百人一首(第20回)63〜65番歌



ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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和柄流れ桜


和泉式部や紫式部、清少納言など、女性の歌が続きましたが、これらの歌を通じてあきらかなことは、和歌はその和歌単独で読むだけでなく、その歌の背後にある歌人の人生そのものが持つドラマのようなものを一緒に読むことで、一層の味わいが増す、ということでした。

そうした歌が続いたあとに続く今回は、「今日を限りの命ともがな」と透明な愛を詠んだ美しい女性である54番歌の儀同三司母からみた孫で「悪三位」と呼ばれる極道者になった左京大夫道雅、60番歌の小式部内侍への悪意ある中傷を跳ね返すのに一役買った風流男の権中納言定頼、そして和泉式部の友達で、夫の浮気に苦しみながらもそこから見事に這い上がり、歴史に名を残した相模の三首です。


===========
三代目の落日
63番歌 左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)

今はただ思ひ絶えなむとばかりを
人づてならでいふよしもがな


いまはたた
おもひたえなむ
とはかりを
ひとつてならて
いふよしもかな
===========

(現代語訳)
いまは貴女への想いをあきらめてしまおうとばかり思っています。そのことを人伝にではなく、貴女にあって直接お伝えする手段はないかと思うばかりです。

(ことばの意味)
【今はただ】いまとなっては
【思ひ絶えなむ】想いをあきらめよう
【とばかりを】〜と、そればかりを
【人づてならで】人伝ではなく
【いふよしもがな】よし(由)は、理由とか手段/方法のことで、「言う由」は伝える方法。「もがな」は、願望です。

(解説)
この歌は、実は、53番の右大将道綱母の歌以降に続いた女流歌人たちの歌の後に配置されていることに意味があります。

歌そのものは、愛する女性と何らかの事情で離ればなれになった(別れた)男性が、その慕情を人伝ではなく、自分で直接伝えたいと思う素直な慕情です。
失恋の悲しみと、それでも相手を愛したいと思う気持ちを詠んだ、素敵な歌です。

では、なぜ歌人の名前が「左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)」と、役名が付せられているのでしょうか。
歌を詠んだのは、藤原道雅(ふじわらのみちまさ)です。
けれど歌に付された名前は、「左京大夫道雅」です。

藤原道雅の人となりは、54番歌の儀同三司母(ぎどうさんしのはは)のところで少し触れてました。
儀同三司母は、有能な若者である藤原道隆と愛のひとときをすごして、この54番の歌を詠んだのですが、そのお相手の藤原道隆は、その後、グングン出世して、後には関白内大臣となります。
ある意味、貴族として最高位にまで上り詰めるわけです。

その二人の子である藤原伊周(ふじわらのこれちか)は母の愛情をいっぱい受けて育ち、若くして宮中に参内すると、またたく間に頭角をあらわして出世し、時の最高権力者で藤原氏の全盛を担った叔父の藤原道長とも、若気の身でありながら真正面から堂々と正論をもって対決するほどの名士に育ちました。
ところが対決した相手は、権勢を誇る藤原道長です。いくらなんでも相手が強すぎます。藤原伊周は地方に飛ばされて不遇をかこってしまう。
愛によって生まれた子の藤原伊周は、政治のドロドロに巻き込まれてしまいますが、それでも復活し、准大臣として再び宮中に返り咲くわけです。どれだけ優秀な人物であったかということです。

そして今回のこの63番歌は、その儀同三司母からみたら孫にあたる三代目、藤原道雅が詠んだ歌です。

歌自体はたいへんにわかりやすい歌で「いまは貴女への想いをあきらめてしまおうとばかり思っています。そのことを人伝にではなく、貴女にあって直接お伝えする手段はないかと思うばかりです」というものです。
よくある、「いちばん言いたいことをあえて隠して、上の句と下の句でその一番いいたいことを示す」といった技巧も、まったく施されていません。
単に、「失恋したけれど、また逢いたい」と慕情を直接的に詠んでいるだけです。

