そして戦前、戦中までは、実は和歌には、こうした古典和歌を学ぼうという伝統的和歌の解釈の世界と、そういう古典的和歌から大きく離れて、いまこの瞬間の熱い思いを詠おうじゃないかという潮流と、二つのものが共存しました。
そして古典といわれる和歌の解釈についても、たとえば斎藤茂吉の「万葉秀歌」などでは、古典的解釈からやや離れて、正岡子規の主張する「今を詠む」という視点で古典を詠むという新しい取り組みがなされました。
そして、この「新しい解釈」は、世間一般の常識である伝統的解釈から離れて、新しい視点、つまり情緒面での歴史との一体感を排除して解釈するという展開で、知識人たちの間で一世を風靡しました。
それでも、あくまでも古典和歌の解釈は、いにしえ人たちと情緒面で一体化して詠むという流れは、民間伝承ベースで、色濃く残りました。
なかでも百人一首は、カルタ取りというゲームを通じ、また親から子に伝えられる美しい伝統的歌の解釈として、学者さんたちの「文法的新解釈」とはまったく別に、文化として活き活きと伝承され続けていたのです。
とりわけ、明治から昭和にかけては、戦争が続いた時期でもありました。
そういう戦地のような、いつ死ぬともしれないという危機的状況におかれると、人は、いまどきのお笑い芸人さんたちの、中身のない一発芸のようなものには、ほとんど関心を示さなくなるのだそうです。
人は、何故生きるのか。どうして死ぬのか。人生とは何か、愛とは何かといった、もっと深みのあるものを求めるのです。
西洋においてキリスト教が大きな勢力となった理由もここにあるし、いまのChinaで、中共政府があれだけ弾圧しても、法輪功が大勢力となる理由も、ここにあります。
このことはもしかすると、いまの日本も同じかもしれません。
ながびく不況にあって、様々な苦労を余儀なくされた人たちほど、保守に目覚める。
たいへんな苦労をした人ほど、ホンモノを求める。
一生懸命勉強して、やっと良い大学にはいったものの、いざ、就職しようと思ったら、200社近く受けて、片端から落される。
そんな経験をしてしまうと、テレビのお笑い芸人の瞬間芸では、もう笑えなくなるのです。
なぜ、どうして、世の中どうしちゃったの?という、いたって生真面目な疑問が頭をもたげてくる。
さて、戦前までの和歌の解釈が、古典的情感の共有という昔からの歌道と、いまこの瞬間を詠もうという刹那的な新作歌に、別れていたというお話をしました。
これが戦後になると、前者が否定というよりも、むしろ無視されるようになりました。
これは、GHQの方針でもあり、要するに日本人から、日本人としての歴史の連続性を否定しようとする取り組みが政治力を持つようになったわけです。
なぜそのようなことが起きたかといえば、古典的歌の解釈というのは、万葉集も、古今和歌集も、百人一首も、その背景の柱には、必ず日本書紀があります。
神話の時代からはじまるやまと独自の歴史認識を共有するという基点の上に歌が詠まれています。
つまり、古典的歌道を認めることは、GHQが否定しようとする日本書紀を認めることであったわけです。
その結果、戦前まではあたりまえだった歌道は、完全に世の中の学問からは無視されることになりました。
特に左翼系の大学教授らによって、万葉歌人も、百人一首も、どこまでも歴史を無視した刹那的な歌の解釈だけしか、世の中に出回らなくなっていったのです。
そしてその結果、歌の読み方が、きわめて刹那的な文字通りの、額面通りの読み方しかされない。
ところが和歌は、いちばん言いたいことを言わず、上の句と下の句でその「言いたいことや思い」を、読み手に想像してもらうところに、その美学があるのです。
それを「あくまで文字に書いてあることだけしか解釈してはならない」としたら、和歌の心は伝わりません。
だから歌の真意が見えて来ない。
見えないから、古典の和歌がツマラナイものになる。
そして次第に、人々から、万葉和歌や古今和歌が遠い存在になっていってしまったわけです。
でも、古典的解釈というのは、千年以上にもわたって生き延びた解釈なのです。
言い換えれば、時代を超え、身分をこえて、千年以上に渡って、人々から愛され続けた解釈です。
謙虚に学ぶ気になってみれば、これほどわかりやすく、感動を共有できる解釈は、実は、他にないのです。
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50番歌 藤原義孝(ふじわらのよしたか)
君がため惜しからざりし命さへ
