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平兼盛

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40番歌 平兼盛(たいらのかねもり)
しのぶれど色に出でにけりわが恋は
ものや思ふと人の問ふまでしのふれと
いろにいてにけり
わかこひは
ものやおもふと
ひとのとふまて
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この歌は、続く41番にある壬生忠見(みんぶのただみ)の歌とセットになる歌です。
どういうことかというと、平安時代中期の第62代村上天皇のご治世のとき、天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)という会が催されたのですが、この歌会における「恋」という歌題に詠まれたのがこの2首だったのです。
西暦960年4月28日の事ですから、いまから千年以上も前の出来事です。
当時の歌会というのは、いまでいったら紅白歌合戦のような一大イベントでした。
仕組みもちょっと紅白歌合戦に似ていて、紅白ではなくて左右二組に別れ、あらかじめ出された歌題によって、左右それぞれに別れた歌人が歌を出し合い、会場にいるみんなでその歌の優劣を決め、最後に左右どちらの歌に勝者が多かったかを競ったわけです。
とりわけこの天徳内裏歌合のときの歌会は舞台装置から出場者に至るまで、まさに豪華絢爛をきわめ、その後の歌会の手本ともなったほどのものだったそうです。
出場する歌人たちには、1ヶ月前に歌題が告知されました。
選ばれた参加者たちは、その一ヶ月の間に、当日持ち寄る歌を考え抜いて作成し、当日披露したわけです。
提示された歌題は、霞、鶯 、柳、桜 、山吹、藤、暮春、首夏(初夏のこと)、郭公(ほととぎす)、卯花(うつぎの花)、夏草、恋など、全部で20です。
そしてそのなかで「恋」の歌題で、披露されたのが、今回ご紹介する40番歌の平兼盛と、41番の壬生忠見(みんぶのただみ)の歌だったのです。
さて、みなさんなら、「恋」という題で、歌を詠むとなったら、どのような恋を題材にされるでしょうか。
色恋、片恋、両想いに狂ひ恋、初恋、失恋、悲恋に恋路、恋の絆に恋の病い、恋人、恋文、恋慕、 恋恋(花札のコイコイではありません)など、恋は恋でも、いろいろな恋があります。
ところがこの歌会で、平兼盛と壬生忠見が提示した歌は、奇しくもなんと「しのぶ恋」だったのです。
この二つの歌は、どちらも甲乙つけがたく、引き分けにしようという声もあったそうです。
けれど、歌会は、左右どちらかに勝敗をつけなければなりません。
そして結果は、平兼盛のこの40番歌の勝ちとなりました。
壬生忠見の歌は次に紹介しますけれど、彼は、そうそうたる歌人たちが集ったこの歌会には、ふさわしくないほど、すごく身分の低い家柄でした。
けれど、この歌会で勝てば、高位の身分に取り立ててもらえる可能性が生まれます。
ですから、歌会に招かれたとき、彼の肩には、まさに親兄弟から親戚一同までの期待が、どっさりとかぶさったわけです。
壬生忠見は一生懸命歌を考えました。
おそらくは、まさに夜も寝ないで、そのたった一首の歌のために、全知全霊、心血を注いだのです。
ところが、結果は非情でした。
彼の負けとなったのです。
このときのショックで、壬生忠見は悲嘆に暮れ、食が細くなり、そのまま悶死したという噂もありました。
ただ、彼の晩年の作とされる歌も残っているところをみると、なんとかもちなおして、立ち直ったのであろうと思います。
二首とも、とても良い歌です。
歌そのものが美しく、とても意味もとりやすい。
ただ、両者の歌は、これからご紹介しますが、歌をよくみれば、やや壬生忠見の歌は技巧に走り、歌の素直さに乏しいといえるかもしれません。
青年のしのぶ恋の歌なのです。
歌からにじみでる素直さから、平兼盛の歌の勝ちとなったものであろうと推察します。
さて、では、勝った側の40番歌の平兼盛の歌です。
しのぶれど色に出でにけりわが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで
この「しのぶれど」は、心に秘めていた思いです。まさに「しのぶ恋」です。
「色」は、形のことです。ですから「色に出にけり」は、その恋する心が表情や態度に出てしまったさまをいいます。
下の句の「ものや思う」は、この場合、恋しているということです。
「人の問うまで」と続きますので、「恋をしておいでなのですか?と友に尋ねられた」と言っています。
通釈しますと、