ですから、もちろん失恋したときに「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」と口ずさんでいただいても、それはそれで(歌が直接的なものであるだけに)、良い歌といえるかもしれませんが、ではなぜ、百人一首の選者である藤原定家(ふじわらのていか)が、この歌にわざわざ「左京大夫道雅」と、詠み人の名前に職位を付したのか、それだけでは説明がつきません。

ではいったい何があったのかというと、実はこの藤原道雅の歌は、「祖父が起こし、親が守って、孫が潰す」を絵に描いたような人であったのです。

もういちどくり返しますが、祖父の道隆(みちたか)は、とても優秀な人で、努力して関白にまで登った人です。父の伊周(これちか)もまた、政争に敗れて地方に飛ばされながらも、再び准大臣(じゅんだいじん)として宮中に返り咲いた優秀な人です。
ところが祖父と父と、二代続けて宮中の大物となった家族の三代目の倅(せがれ)は、祖父と父が築いたある意味最高の環境で育ちながら、逆にとんでもなくわがままなワルに育ってしまったのです。

道雅は、14歳で元服して昇殿を許されました。
そして25歳のときには左近衛中将に出世しています。
26歳のときには、従三位に出世です。
ということは、相当優秀な若者ではあったのだろうと思います。
もちろん親の七光りも手伝ったことでしょうが、26歳で従三位になれたということは、本人がそれなりに優秀でなければ、そうそう簡単になれるものではありません。

ところが、わがまま、つまり身勝手なのです。
身勝手ということは、おのれの分をわきまえない、ということです。
道雅は、従三位となった年の9月に、第67代三条天皇の第一皇女である当子内親王(とうしないしんのう)と良い仲になってしまうのです。

このときの当子内親王は17歳です。
当時の女性としては、17歳は立派な大人の女性ですが、当子内親王は都に帰る直前まで、まる3年間を伊勢神宮の斎宮(さいぐう)を勤めていました。
斎宮というのは、簡単にいったら、ご皇室から伊勢神宮に祀られる天照大神様のために奉職する巫女(みこ)さんです。
つまり処女であり、穢れのない女性であったわけです。

父親の三条天皇は、長女である当子内親王を、まさに眼に入れても痛くないほど溺愛されていました。
これには逸話があって、当子内親王が斎宮として都を離れるとき、その出発の儀式で、天皇も斎宮も互いに振り返ってはならないというしきたりがあったのに、父の三条天皇は去って行くわが娘見たさに、思わず振り返ってしまったというのです。
そこまで父親の三条天皇は、長女の当子内親王を溺愛していたのです。

そんな長女が、やっとお勤めを終えて都に帰ってきたのです。
三条天皇は、天皇を退位し、三条院となり、そして年頃となった当子内親王には「だれか良い結婚相手を」と望んでいたことは、想像に難くありません。

ところが、その当子内親王に、なんと藤原道雅が言い寄ってきて、二人が関係してしまうのです。
道雅は、もちろん家柄は良い男です。
けれど、わがままで放蕩のきらいがあります。とかく悪い噂が絶えない。

イメージ的には、たとえはすごく悪いかもしれませんが、ひところ騒ぎのあった梅宮辰夫と娘のアンナ、これと羽賀研二みたいなものかもしれません。
とにかく娘の父親のお眼鏡に適わなかったのです。
父にしてみれば、やっと神宮でのお勤めを終え、第一皇女でもあり、少しでも良い男性とめぐりあってもらいたいと心から思っていたのに、出来た相手が茶髪の不良であった、みたいなものかもしれません。

激怒した三条院は、娘の当子を母娍子のもとに引き取らせ、さらに当子と道雅の間の手引きをした乳母の中将内侍まで宮中から追放してしまいます。
周囲は、相当とりなしたようですけれど、三条院は断固として二人を許さなかったそうです。

こうして愛し合った二人は、女性の父の怒りによって仲を引き裂かれてしまいました。
そしてそのとき、道雅が詠んだ歌が、この63番歌というわけです。

かわいそうに当子内親王は、初めての彼との恋仲を引き裂かれてしまったわけです。
失意の当子内親王は、そのままショックで床に伏せってしまいました。
そしてそのまま寝たきりとなり、衰弱した当子内親王は、6年後に23歳の若さでお亡くなりになってしまうのです。

