国人に参政権を与えてはいけないと法に書いてないから与えるべきだ」なとという、御都合主義のデタラメな陥穽に陥る。
そもそも、盗まない、犯さない、犯罪をしないというきわめて健全な国民性を持った民族と、普段はおとなしくしていても、いざ地震でも起きた日には、大喜びで火付けや強盗、略奪、傷害、強姦を繰り返す人々とは、そもそも共通する文化的背景が、違いすぎるくらい違うのです。
わたしたち日本人は、天皇のもとに、すべての国民が大御宝となるという国風をすくなくとも1300年前には築き上げて来た国民です。
ですから日本には、1300年前から、国家に奴隷という存在がいません。
身分制度も、確定的なものではなくて、努力次第では平民が武士にあがることもできたし、その逆に武士がお百姓になったりするケースも、ものすごくたくさんありました。
つまり、身分制度自体が、努力次第でかなり流動的だったわけです。
けれども、それだけでは、社会の秩序は保てることができません。
会社に社長や部長や課長などの役職があるように、社会共同体の中には、当然、一定の秩序のための階層が必要になります。
そのために、人ではなくて、その地位や身分に対して敬意を表してかしこまる、という国風をわたしたちの国は築きあげてきました。
どこまでも自分の言いたいことを言い張るというのではなくて、目上の人、上位の人にたいしては、それなりの敬意と礼をとる、というのが、わたしたちの国の国風であり、美風です。
ところが先般、安部内閣総理大臣の前で、どこぞの放送局の管理職が、総理の前に出るのに鬚も剃らず、上着のボタンも合わせず、足を組み、ふんぞり返ったしかめっ面でインタビューをしていました。
あるいは別な場面では、ポケットに手を入れたままの姿勢で対談をしていた馬鹿者もいました。
日本的感覚では、これほど見苦しい姿はありません。
相手は仮にも天皇陛下から親任を授けられた一国の総理なのです。
その総理に対しても、あのような不遜な態度をとるというのは、世が世なら、それだけで打ち首獄門ものの非礼です。
話が脱線しましたが、法があろうがなかろうが、民族的な歴史伝統文化に基づく民族共通の価値観が厳然と存在していることは、これは疑いのない事実です。
であれば、国法は、それが憲法という名であろうが、法や条例であろうが、それ以前に歴史的伝統的文化的価値観があるし、あらゆる(憲法を含む)国内法の解釈は、その民族的価値観を度外視しては、まったく考えられない、つまり「通用しない」ものあるべきものです。
条文至上主義は、曲学阿世の徒(きょくがくあせいのと)の空論でしかなく、自国の歴史伝統文化を忘れた条文至上主義は、国を滅ぼすものでしかないのです。
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拡散しよう!日本!
コメント
葉桜
例えば地震などで首都東京の機能が失われたときに、弱った者を叩き略奪するのが当り前の連中が、日本の混乱に乗じて上陸し占拠するのではないか、とても気がかりです。
左側に咲くお花畑の住人は、国という括りがあるから戦争になるんだとか、国境が無くなれば平和になるとか、美しい理想をとなえます。でも現実には、国境線が無くなる時とは、軍事侵攻ばかりです。
2014/01/30 URL 編集
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2014/01/30 編集
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2014/01/30 編集
魔除けに牛島辰熊
維新(てゆーか成彬さんが座長を務める歴史検証プロジェクトチーム)が、
河野談話の河野本人と朝日の社長を国会に呼んで質問すべく、週明けから署名集めを始めるとの事(狂喜!)
どんだけ集まれば実現するかは知らねども、
テキサス親父でも十万超えたんだから拡散次第で実現するはず!!
実現した暁には慰安婦やら南京やらの件、徹底的にやって頂きたい!!!