長くもがなと思ひけるかな きみかため
おしからさりし
いのちさへ
なかくもかなと
おもひけるかな
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この歌は『後拾遺集』に収蔵されている歌で、その詞書には、「女のもとより帰りてつかはしける」と書かれています。
つまり、好きな女性との逢瀬のあとに、「君がため惜しからざりし命さへ」と詠んだわけです。
この藤原義孝は、45番歌の謙徳公(けんとくこう)の三男で、「末の世にもさるべき人や出でおはしましがたからむ(末の世までもこんなすごい人は現れないことでしょう)」とまで言われたほどの、美男子で頭の良い青年です。
その超美男子が、「君のためなら命だって惜しくない、と思っていたのだけれど、こうして結ばれたいまとなっては、むしろ君とともに、長く一緒に生きていきたいなって思えます」と、詠んだわけです。
実に青年らしい清々しさと、ひとりの女性を愛する心が、素直な実感として詠まれた歌です。
ところがそれだけ美男子で、できも良く、周囲からも羨望された義孝は、天然痘にかかって、わずか21歳で他界してしまうのです。
天然痘という病気は、体中に、顔も含めて大豆くらいのおおきさの腫瘍がはえ、そこから絶え間なく膿みが出るという病気です。
美しい顔立ちの良い男だった青年が、その外見をまるで醜い姿にして、死んでしまう。
まだ21歳であったということからすれば、おそらくは「君がため」と詠んだ相手の女性とも、ラブラブの相思相愛状態にあったことでしょう。
そんな燃えるような情熱的な恋をしながら、難病に罹って死んでしまうのです。
たった一夜であったとしても、「君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな」とまで詠める女性と出会えて、結ばれたことは、義孝にとっては、幸せなことであったと思います。
けれど、このような歌を贈られ、身も心も義孝を心底愛した女性の方からしてみたら、その義孝の死は、どれほど辛いものであったことでしょう。
この歌は、歌単独で、好きな異性を愛する素直な気持ちの歌として詠むことができると同時に、そこまで愛した人に死なれてしまう、それもとっても悲しい、本人にとってもきっと不本意であったろう死を迎えた相手の女性の、このうえもない悲しみの心が、対になっています。
実は、わが家のご近所さんで、先日、葬式がありました。
まだ若い息子さんが、鉄道事故でお亡くなりになったのです。
明るくてまじめな好青年でした。
たまたま、都内で学生時代の仲間たちと飲む機会があり、普段あまりお酒を飲まない彼も、さそわれて結構飲んでしまったそうなのです。
そのため、ついつい電車を寝過ごしてしまった。
だいぶ離れた駅で目を覚まし、「これはいけない」と、上りのホームに移動しようとしたとき、つい千鳥足をとられ、駅のホームに転落。そこへ列車がやってきました。
ご遺体はほとんど形もない状態であったそうです。
そしてそのお亡くなりになった息子さんには、新婚ほやほやのお嫁さんがいました。
戦時中も、そして現代社会においても、愛する人が不慮の死を遂げてしまうということは、よくあることでした。
そしてそんなとき、故人の生前の明るくて凛々しい笑顔を思う浮かべながら、
「君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな」と詠んだ、藤原義孝を想像してみる。
藤原義孝が亡くなったのは、西暦でいうと974年のことです。
それから千年以上にわたり、残された遺族や愛する人を失った人の心を、この歌はどれだけ慰めてきたことでしょう。
そして、いま自分が抱いているその哀しみは、実は千年前にも、同じ思いを抱いたご先祖がいた。
そのことが、わたしたちの国のもつやまと人の心の歴史の連続性を、どれだけ多く語ってきたのか。
昔もいまも日本人は、日本人なのです。
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51番歌 藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)
かくとだにえやは伊吹のさしも草
さしも知らじな燃ゆる思ひを かくとたに
えやはいふきの
さしもくさ
さしもしらしな
もゆるおもひを
