だいたい一番の天智天皇からして、我が国最高位の天皇の地位におわしながら、民百姓と一緒に率先して田んぼの泥水に浸かって田植えはするし、虫に刺されながら稲刈りをするし、朝早くから夜遅くまで、庵にはいって藁(わら)を編んでいます。
2番の持統天皇は真夏の強い日差しのもとで汗びっしょりになって首からタオルをぶらさげて、青空のもとで汗を拭き拭き洗濯をし、その洗濯物を干しています。
59番の赤染衛門に至っては、女性でありながら、約束を破って来ない彼氏に対して、「あんた、いいかげんにしなさいよ。来ないならグレてやるから!」てなものです。実に活き活きとしています。
前々回のこのシリーズで、百人一首には「いま自分が感じているこの気持ちが、実は何百年前の、あるいは千年前の誰それが感じた気持ちと同じものだという共感があり、そのことは歴史といまを生きる私たちとを一体化させる」と書かせていただきました。
千年前も千年後も、とりまく環境は変わっているかもしれないけれど、日本人の心はまるで変わっていないのです。だからそこに共感があるし感動があるのです。
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60番歌 小式部内侍(こしきぶのないし)中傷を跳ね返す
大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天の橋立 おほえやま
いくののみちの
とほけれは
またふみもみす
あまのはしたて
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(現代語訳)
大江山まで行く道のりのは、いくつもの野を越える遠いところです。
ですからまだ私は、そこへ行く道を踏んだこともありませんし、天の橋立てに行った母からの手紙も、まだ見ていないのです。
(ことば)
大江山・・・京都の西北にある山
いく野の道・・・京都から宮津の天の橋立てに向かう道の途中にある生野と、そこへ行く道を掛けた言葉。
まだふみも見ず・・まだその地を踏んでいない(行ったことがない)という意味と、文(手紙)を見ていないという意味の掛詞。
天の橋立・・・京都府の日本海側にある名所で、日本三景のひとつ。
(解説)
小式部内侍は、和泉式部の娘です。
父は、和泉式部の名前の由来となった和泉守・橘道貞で、つまり和泉式部の最初の夫との間にできた娘です。
この小式部内侍について、「産まれてから祖父母のもとにずっと預けられて育った」などと書いているものをよく見かけますが、これまたとんでもない誤解を招きやすい表現です。
そもそも当時は通い婚社会です。夫が妻のもとに通ってくる。
その妻は、いまどきのような一人暮らしではありません。育った実家で生活しているわけです。
つまり母の和泉式部は、親(小式部内侍からみたら祖父母)と同居しているわけで、その親も、そのまた親が生きている限り、同居しています。
要するに娘の小式部内侍は、母と、祖父母、もしかしたら生きていれば曾祖父母とも同居するという大家族で生活しているわけです。
和泉式部は、頭のよい女性でしたから、一条天皇の中宮の彰子(しょうし)のもとで働いていました。
ですから日中は仕事をもっていましたので、宮中に出仕するし、日によっては宮中に寝泊まりしていますけれど、仕事が済めばちゃんと家に帰宅するわけです。
母親の和泉式部が仕事でいないときは、祖父母が子育てをしたかもしれませんが、帰宅すれば母子は一緒です。
小式部内侍は、天才歌人といって良い和泉式部に育てられましたし、母の血をひいていますから、彼女もやはり若い頃から古今の歌に和学、管楽に通じる歌の達人となっていました。
そして出来が良い子だから、20歳になったときには、母と同じく一条天皇の中宮の彰子(しょうし)のもとで働くようになっています。
それで母と同じところで女官の「内侍(ないし)」として働いているので、母の和泉式部と区別する意味で小式部と呼ばれるようになり、通称が小式部内侍となったわけです。
さて、この歌ですが、59番歌の赤染衛門の「かたぶくまでの月を見しかな」の歌が、「貴方が来ないなら、あたしグレちゃうわよ」といった、いかにもカラリとしとした明るさをもった若い娘さんの歌ならば、こちらの60番の小式部内侍の歌は、そこに込められたメッセージがちょっと深刻です。
というのは、この歌を詠んだ頃、小式部内侍は、宮中でものすごい中傷を浴びていたのです。
母の和泉式部は、天才といって良い女流歌人です。
小式部内侍も、まさに親譲りの天才的歌人でした。
ところが小式部内侍が、あまりに見事な歌を詠むことから、「実はあの歌は、母の和泉式部に代作してもらってるんだよ」などという、妙な噂をたてられるようになってしまったのです。
優れた人というのは、とかく中傷を受けるものです。「出る杭は打たれる」というやつです。
すぐれた才能を持つ人は目立つ。目立つから叩かれる。
