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54番歌 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
忘れじのゆく末まではかたければ
今日を限りの命ともがな わすれしの
ゆくすゑまては
かたけれは
けふをかきりの
いのちともかな
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儀同三司(ぎどうさんし)と、いきなり風変わりな名称が出てきましたが、これは藤原伊周(ふじわらのこれちか)の自称(雅号=がごう)です。
もともと儀同三司というのは、Chinaの後漢の時代に創設された役職で、皇帝の外戚や高級官僚やなどに三公(太尉、司徒、司空)に準じた同じ待遇を与えることで、これを「儀、三司に同じくす」としたことに由来します。
この儀同三司を名乗った藤原伊周は、あの「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と権勢を詠んだ、藤原道長の甥なのですが、その道長の全盛期に道長と激しく対立した人でもありました。
もともと藤原伊周は、ものすごく優秀な人で、12歳で元服して従五位に任官して昇殿を許されたと思ったら、あれよあれよという間に出世して、21歳でなんと内大臣に昇進してしまっています。
この出世には、関白内大臣であった父の藤原道隆(みちたか)の引きがあったからだと、ものの本には書かれますが、藤原伊周には、他にも兄弟はいましたし、いくら父親の権力が大きくても、肝心の倅がボンクラでは、誰もそうした出世は認めません。
伊周は、全盛期にあった叔父の道長と激しく対立したと書きましたが、この頃の多くの官僚は、昼は権力者である道長に従い、夜になると伊周のもとに集まって、次代を期待したと伝えられています。
つまり、権勢を振るう道長に、若くして唯一対抗できるだけの実力と才覚を持つ人物と、伊周の周囲の人々は見ていた、ということです。
その伊周は、亡くなるときに息子の道雅(みちまさ)に、「出世せよ。人に追従して生きるな」と遺言しています。
このことはつまり、伊周自身が、人に追従して生きるのではなく、どこまでも勤勉努力した人であったことを示します。
才能があり、勤勉で努力家で、誰もが認める優秀な人物であったからこそ、伊周は、中世の日本にあって、考えられないほどのスピードで出世したわけです。
ところが、こうしたあまりにも早い出世は、ときに周囲の嫉妬や反感を招きます。また、出世した本人にも強烈なプライドを与える一方で、常に不安と他者に対する攻撃性をもたらすことがあります。
藤原伊周は、時の権力者である叔父の藤原道長とおおいに対立しました。
その有様は、宮中で怒鳴り合いの喧嘩までするという激しいものであったようです。
若くして出世した努力の人伊周と、この世をわが世とした権力者の道長の対決です。
理は、おそらく伊周にあったものと思います。
けれど、結果は、伊周は道長の恨みを買い、宮中を追われて九州の太宰府に飛ばされてしまうのです。
このことは、伊周の妹である中宮定子(ちゅうぐうていし、枕草子に出てきます)にも、大きな影響をもたらします。
中宮定子は、一条天皇の子を身籠るのですが、出産のときに、亡くなってしまうのです。
お産のときには、大赦で赦されて帰洛していた伊周ですが、妹の中宮定子が第二皇女を出産したあとに、お亡くなりになってしまうのです。
このとき藤原伊周は、座産の姿のままで亡くなった妹の亡骸を抱き、声をあげて泣いたと伝えられてます。
この定子の葬儀のとき、大雪の中を歩きながら伊周が詠んだ歌が、
誰もみな消えのこるべき身ならねど
ゆき隠れぬる君ぞ悲しきです。とても泣かせます。
こうした苦労を経て、藤原伊周は、ふたたび宮中に復活します。
ところが当時の宮中には、すでに三公(左大臣・右大臣・内大臣)として、それぞれ藤原道長、藤原顕光、藤原公季が就任しています。つまり伊周が返り咲くポストがないのです。
そこで伊周のために、新たに創設されたのが、「准大臣(じゅんだいじん)」で、これは大臣に準(准)ずる位という意味です。
