■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。■ねず本第二巻の
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(本の画像の下の「立ち読み」というところをクリックしてください。)■新刊ラジオでも紹介されています。ねずさん本人も出演しています。
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宮川三郎少尉

6月6日は、宮川三郎少尉のご命日です。
宮川少尉といえば、知覧航空基地から特攻隊として飛び立ち、ホタルになって還ってきたというお話で有名です。
以下は、そのホタルが還ってきた富屋食堂の鳥濱トメさんのお孫さんから直接伺ったお話です。
トメさんは、お孫さんたちにも、当時のことをよく語って聞かせていたそうです。
特攻作戦は、知覧を始め、宮崎の都城など九州各地や、台湾の航空基地からも出撃していますが、なかでも知覧が本土最南端であったことから、陸軍の全特攻戦死者1,036名のうち、半数近い439名が、ここから出撃されました。
富屋食堂は出撃前の特攻隊員たちの憩いの場でした。
トメさんは、隊員たちから母のように慕われていました。
ですからトメさんは、出撃されたおひとりおひとりのことを、全員分、まるで昨日のことのようによく覚えておいでした。
なかでも宮川少尉のことは、とても印象に残っていて、何度も何度も聞かされました。
宮川さんが知覧に来られたのは昭和20(1945)年5月の終わりごろです。
宮川さんは新潟の人で、雪国の人らしく色白でハンサムな方でした。
宮川さんは、知覧に来る前、万世飛行場から一度特攻に出撃しています。
しかしこのときは機体が故障して、引き返しています。
「自分ひとりだけが生き残った」
そのことを宮川さんは大変気にしておられました。
ようやく代わりの飛行機がもらえた宮川さんは、出撃する前夜の6月5日に、一緒に出撃する仲よしの滝本恵之助曹長と二人で、富屋食堂にやってきました。
二人は、「明日出撃です」と、ごきげんでした。
そしてその日は、ちょうど宮川さんの20歳の誕生日でした。
トメさんは、宮川さんのために、お赤飯を炊いてあげていました。
二人はお赤飯を、おいしいおいしいと召し上がっていました。
その帰りがけ、宮川さんが、突然、気がついたように言ったのです。
「おばさん、俺、明日も帰ってくるよ。ホタルになってね。滝本と二匹で。だからおばさん、追っ払ったらだめだよ」
まるで、冗談のような口ぶりでした。
トメさんは、食堂にくるときどこかでホタルでも見かけたのだろうと、そのときは気にもとめませんでした。
翌6日は、どんより曇った日でした。
この日は総攻撃の日で、朝から特攻機がどんどん飛び立ちました。
トメさんも見送りに行きました。
その日の夜のことです。
出撃したはずの滝本さんが一人でひょっこり食堂にやってきました。
二人は編隊を組んで飛び立ったのですが、どうにも視界が悪い。
そのため、何度も滝本さんは宮川機の横に並んで、
「視界が悪い。引き返そう」
と合図を送ったそうです。

けれど、宮川さんはその都度、手信号で、
「俺は行く。お前は帰れ」と合図しました。
何度か目の合図のあと、滝本さんは引き返しました。
宮川さんは、そのまま雲の彼方に消えていかれました。
滝本さんは、その話をされながら、
「宮川は開聞岳の向こうに飛んで行ったよ」と言って、涙をぽろぽろとこぼしました。
夜の9時ごろです。
食堂には、トメさんの娘さんが二人と、滝本さん、奥の広間には、明日出撃予定の隊員たちが7〜8名いて、遺書を書いていました。
トメさんは、なんとなく不思議な気持ちになって、食堂の入り口の戸を、すこしばかり開けました。
すると、それを待っていたかのように、一匹のホタルが、ふら〜と食堂にはいってきて、天井のはりところに、とまりました。
それは、とても大きなホタルでした。
大人の親指くらいの大きさがありました。
ホタルの季節には、まだ少し早いです。
そんなに大きなホタルがいること自体が、不思議です。
そのとき、娘の礼子さんが、
「あっ、宮川さんよ。宮川さん。ホタルになって帰ってきた!」と叫びました。
滝本さんもびっくりされた様子でした。
トメさんは、みんなに言いました。
「みなさん。宮川さんが帰っていらっしゃいましたよ」
その場にいた全員で、何度も何度も「同期の桜」を歌いました。
涙がとめどなくあふれました。
ホタルは長い間、天井のはりに止まっていました。
歌が終わったとき、ホタルは、すっといなくなりました。