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50番の藤原義孝が、結ばれた彼女への燃える恋心を詠んだ歌なら、この51番の藤原実方朝臣は、そんな思いを胸に秘めた、「言えない思い」を詠んだ歌です。
それも、この歌の詞書には、「女にはじめてつかわしける」とありますから、その「言えない思い」を歌に込めて、好きになった女性に、最初の恋文として贈っているわけです。
ちょっと難しい言いまわしの歌ですが、解釈の手がかりになるのは「伊吹山の、さしも草」です。
伊吹山は岐阜県と滋賀県の境のあたりにある山ですが、この山はお灸に使われる「もぐさ」の名産地です。
「えやは」というのは、「いやはや」といった意味ですから、「えやは伊吹のさしも草」は、「いやはや、伊伊吹山の、もぐさみたいな」と言っているわけです。
詠いだしの「かくとだに」は、現代語訳したら「こんなにまで」といった意味す。
「さしも知らじな」は、「きっと想像さえしていないかもしれませんけど」といった意味になります。
ですから通解したら、
「いやはや、まるで伊吹山のもぐさみたいに(よく燃えて燃え上がっている)私の思いを、あなたはきっと想像さえしていないことでしょう」といった意味になります。
お灸につかうもぐさは、肌に直接当てるものであるだけに、この歌には、「貴女に触れてみたいという私の燃える思い」という意味が込められているのかもしれません。
しかもこの歌は、はじめてのラブレターということですから、ちょっとオトナの世界に足を踏み入れてみたい若者の、なんだか「うれし恥ずかし」みたいな感じが、伝わってくる歌になっています。
この歌を詠んだ藤原実方という人は、実は枕草子を書いた清少納言と噂のあった男性です。
もしかするとこの歌のお相手は清少納言だったかもしれません。
さて、問題は、歌人の名前が、ただ「藤原実方」とあるのではなくて、「藤原実方朝臣」となっていることです。
このように「職位」が付されている歌は、なんらかの形で仕事との関係のある歌であるというのは、これまでの解説で、みなさまにもご理解いただけていることと思います。
けれど、どうみてもこの歌は、私的な恋心、女性への熱い思いを詠ったものでしかありません。
では、百人一首の選者である藤原定家は、なぜ、この歌の読み手の名前に、「朝臣」と付したのでしょうか。
実は、その理由は、この歌に直接関係があるのではなくて、このような美しく、ちょっとエッチな純情を詠んだ藤原実方が、これだけの歌詠みであったがゆえに、地方に飛ばされたという背景が、そこにあります。
藤原実方は、花山天皇、一条天皇に仕えて従四位上、左中将にまで出世した人です。
ところが清涼殿の殿上で、藤原行成に自作の歌をなじられたことから、激怒して、行成の烏帽子をはたき落してしまったのです。
殿中での、こうした暴力行為は、たとえいかなる理由があっても、御法度です。
藤原実方は、この狼藉によって、東北地方の陸奥に左遷され、そこで逝去してしまうのです。
たとえどんなに理由があったとしても、殿中では暴力は御法度。
たとえどんなに素晴らしい歌を遺し、仕事上の成果をあげることができる人材であったとしても、手を挙げたら、それでオシマイ。地方に飛ばされ、一生、鳴かず飛ばずで暮らすことになる。
「いやはや、まるで伊吹山のもぐさみたいに(よく燃える)私の燃える思いを、あなたはきっと想像さえしていないことでしょう」と、若き日の情熱を詠み、宮中でも出世頭であり、将来を嘱望された青年でも、職場で暴力沙汰に及んだら、たとえ職務が左中将であったとしても、それだけで一生を棒に振ることになる。
暴力を嫌い、常に平和を希求し続けた、わたしたちの祖先は、そこまで「武」に厳格であったのです。
そしてその根本には、聖徳太子の十七条憲法以来の「和をもって貴しとなす」という、我が国古来の伝統があります。
その「和をもって貴しとなす」の後ろには、「しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん」と書かれています。
現代語訳したら、「上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)する」となります。
そして第四条には、「上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり」とあります。
すくなくとも殿上人ともある者ならば、まずは上に立つ者から、礼をしっかりとわきまえなさいというのです。
以上のことは、武を否定しているのではありません。