「ある女性を好きになったのだけれど、その女性への恋心を心に秘めていた。ところがある日、あなたはあの女性に恋をしておいでなのですね?と、友に尋ねられました、といった意味になります。
文字上にはどこにも書いてありませんが、隠していた想いを友に悟られて、「おまえ、あのこに恋してるだろ?」と冷やかされ、思わず「そ、そんなことねーよ」と必死で打ち消すのですが、その表情は真っ赤になっていて、もう誰の目にも、彼があの子に恋しているということがバレバレ、といった情景が、まさに目に浮かんでくるようです。
実に、わかりやすくて、純情で、なんだか青春真っ盛り、といった微笑ましい青年男子たちの姿が、すっきりと詠まれています。
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41番歌 壬生忠見(みんぶのただみ)
恋すてふわが名はまだき立ちにけり
人知れずこそ思ひそめしかこひすてふ
わかなはまたき
たちにけり
ひとしれすこそ
おもひそめしか
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一方、こちらが壬生忠見の歌です。
「恋すてふ」の「てふ」というのは、「といふ」が詰まった形です。
ですから「恋す+といふ」で「恋しているという」という意味になります。
「わが名はまだき」の「名」というのは、この場合、人の名前のことではなくて、世評のことです。「まだき」は、いまでいったら「もう」とか「早くも」といった意味です。
これが「たちにけり」ですから、「早くも、もう私のことが世間の噂にのぼってしまいました」という意味になります。
ここまでが上の句です。
そして下の句では、「人知れずこそ思ひそめしか」と詠まれています。
現代語風にいえば、「誰にも悟られないように、ひそかに心に想っていたのに」といった意味になろうかと思います。
ですからこの歌は、通釈すると、
「誰にも知られないように、ひそかにあの女性のことを心に想っていたのに、私のことがもう世間の噂になってしまったよ」となります。
つまり、この歌も、平兼盛の「しのぶれど、わが恋は」と同じ、いってみれば、片思いの恋心を歌ったもので、好きな人ができて、その想いを心に秘めていたのに、周囲にその想いを悟られてしまったということを歌にしているわけです。
この二つの歌は、期せずしてどちらも「しのぶ恋」をテーマにした歌でした。
その「しのぶ恋」について、
平兼盛は、「ひそかに想っていたのに、友人にバレて、思わず赤面してしまったよ」、
壬生忠見は、「世間で噂になってしまったよ」と詠んでいます。
両者とも、年代的には、歌会に呼ばれるくらいですから、いわゆる思春期の若者ではありません。もう立派な大人の青年たちです。
その青年が、前者の平兼盛では、男友達から「おまえ、あの子に惚れてるだろ?!」と言われて、思わず赤面して、恥ずかしがっているさまを、
後者の壬生忠見は、ひそかに想っていたけれど、それが「噂になってしまった」、と詠んでいるわけです。
どちらも成年男子の心の純情を詠んでいるわけですが、前者が、友に指摘されておもわず赤面している、ある種の青春の清々しさや微笑ましさを感じさせるのに対し、後者は、もちろん「世間に噂された」と恥ずかしがってはいるものの、歌がやや技巧に走り過ぎ、やや歌の清々しさが損なわれています。
おそらく壬生忠見は、家族から親戚一同の期待を一身に担い、何度も何度も歌を書き直しているうちに、歌を詠むに際しての素直な心よりも、歌に説得力をもたせようとする技巧が、前に出てしまったものと思われます。
見事な歌なのですが、ですから結果は、平兼盛の歌の勝ちとなりました。
ただ、たいせつなことを、ひとつ申し上げるならば、この両者の歌に共通し、また勝敗の結果を分けたのは、清々しさにあったということです。
戦後に書かれた中世の歌を解説した本などには、よく見受けられるのですが、彼らの歌を、恋の歌ばかりであり、まるで平安時代の貴族社会が色に溺れた男女関係の乱れた社会であるかのような印象操作をするものが多々あります。
しかしそれをいうなら、いまどきの歌謡曲にしても演歌にしても、まさに恋の歌のオンパレードになっているわけで、だからといって必ずしも日本人の男女が(なかにはひどい人もあるかもしれませんが)、総じて色恋狂いというわけでは決してないのと同様に、恋の歌があるからといって、平安時代をまるで色恋狂いの乱れた社会であるかのように言ったり考えたりすることは間違っています。
そもそも39番歌までの歌の解釈を読まれた方なら、もうお気づきとおもいますが、一見、恋の歌のようでありながら、実は、親しい友の死を詠んだ歌であったりしているわけです。
