代官に就任してすぐに村々を視察してまわった福井文右衛門は、出間村の人々がたいへん貧しい生活をしていることに衝撃を受けました。
この村には、土地は肥えているけれど、水路がないのです。
水路がないということは、農業は天水にたよるほかなく、畑はできても米は作れない。
そのため農民はどの家もオカラ飯を食べて暮らしていました。
実情を知った福井文右衛門は、なんとかしなければならないと思い悩みました。
そしていろいろ調べた結果、出間村のあたりは、櫛田川(くしたがわ)の流域にあたるのだけど、土地が川面より高いことを知りました。
近くにある川よりも土地のほうが高いから、土地に水がひけないのです。
では水をひくためにどうしたらよいかというと、ずっと川上にある下機殿(しもはたでん)の東側から水をひいてくるしかない。
ところがそれができない事情がありました。
水路の通り道となるところが、伊勢神宮の御神域だったのです。
御神域は、古代からの決まりによって草木一本人が動かしてはいけないというのがしきたりです。
*
慶安三(1650)年五月二十日の夕方のことです。
福井文右衛門は、出間村の村人たちを全員集めました。そして、
「下機殿から東へ真っすぐに水路を掘れ」と命じたのです。
村人たちは驚きました。
御神域を掘って水路をひくというのです。
ですから村人たちは顔を見合わせ、「それはできません」と言いました。
福井文右衛門は、堂々と笑顔で答えました。
「だいじょうぶだ。村人たちには決して難儀はかけない。おまえたちは安心して工事を実行すればよろしい。」
そして重ねて、水路工事を村人たちに命じました。
村人たちは話し合いました。
水さえひけば、米を作れる。
そうすればこれからは腹一杯、おいしいご飯が食べられる。
けれど、御神域は、勝手に掘っちゃならない。
「でもよ、事情をちゃんとわかってらっしゃるお代官様が、あのようにおっしゃられているんだ。きっとお代官様が神宮のご了解をとりなさったに違げえねえ」
「きっとそうだ!」
村人たちは、そう決まると、みんなで協力して水路を掘り上げました。
水路を掘る。田を営めるようになる。そうすれば妻や子たち、これから生まれてくる子孫たちまで、みんなが腹一杯、白い飯が食えるようになる。
村人たちは、日頃、おからと野菜しか食べていない、やせ細った体で、一生懸命に、水路を掘りました。
そしてなんと、たった一夜で、水路を掘ってしまったのです。
明け方、完成した水路の前に、みんなが集まりました。
「せーの」のかけ声で、堰をきりました。
水がいきおいよく流れ出しました。
これまで水がなくて貧しかった村が、豊富な水に支えられる豊かな村へと出発した瞬間でした。
村人たちから歓声が上がりました。
一晩中かけて徹夜で工事した顔は、どの顔も土にまみれて汚れていたけれど、みんな満面の笑顔でした。
いきおい良く流れる水に、喜びの歓声をあげる村人たちの姿が、まるで目に見えるようです。
「さっそく、お代官様に、お礼をいわなきゃなんねえな」
「お代官様は、どこだ」
「さっきまで、そこにいたぞ」
ところがあたりを見回しても、先ほどまで工事の監督をしながら、みんなを笑顔で励ましていたお代官様の姿が見えません。
全部お代官様のおかげです。
何をおいてもお代官に知らせなくてはと、村人たちは代官所に向かいました。
するとそこには、代官、福井文左衛門の割腹して果てた姿があったのです。
腹を斬っても、人はすぐには死にません。
6時間くらいかけて、失血し、死んで行きます。
ですから福井文左衛門には、まだ息がありました。
枕元には、手紙が置いてありました。
そこには、こう書いてありました。
「今朝、流したあの水は、この文右衛門が命に替えて出間村へ贈ったものである。孫子(まごこ)の代まで末長く豊作とならんことを」
言葉少なな手紙でした。
たとえ、村人たちのためとはいえ、神域を侵すのは重罪です。その罰(ばつ)は藩主にまで及ぶものです。
福井文右衛門は、その責任を、自らの腹を切ることで、一身に負ったのです。
事件から360年が経ちました。
今でも出間村の人々は文右衛門のご命日に、欠かさず村人一同で供養の法要をしています。
そしてまた伊勢神宮も、下機殿の東の隅(すみ)に、大きな顕彰碑(けんしょうひ)を建ててくれました。
文右衛門の心は、いまも立派に出間村に生きています。
今も残る文右衛門水路

この物語を通じて申し上げたいことが4つあります。
それは、戦国という時代、約束を守る、責任、生きるということです。
まず「戦国という時代」です。
戦国時代というと、なにやら欲のかたまりとなった戦国大名たちが、兵を率いて領土の分捕り合戦をしていた荒れた時代という印象を持つ方が多いようです。
けれど、下の図を見てください。

まさに、その戦国時代に、国内の耕地面積が激増しているのです。
これが何を意味しているかというと、戦国大名たちというのは、戦(いくさ)ばかりをやっていたのではなくて、土地の開墾を実に一生懸命やっていたということなのです。
もともと武士というのは、平安時代中期以降に生まれた、新田の開墾百姓たちです。
新田を開くには、大規模な土木作業をともないますし、そのためには頭領が必要です。
そうした頭領たちが、新たに開かれた土地の名主となり、その名主さんたちの中の、大名主が、言葉が略されて「大名」と呼ばれるようになったものです。
つまり、もともとは農民であり、土木工事の大将であったわけです。
ですので、古代の日本にあった防人(さきもり)と、武士は根本的に違います。
防人は、いまでいったら、国営の自衛隊のようなもので、いわば軍人です。
これに対し武士は、農民の自警団であり、そもそもが農家の人たちであるということです。
その農家が、だんだんに力をつけ、中央から貴族やご皇室の末裔をお招きして、頭領にあおいだりしていたわけです。