何はともあれ我らが中山大先生万歳\(^O^)/
2014/01/29 URL 編集
junn
長浜浩明『日本人ルーツの謎を解く――縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!』(展転社、2010年)
のamazon のカスタマーレビューにも参考になることが書かれてあります。
2014/01/29 URL 編集
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2014/01/29 編集
ポッポ
念のため、
私は、現行の憲法を国民が安心して暮らせるために、改正していただきたいと切に願っています。
平和憲法と言っています。しかし、日本を火の海にしてやると言っている国が存在するのに、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようとは到底考えられません。
国民として、国家の安全と領土の保全を、国家に求める権利があると思っています。
2014/01/29 URL 編集
ポッポ
時の政権幹事長は、中国の習近平を天皇陛下と面談させるため強引にも、憲法に書いてあるとの出鱈目を通したのです。
この幹事長は、ルールを破ることを平然と行ったのですが、中国や韓国の文化には、権力者はルールを破る力を持つからこそ権力者であるとの考え方があります。
これについて、30日ルールを所管する宮内庁は、内閣府に属しますから内閣総理大臣になります。ですから、政権に入っていない与党幹事長には、宮内庁のことを云々する立場には全く権限がありませんでした。
民主党は政権にいるだけで、議員は全ての権限を持っていると勘違いしていたのではないでしょうか? こんな野戦隊長には、規則で突っぱねる他、方法がないと思います。
日本人は、定められたルールをより一層身を律して守る民族性がありますから、本来はそれ程厳しい法律を定める必要がないのですが、現在は特亜を代表とする外国人が帰化した国民や、国民の代表者たる国会議員にも帰化人が存在しています。ですから、条文至上主義が全てとは言いたくありませんが、これの必要な場合があると思います。
そして、平常時に時間をかけて、対応範囲の広い条文を記した法律が必要だと思うのです。
しかしながら、非常の際には、平常時に定めた事柄に含まれない状況が出現します。その時には、これに関する最高責任者が、自己の責任をかけて法律に含まれていないことを、実行することもやむを得ないと思います。
この場合には、事後に最高責任者として説明し、必要なら責任を取らなければなりません。
これも前政権は、尖閣諸島の衝突事件の際に脱法的処置を行いながら現地に処置させ、政権としての責任を取りませんでした。
外国人参政権については、憲法は全て日本国民の権利と義務で記述されているのですから、参政権も日本国民だけが対象だと思います。
法に書かれていないから与えるべきとの考え方には、書かれていないから権利が無いで納めるべきで、これを中途半端に処置したため、国民健康保険、国民年金、生活保護等の範囲を無闇に広げる事に繋がりました。
これは、中共やソ連から資金を得ていた当時の社会党を、律することが出来なかった自民党と官僚の責任だと思っています。
2014/01/29 URL 編集
Que
2014/01/29 URL 編集
にっぽんじん
前提には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあります。憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義」が前提です。
果たして中国が平和を愛する諸国民でしょうか。戦後、満州を侵略し、21世紀においてもチベット、新疆ウイグル、台湾、インド、ベトナム、フィリッピン、日本を侵略しようとしています。チベット、新疆ウイグルは現在進行形です。
このような国に対しては憲法9条を守る必要はないと考えて良いのではないでしょうか。自衛のためには武力行使は可能です。
国会の場で、「平和を愛する諸国民」の解釈を議論してほしいものです。
2014/01/29 URL 編集
愛国日本!反日撲滅!
これに対して法で取り締まるか、それとも道徳観で取り締まるか、私は一時的に誤解や混乱を生む可能性はあれど、後者が良いと考えます。
そもそも法で取り締まるという事は、不貞な外国人に、どうぞ法に書かれていないことは遠慮なくやってください、と接待しているようなものです。当然、法に書かれていなければ罰則も有りません。その土地に暮らすものであれば、周りの目があるので、罰則がなくとも、法に書かれていないからといってやりたい放題はしません。しかし、文明が発達し、テレビ、新聞、インターネットなどでそういう犯罪が報道されれば、その土地に住む者(特に若者)も、そういう世の中なんだとして、自分もこれぐらいならやっても大丈夫か、などと考えるようになる。これは一種の刷り込みです。
自殺が増加する背景に、テレビ、新聞、インターネットなどで自殺というキーワードを目にし、困難から逃げる手段のひとつに自殺がある事を知り、それが選択肢に入ってしまっている事が挙げられます。そもそも自殺という行為・手段が在るという事を知らなければ多少の困難や、嫌な事が有ったからといって、人は自殺など選びません。逃げるための自殺など選びません。