中傷というのは、言葉を変えれば名誉毀損です。小式部内侍はこのとき、優秀な女性であるということで中宮彰子の内侍になっているわけですから、これは信用毀損行為でもあります。
一生懸命、働いているのに、どうしてそんなあらぬ中傷を受けるのか。母の名声はありがたいけれど、小式部内侍自身だって懸命に努力しているのです。まして女性たちの世界です。中傷を受ければ、周囲の眼もだんだんに冷たくなる。陰口をたたかれるというのは、言われる身になってみれば、これはとても辛いことです。小式部内侍は、母に歌の代作を頼んでいる「小ずるい女だ」というのです。
そんななかで、宮中で大きな歌会が開かれることになりました。
歌会というのは、いまでいったら紅白歌合戦のようなもので、当時の宮中の一大ビックイベントです。
歌人たちが左右にわかれ、テーマごとに一首ずつ歌を詠む。そして勝敗を競う。
小式部内侍も、その選手のひとりに選ばれます。
主催は、当時、宮中にあって芸事の総責任者をしていた大納言の藤原公任(ふじわらのこれとう)です。
そしてこのときの小式部内侍の彼氏が、その藤原公任の長男の藤原定頼(ふじわらのさだより)だったのです。悲しいことに小式部内侍は、いちばん自分を信じてもらいたいその彼氏にまで、疑いの眼をかけられてしまうのです。
それは、歌会への彼女の出場が決まったときのことでした。
彼氏の藤原定頼がやってきて、「君は、母に代作を頼んでいるんだろ?出場しても大丈夫なのかい?」と聞いてきたのです。
いまなら、「ひどぉ〜い!」といって、彼女が泣き出してしまいそうなシチューションです。
大好きな彼に、彼女は疑われていたのです。
世間のうわさ話を鵜呑みにして、愛する彼にまで疑いの眼を向けられてしまう。
小式部内侍にしてみれば、こんなに悔しくて悲しいことはなかったことでしょう。
けれど小式部内侍は、そこで泣き崩れたり、号泣して記者会見をして議員辞職を申し出たりなどはしませんでした。
黙って、サラサラと短冊に即興で歌を書いて、彼にそれを渡したのです。
即興歌です。それがこの60番歌です。
大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天の橋立
「大江山は京都の北の山で、そこへ行く野の道はいくつもの野を越える遠い道のりです。
私はまだその道を踏んだことはありません。大江山の向こうには美しい景勝の地である天の橋立がありますが、そこにも、私はまだ行ったこともないのですよ」
表面上は、景勝地を詠んだ美しい歌です。
けれど上の句と下の句で、小式部内侍が示した歌の心は、「私は大江山にも天の橋立にも行ったことはないし、そこにいる母との文(手紙)のやりとりもしていませんわ」というものです。
この頃、小式部内侍の母は藤原保昌と結婚し、夫とともに任地の丹後に行っていました。丹後は、有名な天の橋立てがあるところです。
この歌は、たった31文字のなかで、「行く」と「いくつも」、「文」と「踏み」と美しく掛け、しかも名勝である天の橋立てを歌に詠み込むことで、歌単独としても、実に優雅で気品がある美しい歌です。
しかも言外には明確に「母に代作など頼んでいませんよ」と主張しているし、しかもそこには母への温かい愛情も感じられる。
こんなすごい歌を即興で彼女は返したなんて、小式部内侍はどれだけ頭の良い女性だったのでしょうか。
それだけではありません。この歌のどこにも、疑われた自分を嘆く様子も、相手を責める言葉も、悪口を言っている人たちへの不満や、自身の言い訳さえもまったくありません。
彼女は、たった一首の美しい景勝の歌で、見事に自分に向けられた疑いを晴らし、悪意さえも跳ね返してしまったのです。
この歌を見せられた藤原定頼の気持ちはいかばかりだったことでしょう。
彼は、自分の彼女をほんのすこしでも疑った自分がとても恥ずかしかったでしょうし、なんとしても彼女の身の潔白を晴らそうと思ったことでしょう。
彼は宮中で、「彼女はいろいろ言われているけれど、なんと即答でこんなに素晴らしい歌を返してきたのですよ」と宮中で触れ回ってくれたのです。
そして小式部内侍は、堂々と歌会の勤めを果たしました。
そして千年経ったいまも、小式部内侍の才能も身の潔白も、こうして歌とともに現代に伝わっているのです。
この歌と、そこから派生した物語について、ひとつ補足しておかなければならないことがあります。
それは、彼氏の父親の大納言藤原公任のことです。
大納言藤原公任は、当時の宮中の歌会の責任者であったわけですが、その大納言藤原公任は、小式部内侍を歌会に招いているわけです。おかげでそれを心配した息子が小式部内侍を尋ね、この歌が世に残る結果になったのですが、なぜ、疑いを持たれているという小式部内侍を、大納言藤原公任は歌会に招いたか、ということです。
大納言藤原公任は、小式部内侍への中傷が、理由のない悪意によるものにすぎないということを、実は、ちゃんと見抜いていたのです。
さすがは当代を代表する歌人です。