このことを藤原伊周は、Chinaの後漢の故事にたとえて、「儀同三司」と自称したわけです。
こうして宮中に返り咲いた藤原伊周ですが、その後も政争の中にあって気苦労が絶えず、わずか37歳という若さで病没してしまいました。
「出世せよ」と遺言された息子の道雅(みちまさ)は、そんな親父の姿を間近で見て、何を思ったのでしょう。彼は相次いで暴力事件を起こし、荒三位(あれさんみ)と世間に称せられ、最後は出家して薨じています。
努力して出世しながら夭逝した父を見て育った道雅には、世の中に抵抗することが唯一の誇りとなってしまっていたのかもしれません。哀しいことです。
さて、前置きが長くなりましたが、こうした藤原伊周を産んだ母が、この54番歌の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)です。
百人一首では、この母の歌として「忘れじのゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな」を採用しています。
この歌も意味のとりやすい歌で、現代語に訳しますと、
「お前のことは忘れないとおっしゃられるそのお言葉は、遠い未来にはどうなってしまうかわかりません。そうであるならば、今日を限りの命であってほしいと思います」といった意味になります。
この歌は『新古今集』に収録された歌ですが、その歌詞には、「中関白通ひそめ侍りけるころ」とあります。
中関白というのは、藤原道隆のことで、この歌を詠んだのは式部大輔である高階成忠(たかしなのなりただ)の娘の貴子(きし)です。
藤原道隆は、後に中関白にまで出世した大物ですが、この歌が詠まれた頃の藤原道隆はまだ昇殿が許されたばかりの10代の若者です。
その若い道隆が、はじめての恋の相手であり、妻として選んだのが、貴子でした。
二人が関係を持つことに貴子の父親の藤原成忠(ふじわらのなりただ)は、はじめ、シブイ顔をしていたのだそうです。
ところがある日のこと、娘の相手の道隆の後ろ姿を見て、「奴は必ず大臣に出世する男だ」と見込んで、娘の道隆との交際を許可しています。
その道隆は、二人きりのとき貴子に、
「今夜のことは私は生涯忘れないよ」とでも言ったのでしょう。
「けれど、道隆様は出世されるお方。私のことなどきっとお忘れになってしまわれるにちがいありませぬ。それならいっそのこと、今日を限りの命であったらよいのに・・・」
なんだか燃えるような貴子の胸の高鳴りに、こちらまで感電してしまいそうです。
というよりも、この歌からかもしだされる雰囲気は、限りなく一途で、限りなく透明な愛ということができようかと思います。
貴子は、和歌に長けていて、漢文にも通じ、その豊かな才能を愛でられて、殿中の詩宴にも招かれるほどであったといいます。
そんな才能のある貴子が一途で透明な恋をし、その愛の結晶として産まれた伊周(これちか)は、若くしてその才能を認められてまたたくまに宮中で出世するのですが、やはり母の血をひく一途ゆえに政治の泥沼に引きずり込まれ、左遷されたり、返り咲いても准大臣(儀同三司)となり、長女の定子は、お産と引き換えに、座ったままの姿で命を失うという悲しいできごとに至るわけです。
「忘れじのゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな」と歌った、若き日の母・貴子の透明感のあるこの歌の可憐な美しさと、その後の息子や娘たちの悲しい生を、小倉百人一首の選者の藤原定家は、歌人の名前として、高階貴子ではなく、「儀同三司母」とすることによって、見事に描き出しているのです。
53番歌は、藤原道綱の母の歌でした。
嫉妬に身を焦がしながらも、息子の道綱を立派に育て、日本の三代美女と讃えられた女性です。
続くこの54番歌は、美しい心と才能を持ち、「忘れじの・・・」と名歌を遺し、立派に子供達を育てあげ、息子は若くして内大臣、娘は天皇の子を産むという誉れを得ながら、あまりに立派であったがゆえに、辛い哀しみを背負うことになってしまった母の歌でした。
53番歌と54番歌は、実に見事な対比であると思います。
そしてこの対比を、さらに印象づけるのが、次の歌になります。
