百人一首(25番〜27番歌)

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さねかずら(葛の花)
葛の花-1


さて百人一首の、今回は25番歌から27番歌です。

この三首は、三条右大臣、貞信公(ていしんこう)、中納言兼輔と、いずれも職名やおくり名が付された歌です。
その他の歌でもそうなのですが、わずか31文字の中に、言いたいことや思いのすべてを注ぎ込む和歌の世界では、詠み手の名前がどのように記載されているかも、その歌の真意を知る上での大切な手がかりとなります。
それでは、25番歌から見て行きたいと思います。

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25番歌 三条右大臣

名にし負はば逢う坂山のさねかずら
人に知られで来るよしもがな


なにしおはは
あふさかやまの
さねかつら
ひとにしられて
くるよしもかな
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この歌は、「会いたい女性をサネカズラのツルをたぐるように、わたしのところへ来させる方法はないものか、つまり、なかなか逢えない恋人へ詠んだ、あるいは人に知られてはいけない恋、秘密の恋、道ならぬ恋を詠んだ歌」と解釈されている方が多いかと思います。
多くの解説本にもそのように書いてあります。

本当にそうでしょうか。


疑問に思う理由は、歌の詠み人の名前が三条右大臣(さんじょうのうだいじん)となっていることです。
恋は、私的(個人的)なものです。
にもかかわらず、どうして詠み人の名前に官名を付けているのでしょうか。

三条右大臣というのは、藤原定方(ふじわらのさだかた)のことです。
三条に邸宅があったので三条右大臣と呼ばれました。

この人は地方官を歴任後、最後には大納言になられた方で、没後には従一位を追贈されたています。
簡単にいえば、たいへんな政府高官です。
そしてこの人は、紀貫之や、百人一首で後に出てくる凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)などの後援者でもありました。

この歌は「後撰和歌集」の「恋三701番」に収録された歌で、特に歌詞は付されていません。
けれど百人一首の選者である藤原定家は、この三条右大臣(藤原定方)の歌を、なんと24番の菅原道真公の後にもってきているのです。

そこで、まず歌に詠まれている言葉を見てみます。

「名にしおはば」は、名前に背かないなら、というくらいの意味になります。
この言葉が次の「逢坂山(あふさかやま)」にかかります。
「逢坂山」は、京都府滋賀県の国境にある山です。
かつてはここに関所があり、地方と都を分ける峠(とうげ)をイメージさせる場所でもありました。
その山の名前が「逢坂山」で、これは誰かと「逢ふ」という意味との掛詞にもなっています。

「さねかずら」の「さね」は、男女が一緒に添寝することを意味します。
「かずら」というのは「葛(くず)」のことで、これはつる性の植物です。
「人に知られで」の「で」は、打ち消しです。
「人」は「他の人」を指し、ますから「他の人に知られないで」という意味です。
「くるよしもがな」の「くる」は、「人に知られないで来る」と「かずらをたぐりよせる(繰る)」との掛詞となっています。
「よし」は、来るための方法、「もがな」は願望です。
つまり、「あなたを連れてくる方法があればいのになあ」といった意味になります。

これを単純に通解すると、「たいせつな人に逢えるという逢坂山で、二人で添い寝するために、葛(かずら)のツルで彼女をたぐりよせることができたらよいなあ。それを人に知られないようにできるあればいのに。でもあるわけないよなあ」といった意味になります。

これだけみたら、なるほど、右大臣の藤原定方が、まるで秘密の恋をしているかのようです。
恋しい人に逢いたい。
一緒に二人だけの時をすごしたい。

ソウルメイトなんていう言葉がありますが、一定の社会的地位を得るようになっても、ふとした弾みに、まるで善政の因縁でもあったのだろうかと思うほど、惹かれる人にであうということがあるのだそうです。
二人はまたたく間に禁断の恋におちいってしまい、家も捨て家族も捨てて好きな相手に夢中になる。
まるで、昔あったお昼のメロドラマみたいな展開です。

けれど藤原定方は、右大臣という要職にある人です。
地位もあれば、常にお付きの人が、周りにはたくさんいる。
責任あるたくさんの仕事を抱えています。
藤原定方は、公人の、しかも高位高官なのです。
いまでいえば、現職の政府閣僚です。

そういう、周囲にいつも人がいる状況の中で、たとえ自分に恋しい女性ができたとしても、彼には自由になる時間も、ひそかにひとりになって好きな女性のもとに通う時間もない。
それに、人の上に立つということは、道徳的な面でも「長」である、ということです。

ここでひとつ注釈が必要です。
諸外国では、政治権力者は、人を支配し牛耳る存在です。
権力者と下の人との間には、上下の関係しかないからです。
「支配と隷属」、「権力と私有」・・・そういう関係しかありません。