和泉式部と小式部内侍は、あきらかに歌風が違う。ということは歌は母の代作ではない。大納言藤原公任はちゃんとそこを歌で見抜いていたからこそ、彼女を歌会に招いているのです。
狭い宮中の社会です。小式部内侍に関する黒い噂は、大納言藤原公任の耳にもちゃんと入っています。
しかも歌会は、陛下の前で開催されるオフィシャルなものであり、大納言藤原公任はその責任者です。
そこに才能もない、母に代作を頼んでいるような性根の曲がった女性を登場させれば、それは大納言藤原公任の大きな失点になってしまいます。藤原公任にもリスクはある。誰を選ぶかは最終的に大納言藤原公任の責任なのです。
ところが大納言藤原公任は、堂々と彼女を指名しました。
大納言藤原公任は、歌で事実をちゃんと見抜いていたのです。
一方でこのことは、悪意ある中傷をまきちらしていた人たちというのは、和泉式部と小式部内侍の歌風の違いを見抜くことができない、両の目が節穴の人たちである、ということを意味します。
そもそも、他人をこきおろしたところで自分の値打ちがあがるわけではありません。
他人の悪口を言えば、まわりまわっていつかは自分のところにそれが返ってくものです。
ところが人のあさはかさで、いつの時代にも他人の悪口を吹聴する人はいるし、他人をこきおろすことによってしか自己満足を得ることができない情けない人はいるものです。
そしてそれが文筆分野なら必ず言われるのが、パクリ、盗作、代筆疑惑というウワサです。要するにその人の実力ではなくて、その人は他人の知恵でようやく書き物をしているずるい人だと中傷するわけです。
なんと千年前から他人を中傷するやり方は変わっていないのです。
問題は、そういう他人の悪口に対して、クサされた本人がどうするかです。
その対処の仕方によって、その人の値打ちが決まります。
話し合う? 話し合ってだめなら、相手に白手袋を投げつけて決闘する?
トーマス・ジェファーソン米大統領の副大統領に、アーロン・バーという人がいました。彼は、自分の悪口を吹聴していたアレクサンダー・ハミルトンと決闘し、ハミルトンを射殺することで、二百年以上経ったいまもなお、バーは「アメリカ史上最悪の副大統領」という汚名が伝えられています。
侮辱され、中傷され、名誉を毀損され、信用を毀損される。これは堪え難い苦痛です。
けれど、小式部内侍は、ただじっと我慢しました。
そして、自分に対する中傷を、見事な歌で、完全に払拭してしまったのです。
「出る杭は打たれるけど出過ぎた杭は打たれない」とも言います。その「出過ぎた」というのは、打たれないために、反論したり、相手に喧嘩を売ったり、逆に相手を攻撃したり決闘を申し込んだりすることではなくて、ひたすら自分自身が精進を続けることです。
それが「突き抜ける」ということなのだということを、この小式部内侍の歌は、私たちに教えてくれています。
もうひとつ書いておかなければならないことがあります。
歌会の責任者を勤める大納言でもあり、歌人としても名声を得ている自分の父親が、歌会に小式部内侍を招いた大納言の藤原公任は、つまらない中傷やウワサ話によらず、自分の眼で小式部内侍を歌を読み、小式部内侍の才能を認め、歌会に彼女を招いているわけです。
ところが息子の藤原定頼が、小式部内侍に、わざわざウワサの真偽を確認に行ったということは、息子は、父の眼力も、歌会の責任者としての父の才覚さえも「疑った」ということです。
疑うべきものでないものを疑い、疑うべきものを疑わない。
つまりそれは、長男の藤原定頼が「人間が軽い」ということです。
そして千年経ったいまでも、どの本を見ても、藤原定頼は「軽い男」と書かれています。
彼は、仕事はできた人であったのだろうと思います。
けれど、仕事ができて頭が良くても、人を信頼し抜くことができない。心底から人を信じることができない。簡単に人を疑ってしまい、それを態度にまで出してしまう。
だから「軽い」とみなされたのです。
そして、くりかえしになりますが、彼はこの歌の後、小式部内侍にフラれたただけでなく、千年経ったいまでも、軽い奴だという不評を買い続けているのです。
こういうことを、昔の人は「末代までの恥」といいました。
ですから昔の人は、藤原定頼のような「末代までの恥」をかくことがないよう、自分を鍛え、人を見抜く眼を養おうとしたし、そのために日々の鍛錬を怠らなかったのです。
結局、小式部内侍も、そんな藤原定頼と別れ、別な男性と結婚しました。
けれど、才能あふれる小式部内侍は、26歳のとき、産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまうのです。
それは、母の和泉式部よりも先立つ不幸でした。
生きるということは、現世において魂の訓練を受けているのだ、という人がいます。
肉体は滅びるけれど、魂は永続していて、その魂がより高度に成長するために、現世で訓練を受けているのだというのです。