水田の開墾というのは、ただ土地を均(なら)せば良いというものではありません。
田には水を引きますが、当時は機械式ポンプなんてありませんから、広大な地所を、高低差のない平地にしなければ、田はできません。
しかも、水をひくためには、川の水位を調節するという難題がありますし、また川の氾濫を防ぐためには、堤防の土手を築かなければなりませんし、その土手を破るような鉄砲水が来た時は、その水を逃す、たとえば信玄堤のような霞堤を作ったりもしなければなりません。
そういうことは、ひとりじゃできません。みんなの協力がいる。
田んぼを開くというのは、実はたいへんなことなのです。
けれど、そうやってたいへんな思いをして新田を開いても、そこに水を引くために川の水を塞き止められたら、その下流にいる人たちが、こんどは水が来なくて困ってしまいます。
それが利水権の争いで、これは互いに死活問題だし、川はクニをまたいで流れていますから、いきおいこれが大きな紛争の種になりました。
戦国大名たちの争いというのは、多くはこうした互いの暮らしを守ることと、理不尽に対して正々堂々と戦いを挑む、そういうことが引き金になっています。
では、なぜ田を開いたかといえば、みんなが豊かに安心して暮らせるようにするためです。
最初は、俺ひとりかもしれません。けれど結婚すれば夫婦二人になり、3人の子宝に恵まれれば、人数は親子5人になります。爺ちゃん、婆ちゃんを養うとなれば、父の親、母の親が計4名ですから、これで9人です。
そしてその子供たちが成長し、結婚し、それぞれにまた3人の子が生まれれば、人数はそこまでで18人です。
はじめはたったひとりでも、わずか20〜30年で、人の口がそれだけ増えるのです。
当然、それだけの人数を養うには、それだけの耕地面積がいる。
そのためにには、みんなが安心して食えるためには、その分、新田を切開いていかなければならないのです。
これをとりまとめ、みんなの力をひとつにまとめて、新田の開墾に積極的に取り組んだのが、戦国大名たちでした。
戦国時代という名称は、Chinaの紀元前にあった「春秋戦国時代」からとったものですし、なるほど勇ましい戦国武者の合戦物語などが数多く紹介されていますが、それもこれも、みんな生きるため、生活のためにしてきたことであるわけです。
ですから、戦国時代というのは、欲の皮の突っ張った武将が、欲にくらんで戦(いくさ)ばかりをやっていたというのとは、実は、全然違う時代なのです。
この物語に出てくる福井文右衛門にしても、そういう戦国武将に使える身のお武家さんでした。
そして彼は、まさに民の生活を守るため、より多くの命を救うために、身を犠牲にされたのです。
二つ目は、約束を守るということです。
福井文右衛門は武士であり、伊勢神宮の土地に水路を開きましたが、その伊勢神宮は、今も昔も、一切の武装などしていません。
方や福井文右衛門が仕官する藤堂家は、名だたる戦国武将の家柄であり、石高に応じた強大な武力を持っています。
ですから、武器を突きつければ、もしかしたら神宮に、水路を引かせることくらい権力の行使としてできかもしれません。
けれど福井文右衛門は、まったくそのようなことを考えていなかったばかりか、最後には、一身に責めを負って腹を斬っています。
世界中、どこの国でも、武力によって相手になんでも言うことを聞かせられるという状態にあった世界(これは実はいまでも世界はそれに近い社会です)にあって、福井文右衛門は、武力行使よりも、伝統的約束事をしっかりと守るという選択をしているのです。
これは、当時の日本社会が、実力(武力)よりも、価値観を優先するという社会であったということを明確にあらわしています。
そして実は日本は、太古の昔から、そういう国であり続けたり、戦国時代も、そして現代も、そういう国であり続けているわけです。
三つ目が「責任」です。
してはならないことをした以上、その責任を一身に担って腹を斬る。
けれど、出間村の窮状を知れば、もしかしたら、福井文右衛門は、褒められる仕事をしたといえるかもしれないのです。
もしかしたら、ご加増といったご褒美までいただけたかもしれない。
けれど福井文右衛門は、そういう期待も、運動も、下心も一切なく、神宮との約束事を破ったというその一点をもって、腹を斬りました。
そして、藤堂家の家名をも、守り通しました。
こういう行動は、自分さえ良ければという個人主義的社会からは、ぜったいに生まれないものです。
日本という、みんなで協同することをこそ大事にする社会であるからこそ、起こりえた事件であったと思います。
四つ目が、生きるということです。
長生きをすることは、とっても良いことですし、幸せで素敵なことです。
一方、人の死には二つの死があります。
ひとつは肉体の死、もうひとつは人々から忘れ去られるという死です。
そういう意味において、福井文右衛門は、亡くなられてから300年経ったいまもなお、出間村に生きています。
福井文右衛門は、武将でもない。ただの一介のお代官にすぎなかった人です。
現代風にいえば、中堅企業の課長さんくらいの、名もない一介のサラリーマンです。
けれど、福井文右衛門の心は、いまも人々の間に生きています。
生きるということは、生かされているということだと思います。
何かの意味があって生きている。ひとりひとりが、きっと何かの使命をもって生きているのだと思います。
そしてその使命をまっとうし、人の肉体は滅んで行きます。
ひとりひとりの生きた証は、ほんのわずかな小さなものかもしれないけれど、その生きた証が積み重なって、わたしたちの国を築いています。
わたしたちは、日本という国のなかの、未来のための小さな証なのです。
※この記事は2011/2/15にアップしたものをリニューアルしたものです。

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拡散しよう!日本!