ところが日本では、政治権力者というのは、下の人を私的に支配する人ではなくて、天皇の民を預かる人です。
その民は、天皇の「おおみたから」とされている。つまり「天皇のたいせつなたからもの」です。
その貴重なたからものをお預かりするために、一定の権力を与えられている。それが日本における政治権力者です。
この歌を詠んだ三条右大臣、藤原定方は、そういう立場にいます。

人を私的に支配している権力者なら、女生を好き勝手に漁っていたとしても、それも支配のうちです。
何をしようが、権力者の勝手です。
けれど、天皇の民を預かる人が、そのような身勝手をすれば、天皇の民に示しが付かなくなります。

右大臣というのは、政治権力の中枢である太政官という組織の一員です。
太政官は、天皇の民への政治をつかさどるところでであるということは、みなさまご存知の通りです。

ところが、ここが日本の不思議なのですが、天皇直下には、もうひとつ、「神祇官」というお役所がありました。

古代日本の体制、天皇、太政官、神祇官


神祇官は、天皇の祭儀を輔弼(ほひつ)するお役所ですが、このお役所が統括していたのが、全国の神社です。
そしてその神社では、初詣や村祭りや地鎮祭など、様々な行事を通じて民衆の「結(ゆ)い」を築いてきました。
つまり、人々は神社を通じて地域が一体となり、またその神社を通じて上は神様、そして天皇とも一体化してきていたわけです。
これが「君民一体」で、ですから君民一体というのは、単に天皇と民が一体というだけでなくて、祖霊や天上の神々とも一体となる、結いのなかの最大の結いであったわけです。

結いは、権力とは異なります。
権力は上下関係ですが、結いはどこまでも、一体や協同を意味するからです。
そういう意味での君民一体の民への、さまざまな政治を施すのが太政官であり、三条右大臣、藤原定方は、そういう組織のなかにいる公人としての大臣だったわけです。

もちろん人間ですから、ふとしたきっかけで、ソウルメイトのような女性と出会い、強い恋心を寄せてしまうこともあったかもしれません。
惹かれる心というのは、ほんの一瞬の出会い、あるいはほんの一瞬の出来事がきっかけとなって、燃え上がるものです。
逢いたい、逢いたい、逢いたいと思う。
二人だけの時間をすごしたいと思う。
それは男としての本能です。
そしてもしかすると、前世からのご縁かもしれません。

けれど彼は公人です。
仕事があり、責任があり、周囲には常に仕事の関係者たちが群がっています。
だからこそ彼は、その恋心を胸に秘めたまま、
「人に知られで来るよしもがな 」と思うわけです。

そして問題は、彼は、その心を表に出すことなく、またその彼女のもとに通うこともなく、ただ、心に秘めたのであろう、ということです。
なぜなら「もがな」は、ただの願望をあらわす言葉だからです。

自分の欲望や恋心というのは、いわば「わたくしごと」です。
現職の閣僚である彼の仕事は「公的な仕事」です。

ですから彼は、いつ、どんなときでも、閣僚として、何より「民」を大切にし、そのための責任をまっとうしていかなければならないし、人の上に立つ者として、立派な人であることも常に要求されています。
実は、これまた日本独自の思想です。
「いやいやそんなことはない」と思われるかもしれませんが、たとえば儒教では、下の者を大事にするという思想はありません。
儒教は、常に、自分よりも地位の高い者を優先します。

その良い例が「諱(き)」の概念があります。
これは上の者が間違ったことをしたとしても、下の者はそれをかばって嘘を付くことが正しとする概念です。
ですから儒教国では、たとえ上の者が非道の限りを繰り返したとしても、下の者は、それを嘘を言ってでも庇い立てしなければなりません。それが正義となります。

日本は儒教から、温故知新とか、仁義礼智信などの思想を輸入しましたが、「諱(き)」の概念は輸入していません。
これが何を意味するかというと、日本は儒教思想を輸入することで日本思想を築き上げたのではなくて、あくまで日本に古来からある思想的を基にして、その思想的に合致した概念だけを、儒教から取り入れたということを意味しています。
だからこそ、儒教国では、あたりまえの「諱(き)」の概念も行動も、日本は輸入していません。

このことは、もとからの思想がなければ、100%儒教に染まるということも意味します。
なにせ価値観の基準がないのです。だから100%染まるしかない。
ところが、もとからの思想があると、その思想に合致したものしか、受け入れられなくなるのです。

そして藤原定方のこの歌は、「公」のために「私」を捨てて生きた、ある意味「不器用だけれど誠実な男の生き様」を詠んだ歌ということができます。
だからこそ、彼は、自分の恋心を抑え、相手の女性に何のアプローチもしなかったのみならず、ただ歌の中だけで「人に知られで来るよしもがな」と詠ったのです。