「武の必要性を認めながら、武を用いなくても良い社会」の構築を目指したのが、わたしたちの祖先が目指した日本の理想の姿であるということです。
すこし個人的な経験の話をします。
私は、犬や猫が大好きで、若い頃から、たくさんの犬や猫を育てました。
こないだ猫と犬が死んだので、いまはウチには、猫が4匹います。
いろいろな犬猫を飼いましたが、屋内でペットを飼うとき、いちばん問題なのが、お尻の始末です。
ちゃんとしつけなければ、家の中、糞やおしっこだらけにされてしまう。
若い頃は、厳しくしつけました。
私も若かった。出したモノに鼻をすりつけ、頭やお尻を叩いて感情的に叱りました。
けれど、それをやると、犬も猫も、叱られると思うから、よけいに隠れてするようになるのです。
そこで30代くらいからは、叱らないことにしました。
尻癖がちゃんとつくまで、ゲージの中から出さず、トイレでできる癖がついてから、ちょっとずつゲージから出す。
もよおしそうになったら、またゲージに入れる。
ちゃんとトイレをしたら、褒めてあげる。
すると犬も猫も、まったく強く叱らなくても、悪いことをしたら、やさしく「こらあ!」とにらむだけで、しゅんとなってくれる。ぜんぜん怒る必要さえなくなりました。
福沢諭吉も『学問のすゝめ』の中で次のように書いています。
「およそ世の中に無知文盲の民ほど哀れなものはない。知恵のない者は、恥さえも知らない。自分が馬鹿で貧窮に陥れば、自分の非を認めるのではなく、富める人を怨み、徒党を組んで乱暴をはたらく。
恥を知らざるとや言わん。
法を恐れずとや言わん。
(中略)
こういう愚民を支配するには、とてもじゃないが、道理をもって諭(さと)そうとしても無駄なことである。
馬鹿者に対しては、ただ威をもっておどすしかない。
西洋のことわざに、愚民の上に苛(から)き政府あり、とはこのことである。これは政府の問題ではない。愚民がみずから招くわざわいである」
要するに何を言いたいかというと、日本は、民度をたかく保持することで、苛斂誅求な政治を行わなくても、上下心をひとつにして、国の発展のために働く。がんばるという国柄を理想とし、それを見事なまでに実現してきた国なのだということです。
だからこそ、怒って相手の烏帽子をはたき落した程度であっても、それが殿中であれば、厳罰に処される。
一時的な処罰でなく、生涯赦されない。たとえどんなに才能があっても、たとえどんなに能力があっても、です。
実は藤原実方が、このトラブルを起こしたときに問題になった歌は、
「桜がり雨は降り来ぬ同じくば 濡るとも花のかげに宿らむ」という歌でした。
このうたも、風流な情緒を詠った素敵な歌ですが、百人一首の選者の藤原定家は、実方を代表する歌として、むしろこの51番の「燃ゆる思ひを」を選びました。
才能があり、愛する女性もいて、将来を嘱望される身であった藤原実方朝臣が、殿中の狼藉事件で、死ぬまで地方に飛ばされる。
そんな哀れと、そのことを通じて学ぶべきことを考えれば、問題となった歌よりも、むしろ「燃ゆる思ひを」の歌のほうが、情感の面で説得力が出るのではないか。
そんな思いから、この歌を選んだのだろうと思います。
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52番歌 藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)
明けぬれば暮るるものとは知りながら
なほ恨めしき朝ぼらけかな あけぬれは
くるるものとは
しりなから
なほうらめしき
あさほらけかな
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この歌は、古語ではありますけれど、比較的意味のとりやすい歌かと思います。
「朝ぼらけ」というのは、夜明け前であたりがほのかに明るくなってきた頃のことです。
現代語に訳すと、「夜は明ければ、また暮れる。そうと知りながら、なお夜明け前のあたりがほのかに明るくなってきた時間帯が、うらめしく思います」となります。
要するに、大好きな彼女と一夜を過ごして、朝になれば仕事に出仕しなければならない。
また暮れ(夕方)になれば、貴女に逢えるとはわかっているのですが、そう思ってもなお、夜明けが来るのがうらめしい(もっとずっと日中も貴女と一緒にいたいです)と詠っているわけです。
きわめて個人的な私情の歌ですが、詠み手の名前に「朝臣」と職名を付したのは、朝になれば、男は仕事に出仕しなければならない、という意味が、そこに込められているのであろうかと思います。