神々の心は計り知れませんが、小式部内侍は、この世で他人の悪意に対して、どのように接するべきなのかということを、身を以て教える金字塔として、千年経ったいまなお、人々の心に生きています。
彼女は、その使命を達成し、短い人生を終えたのかもしれません。
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61番歌 伊勢大輔(いせのだいふ)即興歌で名誉をつかむ
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重に匂ひぬるかな いにしへの
ならのみやこの
やへさくら
けふここのへに
にほひぬるかな
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(現代語訳)
遠く古い時代の都である奈良の都、そんな遠い時代から奈良の都に咲く八重桜は、今日、華やかに今日の都の宮中で咲き匂っていますわ。
(ことば)
いにしへの・・・古くて遠い昔の時代
けふ九重の・・・「けふ」は「いにしへ」と対になっています。「九重」は、八重桜が七重八重九重と折り重なるようにして見事に咲いているという意味と、今日の都の宮中という意味を掛けています。「九重」は、古代のChinaの王宮が九重の門という門を持っていたことに由来し、今日の都の皇居を指し示しています。
にほひぬるかな・・・美しく咲き誇りよい香りを漂わせているという意味です。
(解釈)
さて、60番の小式部内侍は、たった一首の即興歌で、自分に向けられたあらぬ中傷を見事なまでに打ち破ったのですが、同様に、たった一首の即興歌で、自分の人生を大きく開いたのが、この61番の伊勢大輔(いせのだいふ)です。
歌を詠んだ伊勢大輔(いせのだいふ)は、紫式部らとともに中宮彰子様に仕えた女性で、紫式部のちょっと後輩にあたるのですが、ある日、旧都である奈良から京都の宮中に届けられた献上品の八重桜を受け取る役目に抜擢されます。
もともとこの役は、先輩の紫式部が勤めていたお役目で、紫式部から「優秀な娘御ですから」と推薦を受けて、その役目をいただいたわけです。
後に伊勢大輔は、中宮定子(ていし)の従兄弟(いとこ)と結婚して三人の娘を産み、その娘のひとりが神祇官のトップである神祇伯(じんぎはく)に出世しています。
神祇官というのは、太政官と並ぶ、天皇直下の機構のひとつで、太政官が政治の中核なら、神祇官は祭祀の中核をなすお役所です。
政治は太政官が行うのですが、日本という国は、実は大和朝廷の成立以前の弥生時代頃から、全国の村々が神社を中心にまとまっていて、人々は農業の催事のたびに神社に集まり、そこで宮司から中央の話や、歴史や政治、あるいは学問の話を教わっていたということが、868年頃に編纂された養老令の注釈書の『令集解』の記述や、同じ内容が3世紀の魏志倭人伝の記述にみられることで、わかっています。
日本は古代大和朝廷以来、こうした村々の伝統的な共同体の上に中央国家が成立していましたから、逆に中央の施政方針なども、こうした神社を中心とした宮司たちによって、全国の津々浦々にその伝達がされていました。
つまり、太政官は中央で政治を司りますが、その政治を庶民生活に繁栄するのは、祭祀を司る神祇官、そして全国の神社を通じてそれが行われいたのです。
日本では、政治のことを訓読みで「まつりごと」といいますが、まさに祭りをつかさどるネットワークを通じて、律令政治が行われていたのです。
伊勢大輔の孫は、その神祇官のトップとなったわけですから、これはもうまさに大出世であったわけです。
さて、この歌は、後年、そうして人生が開けた、その最初のきっかけとなった歌です。
この歌を詠んだときの伊勢大輔は、まだほんの小娘といっていい年頃で、中宮彰子のもとに出仕しはじめたばかりです。
いってみれば、入社したての新入女子社員でした。
そんな新入女子社員のところに、女官としての初の対外的な大仕事として、奈良から献上された八重桜を受け取るというお役目をおおせつかったわけです。
普通なら、礼儀正しく、作法にのっとって、その花を受け取るだけです。
粗相があってはいけません。
きっと、そのときの伊勢大輔は、もうガチガチに緊張しまくりの状態であったことでしょう。
ところが、このときに、宮中を代表してお迎えに出ていたのが藤原道長です。
藤原道長といえば、有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の句を詠んだ、平安時代きっての大権力者です。
要するに、時代を代表する超大物であるわけですが、あまりに若い娘の伊勢大輔が緊張している姿がおもしろかったのでしょう。道長が、伊勢大輔に「即興で八重桜を受け取ったお礼の歌を詠むように」と命じたのです。
新入の女子社員が、大役をおおせつかって、ガチガチに緊張しまくりで、歩くにも右手右足が一緒に出てしまうほど、コチコチになっているわけです。