欧米型の個人主義のもとでは、こうはなりません。
なぜなら、一番大事なのは個人(私)だからです。
それが官僚であれ、幕僚であれ、閣僚であれ、あるいは民間の企業戦士であれ、あくまで仕事は「飯を食うための手段」でしかない。
ですから常に自分が主だし、自分の欲望を満たすことが、最大の目標です。
それこそ、ソウルメイトといえるような異性に出会ったら、仕事も地位も名誉も捨てて、その女性にすべてを捧げる。それが個人主義的です。

けれど我が国では、それは真逆になります。
なぜなら「公のために尽くす」ということが最大の美徳だからです。
「公」というのは、必ずしも目上の人や組織を意味しません。
なぜなら、我が国の最上位におわすのは、天皇であり、民衆はその「たから」です。
つまり、民衆につくすことが、公につくす、ということなのです。

昔、「女房を質に入れてでも」という言葉がありました。
クルマ好き、カメラ好き、釣り好き、ゴルフ好きなど、世の中には様々な趣味娯楽がありますが、たとえ愛妻を質屋に入れてでも、その好きなことに没頭する。
本当に質屋さんに女房を入れることはありませんが、「好きになる」ということは、それくらい没頭することだという、これは比喩です。

そして恋というのは、そのような趣味の世界以上に、心を溶かし、人をして夢中にさせてしまうものかもしれません。
けれど男には、果たさなければならない仕事がある。使命がある。責任がある。
まして右大臣ともなれば、その責任の重さは計り知れないほど大きなものです。
そしてその責任は、彼の上司に対するものではなく、おおみたからとしての民への責任です。

日本には、「諱」という概念はありませんから、官職にある者が自分が勝手な振る舞いをしたとして、それを下の者が隠してくれたり正当化してくれるなどという、思想も行動もありません。
どこまでも、誰が見ていなくてもお天道様が見ているからと、厳しく自己を律して、責任を果たして行く。
それが人の上に立つということです。

この歌は、菅原道真公の歌の次に置かれています。
道真公は、「神のまにまに」と歌いました。
全ては神の御心のままに、そして日本は八百万の神々ですから、神の御心は、民衆の幸せのためという含蓄を持ちます。
その歌の次に、この藤原定方の歌が来ているのです。

そしてこの歌は、詠み人の名として三条右大臣と記されています。
つまり官職と関係のある歌だということです。

和歌というものは、一番言いたい事をあえて言わず、上の句と下の句で、読み手にその一番言いたいかったことを想像してたどり着いてもらうというのが基本的な仕様です。

藤原定方のこの歌は、上の句も下の句も、ぜんぶ恋の歌ですけれど、藤原定方が本当に言いたいことは、その歌の言葉に書かれている以外のところにある。
そして公のために尽くすことで生涯を貫き、死後、勲一等を与えられた藤原定方の、心に芽生えたほのかな恋心と、その恋心をぐっと押さえて、真面目に生涯を民のために捧げ抜いた藤原定方という男の生き様を、この歌は明瞭に浮き彫りにしていのだと思います。

というか、そういう解釈でなければ、三条右大臣とした意味が、まるで通じなくなります。
そしてこの歌は、一見、恋心を歌っているようでいながら、実は、不器用だけれど真面目で誠実な責任ある男が、一途に公務に精進する生き様が描かれている歌だとわかるのです。


小倉山の紅葉
小倉山の紅葉


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26番歌 貞信公

小倉山峰の紅葉葉心あらば
いまひとたびのみゆき待たなむ


おくらやま
みねのもみちは
こころあらは
いまひとたひの
みゆきまたなむ
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小倉山(おくらやま)は、京都の大堰(おおい)川をはさんだ嵐山の北側にある、まあるい山で,古来、紅葉の名所とされてきたところです。
ちなみに山のふもとには、百人一首の選者である藤原定家の山荘があります。
藤原定家がその山荘で百人一首を作ったことから、これが今なお「小倉百人一首」と呼ばれています。

この歌を詠んだ貞信公(ていしんこう)は、藤原忠平(ふじわらのただひら)のことです。
藤原忠平は、関白太政大臣にまで栄達した人ですが、それだけ栄達した大人物であったからこそ、死後、「貞信公」という送り名をいただいています。

歌は、単純に通釈すると、「小倉山の峰の紅葉よ、お前に心があるならば、陛下に御行幸いただくその日まで、散らずに待っていておくれ」となります。

この歌は、「拾遺集」に掲載された歌で、詞書(ことばがき)に、「宇多上皇が大堰川(おおいがわ)に遊ばれた際に、上皇が見事な小倉山の紅葉に感動して、『我が子である、醍醐(だいご)天皇にこの紅葉を見せたい』とおっしゃられたことを受け、藤原忠平が醍醐天皇にそのことを伝えるために詠んだ」と書いてあります。