この歌を詠んだ藤原道信もまた、50番歌の藤原義孝同様、若干23歳で天然痘のためにこの世を去っています。
こうなると、面白いのが百人一首の順番で、50〜52番の歌は、それぞれ、次のような意味になっているわけです。
50番 藤原義孝「君のためなら命さえも惜しくないと思っていたけれど、こうして深い仲になってみると逆に長生きしてずっと君と一緒にいたいよ」
51番 藤原実方「お灸に使う伊吹山のもぐさみたいに、私の心が燃えていることを、君はまだ知らないだろ?」
52番 藤原道信「夕方になれば君にまた逢えるとわかっていても、朝ぼらけが恨めしいよ」
そして50番の義孝と、52番の道信は、ともに一夜を明かした女性への熱い思いを詠っていながら、若くして急逝した歌人です。
ところがその間に、なぜか藤原実方の、こちらは生涯をまっとうしたけれど、殿中で暴行事件を起こして地方に飛ばされた歌人の歌がはいっています。そして実方の歌は、一夜を明かした相手ではなく、これから仲良くなろうとする女性への愛の歌です。
百人一首の選者である藤原定家は、なぜ、50番と52番に、ほぼ同じような歌と、同じように若くして急逝した歌人の歌を置き、その間に、これから口説こうとする実方の歌を配置したのでしょうか。
その理由が、実は53番の右大将道綱母の歌にあります。
道綱の母の相手の男性は藤原兼家です。
藤原兼家がどんな人かというと、なんと摂政であり関白太政大臣です。
時の最高権力者です。
公人として、最高に忙しい人です。
いくら道綱の母が、逢いたいと思っても、毎日通って来れるような情況にありません。
しかも、当時の人は、家を維持するために、子をもうけなければなりません。
子づくりのためには、他の女性のもとにも通わざるを得ない。
仕事を持つ男性は、どんなに「朝がやってくるのが恨めしい(君とずっと一緒にいたいよ)」と思ったとしても、朝になれば、仕事に行かなくてはならないわけです。
道綱の母の歌は、その歌の出展ともなっている蜻蛉日記を見ると、女性の立場から、帰らぬ夫(兼家)に対して、「他の女性のもとに通っているのでは」と嫉妬に胸を焦がす様子が書かれていますが、では実際に兼家が、ほんとうに別な女性のもとに通っていたのかといえば、実は、そうとばかりもいえないのです。
なにせ関白太政大臣です。公人なのです。
この世のありとあらゆる出来事について、実情を把握し、決断をしなければならない地位にあります。自分の私的な時間を過ごせることのほうが、むしろ珍しいという情況にあるわけです。
しかも、子を産み、子孫を残さなければ、せっかくの摂関家となっていても、家は廃絶となってしまう。
ですから、どうしても子をつくらなければならい。兼家にしてみれば、それもまた仕事のうちなのです。
ただ愛を求める女性と、公人として仕事に責任を持たなければならない男性。
どちらも愛の炎に焼かれながら、かならずしも自由な時間を持てない男性と、ただひたすらに男性の愛を求める女性の愛しさ。
そういうことにも着目してもらおうと、実は藤原定家は、52番に藤原道信の歌を配しているわけです。
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53番歌 右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
いかに久しきものとかは知る なけきつつ
ひとりぬるよの
あくるまは
いかにひさしき
ものとかはしる
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この右大将道綱母というのは、藤原道綱の母といった方が馴染みがあるかもしれません。
衣通姫(そとおりひめ)、小野小町(おののこまち)と並んで、本朝三大美女のひとりに数えられる女性です。
10世紀の女性で、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の著者としても知られています。
「蜻蛉日記」は、平安女流文学のさきがけとなった日記文学で、もしかすると世界最古の女流文学書といえるかもしれないものです。
「蜻蛉日記」の成立が975年頃、清少納言の「枕草子」が996年頃、紫式部の「源氏物語」が1005年頃の成立です。
この歌にまつわるお話も、その蜻蛉日記に出てきます。
引用します。