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55番歌 大納言公任(だいなごんきんとう)
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ たきのおとは
たえてひさしく
なりぬれと
なこそなかれて
なほきこえけれ
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現代語に意訳すると、「いまはもう枯れてしまった滝だけれど、そのいまはもう聞こえなくなってしまった滝の音色の素晴らしさは、いまも世間に流れて聞こえているのだなあ」といった意味になります。
この歌は『拾遺和歌集』に収められていて、細かなことを言うと、拾遺集では「滝の糸」となっています。
歌詞には、「大覚寺に人びとあまたまかりたりけるに、古き滝をよみはべりける」とあります。
大覚寺は、京都市右京区嵯峨にあるお寺で、ここはもともとは嵯峨天皇が新婚のときに建てられた離宮であったところで、後年、そこに恒寂入道親王が入られて開山し、大覚寺となりました。明治初頭まで、天皇もしくは皇統の方が住職を務めたという御皇室ゆかりのお寺でもあります。
このお寺に、人々が集まったときに、大納言であった藤原公任(ふじわらのきんとう)が、いまはもう枯れて水のなくなった小さな滝を見て詠んだ歌がこの歌で、この歌が有名になったことから、その滝のあった場所は「名古曽瀧址(なこそたきあと)」とされて、石碑と小さな石組みが今も遺されています。
名古曽瀧址

この歌を詠んだ藤原公任は、和歌、漢詩、管弦にすぐれ「三船の才(みふねのさい)」と呼ばれました。
この藤原公任で忘れてならないのが、裁判の判決文です。
現代日本の刑事裁判の判決文には、被告人に科せられた懲役年数が記載されていますが、これを我が国で最初に、そうするように命じたのが、この藤原公任で、これが長徳2年(996)のことです。
以来、千年以上にわたって、判事の名称が、検非違使、奉行、裁判官と変わっても、いまなお我が国では裁判の判決文に、罪状、刑期がキチンと掲載されています。
ちなみにこの歌について、和漢管楽に通じた藤原公任が、いまは失われてしまった滝の音が、名声としていまも残っているように、自分の歌も、後世に残ったら良いのにという心情を詠ったものだ、と解釈している本を、よく見かけます。
解釈ですから、決して間違いではないけれど、そんななにやら自分の私欲を詠んだ歌というのなら、千年の長きにわたって人々に伝えられる歌にはなりえないと思います。
そうではなくて、ただ純粋に、いにしえ人の思いや心が、いまなお人々の記憶に残り、その記憶がいにしえの人たちと、いまを生きるわたしたちを心でつなげてくれる。
そういうことへの感動と共感があるからこそ、「名こそ流れて なほ聞こえけれ」というこの歌が光ってくるのだと思います。
もっというならこの歌が素晴らしい歌でありながら、どうしても「俺の名声を遺したいなあ」という、やや品のない誤釈を招きやすいからこそ、藤原定家は小倉百人一首を編纂する際に、あえて、53番、54番と母の歌を二つ重ねた上で、この歌を掲載したのだと思います。
子を立派に育てた母(53番、藤原道綱母)、立派な子を育てたけれど、あまりに立派ゆえに不幸を招いてしまった母(54番、藤原伊周の母)、そうした人の生というものを二つ重ねた上で、「名こそ流れてなほ聞こえけれ」という、この藤原公任の歌を掲載しています。
人の世は、苦しみも哀しみも、くり返されます。
いくら一生懸命生きていていも、いくら才能や家系に恵まれたとしても、必ずしも幸せな生涯を遂げることができるとは限らない。
けれど、それでも、一生懸命生きる。
そこに名声があるし、たとえ肉体は滅んでも(名こそ流れても)、その生涯は人々に何かを遺すことになる(なほ聞こえけれ)。
そういうことを、藤原定家は、この歌に託しているのだと思います。