多くの本では、この歌が、直接「宇多上皇がお誘いですよ」と伝えるのではなく、むしろ紅葉の側を擬人化して、紅葉に「待っていておくれ」と歌い上げているところに、この歌の面白さと芸術性の高さがあるのだとしています。

もちろんそれはその通りなのですが、それだけでは、すこし説明が足りません。
それは、天皇という存在のことです。

まずこの歌でわかるのは、宇多上皇が、先に小倉山への紅葉狩りにお出かけになっているということです。
そしてそこに右大臣である藤原忠平も同行しています。

なぜ、陛下が先ではないのでしょうか。
どうして上皇が先に紅葉狩りに出かけられているのでしょうか。
宇多上皇が父親だからでしょうか。

実は陛下は、行幸されたくても、行けなかったのです。

いまでもそうですが、陛下のご公務は、年2000回を超えます。
わたしたち一般庶民は、ありがたいことに会社勤めしていても、多くの人は週休二日です。
年間の休日は、祭日を含めれば軽く100日を越えます。
つまり、一年365日のうち、仕事をする日は、250日に満たないわけです。

ところが陛下には、お休みがありません。
一年365日、その全てがご公務の毎日です。
その毎日には、単純平均でも、毎日5〜6件のスケジュールがはいっています。
そしてそのいずれもが、国の大事であり、全てが国運を左右する大事なご公務なのです。
そしてご公務には、一度のミスも許されない。

風邪さえもひけない。
寝込むことも許されない。
プライバシーもない。
それだけの厳しいご公務を、日々消化されておいでなのです。
そしてさらに、その合間をぬって、田んぼにはいって農作業をされたり、なんらかのご自身のご研究もされています。
このことは醍醐天皇の昔も、昭和天皇の時代も、いまの時代もなんら変わることがありません。

それだけお忙しいご公務をかかえられたお忙しさの中で、そうはいっても、我が国の頂点におわす天皇として、日本の心、みやびな心を失わないでおいでになるのが、我が国の天皇です。
そしてその天皇は、政治権力を持っていないのです。

政治権力というのは、現代風にわかりやすくいえば、立法、行政、司法の三権です。
これに軍事を加えれば、四権といえるかもしれません。

西洋や東洋における王や皇帝は、それら全ての権力を掌握し、直接に命令を下せる権限、つまり三権(四権)のすべてを掌に握っています。
ですからたとえば、王の目の前で、くだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度があったりする者がいれば、王は即座にその者を逮捕させ、クビを刎ねることさえ可能です。
それが古来変わらぬ、王という存在であり、王権であり、王の権力です。

ところが我が国における天皇には、その権力、権限がありません。
仮に目の前でくだらない意見を滔々(とうとう)と述べたり、非礼な態度があったりする者がいたとしても、そういう者を処分する役割は、あくまで天皇が親任した太政大臣や関白、いまなら内閣総理大臣や国会両院議長などの天皇が親任した政治権力者が行使します。

ですから天皇が、どうしてもご自身で政治権力を揮いたいと思うなら、天皇ご自身が天皇をご退位されなければなりません。
そして、天皇の位の下に位置する上皇となって、政治に直接介入します。
上皇は、序列的には、天皇の下の身分ですから、多くの場合、父親が息子の下に就くことになります。
天皇という我が国最高の位を捨てて上皇となることで、立場上は天皇の下になりますが、太政大臣よりも上位の政治権力者となるわけです。

普通に考えれば、政治権力者こそお忙しくて、政治権力を揮わない天皇は、お暇と思われるかもしれません。
けれど、この歌が明確に指し示していることは、上皇は、小倉山の紅葉が見事だからと右大臣をたちを連れて秋の紅葉見物に出かけられる、それだけの余裕を持たれています。

一方、天皇は、どれだけ紅葉が素晴らしくても、それを観に行かれるだけの時間も余裕もありません。
だからこそ、そういうお忙しい天皇のために、紅葉に「御行幸いただくまで待っていておくれ」となるのです。
そして高官である藤原忠平は、まさにそのためのご公務のスケジュールの調整をする役割であったかもしれません。
いいかえれば、なんとかして天皇にもこの美しい紅葉を味わっていただきたいから、私がなんとか時間を調整するので、それまで、紅葉たちよ、待っていておくれ、と詠んでいるわけです。

実際、この歌のあと、小倉山への紅葉狩りのための天皇の行幸が、毎年行われるようになりました。
日々ご公務に追われる天皇ですが、むしろご公務の側に、小倉山までついてきてもらうことで、天皇にたとえわずかな時間でも、秋の紅葉をお楽しみいただくように、制度を変えているのです。