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九月ばかりになりて出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりに開けて見れば、人のもとに遣らむとしける文あり。あさましさに見てけりとだに知られむと思ひて書きつく。
うたがはし。ほかに渡せるふみ見れば、ここやとだえにならむとすらむなど思ふほどに。
むべなう、十月つごもりがたに、三夜しきりて見えぬ時あり。
つれなうて「しばしこころみるほどに」など、気色あり。
これより、夕さりつかた、「内裏にのがるまじかりけり」とて出づるに、心得で人をつけて見すれば、「町の小路なるそこそこになむ、とまりたまひぬる」とて来たり。
さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二、三日ばかりありて、暁がたに門をたたく時あり。
さなめりと思ふに憂くて開けさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。
つとめてなほあらじと思ひて、
なげきつつひとり寝る夜のあくるまは
いかに久しきものとかは知る
と、例よりはひきつろひて書きて、移ろひたる菊にさしたり。
返りごと、
あくるまでもこころみむとしつれど、
とみなる召使の来あひたりつればなむ
いとことわりなりつるは
げにやげに冬の夜ならぬ真木の
戸もおそくあくるはわびしかりけり
さても、いとあやしかりつるほどにことなしびたる、しばしは忍びたるさまに、 内裏になど言ひつつぞあるべきを、いとどしう心づきなく思ふことぞ限りなきや。
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ねず流で現代文に訳してみます。
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九月になって、夫の藤原兼家が出て行ったときに、文箱があったので、ほんのてなぐさみに、その箱を開けてみました。するとそこには、他の女性のもとに贈る手紙がありました。
あさましいことなのですが、見てしまったので、そのことを書いておきたいと思います。
(なぜなら実を言うと)他の女性に渡す文があるということは、私のもとに通うことはもしかすると、もう途絶えてしまうということなのだろうかと、そんな疑念を抱いてしまったからです。
そういえば、十月の中頃にも、三夜続けてお帰りにならない日がありました。
そのときは彼はつれなく、「ちょっとしばらく(外泊を)試してみただけだよ」などと思わせぶりなことを言っていました。
せんだっては、夕方近くに「内裏に用事があるから」と言って出て行かれました。
それでちょっと不審に思って、家人に命じて後をつけさせたのです。
すると「(内裏ではなく)町の小路のどこそこに車をお停めになりました」と報告がありました。
「やっぱり」と、とっても哀しい気持ちになったのですが、さりとて、どう夫に話したら良いのかもわからないまま、二、三日経ったとき、あけがたに門をたたく音がしました。
夫が帰ってきたとわかったのですが、もの憂くて、門を開けさせないでいると、例の家とおぼしきところに、帰っていってしまいました。
翌朝、このままではいけないと思って、
なげきつつひとり寝る夜のあくるまは
いかに久しきものとかは知る
と、いつもよりもすこしあらたまって書いて、(夫の寝ている枕元に飾ってあった)すこし色の褪せてきた菊に、この歌を挿しておきました。
夫からお返事がありました。そこには、
「世が明けるまで、門が開くのを待っていようかと思ったのだけれど、急な使いが来たので仕事に戻りました。そのようにちゃんとことわらなかったのは(悪かったね)。
それにしても、寒い冬の夜明けに、門を開けてもらえないのは、わびしい(つらい)ものだね」と書かれていました。
それにしても、ここまで怪しいことをしておいて、しかも度々そんなこと(女のもとに通う)をしているのに、ちょっとは内裏に本当に行ったりして取り繕ったりもすれば、まだ可愛げがあるのに、そんなことすらもしようとしないなんて、ますます不愉快な思いが、限りなく続いてしまいますわ。
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とまあ、こんなお話であるわけです。