そこに、自社の超大物の有名社長から、いきなり即興歌を詠みなさいと指示されたわけです。
想像しただけで、口から泡を吹いて卒倒してしまいそうなシチューションです。
ところが伊勢大輔、そのカチカチの緊張状態のなかで、まさに即興で
「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな」と、見事な歌を詠んでしまったのです。
これはもう、見事としか言いようがない。
歌の出来も素晴らしいし、当意即妙というか、あの緊張感の中で、これだけの歌をスラスラと詠んでしまう。
しかも下の句の「けふ九重に匂ひぬるかな」は、いかにも古都である奈良が、都が京に変わっても、いまだにかつての栄華の香ばしさを漂わせていることを想起させます。とても即興で、しかも新入社員の女子が、コチコチの緊張の中で詠んだ歌とは思えない出来映えです。
伊勢大輔の優秀さに驚いた藤原道長も、その場にいた全員も、みんなが伊勢大輔の才能を認めることになりました。
そして伊勢大輔は、その才能を愛でられ、宮中の女官として大成し、高階成順と結婚して三女を儲け、晩年には第72代白河天皇の傅育の任にあたり、さらには孫が神祇伯に出世するなど、まさに孫の代までの栄光と栄華をつかんだわけです。
60番の小式部内侍の歌が、彼女に向けられた誹謗中傷を吹き飛ばした歌なら、61番の伊勢大輔の歌は、たった一首の歌が、彼女の人生を開き、孫子(まごこ)の代までその栄華を築く礎(いしずえ)となりました。
もちろん伊勢大輔の歌が、彼女の人生を開いた背景には、当時の貴族社会が、和歌をとても大切にした社会であったことが、ひとつの理由です。
けれど、何度も書いてきたことですが、和歌は、言いたいことを直接詠むのではなく、自分が言いたいことをあえて伏せ、上の句と下の句で、その言いたいことを示すというものです。
小式部内侍の歌なら、彼女は「天の橋立てに行ったことはありません」と詠んでいますけれど、言いたいのは母と連絡などとっていないし、歌は自分で詠んでいますよ、ということです。
伊勢大輔の歌なら、「八重桜が良い香りですね」と詠んでいますけれど、言いたいのは奈良の都の美しい香り、つまりいにしえの都と、いまの都は、ちゃんとつながっているのですね、といっているのです。
こうして歌に通じるということは、相手の心を読むという訓練であり、それは相手に対する思いやりの心や、相手の本当の心を慮(おもんばか)る、惻隠(そくいん)する心を養います。
そして他人の心を慮るということは、政治でいえば、民の心を思う心に通じます。
民は、天皇のおおみたからです。
その民の気持ちを理解し、その時点で最良の選択をしていくのが政治であるとするなら、民をおおみたからとし、その民の気持ちを忖度(そんたく)する、思いやるという心は、政治においても核心的に大切なこととなります。だからこそ宮中でも和歌がとても大切にされてきたのです。
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62番歌 清少納言(せいしょうなごん)浮気に誘ってもダメよ♡
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
よに逢坂の関は許さじ よをこめて
とりのそらねは
はかるとも
よにあふさかの
せきはゆるさし
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(現代語訳)
思いをこめてニワトリの鳴き声にかこつけて私を騙そうとしても、あなたとは逢いませんよ
(ことば)
夜をこめて・・・漢字で書いたら「夜を込めて」で、夜をしまいこむという語感から、夜明け前のまだ暗い時間帯という意味と、思いを込めての「こめて」の二つの意味を掛けています。
鳥のそら音・・・そら音は、鳴き真似のことで、夜明け前に啼く鳥といえば、ニワトリのことです。ですので、ニワトリの鳴き真似のことをいいます。
はかるとも・・・はかるは、謀(はかりごと)のことですので、要するに騙そうとしても、といった意味にになります。
よに・・・・・・「よに」は、世の中にという意味と、まさに、という意味の二つが掛け合わされています。
逢阪の関・・・・逢坂は地名としての大阪に行く途中の関所という意味と、逢う坂、つまり男女の逢い引き、当時は通い婚ですから、男性が女性のもとに通ってくるときの関門の二つの意味を兼ねています。
許さじ・・・・・逢坂の関所を通ることを許さない。つまり貴方が逢いに来ることを許しませんよ、という意味になります。
(解釈)
62番歌は、『枕草子』で有名な清少納言です。
さて、その清少納言についてお話する前に、ひとつお伝えしておきたいことがあります。
それは、清少納言とか、紫式部とか、和泉式部とか、みんな一種の官名で呼ばれていて、本名さえ伝わっていないということです。