一方、別れた道雅の方はというと、横暴なところが治らず、花山法皇の皇女である上東門院女房を人に命じて夜中の路上で殺害し、遺体を野犬に食わせたり、敦明親王の雑色長小野為明を暴行して重傷を負わせたり、あるいは市中の賭場に出入りして大乱闘をしたりと、その後も乱行を続けます。
結局、わがままで横暴な人生を歩んだ道雅は、62歳で生涯を閉じるまで、「荒三位、悪三位」と世間から誹(そし)られる人生を歩むのです。

このことが、藤原道雅にとって、当子内親王との別れがショックだったためにグレのではないか。三条院はひどい人だ、と思う人がいるかもしれません。
そこですこし当時の状況を補足しておきます。

三条天皇の治世は、西暦1011年から1016年までの5年間ですが、この時代、我が国は、China文明がから完全に決別して、我が国独自の文化文明であるシラス国つくりの真っ最中にありました。
大化の改新は、西暦646年(大化2年)の出来事ですが、このとき日本は、China文明と完全に決別し、我が国独自の元号を定め、豪族による私的な領民や領地の支配を否定してすべてを天皇のおおみたからとするという大改革を断行しました。

ですから大化の改新の「大化」は、現代日本が用いている昭和とか平成といった元号の、いちばん最初の元号です。
それまでの日本は、Chinaの華夷秩序の中に組み込まれていましたから、China皇帝の冊封を受け、元号もChinaの元号を用いていました。このことは日本だけに限ったことではなく、Chinaの冊封国は、すべて同じです。
朝鮮などは、つい近代まで(日本が独立国とするまで)、ずっとChinaの元号を用いています。

ところが大化の改新によって、日本は、China文明と決別し、世界に向けて堂々と自国の独自元号を用い始めたのです。
これが何を意味するかと言えば、日本は、華夷秩序から決別して、独自の文明の道をすすみだした、すなわち完全な自立自尊の独立国となったということをあらわします。

そしてこれを推進したのが、後に天智天皇となる中大兄皇子であり、百人一首では1番の御製の天皇です。
そして初めて日本という国号を名乗ったのが2番の持統天皇でした。

こうして独立国となった日本は、Chinaと上下関係に基づく冊封国(さくほうこく)ではなく、あくまで自立自尊の独立国として、対等な交易関係を続けます。それが遣隋使、遣唐使です。
しかしその遣隋使、遣唐使も、最早、Chinaに学ぶべきものは何もないと、「はくし(894)に戻そう遣唐使」で、西暦894年には遣唐使も廃止し、我が国は我が国独自の価値観に基づく日本文明の構築を図ります。
こうして生まれたのが、我が国の「国風文化」です。

そして漢詩ではなく、和言葉による和歌を、初めて勅撰で編纂することになったのが『古今和歌集』で、これが西暦905年のことです。つまり遣唐使廃止後10年目の出来事です。
三条天皇のご治世は、これより百年ほどあとのことになりますが、天皇のシラス国日本という、我が国独自の文化の定着と堅持のため、あらゆる努力が払われていたのも、この時代のことです。

そうした中にあって、我が国独自の、キチンとしきたりや伝統を守ることが、正しいこととされ、天皇自らがそれを襟をただして励行することで、世に、まっすぐな統治を実現しようとしていたのが、まさにこの時代にあたるわけです。
その天皇の統治というのは、China皇帝のように皇帝がすべてを私有し、独断専行するという統治体制(ウシハク統治)ではありません。
どこまでも、民衆を「おおみたから」とする「シラス統治」です。
そして「シラス統治」を実現するためには、ご皇室も貴族たちも、常に襟を正して民衆の模範とならなければならないという意識が、常にそこにはたらいています。

そうした時代背景にあって、もっとも忌むべきものは、家柄や財力、地位を私的に利用したり、あるいはそれによって独断専行に至ったりする、ひらたくいえば、権力のある者が、わがままに走るということが、徹底して忌み嫌われたのです。
ところが、藤原道雅には、それがわからない。
わからないから、自分の目的のためには手段を選ばない。対立する者があれば、平気で人に命じて、その相手を殺害する。そういう男であることを、三条院は見抜いたからこそ、娘との交際を拒否したわけです。