一方、醍醐天皇に、是非とも紅葉狩りを楽しませたいと提案したのは、父親の宇多上皇です。
その宇多上皇は、菅原道真を信頼し、民の安寧のために、一部貴族の利権を制限する遣唐使の廃止を実現したときの天皇です。
少し前まで、ご自身が天皇だったのです。
ですから、天皇のお忙しさは、まさに身をもって体感しておいでのわけです。
だからこそ、それだけに、せめて美しい小倉山の紅葉くらいは、是非とも天皇にご覧いただきたい。
そしてその思いを、藤原忠平はわかるからこそ、小倉山の紅葉よ、散らずに待っていておくれ、と詠んでいるわけです。

この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではなく、お忙しい毎日を送られている天皇への感謝が、その意図であったのではないかと思います。
だからこそ、この歌が、素晴らしい歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれているのだと思います。


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27番歌 中納言兼輔
みかの原わきて流るるいづみ川
いつ見きとてか恋しかるらむ

みかのはら
わきてなかるる
いつみかは
いつみきとてか
こひしかるらむ
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この歌は古来、解釈のむつかいしい歌とされている歌です。
というのは、中納言兼輔の「恋しい人」というのが、一度も逢ったことがない女性を意味するのか、それとも会ったことはあるけれど、逢えなくて恋しいのかが、わからないというのです。
そうなのでしょうか。

そこで歌を分解してみますと、
「みかの原」は、漢字で書くと「瓶原(みかのはら)」で、いまの京都府木津川市のあたりのことです。
奈良時代の聖武天皇の御代に、ここに恭仁京(くにきょう)が置かれていました。
この恭仁京というのは、たった3年間だけ都だったところです。

「わきて流るる」は、水流が分かれるという意味と、水が湧いて流れ出るという、二つの意味に掛かっています。
「いつみ川」は、かつて恭仁京のあったあたりを流れる木津川そのものを指すとともに、「いつか見た川」を掛けています。

「いつ見きとてか」の「か」は、疑問をあらわす係助詞で、「何時私が見たというのか。見たことなどないのに」という打ち消しになっています。
「恋しかるらむ」の「らむ」は推量の助動詞ですから、ここは「恋しいのだろうか」となります。

ですので単純に現代語訳しますと、「奈良の木津川のに水が湧き出し、水流がわかれたいつみ川。その川を私はいつ見たというのだろうか。見たことなどないのにどうしてこんなに恋しいのだろうか」となります。

なるほど歌には「恋しい」と書いてあります。
一見、恋心の歌にも見えるかもしれません。
けれど、もしこの歌が「恋の歌」だとすると、「いつ見きとてか」の意味が通じなくなるのです。
冒頭の解釈がむつかしいというのは、まさにそのことを指しています。

つまり「いつ見きとてか」と中納言兼輔が詠んだお相手の女性が、兼輔が過去に逢ったことがるお相手なのか、それとも会ったことはあるけれど、その会ったことが奇跡ともいえるくらいめずらしい出来事だったのか、解釈が分かれてしまうのです。
つまり歌の意味が曖昧になるのです。

なんども書いていますが、和歌は、上の句と下の句という方向磁石を使って、作者がいちばん言いたいことを指し示すものです。
言いたいことを直接言うのではなくて、上の句と下の句が、まるで正三角形の底辺の両端で、この2点から、一番言いたい高みである正三角形の頂点を読み手に伝えようとするものです。
そういう視点でこの歌を見ると、不思議なことがあります。

まず上の句は「みかの原わきて流るるいづみ川」と詠んでいます。
ここに出ているのは、お相手の女性というより、むしろ奈良にある、特定の場所を示しています。
そして下の句は、「いつ見きとてか恋しかるらむ」と、なるほど「恋」という文字を使ってはいるけれど、この歌のお相手の女性は、「いつ見き」と書いているだけでなのです。
つまりこの歌で兼輔が詠んでいる「恋しかるらむ」ものは、必ずしも人(女性)ばかりを指しているとはいえないということなのです。

そして読み手の名前は、藤原兼輔ではなくて、官名である中納言兼輔としています。
ここまでお読みいただいた方ならおわかりいただけると思いますが、個人名でなく、官名で詠んだ歌というのは、なにかしら職業上の何かを詠み込んでいる歌であることがおわかりいただけようかと思います。

上に書きましたように、「みかの原」は、「瓶原(みかのはら)」です。
そこには、奈良時代の天平年間の聖武天皇の御代に、恭仁京(くにきょう)という都が置かれていました。
そこで「わきて流」れたのは、水がわき出して流れたというよりも、何か新しい政治上の動きが起こり、そしてそれが政治的な二つの多きな流れを生んだという意味にもとることができます。

そうであるとするならば、上の句の「みかの原わきて流るるいづみ川」は、聖武天皇の恭仁京で生まれた新しい流れを意味していることになります。
つまり、泉が湧くように新しい時代を切り拓き、そして流れを大きく分けた聖武天皇と、その御世を指しているわけです。