清少納言の場合ですと、清原家の娘さんで、どうやら中宮定子(ちゅうぐうていし)さまから少納言という肩書きを授けられたらしく、本名は諾子(なぎこ)さんであったという説もありますが、はっきりとはしていません。
このように、官名で呼ばれて、本名があきらかでないことについて、一部にはこれを男尊女卑のあらわれと解説している本もあるようですが、大きな間違いです。
日本では、というよりも東洋の社会全体の古代からの風習として、高貴な方については本名を名乗らない、という習慣がありました。
言い方を変えると、本名を名乗るということは、下座につく、下位につく、ということです。上のものは本名を名乗らない。下の者が本名を名乗る。それが古来からのしきたりです。
ですからたとえば、和歌山県の隅田(すだ)の八幡神社に伝わる「人物画像鏡(じんぶつがぞうきょう、国宝)」に彫られた文字には、「癸未(きび)の年(503年)、孚弟王(ふとおう=継体天皇のこと)、おしさかの宮にいます時、斯麻(しま)、長くつかえんとおもい云々」という記述があります。
ここに出てくる「斯麻」というのは、百済の武寧王(ぶねいおう)の本名です。
その百済の武寧王という王様が、継体天皇の前で、本名である「斯麻」を名乗り、「私はあなた様に長くお仕えいたします」と奏上しているわけです。
奏上を受けた側の継体天皇のことは、継体天皇とさえ記さず、孚弟王と書いています。
要するに、目上の人は本名を名乗らない。格下の者は本名を名乗る。これがしきたりであり、習慣であったということです。それが古代のしきたりです。
そういう意味から、女性たちが本名でなく、あくまで式部とか少納言とか呼ばれていたということは、当時の女性たちが、日本の中世の社会において、それだけ高貴な存在として大切にされていた、ということです。
では、中世社会は女尊男卑だったのかというと、これもまた違います。
日本では、すべての民は、貴族であれ平民であれ、男性であれ女性であれ、大人であれ子供であれ、ことごとく天皇の「おおみたから」です。
役割や家柄、血統の違いはあっても、すべての人は「おおみたから」です。これはつまり「人として対等である」ことをあらわします。「どっちが上」ではないのです。男だろうが女だろうが、人としてはどこまでも対等であり、ただ互いの役割が違う。その役割の違いを互いに活かし合うことが大事とされたのです。
それが社会のあたりまえの一般通念となっていたのです。
このことは、ずっと後になってからの江戸時代でも変わりません。
江戸社会は士農工商の身分制が敷かれましたが、たとえ農民や町人であっても、優秀な人はどんどん武士として藩の要職にお召し抱えになっています。
そしてその優秀な人を育てるうえで重要な働きをした寺子屋の先生は、その半数が女性です。
明治以降、学校の先生には男性が多く就くようになりましたが、これは学制が敷かれて官製学校ができたとき、その教師として、四民平等によって失業した士族(武士)たちを優先して採用したことによります。
大正時代の高知の鬼竜院花子はヤクザの娘ですが小学校の先生です。
昭和の壷井栄の『二十四の瞳』の大石久子先生も女性です。
男はどんなにがんばっても子を産むことはできませんし、母乳も出ません。そのかわり男は力持ちです。
それぞれが、互いに協力して時代を築いていくことが大事なことなのであって、その男女が「対立する」という概念自体が、そもそもまったく存在さえしなかったというのが、もともとの日本社会なのです。
百人一首の歌人たちも、男は、全員本名が伝わっています。
けれど女性たちの本名はわかりません。
つまりそれは、それだけ中世の女性たちが、高貴な存在として、彼女たちが生きた時代も、そしてその歌を百人一首として編纂した二百年後の時代も、その後の時代にあっても、ずっと認識され続けたということなのです。
そういう社会環境にあって、清少納言は実に活き活きと、明るく、伸び伸びと生きた女性の代表格といって良いかもしれません。
清少納言といえば『枕草子』が有名ですが、学校ではこの『枕草子』について、その出だしの「春は曙(あけぼの)、やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)。すこしあかりて紫だちたる雲の細くたなびきたる」といったあたりだけをひもといて、「これは高尚な平安女流文学です」などと教えているようです。
けれど、清少納言の『枕草子』は、その後に続く「夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ、螢(ほたる)飛びちがひたる。雨など降るも、をかし」あたりからが、実は、彼女の本領発揮なのです。
彼女は別に「春は夜明け頃が素敵ね」といいたかったわけではありません。そこに本題はなくて、その後に続くところ。つまり夏の夜に「蛍がきれいねー」などと言って、ウチワを片手に飛び交うホタルを見物していたら、突然大雨が降ってきて「キャー」とか言いながら軒下に逃げて雨宿りする。互いにびっしょりに濡れた姿を見て「あはははは」と笑い転げる。いかにも若い娘さんたちの、そんな明るい笑いの姿を、「をかし」、つまり「おもしろくて楽しくて、笑えるねー」と書いているわけです。