それによって娘は、体を壊し、亡くなってしまいました。
けれど、たとえ娘を亡くしても、ご政道によこしまなものを取り込んではならないという強い覚悟と信念をお持ちだったからこそ、三条院は心を鬼にして、二人を別れさせたのです。
娘の当子内親王も辛かったと思います。
けれど、父の三条院は、もっとお辛かったのではないでしょうか。

百人一首は、この古今和歌集からの歌が多数はいっているのですけれど、要するに三条天皇をはじめとしたこの時代、わたしたちの祖先は、日本という国が、本当の意味でのシラス国、ほんとうの意味での民衆のための統治ができる国を築くために、さまざまなガマンや努力が積み重ねていたのです。

そのひとつが、宮中で烏帽子をはたき落しただけで、どんなに優秀であっても生涯、地方に飛ばされたり(51番歌・藤原実方)、あるいは、和歌を通じて読み手の真意をくみ取り、そこから互いの思いやりの心を養うという訓練をしたり、あるいは男女とも人として対等であるということを明確にするために、多くの女流文学を世に出したりと、まさにさまざまな努力を続けていたわけです。

けれど残念なことに、藤原道雅には、それがわからない。
ただ富と地位と家柄に甘んじる。平気で悪行を行う。
結果、三代で家を失ってしまう。

たとえどんなに恵まれた環境にあったとしても、常に謙虚さを失わず、立派に生きることを心がけていかなければ、結果、すべてを失うことになってしまうのだということを、この歌は、後世を生きる私たちに語りかけてくれているように思います。

ちなみに、ここまでの解釈は、「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」という歌そのものから、かなり逸脱しています。歌そのものではなくて、その歌の背後にあるドラマのお話です。
けれども、53番の右大将道綱母からはじまる儀同三司母や和泉式部、あるいは紫式部や小式部内侍、あるいは清少納言など、女流歌人の歌を順番に鑑賞してきた私たちには、「左京大夫道雅」と書かれたこの63番の歌が、ただ歌だけでなく、その歌の背後にある歌人の生涯というドラマをも含めて鑑賞することに、おそらく違和感はないものと思います。

逆にもし、この歌が、女流歌人たち以前の順番ところにあったら、どうして歌の背後のドラマを一緒に考えなければならないのかが、見えて来ない。
そういう意味で、百人一首の選者である藤原定家は、実に見事に歌を配置していると感心します。


==========
動画のような叙景歌
64番歌 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
あらはれわたる瀬々の網代木


あさほらけ
うちのかはきり
たえたえに
あらはれわたる
せせのあしろき
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(現代語訳)
夜が明けるころ、宇治川の川面にたちこめていた霧がすこしずつ晴れて来て、霧の間から瀬に仕掛けられた網を留める杭が、だんだんに見えてきます。

(ことば)
【朝ぼらけ】夜がしらじらと明けてくる頃。
【宇治の川】京都府宇治市のあたりの宇治川。
【川霧】夜明け頃、川にかかる深い霧
【たえだえに】切れ切れに。
【瀬々の】浅瀬にから浅瀬にかけて橋渡した様子
【網代木】川魚を漁るための仕掛け網と、それを橋渡して留めた木の杭(くい)

(解説)
この歌を詠んだ権中納言定頼は、60番歌で小式部内侍にやり込められた彼氏の藤原定頼です。
後々の世まで、小式部内侍とのやりとりから、軽薄な人物と揶揄された藤原定頼ですが、家柄、血統とも良く、容姿端麗な色男で、しかも書や誦経に優れた風流人だった人物です。

この歌には「どなたかのお伴で、宇治にまかりこした際に詠んだ歌です」という歌詞があります。
早朝、まさに夜明け頃、宇治川に深い霧がかかり、その霧がだんだん晴れて来て、川のあちこちに仕掛けられた網の、留め杭が、川面にすこしずつ見えてくる。
そんな情景を、ありのままに詠んだ歌で、これを叙景歌(じょけいか)といいます。