逆にいえば、この歌は、53番、54番の歌を読むときに、ただ歌に書かれている「独り寝の夜が長い(53番)」とか、「今日を限りの命にしたいわ(54番)」といった、表面的な文字だだけの解釈に終わるのではなくて、その歌と、その歌人、あるいはその歌人をとりまく人々を含めたその歌人の生涯を眺めながら、歌を味わってほしい、つまり、歌そのものだけではなくて、その歌を詠んだ歌人というドラマを、歌とともに味わってもらいたいという意味を、この55番歌の「名こそ流れてなほ聞こえけれ」に込めたのだということができます。そのためにこそ藤原定家は、ここにこの歌を配置したのです。
そのことは、次の56番歌でさらに明確になります。
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56番歌 和泉式部(いずみしきぶ)
あらざらむこの世のほかの
思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな あらさらむ
このよのほかの
おもひてに
いまひとたひの
あふこともかな
==========
この歌を詠んだ和泉式部は、平安日記文学の代表『和泉式部日記』で有名な女性です。
和漢に通じ、平安時代を代表する女流文学者である和泉式部が、晩年、自らの死を前にして詠んだのが、この歌です。
歌の意味は、「私はもう長くはいきていない(在らざらん)ことでしょう。けれどこの世の最後の思い出に、今一度、あなたに逢いたい。その胸に抱かれたい」というものです。
この時代の「逢ふ」は、男女が関係するという意味があるので、「逢えたらなあ」は、「抱かれたいなあ」というストレートな感情表現になるわけです。
それだけなら、「ああ、そういう思いもあるんだなあ」という程度の話にしかならないかもしれません。
ところがこの歌を詠んだとき、和泉式部は出家して女僧となっているのです。
当時の概念で、出家するということは、現世における死を意味します。
現世を捨て、僧侶として生まれ変わるわけです。
この歌を詠んだときの和泉式部は、すでに47〜8歳、当時の平均寿命からすれば、すでに晩境に至っています。
しかも現世の欲を捨て、僧籍に入っているわけです。
ところが彼女は、そこで病に倒れてしまう。
そして、自らの死を悟ったとき、この歌を詠んでいるわけです。
後拾遺集の詞書には、「心地(ここち)例ならずはべりけるころ、人のもとにつかはしける」と書かれています。
病に侵され、のこされた時間も少ないと知ったとき、和泉式部が、自らの心残りを歌に託して、親しい人にこの歌を贈っているわけです。
誰に贈ったのかはわかりません。
けれど、おそらくは、誰にも言えない本音を語れる親しい同性の友達に書いた歌であったのだろうと思います。
いったい、和泉式部の生涯に何があったのでしょうか。
少女時代の和泉式部は、歌も漢詩もよくでき、字も美しく、将来を嘱望される「とてもよくできた女の子」でした。
かわいらしくて、愛嬌があって、しかも勉強がよくできて、字もきれいで頭の良い彼女は、いつの日か、王子様があらわれて、きっと自分を愛してくださるに違いないという、少女らしい夢を抱く少女であったかもしれません。
少女時代、少女フレンドや、マーガレットを読んで、そんな憧れを抱いたご記憶をお持ちの方も多いのではなかろうかと思います。
なかでも和泉式部は、日記文学の『和泉式部日記』を書いたことでも明らかなように、きわめて文学的才能が豊かで、情感の強い、そういう意味ではとても感受性の強い女の子であったことでしょう。
けれど現実は、いがいとしょぼいものです。
二十歳になった彼女は、平凡な普通の男性と結婚し、一女をもうけます。
この娘さんは、小式部内侍(こしきぶのないし)といって、母親の血をひいたのでしょう。とても優秀な娘さんです。
仕事もでき、頭もよく、普通に家庭に暮らしていれば、彼女の人生は、普通に平凡な幸せの生涯となったかもしれません。
ところが、夫とともに任地の丹後に転勤し、ようやく再び都に舞い戻ってきた時、彼女の前に、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(ためたかしんのう)があらわれるのです。
こういうのを「ソウル・メイト」と言うのでしょうか。「ひと目あったその日から」、まさに二人は熱愛に陥ってしまうのです。
けれどそのとき和泉式部には夫がいるわけです。子もいる。
しかもお相手の男性は、冷泉天皇の皇子です。