宮川少尉は、新潟県小千谷市出身で、旧制新潟県立長岡工業高等学校を首席で卒業し、昭和18年10月に明治神宮で行われた第一陣学徒出陣壮行会にも参加された方です。
トメさんは、戦争が終わったあとも、こうして出陣され知覧を飛び立たち散華された特攻隊員達のために、もとの知覧基地に、一本の墓碑を立て、そこに来る日も来る日も、毎日お参りされました。
毎日です。自宅からその墓碑まで歩くのに、足の悪いトメさんは、片道に30分もかかりました。
その道のりを、暑い日も寒い日も、毎日お参りされました。
雨降りなどは、たいへんです。片手に杖をつき、片手にお線香を大事そうに抱えてお参りに行っていたのです。
両手がふさがっているため、傘を持つことができません。
なのでトメさんは、雨が降ると、ずぶぬれになってお参りしていました。
そのトメさんが、お孫さん達に、繰り返し語ったことがあります。
それは、
〜〜〜〜〜〜
特攻隊のみなさんは、みんなとっても「思いやり」のある子たちだったんだ。
あの子たちが行ったのは、軍の命令だから逝ったとか、そういうことじゃなかったんだ。
あの子たちはね、故郷にいる親御さんや、兄弟の方々や、妹や大好きな人たちを守ろうとして、旅だって行ったんだ。
誰だって、死ぬのはこわいよ。
そのことは、昔の人もいまの人も、なんにも変わらない。
あの子達だって、こわかったんだ。
でもね、あの子達は、みんなを守るため、自分の命を犠牲にしてでもみんなを守りたいっていう「思いやり」の心があったんだ。
私はね、出撃した全部の隊員さんたちを知ってるよ。
ぜんぶ、私の子供たちだったよ。
あの子たちはね、人を、故郷を、大好きな人を「思いやる」心があったから、自分の命を犠牲にしてでも、まわりの人たちを守ろうとして出撃して行ったんだ。
〜〜〜〜〜〜
知覧基地で、特攻に行く隊員さんたちは、全員、三角兵舎と呼ばれる建物の中で寝起きしてました。
その三角兵舎は、松林の中にありました。
戦争が終わると、その三角兵舎は、全部取り壊されました。
何年も経ってから、トメさんの娘さんの礼子さん姉妹と、まだ幼かった(このお話を聞かせてくださったお孫さん)たちみんなで、その松林に行かれたそうです。
ふと眼にしたのは、その松の木の一本一本に刻まれた文字でした。
そこには、亡くなられた特攻隊員さんたちが、ご自分で掘ったのでしょう。
筆跡の異なるお名前が、いっぱい刻まれていたのです。
それを見たとき、わかったそうです。
彼らだって、死にたくなかった。そして、俺たちが、生きて、呼吸してて、ここで寝起きして、生きていたことを、決して忘れないでくれ!
その木に刻まれたお名前のひとつひとつに、そういうメッセージが込められているのだと。
そのことに気付いたとき、その場に居合わせた全員が、声を絞り出すようにして泣きました。
戦前の日本にあって、戦後の日本にないもの。
その最大のものは、互いの「思いやり」の心なのかもしれません。
自分の全知全霊をかけて、ときに自らの生命さえもかけて人を思いやる心。
私達の、日本の心を取り戻す戦いというのは、そういう「思いやりの心」を取り戻すための戦いなのかもしれません。
日本人は、
10年で、日本の国体を抜本的に改革し
20年で、清国を破り
40年で、大国ロシアを破り、
80年で、世界を相手に戦って欧米の植民地時代を終焉させました。
10、20、40、80という数列からしたら、次にくるのは160年目です。
160年目というと、平成37(2025)年です。
おそらくそのときに日本が、日本人が世界に示すもの。
それは、おそらく国と国、そして個人と個人がそれぞれに、互いに対する思いやりの心をもつことを、世界の普遍的な標準にすること、なのかもしれません。
この宮川少尉の物語について、素晴らしい演劇公演が今年も行われます。
【帰って来た蛍~蒼空の神々~】
公演期間 2014年6月26日(木)~7月6日(日)
会場 俳優座劇場
〒106-0032 東京都港区六本木4-9-2
【演出・脚本】柿崎ゆうじ
【エグゼクティブプロデューサー】内田雅章
【プロデューサー】増田玲介
【宣伝プロデューサー】平野勝也
【制作総指揮】 宇都隆史(自由民主党参議院議員)
キャスト 伊藤つかさ/さとう珠緒/他
詳細ページ
http://www.theaterguide.co.jp/search_result/paid/detail.php?id=31927</u>">
http://www.theaterguide.co.jp/search_result/paid/detail.php?id=31927※この記事は、2012年10月30日の記事をリニューアルしたものです。

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拡散しよう!日本!