まるで、クラシックの管弦楽に合わせて、川面の霧が少しずつ晴れてきて、静かに進む時間の中に、だんだんに風景が見えてくる。
そんな風情のある情景を、そのまま31文字の歌のなかに押し込めています。

そこに特に深い意味はありません。
上の句と下の句で、何か別に言いたいことがあって、というものでもありません。
純粋に、美しい早朝のゆるやかな時間の流れを、詠んでいます。

百人一首の選者の藤原定家は、歌のもつひとつの可能性として、このように短い言葉で美しい情景を詠むことができるという意味でこの歌を紹介していますが、もうひとつ、この歌を詠んだ歌人の名前を藤原定頼としないで、あえて権中納言定頼とすることによって、先ほどの63番歌の左京大夫道雅と、実に巧妙な対比をしています。

63番歌の藤原道雅は、悪三位と呼ばれたいわゆる放蕩人でした。三条院の怒りを買い、世間でも悪三位とののしられた三代目でした。
これに対し64番の藤原定頼は、人間が軽く、小式部内侍にさえ簡単にあしらわれるほどの男ではありましたが、悪人ではないのです。

きわめて善良な人物で、なんの悪意もない。頭も良いし、家柄も良いし、血筋も良い。
ただ、人間が軽いだけです。
けれど、軽いことを本人もよく自覚していて、政治には首を突っ込まない。
その代わり、管楽や読経、あるいは書道に打ち込み、そういった芸術の分野で、ひとかたならぬ実力を発揮して、生涯をまっとうしています。

というか藤原定頼は、60番歌の小式部内侍(和泉式部の娘)と関係しただけでなく、58番歌の大弐三位(紫式部の娘)とも関係し、さらには次の65番歌の女流名歌人である相模(さがみ)とも関係を持つなど、うらやましいほどのモテ男ぶりです。

63番の悪三位・藤原道雅も、64番の藤原定頼も、どちらも家柄も血統も良く、財力に恵まれ、頭も良い御子息です。
けれど道雅が、わがままで乱暴なところがあったのに対し、定頼は少々軽いけれど、その分、あえて欲をかかずに風流の道へと走りました。

もっと単純に図式化すれば、道雅は乱行に走り、定頼は風雅に走ったわけです。
そしてその結果、道雅は愛した当子内親王は早世し、定頼は、政治的には何の功績もなかったけれど、後世に残る素晴らしい書と、この64番歌のような「動きのある叙景歌」を遺しました。

百人一首の選者の藤原定家は、定頼の名前に「権中納言」と職名を付しました。
貴人の家に生まれたからといって、必ずしも、尊い生涯を送れるわけではないし、いくら頭が良くても、政治的な貢献ができるというわけでもない。
ただ、定頼が職の上では功績はなかったにせよ、貴族としてそれなりに立派な歌や書を遺したこと、そのことを悪三位と誹られた道雅との対比によって、分をわきまえるということの大切さを、浮き彫りにしてくれているように思います。

そしてそういうことを実は言いたかったのだということを、藤原定家は、次の相模の「名こそ惜しけれ」の歌で、さらに明確にしています。


===========
共に生きることを大切にした気丈な妻
65番歌 相模(さがみ)

恨みわび干さぬ袖だにあるものを
恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ


うらみわひ
ほさぬそてたに
あるものを
こひにくちなむ
なこそをしけれ
===========

(現代語訳)
恨んで落胆して、ただ泣き明かして袖が乾くひまもありません。恋のために身が破綻して朽ちて行きそうですが、それでも名が惜しいのです。

(ことば)
【恨みわび】恨んで落胆して
【干さぬ袖】涙で濡れたままになっている袖
【だに】〜でさえ
【恋に朽ちなむ】恋によって朽ちてしまう

(解説)
相模というのは、和泉式部と仲の良かった女性で、夫の大江公資(おおえきみより)が相模守であったため、相模(さがみ)と呼ばれるようになった女性です。

ちなみに64番歌の藤原定頼は、この相模にもちょっかいを出してフラレています。関係したという話もあり、どっちがホントかはわかりません。
まあ、そんなことはどうでもよいとして、この歌の解釈について、歌の字面に書いてあることの額面通りというか、最近の多くの解説書では、要約すると「相模が誰か男性に恋をしていて、その恋が破綻して口惜しがっているところへ、さらに追い打ちをかけるように世間で自分のことを悪く言われ、そのことによって”自分の”名誉が削がれて行くことが悔しくて詠んだ歌」といった意味に解釈しているものが多いようです。