そして今の世はまるで、法は国家の根幹を成す何を差し置いても守るべきもの、の様になっています。これは明治維新以降から始まった悪習であると私はみます。それ以前は少なくとも道徳がなにより重んじられていたはずです。明治維新以降は、まだ道徳観が国民にもしっかりあったので、法と巧く折り合いが付いていたのだと私はみます。しかし道徳観が破壊されつつある今、私達は法に縛られています。不貞外国人や特定日本人がやりたい放題悪行を重ねているのに、法を護る私達はそれに対して物申すことさえ抑制されています。こんなおかしな世の中があるか。
私は、日本国憲法の前文に、「我国の法は、何を差し置いても我国の文化・伝統からなる道徳観に準ずるものとする」といった内容の文言を記すべきだと思います。そうすれば法に定められていないからといって、簡単に悪行・犯罪を犯すことはできなくなります。真っ当な人にはなんら影響は有りません。単なる抑止力です。
私は今の日本の道徳観は地に落ちつつあると見ています。明治維新以降、大東亜戦争までは維持できていたのでしょうが、右肩下がりの様に思います。特にマスメディアがこの法の隙間を利用している以上、この現象はなくなることはない。教育下でいくら道徳観を養っても、マスメディアが「そんな真面目にやらなくても気を抜けよ」といった刷り込みを行えば、このまま日本の法が道徳観の上に在る限り、いくら新しく法を追加していったとしてもなくなることはないように思えます。
また今の状態で移民を受け入れてしまえば、それは一層加速されるのではないでしょうか。もちろん日本人に引けを取らない道徳観を持った方々であれば別ですが、道徳観というものは、その人をしばらく見てみないとわからないものです。入国のための書類程度で推し量れるものでは有りません。移民受け入れで経済を補う一方で、我国の道徳観が損なわれてしまっては本末転倒です。また道徳観が欠けているだけの外国人であれば、日本で新たに道徳観が養われるかもしれませんが、始めから悪意を持って入国してくるような者が実際に存在する以上、移民受け入れは、現状の日本ではやはり時期尚早であろうと言えるのではないでしょうか。
政権与党に、そういう思惑を持った連中が侵食している現状を見れば、移民受け入れの弊害は必ず我国に悪が種を蒔き、後々芽を出し、悪の花を咲かし、実を付け、また種を蒔くのではないでしょうか。すでに朝鮮半島の地理的重要性に対して行った保身の結果、そこに善意が在ったとしても、その弊害は、今新たな種から芽が出て、悪の花を咲かすという悪循環をもたらしています。すでに3順、4順目に成りつつあります。
私達は学ぶべきではないでしょうか。そこに善意が在ろうと、その善意が保身や利権の副産物である以上、一時的な平和や潤いは在っても、子々孫々にはツケを払わしてしまうという事を。
そしてそれらのツケが貯まりに貯まって溢れ出す時は必ず来ます。いくら少しずつ返していっても、根本的な部分(法が道徳観を上回っているという現状)を改善しない限りは完済できません。そして溢れ出した結果が、戦争や内戦といった争いです。
歴史は繰り返すと言います。私は繰り返さないようにするには、神道(天皇)と武士道(皇民・公民・国民)が一対でるという、日本が日本で在り続けてきた所以を理解することだと信じております。それを理解して初めて、あらゆる全てを改善するに至る「入り口」に立てる筈です。解決するには、価値観+知識+知恵、です。いくら知識豊富でそれを扱える知恵があっても、間違った価値観の元で根本的問題は解決はしない筈です。
解りやすく、パソコンに置き換えて例えれば、
価値観=数式
知識=ハードディスク
知恵=コンピューター
と言えます。
いくら情報を大量に詰め込めるハードディスクと、それを的確に処理するコンピューターであっても、この二つだけでは問題は解けません。そこに数式が相まってやっと解けます。しかしその数式が間違っていれば、間違った数式で出した答えが出ます。数式=価値観がいかに大事か解るかと思います。
法はあくまでも、道徳観の補助であるべきです。
以上を踏まえて、以前、頭に浮かんだ歌が以下のものです。最近ねずさんが紹介してくださっている小倉百人一首ほどではないですが、この歌に私が述べた考えを現せているように思いますので、少し前の記事のコメントで書きましたが、もう一度書かせて頂きます。
人の世は 良きと悪しきを 移りけり
これ解さぬも また悪しきなり
2014/01/29 URL 編集
hanehan
2014/01/29 URL 編集
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この脚を組んで、総理大臣に質問している
記者は無礼者ですね。相手が総理でなくても 人様に対して質問をし、話しを聴く態度ではありません。 この記者は何を気取っているか知らんけど器の小さい人間なのは、
観れば分かります。
2014/01/29 URL 編集
団塊の世代の後輩
2014/01/29 URL 編集
ひげ親父
2014/01/29 URL 編集