そしてそういうさまざまな、明るい笑いの世界を、『枕草子』、つまり枕元の寝物語として楽しめれるエッセイ(草紙)集として、323話もの物語にまとめているわけです。
女性たちには、「箸が転げても楽しい」といって笑い転げる、そういう年代があるといいますが、いくつになっても、そういう笑いのたえない、明るさを失わない、楽しい世界が、まさに『枕草子』であるわけです。
清少納言は、とても頭の良い女性で、しかも実に溌剌(はつらつ)としています。
もう、鼻持ちならないくらい、頭の良い女性なのだけれど、あまりにも明るくて楽しいから、周囲の女性たちも男性たちも、清少納言といたら楽しくて仕方がない。
清少納言には全然気取りがないし、いつも大爆笑の渦があるし、だから彼女は男にも女にもよくモテたし、友達も多かった。そんな女性であったようです。
そして、そんな清少納言という女性を、たった一首の歌で解き明かしているのが、実はこの62番のこの「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ」の歌なのです。
現代語訳は、冒頭に示した通りです。
「夜明け前にニワトリの泣き真似で騙そうとしても、貴方とは逢いませんよ」というものですから、なんとなく、「あれ?清少納言て冷たい女性?」と勘違いしてしまいそうですが、そうではありません。
この歌には、次のような歌詞があるのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ある日のこと、大納言の藤原行成さまが私の家にお越しになって、いろいろ楽しく雑談していたのですが、大納言様が、「宮中に弔事があって急いで仕事に戻らないといけない」とおっしゃって、帰って行かれたのです。
翌朝、彼が「鶏の声に促されまして(朝になったので)ご連絡をいたしました。昨日はありがとう。お元気ですか?」みたいなメールをよこしたので、
私は「夜中にニワトリが鳴いたとおっしゃるのは、孟嘗君がニワトリの鳴き真似をして函谷関の門を開けさせて、まんまと窮地を脱出したという故事のことでしょうか(私との危機を脱出したという意味なのですか?)」とお返事をかえしましたところ、
彼が「函谷関ではなく、逢坂の関ですよ(あなたと逢いたいという意味ですよ)」と返事を書いてきましたので、この歌を詠みました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
で、清少納言が送った歌が、
「夜をこめて鳥のそらねにはかるともよにあふ坂の関はゆるさじ」
要するに、ニワトリの鳴き声にかこつけて、私を騙そうとしても、あなたとは逢いませんよ♫
というわけです。
もうすこし詳しく言うと、藤原行成は、実は別な彼女とカケモチしているわけです。
清少納言との会話が、あまりにも楽しくて、ついつい彼は清少納言のもとで、夜遅くまで大爆笑の会話を重ねてしまった。ところがふと気がついたら、もう夜も遅い。
そこで、「宮中で弔事があるので」などと、いい加減なことを言って彼女のもとを去るわけです。
ところが、清少納言との会話があまりにも楽しくて、(そりゃあそうでしょう。知的だし明るいし、笑いがたえない)、ついつい清少納言に色気を出した藤原行成は、明け方になって「清少納言さん、また逢いましょうね」とメールしてきたわけです。この時代、「逢いましょう」はエッチしましょう、という意味になりますので、かなりストレートです。
ところがこのときに、藤原行成が、「ニワトリの声」などと書いたものだから、それで勘の良い清少納言に全部バレてしまう。
どういうことかというと、ニワトリの声というのは、孟嘗君が「ニワトリの鳴き真似で門番を騙して函谷関の門を開けさせて危機を脱した」という故事があるわけです。
つまり、行成が明け方になって、あえて「ニワトリ」を引き合いに出してきたということは、彼が「本来なら清少納言にメールをできない、もしくは、してはいけない状況にいる」ということです。
宮中の弔事でというのなら、ちょっと離籍でもしたときに、メールくらいはできるでしょう。
けれど、メールしたらマズイ環境にいるということは、行成は、別な彼女のもとにいる、ということです。
つまり行成は、清少納言とのおしゃべりを楽しんだあと、別な彼女のところで一夜を明かし、彼女が寝ている横で、清少納言に「またお逢いしましょう」とメールしてきた、と、こういうわけです。
これは、かなり図々しい。
そこで清少納言が行成に返した歌が、
ニワトリの鳴き声にかこつけて、私を騙そうとしても、あなたとは逢いませんよ♫
という歌だったわけです。
ここで問題は、藤原行成ですが、彼は、大納言です。