コメント
藤井 享
2014/05/11 URL 編集
terag3
彼は、耕作放棄地を無くすことを目標に、全国の地域を歩いてこれを探し出してそこの地主と交渉して許可を得て、市民農園として希望者を募り、一定区画を1カ月6千円で貸出して、そこから得た金で、地主に地代を払い、また市民農園参加者には大学で勉強した農業に関する知識を与え、機材までも貸し出して農園の経営を支援していくというもの。
一見、何という小規模な活動だと言う人も出てくるかと思われますが、このたびのお話に出てくる、福井文右衛門のように「皆が食っていけるように米を作る」という目標を持って地域の皆が協力していくというのが日本古来の経営ですから二つ前のコメント欄の、洋さんが仰るように、休耕田や耕作放棄地などが日本国内にあることが異常なのです。
そして劣悪な毒入り食品をわざわざ、金を出して購入して健康を害するなど全く持って日本人社会のためにならぬ政策を実施するなど、どういうつもりだと激しい怒りを感じます。
それもこれも国際化社会などと、いわゆる進歩的文化人、高学歴の経済学を学んだ知識人に操られている官僚や、一部の政治家たちの影響だと思います。
日本人の食料は日本人の農家で十分に賄えるはずだと思うのですが、またそうしなければ2760数年に亘って築いてきた日本国の国柄まで失うことになってしまうのではないかと大いなる懸念を抱いています。
国際化社会にも想いを致さなければなりませんが、一番大事な国家観を失っては本末転倒だと思っています。そうならないようにするにはどうすれば良いのか、日本国民は真剣に考えていくべきだと思います。
2014/05/10 URL 編集
丹次郎
有難きを悟って始めて生きとし生けるものに、
慈悲の心を施せるのです。
日本人に生まれた果報は猶更です。
虫けらに近い人間に生まれた人達は憐れです。
どこの国の誰かは言わずもがな。
六道四生の中に人身甚だ得難し。
此の身今生に向つて度せずんば何れの生にか解脱せん。
無始曠劫以来の生死も今生に遇はんが為めの
準備と思へぱ実に此世最も重し。
http://www.d7.dion.ne.jp/~choumei/jinseinokishu/file/jinnseinokishu0411.htm
2014/05/10 URL 編集
洋
田圃を開墾した話。水路工事をした話は日本中にあります。
そんな農地をつぶして、工場を作り生産物を輸出しその得た外貨で、毒入りの食品を輸入し、それを食いすぎてメタボになり、これまた外国製の薬漬けになって、健保財政を圧迫している。おかしくないか。
日本人は、もっと米を食おう。被災地の避難先で、被災者をいちばん慰めたのは、白いお米のおにぎりであったと聞く。
福井文右衛門の命を懸けた、米増産への思いを絶ってはならない。
自戒を込めて。
2014/05/10 URL 編集
ひろし
戦国武将と言えば、上杉謙信や武田信玄などの武将達の活躍など語り伝えられますが、その武将連中が活躍出来たのは、福井文左衛門の様な、民の事を我が事として受け止める名もなき武士達が当時の日本に多くいたお陰である事を忘れては成りますまい。多くの人間の首を斬る事よりも、多くの命を生かす武士達の方が、真との武士であると今でも想っています。
2014/05/10 URL 編集
寺島 孝
先日の、「希望拡散 慰安婦問題に思う」で、大事なことは日本文化の発信である、とねずさんは訴えられていました。(核心をつた突いたものであり、すぐ友人・知人に拡散させていただきました。)そのためには日本人自身が眼を覚まさないといけない。そのためねずさんは6年間、毎日、日本の歴史や文化を発信してこられました。 今日のひとりごとに、特にその熱い思いを痛いほど感じたのは私だけではないでしょう。
2014/05/10 URL 編集