■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。■ねず本第二巻の
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豊島沖海戦

もうすぐ7月25日ですが、この日は、明治27年(1894)に、豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)があった日です。
これは、明治以降の日本海軍が対外戦ではじめて勝利した海戦です。
先に挑発し撃ってきたのは清国軍艦です。
巨大戦艦を誇る清国海軍は、小船の日本海軍を馬鹿にして砲撃を加えてきたのです。
ところが日本海軍は、これを徹底的に打ち破りました。
この日、日本の巡洋艦の「秋津洲」「吉野」「浪速」が、会合予定だった巡洋艦の「武蔵」「八重山」を洋上で捜していました。
二条の煙を発見したので、近づいてみると、その煙は清国の巡洋艦「済遠」と「広乙」だったのです。
普通なら「ああ、清国の船がいたな」程度で終わる話です。
ところが午前7時52分、距離3000mとなったとき、とつぜん清国の「済遠」がその主砲(21センチ砲)で、砲撃を加えてきたのです。何の警告もなく一方的に撃ってきたのです。まさに無法者の所業です。
こうなると日本も反撃しないわけにはいきません。これはあきらかな正当防衛です。
日本の巡洋艦が応戦をはじめると、「済遠」と「広乙」は、いきなり逃走を始めました。
相手が弱いと思えば一方的に攻撃し、相手がちょっとでも強いとみればスタコラサッサと逃げ出す。千年前から変わらぬChinaのありようです。
日本海軍は「秋津洲」で、清の「広乙」を、
「吉野」と「浪速」で、大きいほうの「済遠」を追いました。
「広乙」は追い詰められて座礁しました。
「済遠」は、国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図るなんてことを繰り返しました。
そして海上にあった清国軍艦「操江」と「高陞」(英国商船旗を掲揚)のもとに逃げ込んでしまう。
日本側は清国軍艦「操江」らと押し問答をするのだけど、その隙に、「済遠」はさっさと逃走しまっています。
再びそれを追う日本の「吉野」、逃げる「済遠」。
追う「吉野」の最高速度は23ノットです。「済遠」は15ノット。
ですから日本の巡洋艦「吉野」のほうが、断然、船足が速いのですが、「済遠」は逃げながら2門の21センチ砲をバンバン撃つため、「吉野」はジグザグ航法で、敵の弾を避けなければならず、なかなか追いつかない。
やっと2500メートルまで追い詰めるのですが、「済遠」は船を浅瀬へ向かわせます。
「済遠」の喫水は4.67メートル、「吉野」の喫水は5.18メートルなのです。
「吉野」は、追撃を中止し、「済遠」は逃げてしまいました。
東郷平八郎大佐が艦長を勤めた「浪速」は、「高陞」に停船を命じるのだけれど、「高陞」は逃走をやめない。そこで「浪速」は、「高陞号」を撃沈したうえで、「高陞」に乗っていた英国人船員ら3人と、清国兵50名を救助し、捕虜としています。
これが「豊島沖海戦」です。
この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無です。
他方、清は「広乙」が座礁、「高陞」が撃沈されています。
日本海軍の圧倒的勝利でした。
ところが「吉野」が追撃を中止した「済遠」は、なぜか清の発表では「大破」とされ、日本によって一方的に攻撃されたと清国は発表しました。
また、「高陞」は、英国船籍であったことから、英国内で日本を糾弾する声があがります。
一説によれば、これは清国の対外宣伝活動によるものであったともいわれています。
ところがこれに対して英国内で、国際法学者のトーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキが、それぞれ別個に新聞紙上で国際法上、すべての行為について、日本側にはまったく違法行為はないことを説明してくれます。
これによって、清国の悪意が世に晒されることになりました。