大納言というのは、いまで言ったら副総理くらいの超大物です。
しかも書は小野道風、藤原佐理とならぶ「三蹟(さんせき)」の一人に数えられる大家であり、書もそうですが、控えめななかにも、大胆さがあり、格段の教養を感じさせる人です。
ちなみに以前ご紹介した51番歌の藤原実方の歌のご紹介の際、その藤原実方が宮中で口論をして相手の烏帽子をはたき落したという逸話をご紹介させていただきましたが、このときに烏帽子をはたき落されたのが、この藤原行成です。
このとき行成は、まったく取り乱さず実に冷静な対処をしたということが『十訓抄』に伝えられています。
後年このときの藤原行成の物語が、大坂夏の陣で戦死した
木村長門守重成の「蠅は金冠を選ばず」の物語にも応用されています。
時代を超えて、藤原行成の高い人格が、人やカタチを変えて伝えられているわけです。
そうした時代を代表する教養人であり、身分の上からも副総理級の超のつく大物に対して、清少納言は、人としてまったく対等に接しているだけでなく、「思いを込めてニワトリの鳴き真似で私を謀ろうとしても」と知的に故事をひき、「よに逢坂の関は許さじ」と、あっさりとまるで春風のようなさわやかさで彼をフっているわけです。
こうなると行成にしても、「わはは。一本とられましたな」と笑って済ますしかないし、このやりとりの知的な水準の高さから、周囲の者たちも、だからといって藤原行成を軽蔑したりすることもない。
なぜなら清少納言と藤原行成の会話の奥にある二人の知性が、あまりにすごいし深いからです。
冒頭に、男尊女卑云々の話を書きましたが、そもそも男女が対立し闘争するなどという概念は、19世紀の共産主義によって生まれた概念でしかありません。
対立だの闘争だのという言葉自体も、幕末から明治以降の翻訳語としての造語です。
清少納言や藤原行成が生きた10〜11世紀頃の日本には、そんな概念すらありませんし、その後の日本にも、ずっと男女が対立し、敵対するなどという概念はありません。
男女は互いに長所を活かし合い、協力し合い、信頼しあって、個人としても、また社会共同体としても、日本全国が一体となって子を育て、社会を築いて行く。そういう概念しかそもそも持ち合わせていなかったのです。
そして男であれ女であれ、各々が自分自身を高めていくことで、清少納言のように、たとえ相手が超のつく大物であろうが、対等に付き合うことができる。
だからこそそのために、歌を学び、古典を学び、自己の研鑽をしていく。
それが当たり前だったし、それ以外にはなかったし、だからこそ、日本の文化は、想像もできないほどの高みに昇ることができたのではないかと思います。
さて、次回は「名こそ惜しけれ」と詠んだ相模(さがみ)が登場します。
「名こそ惜しけれ」といえば、竹中半兵衛の名言「武士は名こそ惜しけれ」が有名ですが、この言葉の、いわば初出が、女性の失恋歌の相模です。
ずっとずっと歴史はつながっている。
そんなことが、次回のお話になります。
お楽しみに♫

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コメント
ななし
早くねずさんの小倉百人一首の解釈が世に広がって欲しいものです。それにねずさんの小倉百人一首の解説本を手にしたいと思いますので、発行頑張ってくださいね。
2014/07/15 URL 編集
花まりん
2014/07/14 URL 編集
mari
「ずっとずっと歴史は繋がっている。」
という言葉は重いです。今現在は過去と確かに繋がっているでしょうか?今後も引き継いでいけるのでしょうか?と一抹の不安を覚えることもありますが、ねずさんは確かに繋げていくために百人一首の解説を、そしてこのブログを続けておられるのですね。
次回の「名こそ惜しけれ」楽しみにしています!
2014/07/14 URL 編集
にっぽんじん
太陽光発電設備を持たない人が設備投資資金を払い続けるのです。安定供給電力になるならまだ許せるかも知れません。しかし、いくら多くの太陽光発電が設置されても、その電力に見合う他の発電設備を止めることは出来ません。
暗くなれば太陽光発電はなくなるのです。誰がその電力をカバーするのでしょうか。しかも、設置した太陽光発電が継続するかどうかは保証の限りではありません。20年間の買取期間を過ぎれば、設備を撤去し、更地に戻す業者もいるようです。
投資回収が終われば、無用の長物になる可能性があります。大した雇用も生まない太陽光発電の買取制度は廃止すべきです。ドイツの実例を見れば国民の利益にはならないことが分かります。
2014/07/14 URL 編集
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2014/07/14 編集
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2014/07/14 URL 編集