要するに、自分という妻がありながら、別な女のもとへ足しげく通っている夫に、やきもちを妬いているわけなのですが、そんなヤキモチの歌を詠んだ藤原道綱の母が、本邦三代美女のひとりに数えられているわけです。
そして、藤原定家は、百人一首を編纂するに際して、道綱の母のこの歌を選び、そして詠み人の名前も、「藤原兼家の妻」ではなく、「右大将道綱の母」と、職名を付して書いているわけです。
普通に考えれば、嫉妬に身を焦がした女性の様子などを「美しい女性」とは言いません。
けれど、藤原定家は、まさに道綱の母のそんな思いをもって、美女としているわけです。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
藤原道綱の母が、この歌を詠んだのは、実は彼女が20歳頃のことです。
要するに、若い女性であり、夫の浮気に悩む新妻でもあるわけです。
ここで当時の通い婚社会について、すこし触れておかなければなりません。
いまでは、結婚したら女性が男性の家に入りますけれど、この時代は通い婚の時代です。
男性が、女性の家に通うわけです。
通う相手の女性は、何人いても構いません。
もちろんエッチするには合意が必要で、そのために歌のやりとりをしたりするのですが、合意を取り付けて通う相手は、何人でも構わないわけです。
これは、昔の社会が家を単位とし、その家柄と家人たちの面倒見が、すべて家の保持にかかっていたことが背景となります。
子が途絶えて、家がなくなれば、家人たちも、生活の基盤を失うのです。
いまで言ったら、会社が倒産してしまうようなもので、そこで働く人々が、路頭に迷うことになるわけです。
ですから家を保持するためには、どうしても子供が必要です。
けれど、昔は子供はよく死んでしまいました。
子がオトナにまで育つというのは、たいへんに珍重されるべき出来事といってもよいくらいだったのです。
ですから、家を保持するためには、何人も子供をつくって、ちょっと言い方は悪いですが保険をかけておかなければならない。
後世には、それが妾腹制度になり、正妻の他におめかけさんを何人も雇うようになったりするのですが、通い婚の時代には、男性が何人もの女性のもとに通うことで、子を得ようとするのが、社会制度であったわけです。
このことは、逆に子のできない女性であったりすると、たいへんな不幸となります。
男性と愛し合っても、人間、誰しも歳を取るわけです。
そうなれば、誰でも容姿も衰える。おばさんになり、お婆さんになるわけです。
たとえそうなっても、子が産まれていれば、その子は、夫との愛の結晶ですから、夫に扶養してもらいながら、子を立派に育てることで、女性は生涯飯を食って行くことができます。
ところが、子がいないとたいへんです。
若いうちは通い婚社会では、女性は実家にいるわけですから、親に扶養してもらえますが、その親が高齢を迎え、他界してしまったら、養育してくれる男性が、もちろんいくつになっても愛し合っている夫婦であれば、良いのですが、もしその旦那が、別な女性とできてしまって、そっちに通うようになると、自分は放置されてしまう。つまり食べられなくなってしまう危険があるわけです。
ですから子を産み育てることは、女性にとっては、まさに「生きて行く」ことであったし、社会全体としても、子を育てるということを、とても大事にしていたわけです。
そういう社会環境下にあって、藤原道綱の母がこの歌を詠んだのは、20歳頃というわけです。まだ子が産まれていない。
当時は、16歳くらいから結婚適齢期にはいりますから、20歳となれば、もうかなりの歳です。
そんな状況にあって、夫である実方は、別な女性のもとへ通ってしまう。
ものすごく不安があるわけです。
そしてその不安が、なおいっそう彼女の心を追いつめる。
だから「いとどしう心づきなく思ふことぞ限りなきや(とっても辛い思いが果てしなく続くのです)」なのです。
けれど、そんな深い苦しみや辛さを背負った彼女は、見事、藤原兼家の子を懐妊します。
そして産まれたのが、藤原道綱です。
ちなみに夫の藤原兼家は、貴族としては最高位の従一位、関白太政大臣です。
いまの内閣総理大臣よりも偉く、いわば内閣、国会、裁判所、軍隊といった三権、四権の長です。最高権力者といって良いほどの高官です。
その人の妻というくらいですから、藤原道綱母も、たいそう美しく教養あふれた女性であったろうとは思うのですが、藤原定家が百人一首にこの歌を採用したのは、身分や夫の肩書きで、彼女を美しいと言ったわけではありません。