和泉式部の父親の越前守大江雅致(おおえまさむね)にしてみれば、まさに「娘がたいへんなことをしてくれた!」となります。
父は、和泉式部に再々、為尊親王(ためたかしんのう)と別れるように説得しますが、愛一色に染まってしまった和泉式部には、それができない。
思いあまった父は、娘の和泉式部を勘当してしまいます。
この時代、親子の縁を切られるということは、親から死んでしまえと言われるのと同じくらい重たい現実です。
それでも、和泉式部は、まさに全身全霊を込めて為尊親王を愛したし、為尊親王もそんな和泉式部に夢中になります。
してはいけない恋、禁断の恋、不倫の恋は、ときに麻薬のように人を狂わせ、夢中にさせます。
逢ってはいけないと思えば思うほど、周囲の反対があればあるほど、互いをむさぼってしまう。
そういうことは、世の中にあるようです。
和泉式部は離婚しました。そして為尊親王殿下を愛しました。二人の恋は永遠に続くと二人は互いに信じていました。ところが、その為尊親王は、弱冠26歳で夭折してしまうのです。
心の底から愛し、周囲の反対を押し切ってまで夢中になった彼が、死んでしまう。
和泉式部にとって、これほど悲しく、つらいことはありません。何もかも失った。人生のすべてを失った。もう生きていても仕方がない。そんな思い詰めた気持ちであったことでしょう。
そんな悲嘆に暮れる和泉式部の前に、為尊親王殿下の弟で、帥宮(そちのみや)と呼ばれた敦道親王(あつみちしんのう)があらわれます。
彼はやさしい男性でした。彼は親身になって和泉式部を力づけ、元気づけ、彼女が再び生きる気力を取り戻してくれるように、彼女を励まし続けてくれました。哀しみに暮れる和泉式部をなぐさめ、そばに寄り添ってくれたのです。
若い男と女です。そんな敦道親王と和泉式部は、いつしか男女の仲になる。
二人の間には、男の子が誕生します。この子は後に法師となって永覚と名乗りました。このお話は、また別のお話しになります。
やさしい敦道親王との出会いは、彼女に再び生きる気力を与えます。
そして彼女は、心から愛した為尊親王への思慕を自分の中で打消し、敦道親王との愛を自分の中でも確実なものに育もうと、敦道親王との出会いから、日々のやりとりを日記に綴りました。
それが『和泉式部日記』です。
和泉式部は、敦道親王の愛に答えようとしたのです。そのために『和泉式部日記』を書いた。
心の中には為尊親王への強い思いがあります。だからこそその思いを自分の中で封じ、敦道親王の愛に答えようとしたのです。
ところがその敦道親王も、27歳の若さで亡くなってしまいます。
もう、和泉式部はどうしたらよいのでしょう。
何もかも神は和泉式部から奪い去ってしまわれた。
そんな和泉式部ですけれど、その和漢の才能を惜しまれた一条天皇の中宮藤原彰子さまは、和泉式部を自分の手元に置いて、出仕させてくれます。
周囲には、紫式部などもいます。
その紫式部は、和泉式部のことを「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど和泉はけしからぬ方こそあれ」と書いています。
歌の才能は認めるけれど、人品行状が怪しからん女性だというのです。
せっかく中宮彰子さまのご好意で出仕させていただいた和泉式部ですが、女性達ばかりのなかにあって、周囲の和泉式部に対する視線は、きっと冷たく刺すようなものがあったことでしょう。
そんな和泉式部のもとに、今度は50歳過ぎで武勇で名の知られた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)があらわれます。
この藤原保昌という人は、どちらかというと男性にはモテるけれど、女性にはトンと縁がない。そんな無骨者です。けれど、男らしいやさしさがあります。
狭い世間です。和泉式部の過去のことは、当時の貴族社会なら誰しもが知っている。当然藤原保昌も、事情は理解しています。理解してなお、和泉式部を彼は妻に迎えました。
男らしい、やさしい夫だったのだろうと思います。
50を過ぎ、人間としても完成された大人であったのかもしれません。
彼は、妻となった和泉式部の心の中に、いまだに亡くなった為尊親王や敦道親王がいることを知っていたし、いくら自分が和泉式部を愛しても、彼女の心には、二人の親王殿下がずっと棲んでいることを知っています。