コメント
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2014/06/07 編集
ただの主婦です
日本に生まれ、日本で育った日本人で良かったと、先人の足跡を知る事が出来る場所です。
感謝しか有りませんし、尊い皆様の犠牲の上に今の私達がこの日本で平和を享受しているのを再確認致します。そして、今の世の中に、次世代にこの日本人独特の感性、意識、思い遣りを伝えていかなくてはと思いました。(先ずは、自らが実践です)
2014/06/07 URL 編集
のんべ安
2014/06/06 URL 編集
ありがとう
1945年6月5日には、九州の日本軍の飛行場を攻撃していた第30.8任務群と第38.1任務群が沖縄南東で台風の中を通過しました。
このときには、7隻の艦艇が大きな損傷を受け、中でも重巡洋艦「ピッツバーグUSSPittsburgh」(CA-72)は艦首を失い、4隻の航空母艦が主飛行甲板に大損傷を受けました。
意外にも、76機もの飛行機が失われたにもかかわらず、死者は6名のみでした。
最も興味深い嵐というのは、おそらく台湾から北向きに進路を変えて、10月9日に艦隊の一大泊地であった沖縄のバックナー・ベイBuckner Bay(中城湾)のすぐ近くを通過した台風でしょう。
進路の変化が急だったため、湾内には大型貨物船からきわめて小型の上陸用舟艇までのさまざまな大きさの揚陸船艇が多数停泊したままでした。
荒波によって12隻の船艇が沈み、222隻が座礁し、3ダース近くが衝突によって損傷しました。
暴風は陸上施設をも襲い、テントを吹き飛ばし、カマボコ兵舎を吹き倒し、食糧やその他の補給品を破壊しました。
人的被害としては、10月18日までに36名が死亡し、47名が行方不明になったとみられています。
もしこの時までに太平洋戦争が終わっていなかったならば、この嵐は来たるべき日本本土侵攻作戦に劇的な影響を与えていたかもしれません。
2014/06/06 URL 編集
次郎左衛門
今回の宮川少尉の蛍でのご帰還のお話、自分も知った時には号泣をした記憶はありますが、トメさんのお話までは知りませんでした。
ゆえに、先程そのお話を外食先で見てしまい、しかもその時偶然にも携帯音楽プレイヤーで森山直太朗の“愛し君へ”を聴いていたため、止まらないほど涙が溢れだし、思わずティッシュを目頭に当てて堪えようとしましたが…遂に若干、嗚咽を洩らしてしまいました ^^;!(やられた~・笑)
トメさんの仰るとおり、特効作戦に志願された方々は皆、本っ当に全身愛情と思い遣り、そして優しさに溢れたこの世で最も美しい欠くべからざる方々ばかりであったと思います…
ゆえに、特攻作戦というのは、そのこの世で最も美しい方々を多く亡くしてしまったという意味では誠に、誠に惨い作戦であると思います…。
しかし同時に、それは究極的な温かさ、そしてそれを感じた人々(自分も含め)に ものすごい感謝の念や勇気や励まし、そして誇りを与えてくれるものでもあるとも思います…!
ゆえに、自分は戦後の日本の発展、そして人種だけで優劣をつけない今日の世界に目をやる度に彼ら特攻隊の皆々様始め、勇敢に戦われた兵隊の皆々様に心の底から感謝しております!
ねず先生、本日も素晴らしい素晴らしいお話、誠にありがとうございました^^
いつも応援しております^^!
では!
2014/06/06 URL 編集
洋
有りがたいことである。
平成のうちに、靖国神社に陛下の御親拝が頂けるような環境を作らねばならない。
宮川少尉の蛍も知覧から、九段まで飛んでこられたと思います。
純粋な気持ちで、特攻した若者を悲しみを押し殺してやさしくその気持ちを支えた多くの女性達がいた。
特攻で米兵を震え上がらせた我らの先祖、北の満洲から熱帯のペリリュー島に転戦し玉砕した先人。その人たちのおかげで我々はかろうじて誇りを失わずに、生きてこられた。
靖国神社に蛍を無数に飛ばしてみたいが。
取りあえず、近々水戸の護国神社に参拝し、ペリリュー島の英霊に鎮魂の祈りを奉げてこようと思う。
2014/06/06 URL 編集
なびさん
こと想う時、涙が溢れます。
日本人精神というものはまことに尊いものと確信しています。
たかが1度戦いに敗れたくらいで、その精神がなくなるとは思いません。
「キミガタメ」という曲を口ずさみながら、特攻隊員の方々を
想う日々です。
2014/06/06 URL 編集
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日本という国、とくに当時の日本は、言い方が変ですが、
ある意味、後顧の憂いがなく、妻子を周囲に託すことができた国
だったんなあとつくづく思いました。
なぜかというと、昔、アメリカの移民向け英会話教室で、
「難破して孤島でのサバイバル」というテーマを扱ったときに、
赤ちゃん、病人、老人などが切り捨ての対象であることに
驚愕したことがあります。しかし、後にこういう考え方の方が
一般的であることに気付きました。
果して、こういう環境では、家族を残して逝けるだろうか。
2014/06/06 URL 編集
パパ
愛する者のために命を犠牲に守る感情、今ならわかります。
子供の為、子供を産んでくれた妻のためなら。
2014/06/06 URL 編集