すると下の句の「いつ見きとてか」も、恭仁京が奈良に置かれたのは、天平13(741)年から天平16(744)年であり、藤原兼輔が中納言となったのが延長5(927)年頃のことですから、聖武天皇が恭仁京を置かれた時代から二百年近くも後の時代のことであり、当然藤原兼輔は、聖武天皇にお会いしたこともなければ、在りし日の恭仁京を見たこともないわけですから、「いつ見きとてか」は、なるほど見たことがない場所としてすっきりと意味が通ります。

つまり、藤原兼輔が「どうしてこんなにも恋しいのだろうか」と言っているのは、同時代を生きている生身の女性のことではなくて、実は、聖武天皇の御世と恭仁京のことなのです。

その聖武天皇の御代の恭仁京では、どのようなことがあったのでしょうか。
実は、このことを考えるに際しては、とてもたいせつなことがあります。
それは、第38代天智天皇の御世に始まる「大化の改新」は、天智天皇一代ですべてが終わったわけではない、ということです。
続く弘文天皇、天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、そして第45代の聖武天皇の御代に至っても、様々な改革が目白押しの状況でした。
大化の改新は、一瞬の時のことではなくて、その後もずっと長く改革が続いた長い年月をかけた改新だったのです。

なかでも聖武天皇の御世というのは、元号こそ「天平(てんぴょう)」ですが、とてもたいへんな時代でした。
聖武天皇が即位されたその年(724年)に奥州で反乱が起き、天変地異が相次いだのです。
そこで聖武天皇は翌年1月に、厄災を取り除くために600人の僧侶たちを宮中に招き、般若経を読誦してもらっています。
また、この年の9月にはお公家さんたち3000人を出家させています。

ところがそれだけの信仰を貫かれたにも関わらず、728年には聖武天皇の、たったひとりの皇太子が薨去されてしまうのです。
しかもその6日後には、宮中に隕石が落ちるという大凶事が起きました。
そして732年には日本中が旱魃(かんばつ)に襲われ、さらに734年には関西地方を阪神淡路大震災級の大地震が襲ったのです。

相次ぐ天変地異や不幸に、聖武天皇は天平6(734)年には、ますます仏教への傾斜を強くされました。
そして一切経の書写を国家的事業とすることを決められるとともに、天平8(736)年には、遠くインドやベトナムからも高僧を招き入れ、仏教への傾斜をますます強くされていかれたのです。

ところがその結果は、翌年の太宰府における疱瘡(ほうそう)の大流行でした。
そして天平9(737)年には、都に疫病が流行り、朝廷の高官たちの大半がまたたく間に、亡くなってしまったのです。

そんな中にあって聖武天皇は、ますます仏教への信心を強くされ、天平12(740)年には、奈良に大仏を建立する発顕を行われました(勅願は743年です)。これがいまも残る奈良の大仏です。
また同じ時期に、妻の光明皇后は、Chinaから渡来した景教にも深く帰依し、施薬院という無料の医療所を建立されています。
そのとき、不治の病である疱瘡患者の皮膚から流れる膿を、光明皇后が直接御手で拭われたのは有名な逸話です。
ちなみに景教というのはキリスト教のことですが、この時代には渡来仏教のひとつのカタチとして捉えられていました。

要するに天皇自らが深く仏教に帰依し、篤く仏教を敬われていたのです。
ところが次々と国に不幸が襲ってくる。

相次ぐ凶作に、東国には深刻な飢饉が襲いました。
そこで聖武天皇が行われたのが、東国行幸です。
凶作にあえぐ東国の人々を、少しでも励まそうとされたのです。

そして都に帰朝すると、奈良の都に帰らずに、近くに恭仁京を建て、そこに遷都されたのです。

恭仁京で、聖武天皇は、次の天皇になる皇太子として、光明皇后との間にできた女児(阿倍内親王=後の孝謙天皇)を指名されました。
また、墾田永年私財法を定めて土地の私有を認める制度変革も実施されました。(これによって新田を私有田として開墾したお百姓さんたちが、後の武士となっていきます)
そしてさらに、奈良に大仏を造立することの詔勅を発せられたのです。

なかでも特筆すべきは行基(ぎょうき)との和解です。
それまで、仏教は国営仏教であって、実は民間での仏教帰依は禁じられていたのです。
ところが行基は、その禁をやぶって、民衆に仏教を広めました。
なにせ天子様が信仰してらっしゃる教えです。
しかも神道なら、「願いが叶う叶わないは、あなた自信の精進努力による」としかいわないのに、仏教は「信仰すればあなたの願いはすべて叶う」というのです。
これに民衆が飛びつかないわけがありません。