それでも彼は、和泉式部をやさしく愛しました。
和泉式部の娘や息子も、同様に我が子のように愛しました。
「そういう夫のやさしさに、なんとかして答えたい。」それは誰しもが思うことです。和泉式部もきっとそうであったことでしょう。
一番好きだった人には死なれてしまったし、次に現れたプリンスも、結局亡くなってしまった。
けれど、いまの夫の藤原保昌は、そんな自分を、そして大切な我が子を愛してくれている。
人として、そういう夫の気持ちにしっかりと応えて行きたい。
和泉式部も、そのように思ったことでしょう。
彼女は、一生懸命、夫を愛そうと努力したものと思います。夫のやさしさに、愛に答えようとしたことでしょう。
けれど、そうすればするほど、為尊親王や敦道親王の面影が、ふとしたはずみに浮かんでは消える。
そんな彼女を、夫はやさしく包み込んでくれるのだけれど、だからこそ余計に彼女は自分が赦せなかったのかもしれません。
結局彼女は、約10年藤原保昌と連れ添い、息子が元服したのを機会に、そのやさしい夫である藤原保昌から逃げるようにして、仏門に入りました。
彼女はそのとき、すでに47〜8歳となっていたようです。(正確な年齢はわからない)
仏門に入る(出家する)ということは、浮き世(現世)のすべてを断ち切って、僧籍に入るということを意味します。つまり、現世の人としては死んで、新たに女僧として五欲を絶った生活をするのです。
そんな彼女に、寺の性空上人は、袈裟衣をプレゼントしました。
上人は、彼女が髪を切り、墨染めの衣を着ることで、「すべてを捨てて御仏にすがりなさい」というメッセージを、彼女に与えたのです。
彼女も、その衣を着ることで、現世の欲望を絶ち、仏僧として余生を過ごそうと思ったことでしょう。
けれど、彼女はほどなく不治の病に倒れてしまうのです。
そして、余命いくばくもないと悟ったとき、彼女は「もう一度、あの人に逢いたい、抱かれたい」と、歌を詠み、その歌を人に託しました。
それがこの56番歌の、
「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」です。
人生の最後に彼女が心から「逢いたい」と思った男性は、誰だったのでしょうか。
最初の夫でしょうか。
子を持つ妻の身でありながら、道ならぬ恋に落ちた為尊親王でしょうか。
それとも、亡くなった為尊親王ために傷心に沈む彼女をやさしく励ましてくれた敦道親王であったでしょうか。
それとも、最後の夫であり、そういう自分を温かく包み込んでくれた藤原保昌であったでしょうか。
彼女は亡くなりました。
和泉式部はたくさんの歌を遺しています。
彼女の歌で、特に秀逸とされるのは、哀傷歌といって、親王殿下がお亡くなりになったときに、その悲嘆の気持ちを詠んだ歌の数々です。
けれど小倉百人一首の選者である藤原定家は、和泉式部を代表する歌として、彼女の晩年、最後の作品のこの歌を選びました。
歌に使われる文字は、たったの31文字です。
そして、その歌にある意味は、たんに「もう一度お逢いしたい」というものです。
けれど、たった31文字のその短い言葉の後ろに、ひとりの女性の生きた時代と、その人生の広大なドラマがあります。人の生きた証があります。
55番の藤原公任の歌の「名こそ流れてなほ聞えけれ」と、歌の背後にあるドラマ性を暗示した藤原定家は、そのすぐ後に和泉式部のこの歌を持ってくることで、歌は、ただ31文字の字面だけでなく、その歌の背後にある人生のさまざまなドラマまでをも、その短い言葉の中に封じ込めることができることを、見事に証明してくれています。
いやあ、百人一首って、ほんとうに素晴らしいですね。
さて、続く57番歌は、紫式部です。
そこにはどのようなドラマが描かれているのでしょうか。
また次回をお楽しみに。

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コメント
みやび
私は、古典がどうも苦手で
和泉式部日記とか、百人一首とか、敬遠していました。
だけど、ねずさん流百人一首解説は目から鱗の落ちることの連続で、とっても楽しいですから、古典文学にも興味が持てそうです。
ありがとうございます!