もちろんそういう見方もできようかと思います。
「名こそ惜しけれ」を、自分の名誉を惜しんでいると解釈しているわけですが、ただ、数々の歌会に招かれた当代一流の女流歌人とされた相模が、そのような自分の都合ばかりを主張するようなあわれな女性だったのでしょうか。

当時の歌会というのは、何度も書いていますが、いまで言ったら大晦日の紅白歌合戦のような催しです。
しかもそれが天皇の前で行われる公式な式典であり、大イベントであったわけです。
そうした席ですから、観客として臨場させていただけるだけでも名誉なことなら、歌人として歌を詠む人、つまり紅白歌合戦でいったら、歌手として壇上に立つ人ということは、それが公式な天皇の催しであるだけに、ただ歌がうまいとかそういうことではなしに、誰が見ても人格識見とも立派な人であり、しかも高い教養人であることが求められた人であったわけです。

そういう席に呼ばれる相模ですから、自分の名誉が惜しいのだ、という解釈も、もちろん、それはそれで成り立つかもしれません。
しかし、彼女は上の句で、「恨みわび干さぬ袖だにある」と詠んでいるのです。
これは、泣いて泣いて、どうしようもなく泣き明かして悲しみに沈み、涙で袖が乾くひまもない、ということです。
その涙は、自分の名誉のことなのでしょうか。
彼女は、そのような「自分のこと」しか眼中にない、そんな自分勝手な、自分のことしか考えないような人だったのでしょうか。
果たしてそのような、自分のことしか考えないような身勝手な女性が、たかが・・・あえて「たかが」と書かせていただきますが、たかが地方長官の妻にすぎない身分でありながら、わざわざ歌会に招かれるでしょうか。
そこは、並みいる高官たちが集う公式の国をあげての大イベントの席なのです。

実は相模は、大江公資(おおえのきみより)の妻なのですが、この夫は、たいへんな浮気性であったことが伝えられています。
任地の相模国(いまの神奈川県)には、妻の相模を伴って夫婦で赴任したのですが、現地で別な女性とねんごろになっています。
そのため夫婦仲が悪くなってしまうのですが、この後、いったん帰京し、今度は遠江守として遠州(いまの静岡県浜松市)に赴任したときは、妻である相模を都に残したまま、別な女性を伴って任地に向かっています。

要するに相模は、夫の浮気に悩まされ続けていたのです。
彼女は最初の任地の相模の国で、夫の浮気をなんとか沈めたいと、百首の歌を詠んで正月に伊豆走湯権現の社頭に埋めています。後世でいったら、御百度参りのようなものであったのかもしれません。

ところがこの百首の歌に対して、4月になって権現様からの返事が来ましたといって、相模の詠んだ百首の歌に、それぞれ呼応するように、返歌が相模に返されています。
一例を申し上げると、
相模の歌に、「お慕いしているのですから、私以外の女性を愛さないでほしいのです」とあれば、これに対する返歌として、「何を言うか。君より他に愛する女性はいませんよ」と書いてある。

おそらくは、妻が浮気封じに権現様に歌を奉納したという話を家人から聞きつけた旦那が、これはヤバイと、歌を取り寄せ、一首ごとに返事をしたため、それが「権現様からの返事ですよ」といって、相模に渡るように仕掛けたのでしょう。内容からしたら、そうとしか思えないものです。