「恋」という字を使いながら、実は恋そのものではなく、恋する気持ちに通じるような深くてせつない想いを詠んでいる歌の方が、はるかに多いのです。
加えて、今回のこの二首です。
そこに詠まれているのは、秘めた想いを指摘されて、おもわず赤面してしまうな純情な好青年たちなのです。
そしてこの二首が発表されたのは、陛下が直接催された公式の歌会です。
そこに出場できる歌人となれば、すくなくとも、平兼盛にせよ、壬生忠見にせよ、中学生くらいの思春期の少年ということは絶対にあり得ません。二人とも、いまで言ったら、社会人となっている独身男子です。
その独身男子の若者が、心に秘めた恋心を、友に「おまえ、最近、恋してるだろ?」と言われて、おもわず赤面して、うつむいてしまう。世間の噂になってしまったと恥ずかしがっている。
そんな心情と情景を歌にしているのです。
そこにあるのは、史記に出てくる殷の紂王(ちゅうおう)と愛姫の妲己(だっき)が、庭先で池に酒を入れ、その庭先で裸の男女を交合させた酒池肉林の色欲にまみれた姿や、節操のない肉体の欲望の虜(とりこ)になっているような、おどろおどろしい男女関係とは対局をなす、はるかに清々しい心の恋であり、純情です。
世界には、女性をまるで性の道具のように扱ってきた国や地域がたくさんあります。
纏足(てんそく)は、女性が逃げれないように、少女のうちから足を型にはめ、成長するはずの足の骨をぐちゃぐちゃに砕いた風俗習慣です。
西欧におけるコルセットにしても、たとえばマリーアントワネットは、ウエストのサイズが、葉書くらいしかなかったのだそうで、当時埋葬された女性の人骨をみると、やはり肋骨の下部が幼い頃からのコルセットによって激しく砕けてしまっていました。
あるいは、以前にご紹介したことがありますが、売春婦として集めて来た女性の両目を針で突いて潰してしまう。女性が客の選り好みをしないようにするためなのだそうです。
けれど、古来、日本には、女性に対してそのような肉体的に壊してしまうような習俗は、まったくありません。
それどころか、縄文時代の人骨をみると、女性たちは、アームリングからブレスレット、ネックレスなどを身につけ、実に豪勢に身を飾っています。
平安時代においても、女性の衣装は十二単に代表されるように、実に美しい着物を身にまとっています。
もちろん、そういう服装は貴族たちのものであって、一般庶民は、もっとずっと粗末な着物を着ていたことでしょう。なぜなら十二単は、日常の家事をこなすには、あまり合理的とはいえない服装だからです。
けれど、その時代の庶民の様子を描いた絵画などをみると、女性たちは、貴族の女性たちと同様の、みんな腰よりはるかに長い髪の毛を後ろで縛った姿をしています。
髪は長ければ、それだけ手入れもたいへんです。
髪を洗うのもたいへんだし、クシをとおすのもたいへんです。
髪が長いということは、長くても暮らして行けるだけの豊かさがあったということだし、それだけ女性たちがおしゃれでいれたということでもあろうかと思います。
要するに何をいいたいかというと、男性も女性に対して純情だったし、女性たちもそれだけ大切にされていたということです。
すくなくとも、女性を性奴隷にするというような文化は、日本には、はるか古代も、千年前も、そして戦前も戦後も、日本にはまったく「ない」ということです。
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42番歌 清原元輔(きよはらのもとすけ)
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末の松山波越さじとは ちきりきな
かたみにそてを
しほりつつ
すゑのまつやま
なみこさしとは
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この歌も、清純な恋の歌です。
40番、41番と違うのは、こちらは両想いです。
この歌を詠んだ清原元輔は、「枕草子」を書いた清少納言の父です。
まさに、この父にして、この子(娘)あり、といった感じがします。
「契(ちぎ)りきな」の「契り」は、固い約束のことをいいます。それが「きな」です。「な」には感動を表す意味がありますから、お互いに感動的な固い約束をしてきた仲ということになります。
「かたみに」は「互いに」で、「袖をしぼりつつ」は、袖を絞らなきゃならないくらいに、涙で袖がいっぱい濡れたさまをあらわします。
ですからこの上の句は、
「二人で、袖が涙で濡れるほどに、泣いて固い約束をしあったよね」といった意味になります。