2014/07/05 URL 編集
愛信
https://twitter.com/nisi_sin/status/485027718971408384/photo/1
【関連情報】
東京都知事選挙の有権者数が不一致
( http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi#2月12日_21時17分21秒 )
http://www.aixin.jp/axbbs/image/tcj-1.gif
http://www.aixin.jp/axbbs/image/tcj-2.gif
このグラフは東京都選挙管理委員会が都知事選挙の開票作業のふりをし
て、実際は得票数の集計を行わないで捏造した得票数と当選者を発表した
事の証拠となる。 選挙の投票券は次回の選挙まで保管することが法律で
義務付けられているので、多くの東京都民の発意により投票券の再集計を
行い選挙管理委員会の犯罪行為を立証することが可能である。
投票した者の数と投票を棄権した者の数が有権者の数に一致しない事だ
けでも集計作業に不正がある事が確実である。
このニュースでは集計も行っていないで、あらかじめ決めてあった偽装
の得票数を発表したわけである。
結論は当選者は都知事を辞任するべきである。
詳細は
【新党勝手連の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/ktr/ktr.cgi
【新党勝手連タイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。
2014/07/04 URL 編集
mari
ねずさんの解説でますます好きになりました。
いやあ、百人一首って、ほんとうに素晴らしいですね。
日本の歴史や文化がいっぱい詰まってますから
「日本を取り戻す」中でもっともっと
広げて行きたいです(´▽`)
しばらく女性歌人が続きますね。
次回の紫式部も楽しみにしています!
2014/07/04 URL 編集
-
日米合同の軍事演習こそ、確りやるべきでしょ。
2014/07/04 URL 編集
愛信
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=291984&g=131208
選挙の不正を防止する為に投票数の確認する検査を実施する必要が有り
ます。 今までに創価学会公明党がしてきたあらゆる不正操作を防止する
方式を考案して得票数を確実に集計できる方法が必要です。
有権者の合意の下にプライバシーが侵害される事も厭わずに公職選挙選
挙を変更する事は有権者の総意を正しく反映させるために優先される事です。
詳細は
【新党勝手連の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/ktr/ktr.cgi
【新党勝手連タイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。
2014/07/04 URL 編集
志士
2014/07/04 URL 編集
にっぽんじん
中国に抑留され、洗脳された日本兵たちを中帰連と言うようです。彼らは、「自分達が犯した罪」を証言として提出しています。事実ではありません。犯していない罪を「犯した」と言わなければ許してもらえませんでした。
毎日「反省犯罪証言」を書かされ、洗脳されて行きました。戦争犯罪はB,C級戦犯として戦後の戦犯裁判で処罰されました。無実の戦犯で処刑された人もいます。
中国で戦争犯罪を犯した日本兵が「生きて帰れる」ことが不思議です。
南京事件の証拠として「宣教師の記録フィルム」も出すと言っています。東京裁判でも「証拠としてマギー牧師の映写フィルムがある」と言いました、が、フィルムの提出はありませんでした。東京裁判でなかったフィルムが70年後の現在なぜ出てくるのでしょうか。
戦後半世紀が過ぎて多くの証拠写真が出ていますが、東京裁判では証言以外の客観的証拠はありませんでした。1937年に出版されたアメリカジャーナリスト、フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズの著書「Behind the news in china」の中で、中国国民党は「日本軍の蛮行を宣伝するための写真を偽造している」と書いています。
シャンハイ駅前の「泣き叫ぶ子供」の写真もその一つとして紹介しています。中国の証拠は全て捏造です。「捏造でない証拠」があるのでしょうか。
2014/07/04 URL 編集
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2014/07/04 URL 編集
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2014/07/04 編集
ひろし
今日は所用で大阪谷町に行きますので、多くの和歌を残された藤原家の公達を想って、藤原家の氏寺、藤次寺に感謝の参拝に伺うつもりです。
2014/07/04 URL 編集
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2014/07/04 URL 編集