これを民衆に説いた行基は、ですから民衆のヒーローとなりました。
けれど行基は、ご禁制を破っているのです。
ですから朝廷からすれば「お尋ね者」です。
その「お尋ね者」を、聖武天皇は、正式に「日本初の大僧正」として起用し、さらに行基に奈良の大仏建立の実質的な責任者を命じたのです。

ここで仏教そのものについて議論する気はまったくありません。
たいせつなことは、そういう批判めいたことではなくて、天平時代には、仏教が国営化されていたこと、そして相次ぐ不幸が日本を襲ったことから、その鎮撫のために、壮大な仏教建築や大仏建立、そして絵画や彫刻など、様々な分野で、仏教を基礎にした芸術、文化が花開いたのが、天平文化の時代であったということです。

「いつ見きとてか恋しかるらむ」と、この時代を詠んだ藤原兼輔が、恋しいと詠んだのは、まさにその天平文化そのものを意味したものといえます。

ちなみにこの聖武天皇の時代、大化の改新は、なお現在進行形でした。
わたしたちは、大化の改新といえば西暦645年と学校で習いますが、これはあくまでもはじまりであって、その年に、大化の改新のすべてが完了したわけではありません。
聖武天皇の御在位は749年、大化の改新がはじまってから百年後です。
その百年後の時代においても、なお改革は続行中であったのです。

少し脱線しますが、明治維新も、そのはじまりが嘉永6(1854)年のペリー来航にあることは、大方の学者さんたちの一致する意見ですが、その明治維新が完了した時期となると、これはもう諸説あって定まっていません。
実は私は、「明治維新はいまなお現在進行形である」と思っています。

なぜかというと、明治維新というのは、幕府が締結した不平等条約の解消を目的とした大改革であったからです。
そして日本が外国の治外法権などの特権を排し、完全な主権国家として欧米諸国と対等となったのは、昭和17年から終戦の年までのたった3年間しかありません。
戦争がおわると、日本は米国を主とする連合国によって占領され、主権を奪われ、サンフランシスコ講和のあとも、いまだに日本は、日本国憲法という占領統治憲法を抱いたままになっています。

その占領憲法には、我が国が主権国家として領土主権を有することさえ明記されていません。
国家の非常時における「非常大権」もありません。
しかも国連において日本は、国連に敵対する「敵国」と明記されています。
そしてその日本は、隣国がありもしない慰安婦問題で騒ぎ立てても、その根拠となる河野談話を見直すというきわめてまっとうな事業さえも、連合国の長である米国からダメ出しされるという情況です。
つまり、戦後の日本は、主権国家とはとうてい言えない、諸外国と不平等な関係におかれています。
ということは、明治維新の理想である諸外国との不平等な関係の解消は、いまだ解消されていないのです。
改革というものは、それほどまでに激しく長い道のりである、ということです。

ふたつめには、当時の日本は、遠くインドやベトナムとも交流があったということです。
東亜というと、昨今では、何もかもがChinaやKoreaしかないような論調が目立ちますが、東亜はそれだけでなく、数多くの国を持つ地域です。
そして日本は、遣唐使、遣隋使によってChinaと国交を持つだけでなく、他の東亜諸国とも交流をもっていたということです。

みっつめには、仏教は聖武天皇の時代から民間信仰の仲間入りした、ということです。
それまでの仏教は、あくまで国営仏教であり、これが民間信仰の仲間入りするのは、行基を待ってからであるという点も、わたしたちが歴史を学ぶ上で押さえておかなければならないポイントであろうかと思います。

そして聖武天皇と光明皇后の時代、仏教が国営仏教であり、その仏教に天皇皇后両陛下が深く帰依された結果、当時の文化は、いまなお「天平文化」として歴史に光彩を放つものとなっています。

この27番歌を詠んだ藤原兼輔は、その聖武天皇の天平の御世について、私は見たこともないけれど、時代を分けた、つまり国教の中に仏教を組み込み、また民に私有田を認め、仏教文化(天平文化)が花咲いた時代であり、文化性という意味において、その恭仁京の時代を「恋しい」と歌っているのです。

ちなみにこの歌を詠んだ中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)は、紫式部の曾祖父にあたる人です。
そして三条右大臣(藤原定方)らとともに、紀貫之ら歌人の面倒をよく見ていた、いわば当時の貴族文化のスポンサー的な役割を果たしていた文化人です。

そして兼輔は、教養人であるとともに、中納言として政府の要人でもありました。
恭仁京の時代と異なり、兼輔の時代は、すでに国風文化が進展した時代ですが、そうした文化の庇護者として、高い芸術性を持った天平文化の時代を、彼は「見たことはないけれど、恋しいね」と詠んでいるわけです。