それに対し、相模もたいした女性です。
百首の返歌に、またひとつひとつ、つまり百首の返歌を書いているのです。
さきほどのやりとりなら、相模の返事は、「地元の女性に手を出していることを、私はちゃんと知っているし、そういうふしだらな女性は、摘む人がたえない(別な男性のもとにも走る)ものと、わきまえてくださいな」と書いているわけです。
妻として、夫の浮気に悩まされ続けながらも夫を愛し、夫の浮気をなんとかとどめたいと願ういたいけな相模の気持ちが、とても悲しく感じられます。

この65番のこの歌は、まさに相模が、そういう悩みの中にあったときに詠んだ歌です。
つまり「恨みわび干さぬ袖だにあるものを」で、どうして恨んだり落胆したりして、着物の袖が乾かないほど毎日泣き濡れているのかといえば、その理由は夫の浮気にあるわけです。

そして下の句では「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」と詠んでいます。
一般的な通釈では、「恋に朽ちなむ」は、自分が、つまり相模国自身が別な男性に恋をしていて、「相模が夫以外の男性に恋していて、その恋に燃えすぎていて、このままでは相模自身が燃え朽ちてしまう」と解釈しているようですが、どうかんがえても、その解釈には無理があるように、私は思います。

夫の浮気に悩み苦しみ、毎日泣き暮らしているという悲しい状態にある妻が、別な男性と浮気をして燃えているのでしょうか。誰がどう考えても、これは「おかしな解釈」としかいえないのではないでしょうか。

そうではなくて、「恋に朽ちる」というのは、夫自身のことです。
夫が浮気のために、朽ち果ててしまう。そのことを、相模は涙に濡れた眼で、真剣に夫に訴えようとしているのです。
狭い世間なのです。
まして、相模守ともなれば、地域の著名人(いまでいったら県知事)であり公人です。
文脈からすれば、浮気の相手は複数です。
公人の身でありながら、複数の現地の女性に手を出し、浮気の虫が絶えない。
「そんなことでは、天子様からいただいた相模守の職責にも影響がでてしまうのではないですか?」
つまり、「浮気のために、あなたの名前が朽ちてしまうのではないですか?」

そして「名こそ惜しけれ」と続くわけです。
つまりここでいう「名こそ惜しい」というのは、「あなたの名前にも、大江家という家名にも泥を塗ることになってしまうのではありませんか?」と言っているのです。

この時代男性が他の女性と関係したり、他の女性の肉体的を求めることは、それを商売にする女性たちもいたことですから、ある程度は妻帯者であっても公認です。
けれど、それがあまりに度が過ぎていたり、官邸の女官たちのような素人女性にまで次々に手を出すとなれば、治めるべき地元の人たちからの反感を買ってしまいます。つまり、公務にも支障が出るようになってしまうのです。

ところが夫の大江公資(きみより)は、それを知ってか知らずしてか、浮気の虫がたえず、次々に女性に手をつける。地元の信用もなくす。
それは、相模守に任官してくれた宮中に対しても申し訳のつかないことですし、そのことから守護職を解かれるようなことでもあれば、それは大江家のご先祖様にも申し訳のたたないことです。

上の句で「恨みわびほさぬ袖だにあるものを」には、ただ浮気されて悲しくて涙を流しているということだけではなくて、「そのことはある程度あきらめもするけれど」という語感があります。
そして下の句の「恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」は、そういう夫であっても、その夫をどこまでも支えていこうとする妻としての相模の心、すなわちひとつの夫婦として、世の中に対する公職という責任をまっとうしていこうとする、悲しいまでの健気な相模の心が、そこに詠み込まれているわけです。

県知事という立派な公職にありながら、その職位を利用して周囲の女性たちと次々に関係をもってしまう夫、そんな夫を持ち、涙に暮れながらも、必死になって家を支えよう、夫に眼を覚まさせようとする健気な妻、そういう対比が、実はこの歌の骨子となっているのです。

つまりこの歌は、夫の浮気にただなよなよと泣いている弱々しい妻の愚痴歌などではぜんぜんなくて(そんな歌なら百人一首に選ばれません)、夫の浮気に苦しみながらも、夫を思い、国守としての夫職責を支え、夫婦相和して共に強く生きようとした気丈な女性の歌なのです。