下の句の「末の松山」は、これは地名で、現在の宮城県多賀城市周辺あたりにあった松の木の生えた山のことです。あえて「末の」という冠詞がついているのは、この松の木の生えた宮城県の山は、どんなに大きな波が来ても、ぜったいにその波が、山を越えることがない、という逸話からきています。
「波越さしとは」は、まさに、その逸話のことを言っています。
ですので、下の句の「末の松山波越さじとは 」というのは、上の句と合わさって、「末の松山は絶対に波が超えることがないと言われているように、二人は絶対に心変わりしないと、袖を涙で濡らしながら固く誓い合ったよね」といった意味となります。
まさに、二人の愛はフォーエバー。永遠の愛を固く誓い合ったし、二人で愛を誓い合ったとき、二人は一緒にいっぱい泣いたよね。そんな情景が、歌になっています。
互いに「好きだ」と告白しあったのでしょうか。
そして二人は、その互いの相手の気持ちが嬉しくて、涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、ずっと一緒だよ。絶対にはなれずに、ずっと一緒にいようね、と誓い合ったのです。
けれど、この歌は後拾遺集の770番にある歌なのですが、詞書には、
「心変はりて侍(はべ)りける女に人に代はりて」と書かれています。
すこし説明が必要です。
この歌は、作者自身の体験ではなくて、実は友人の藤原惟槻(ふじわらのこれつき)のために、(人に代わりて)詠んだのだというのです。
ではどうして「人に代わりて詠んだ」のかというと、その藤原惟槻には、永遠を誓った女性がいたわけです。
それこそ、涙を流しながら「ずっと一緒だよ」と誓い合ったわけです。
ところがその相手の女性が心変わりしてしまった。
それでも、藤原惟槻の、彼女を愛する気持ちは変わらず、ますます慕情がつのっているわけです。
それで、これをみかねた男友達の清原元輔が、友の気持ちをすこしでも和ませようと、
「君は、波が末の松山を超えることがないのと同じように、君は彼女と二人で涙を流しながら、一緒に永遠を誓ったのにね」と、友の気持ちになって同化して、詠んだのが、この歌なのです。
歌にある想いには、自分を捨てた女性に対する恨みのようなものは微塵もありません。
むしろ、捨てられてなお、相手のことを想い、慕い、変わらぬ愛を抱き続ける純情と、そういう友を気遣う男友達のやさしさが、この歌からあふれ出ています。
どこまでも純。
どこまでも男。
そして男は、どこまでも女にやさしくあるべきという、日本男児の心が、この歌のテーマになっているのです。
前にも書きましたが、恋は、まさに糸がからまるよに激しく、そして悶々とする「戀」そのものです。
それだけに、熱く募る想いは、いきおい歌のテーマになりやすいものです。
そして百人一首に描かれる戀の歌は、そこに純情というひとつの糸が、ずっと通っているのです。
それが、いくつになって、いつまでたっても変わらない、大和男の心なのです。
さて、次回は、、43番、権中納言敦忠、44番、中納言朝忠、45番、謙徳公の三首です。
今日ご紹介した40〜42番歌は、どれも個人名で詠まれた私的な歌でした。
けれど、続く43番以降の歌は、やはり「恋の歌」とされている歌ですが、詠み手の名前は、職名になっています。
これまでにもありますように、職名で書かれた歌には、それなりの意味がある。
さて、それがどのような意味になるのか、次回もまた乞うご期待です。
※百人一首シリーズは、出版刊行の予定のため、公開は24時間限りにさせていただいています。
なお、1番〜3番歌の解説は、そのまま公開しています。
百人一首(1番歌〜3番歌)
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コメント
大和
本当に日本人って素晴らしいって思いますし、自分も日本人だって思うと嬉しくなってきます!(((o(*゚▽゚*)o)))
これからも楽しく読ませていただきます!
2014/05/08 URL 編集
Mari
https://mobile.twitter.com/kumagai_yutaka/status/48288176518873088
平安時代初期の貞観地震も津波被害が大きかったと聞きますから、当時も波が末の松山までギリギリ押し寄せてきたのでしょう。その時の故事をふまえて「末の松山を波が越す」=「決してあり得ないこと」となったのではないでしょうか。そのように解説した書籍を読んだ事がないので勝手な想像に過ぎないかもしれませんが。
和歌に刻まれた歴史、まだまだ知らない事が沢山眠っていそうです。
2014/05/08 URL 編集
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2014/05/08 編集