この海戦のあと、同年の8月1日に、明治大帝から清国に対する宣戦布告の詔勅が発せられました。
その6日後に組成されたのが「聯合艦隊」です。
ちなみに、ここで注意が必要なことは、日本が宣戦布告したから日清戦争になったのではない、ということです。
日本は、再三にわたる清国による挑発を受けて、やむなくアタック(攻撃)をしています。
その中のひとつが、豊島沖海戦であるし、長崎事件でもあったのです。
さらに、宣戦布告はしたものの、だからといって日本はすぐに戦闘にはいったわけではありません。
外交交渉を続け、なんとかして和平の道を探ろうとしました。
清と日本では、国力が違いすぎるのです。日本が戦うには、相手があまりに大きい。
ですが、日本が和平の道を探ろうとすればするほど、清国は居丈高になり、日本への挑発をくり返す。
そこでやむなく、清国の主力艦隊である北洋艦隊と、聯合艦隊が衝突に到ったのが9月16日です。
宣戦布告から事実上の開戦にいたるまでに、一ヶ月半もかかっている。
日本が国として、いかに戦争を回避しようと努力していたかがわかります。
この北洋艦隊との戦いは、北洋艦隊が、戦艦2、巡洋艦10を含む合計16隻の大艦隊であるのに対し、日本側は小さな巡洋艦10隻で応戦するという戦いでした。
図式化したら、16台の大型トラックの軍団に、10台の軽自動車で挑んだようなものです。
火力に自信のある北洋艦隊は、横一直線に並んだ鶴翼の陣を敷きました。
対する日本海軍は単縦陣をとりました。
ちなみに当時の軍艦というのは、後年の軍艦と異なり、砲が舷側(船の横)についています。
つまり、北洋艦隊は、片側の全砲門を開いて、日本海軍を待ち受けたわけです。
そして最終的には、数の少ない日本艦隊を取り囲み、最強の砲火である十字砲火を浴びせようとしたわけです。
どう見ても勝ち目のない戦いにしか見えないのですが、なんと日本海軍はこのときに清国海軍を、完膚なきまでに打ち破っています。
北洋艦隊は、16隻中、13隻が沈没、大破、座礁です(沈没5、大破6、座礁2)。
日本側は、4隻が中破しただけで、沈没、大破、座礁ともなし、です。
ちょっとイメージしてみると、滑走路のような広いところで、横一列に並んだ16台の大型トラックに、10台の軽自動車が縦一列で決戦を挑んだような戦いで、どうして軽自動車側が大勝利したかというと、指揮官の伊東祐亨(いとうゆうこう)の裁量の見事さでした。
彼は、薩摩隼人ですが、まさに薩摩示現流そのもので、真正面からどんどん斬り込んで行ったのです。
結果、恐怖したChina北洋艦隊は、ほぼ全滅に近い損害となりました。
歴史は学ぶためにあります。
そして外交とは、武器を用いない戦いです。
そしてChinaは、いつの時代もかわらず、真正面から正々堂々と挑んで来られると、たじたじになって敗退する。それがChinaの古来変わらぬ姿です。
卑劣には、正々堂々と対処し、これを打ち破る。
それが古来変わらぬ最も効果的な対策であり解決法です。
世界は、それに賛同します。
昔も今も同じです。

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拡散しよう!日本!
コメント
ラッパ兵
エントリー本文の表現だと、日清両艦隊は遭遇戦を行ったかのようにも読めますが、日本の吉野・秋津洲・浪速は、敵の輸送船(つまり高陞)を探していました。
6月に始まった朝鮮を巡る日清の緊張は7月になっても高まるばかりで、清国は現地兵力を増強するため、鴨緑江を渡って陸路で派兵する一方、3隻の英国商船を調達して2500人余を朝鮮・牙山に揚陸する計画を立てました。
この計画は即座に日本側の知るところとなり、伊東連合艦隊司令官は快速を誇る吉野・秋津洲・浪速からなる第一遊撃隊を仁川沖に向かわせ、警戒させていたのでした。
日清開戦のポイントは、清国が「東学党の乱はすで収まったので日本は撤兵せよ。撤兵がなければ、いかなる交渉もしない」と要求しながら、自分は兵力を増強していたことです。
2014/07/20 URL 編集
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