結局、相模国の守護の任を解かれて都に戻った夫と、相模は離婚しました。
そして、再び中央を追われ、地方任務に飛ばされた夫に対し、相模は一条天皇の第一皇女である脩子内親王(しゅうしないしんのう)のもとへの出仕を命ぜられ、和泉式部らとも親しく交遊し、長元8年(1035)の「関白左大臣頼通家歌合」や、長久2年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、あるいは永承4年(1049)、6年の内裏の歌合会、永承5年(1050)の「前麗景殿女御延子歌絵合」や「祐子内親王歌合」、さらには天喜4年(1056)の「皇后宮寛子様春秋歌合」など、多くの歌合に歌人として招かれています。
つまり彼女は、中央において、時代を代表する女流歌人としての名声を不動のものにしていくのです。

ここまでくると、「名こそ惜しけれ」の意味も明確です。
「名こそ惜しけれ」は、自分の名誉とか、自分の名を上げるとか、そういう個人の栄達や欲望、あるいは名誉の延長線上のものではないのです。
相模が言っている「名こそ惜しけれ」は、あくまで、家の名誉であり、夫の名誉なのです。
そしてその家には、家人たちもいます。親兄弟もいる。自分のことではないのです。
つまり「名こそ惜しけれ」は、自分ではなく、夫や家、あるいは周囲にいる人たちみんなの名誉について、「名こそ惜しけれ」と詠んでいます。

そして、自分のことではなくて、みんなのことを常に優先した相模は、女性の身でありながらキャリアウーマンとして栄達し、自分のことしか頭になかった旦那は、結局地方まわりの低い地位のままで一生を終わりました。
我が名を惜しむ。我が名誉を惜しむという思想は、手前勝手な傲慢を生みます。
けれど、どこまでも「みんな」を気遣う心の先には、常に謙虚と「みんなからの支え」があります。
そこに「シラス」と「ウシハク」の違いもあります。

この歌は、実は、そのこと、とても大事なそのことに気付かせてくれる歌なのです。
だからこそ、この歌は名歌とされ、百人一首に選ばれ、また千年経った今でも人々に愛され伝えられているのです。


さて次回は、前大僧正行尊に、相模と同様「名こそ惜しけれ」と詠んだ女流歌人の周防内侍、そして今日ご紹介した63番歌の左京大夫道雅を「泣いて馬謖を斬る」心で娘と引き離した三条院の歌です。
お楽しみに。

※ねずさんの『百人一首で読み解く日本の心』は、12月出版の予定です。




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コメント

日本みつばち

No title
いつも素晴らしいお話をありがとうございます。
『百人一首で読み解く日本の心』は、出版が12月ですか!
2~3年待つつもりでした。嬉しい!愉しみです。

日本を守る

多くの韓国高校生を見殺しにした船舶会社の会長が草むらで腐乱死体で見つかったそうです。本者がどうかは知りませんが、人間のクズである事は間違い無いです。しかし、韓国は政治も司法も行政も三流以下ですね。日本と真っ向勝負したら全く歯が立たないからと、日本国内のメディア、芸能、新聞を利用して日本の国体の破壊を目論むとは、腰抜けの卑怯者ですが、よくよく賢明な日本人は心して見極めなければいけません。

mari

No title
六十三番の荒三位の歌は純愛なのかな〜と思っていたので、その悪行の数々を知ったときはがっかりしました。こればかりは「知らなきゃ良かった!」
・・・ということはありませんが(むにゃむにゃ)

本格的な夏を迎え、12月の出版を待ちこがれつつ次回も楽しみにしています!

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承認待ちコメント
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No title
ねずさん、いつもありがとうございます。

のちの時代、源頼朝が浮気をしたときに、北条政子が一族郎党を引き連れて浮気相手の屋敷を破壊したという話があります。これは女系相続、通い婚の世界で長じた頼朝からすれば浮気の内に入らなかったものが、東国では許されなかったみたいな説明を聞いたことがありますが、大江公資の例もそれに似て地元・相模国では相当評判が悪かったということはあり得ますか? 素人質問ですみません(っていうか、答えを期待しているわけじゃありませんが)。

今後も期待しています。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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