さて、次回は28番から30番の歌です。
 山里は冬ぞ寂しさまさりける
 人目も草もかれぬと思へば
     源宗于朝臣

 心あてに折らばや折らむ初霜の
 置きまどはせる白菊の花
      凡河内躬恒

 有明のつれなく見えし別れより
 暁ばかり憂きものはなし
      壬生忠岑

ちょっと淋しげなこの三首、さて一体どのような意味が隠されているのでしょうか。
次回もまた乞うご期待です。

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コメント

硫黄島

こんにちは
まさに目から鱗、日本の和歌には究極の美しさを感じます。

いつぞやか、NHKの番組で若いデザイナーが『短歌はポップスだ』などと宣っておりましたが、テレビを蹴飛ばしてやろうかと思うほど憤ったものです。長さの問題では決してないけども、200年やそこらの歴史しかない、しかも、歴史のなさを補うかのように愚民文化(失礼)を世界に輸出している国のチンドン文化なんかと一緒にしないでもらいたいです。しかも、日本人(仮)がそれを言っているのだから、頭が痛いです。

ところで現在、日本には「在日特権」など、とてもじゃないが主権国家とは思えない不平等条約のようなものが存在しますが、その極めつけとも言うべきが「日米地位協定」だと思います。

しかしながら、よくよく考えてみたら、軍法もない日本において、米軍が日本の法律の縛りを受ければ、果たして有事の際に軍が機能するでしょうか。

軍が緊急出動しても、飛ばしすぎればスピード違反で捕まり、駐車さえ満足にできないような日本の法体系において、米軍が『日本の法律なんかシラネ』と言って蹴飛ばしているのは、ある意味当然だと思います。

私は、現在の日米地位協定を廃止するためにも、何よりまずは「軍法」を作るべきだと思います。

そのうえで、米軍が日本の軍法に従わないと言い出せば、そのときはお引き取り頂けばよい。

また、そのためにも「憲法改正」が絶対条件です。

安倍総理は、どれだけ辛酸をナメさせられようと、絶対に憲法改正だけは成し遂げるんだと、そう決心なさっているものと拝察致します。

今は隣の野蛮民族の告げ口オバサンに、言ってしまえば「ザコ」におべっかを使って、朝鮮語で挨拶してでも米大統領に『日本は悪くないよ』とアピールしなければならない。その米大統領も希代のトンチンカンです。

このような「屈辱」に、外ならぬ安倍総理が一番悔しい思いをしていると思います。

だからこそ臥薪嘗胆、言葉は汚いですが、たとえ肥溜めの中に一度体ごと落ちたとしても、そこから這い出して必ずや日本を取り戻す、そのような覚悟が安倍総理からは伝わってくるわけでして、ならば我々日本を愛する国民も、一緒に臥薪嘗胆し、日本を屋台骨から作り直す決意を固く結ぶべきであると、私はそう思います。

-

No title
いつも素敵な解説をありがとうございます。
これからも楽しみにさせていただきます。

様々な活動に連日のブログ投稿にお忙しいと思いますが、くれぐれもお身体を大切になさってくださいませ。

愛信

台湾・行政院占拠 主導者は大学院生 学生運動を組織化
台湾・行政院占拠 主導者は大学院生 学生運動を組織化
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140325/chn14032510300001-n1.htm

【参考情報】
台湾警察、行政院から学生ら強制排除
http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303495304579460060595104296.html#slide/1
台湾立法院(国会)を学生らが占拠 生中継
http://live.nicovideo.jp/watch/lv173117558

 反日売国テレビ局・マスコミが台湾国会を占拠している台
湾の学生達の強制排除の様子
を写真付で報道している、しかし、国会占拠の様子をニコニ
コ動画で見ている視聴者数は
今日現在で2,982,721人
累計来場者数:89,493,727人である。
 関連情報で報道されている内容とは大違い、反日売国テ
レビ局・マスコミが報道してい
るニュースが嘘である証拠がまた一つ収集できました。

詳細は
【マスコミ隠蔽の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
【マスコミ隠蔽のタイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。

Mari

ねずさん、今回も目からウロコの解説をありがとうございます。最高です!

特に道真公と貞信公の紅葉の御幸歌に挟まれた「さねかずら」は一体どういうことなの?と疑問に思っていたので。定家も公人ですから、この一首にいろいろ思うことがあってこの並びにしたのですね。

諱の話は、「馬鹿」の由来になった故事を思い出しました。(王様が鹿を見て「あれは馬だ」と言ったので、家来の1人が「王様、あれは馬ではなく鹿です」と王様の間違いを指摘したら殺された、という話。日本人はつい「臣下の諫言を聞かない王様は馬鹿だ」と思いますが、実は「王様に本当のことを言って殺されたりして馬鹿な奴だ」と考えるのが大陸での常識という)
鹿は鹿と言える自由を守っていきたいものです。

次回は、定家が絶賛したと言われる「有明のつれなくみえし…」の登場ですね。ますます楽しみにしています!
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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