彼女は、それだけの高官の妻でありながら、結局は、彼の寵愛を得ることができずに、さびしい生涯を送るのです。
けれど彼女の偉いのは、夫、藤原兼家との間にできた我が子、道綱を溺愛して我がままな子にそだてるのではなく、父親に負けない立派な青年に育て上げるのです。
成人した道綱は、最初の位は従五位下です。
前にも書きましたが、これは貴族としては最低の位です。殿中には入れるけれど、昇殿は赦されない。そういう身分です。
親の七光りで、いきなり高官として登用されることも多かった時代に、最低の、昇殿さえ赦されない身分から出発したわけです。
しかも、他の異母兄弟と比べると、異常に出世が遅い。
ようやく付いた役職も、左近衛少将などの武官です。
いつの時代にあっても、武官というのは、兵とともにあります。
弱ければ兵たちにさえも侮られる。
道綱は、蜻蛉日記にも、おっとりとして、おとなしすぎる性格だと書いてあります。
けれどそんな道綱が、猛特訓して弓の名手と呼ばれるようにもなっているのです。
そして、武官は、外で働く人です。そこにはたいへんな苦労がつきまとう。
出世も遅れ、外回りの役職で苦労しながらも、それでも道綱はそんな境遇を恨むでもなく、毎日をまじめに、誠実に生きて行くわけです。
そして、寛和の変では父を扶け、いっきに従三位に昇進すると、その後はメキメキと頭角を現し、ついには父に負けない大納言の位にまで出世していくのです。
母は、関白太政大臣とはいえ、夫の兼家の浮気に苦労しました。
けれどその母は、哀しい気持ちはあっても、夫を恨むこともなく(ちょっとは恨んだかもしれませんが)、子を立派に育て、その子も、父から疎遠にされ、出世を他の異母兄弟よりも遅らされても、それを恨むことなく誠実に職務を務めあげ、そして晩年には大納言の位にまで上り詰め、多くの人の尊敬を得る人に育っていったのです。
そして、そういう子を育てたのは、まさに「なげきつつ ひとり寝る夜は」と、この歌を詠んだ、道綱の母、その人であったわけです。
もし、道綱の母が、夫の浮気に半狂乱になり、般若相となってひねくれた女性になってしまったのならば、道綱が、我慢し、耐えることを知る若者には育たなかったことでしょう。
子は、親の背中を見て育ちます。
そして道綱は、母の背中を見て育ったのです。
夫の浮気が良いと言っているのではありません。
そうではなくて、生きるということは、辛い日々の連続です。
けれど、耐えきれないくらいの悔しさや哀しさを背負いながら、それでも、立派に子を守り育てる。
そこに、日本を代表する美女の姿があるということを、この歌は、歌人の名前として「右大将の母」と記載していることで、明確に後世に示しているといえるのです。

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コメント
そま
昔話です 仕事の打ち上げで或る若者が歌った歌に感動したことがあります 後 尾崎豊の歌だと知りました 調べると若くして非常に奇妙な死に方をしています 「卒業」という歌でこの若さでの感情 認識としてすこぶる優れています 屈折した心情をよくぞここまで歌い上げたと絶賛したい
二十歳ですか 今とはちがいますけどこの日記の正直な書き様はとても愛らしいですね 姿が目に浮かぶようです
ただ無念にも本文だけだと読み解けない自分がいる
乱文失礼
2014/06/27 URL 編集
mari
今日の歌はどれも切なく、涙無しには読めません。叶わない願い、届かない思い、惜しまれながら夭逝。私の身近にも新婚で伴侶を失った家族がいるので、義孝の歌「ながくもがな」は特に悲しく響きます。
蜻蛉日記の作者は兼家さんの妻が他にもいたから「道綱の母」と呼ぶしかないとばかり思っていましたが、「母」が鍵なんですね。よく見ると次の54番も「母」なんですね。ねずさん流に習って百人一首の並びを眺めるといろんな謎が解けて楽しいです。
次回も楽しみにしています!
2014/06/27 URL 編集
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2014/06/26 編集
しまむら
文学は「書いてあることだけ」を取り上げながら、歴史学は「書いてあることを無視」したり、「書いてないことを“あった”」としたり……。戦後教育はむちゃくちゃです。
2014/06/26 URL 編集
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2014/06/26 編集