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一途に生きる
66番歌 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)
もろともにあはれと思え山桜
花よりほかに知る人もなし もろともに
あはれとおもへ
やまさくら
はなよりほかに
しるひともなし
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(現代語訳)
山桜も自分も一緒に愛(いと)しく思っておくれ。おまえも私も、花のほかには知る人もいないのだから。
(ことば)
【もろともに】諸(もろ)ともにで、山桜も自分も一緒に、といった意味になります。
【あはれと思へ】「あはれ」は哀れという意味と、「あ・はれ」で「あ」は愛、「はれ」は晴れで、愛しいという意味が重なります。
【花よりほかに】山桜の他には。
【知る人もなし】自分(山桜)を知る人もいない。
(歌の意味と鑑賞)
百人一首は、このところ、歌人の生き様とか、その歌人にまつわるドラマを31文字の短い言葉の中にあらわした歌を続けています。
そして夫の浮気に悩んだ相模の歌の次に配置されたのが行尊(ぎょうそん)です。
行尊は、前の大僧正です。
大僧正というのは、お坊さんの中で、いちばん偉い人です。
ところがこの方、たいへんなご苦労をなさった方です。
行尊は、もともと皇族です。
ところが仏門にはいって、なんと一番厳しい修験道になるのです。
修験道といえば、奈良時代の役小角(えんのおづぬ)が創始者として有名です。
山伏(やまぶし)と言った方が、ピンと来る方もいるかもしれません。
滝に打たれたり、ありとあらゆる苦行を積んで、ある種の超能力を身につける。
作家の司馬遼太郎は、子供の頃に、この修験道の人が家にやってきたとき、目の前で眼から火花を出すのを見たと、ご自身の伝記の中に書いています。
行尊は、修験者として、天台宗の円城寺で厳しい修行を受けるのですが、その円城寺が行尊が26歳だった1081年、比叡山延暦寺の僧兵たちの襲撃を受けて全焼させられてしまうのです。
延暦寺も天台宗、円城寺も天台宗です。
同じ天台宗どおしなのに、どうして争そったのかというと、延暦寺が天台の総本山なら、円城寺は、その天台の教えに日本に古くから伝わる古神道の教えを融合させた、いわば天台の変形、もっというと、日本の古神道に天台を融合させた日本型天台宗であったわけです。
つまり、正当派渡来仏教の旗手である延暦寺と、古神道と渡来仏教の融合を図った円城寺という関係で、きわめて両者は仲が悪かったのです。というか一方的に延暦寺から円城寺が嫌われるという関係だったようです。
円城寺で修行中だった行尊にしてみれば、多分に理不尽を感じたことでしょう。けれど行尊は修行を続け、修験道として、白河院や待賢門院の病気平癒や物怪調伏などに次々と功績をあげる、実力者になっていきます。
そしてついに円城寺の権僧正にまで登る。
ところが67歳のときに、再び円城寺が比叡山の僧兵たちによって、焼き討ちされてしまうのです。
行尊は、焼け野原となった円城寺で、その年、トップの地位である僧正になります。
そして円城寺を再建し、81歳でお亡くなりになる。
その亡くなるときの逸話がすごくて、ご本尊の阿弥陀様に正対し、数珠を持って念仏を唱えながら眼を開け座したままの姿でお亡くなりになっていたのだそうです。鬼気迫る気魄を感じます。
さて、この歌ですが、行尊は、もともとご皇族で、修験の道にはいるまえまでは、和歌の達人で教養のある人でしたから、修験者になってからも、たびたび宮中の歌会に歌人として招かれています。
そういうわけで、行尊が遺した歌は数々あるのですが、ただ、それぞれの歌がいつ詠まれた、つまり、行尊の年齢がいくつくらいで、どの場所でどの歌を詠んだかといった情報は、ほとんど伝わっていません。
ですのでこの歌も、行尊がいつ頃、どこで詠んだ歌なのはか、まったくわかっていないのですが、歌意から、おそらく若い修業時代の作品であろうと言われています。
歌は、『行尊大僧正集』には、次のように書かれています。
(山桜が)風に吹き折られて、なほをかしく咲きたるを
折りふせて後さへ匂ふ山桜あはれ知れらん人に見せばや
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし
また別な『金葉和歌集』(きんようわかしゅう)によると、歌詞として
「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」と書かれています。
どういう意味かというと、「大峯」というのは吉野から熊野にかけての山脈のことです。
おそらくは熊野の山中で、大嵐で折れて倒れかかった山桜の木が、それでもしっかりと花を付けている様子を見て読まれた歌である、ということです。
思いがけずそんな山桜を見た行尊が、嵐に枝を折られながらも、それでも健気に咲いている山桜を見て、深い山中で、あんなに一生懸命に花をつけていても、おそらく誰にもそんな姿を鑑賞する人などいないのに、それでも花をつけている。
そんな山桜の姿に、焼き討ちにあって何もかも失ってしまっても、それでもその焼け野原から、また立ち上がろうとする思いを、この歌に込めて詠んだということがわかります。
小倉百人一首の選者である藤原定家は、この行尊の歌を、相模の歌の次に配置しました。
相模は、夫の浮気に泣きながらも、それでも家を支え、子を守ろうとした健気な女性です。
その相模は、「名こそ惜しけれ」と詠みました。
そして続く66番では、度重なる理不尽に寺を焼かれた若き日の行尊が、何もかも焼かれても、山桜が嵐に枝を折られても、それでも尚、花を咲かせている姿を山中でたまたま見かけ、どんなことがあっても、決してくじけず、努力を重ねて行こうという決意をあらわした歌を配置しているわけです。
「花よりほかに知る人もなし」
山桜がそこでがんばって咲いている姿は、その山桜しか知らない。
誰もみていなくても、誰からも評価などされなくても、人がみていなくても、ただ一途に自分にできることに精進する。
行尊が生きた時代は、11世紀ですので、ちょうどいまから千年前です。
けれど、その千年前にも、度重なる不幸があっても、それでもそこから誠実に立ち上がろうとした人がいて、そしてその人は、数々の勲功をあげ、晩年には大僧正にまで出世する。
そしてそこまで出世しても、行尊は、高齢の身でありながら、ただ一途に阿弥陀様の前で経を唱えながら、眼を開け、座したままで死んで行ったのです。
生きるということは、苦しみの連続だし、人生は、途中で何もかも失ってしまうという、厳しいことさえあるわけです。
それでも、一途に生き通す。
それが、大和人の生きる道と、この歌は教えてくれています。
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人として対等
67番歌 周防内侍(すおうのないし)
春の夜の夢ばかりなる手枕に
かひなく立たむ名こそをしけれ はるのよの
ゆめはかりなる
たまくらに
かひなくたたむ
なこそをしけれ
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(現代語訳)
春の夜も、そんな夜に見る一夜の夢でしかない腕枕の誘惑も、それによってつまらない世間の噂が立ったら、お悔しいでしょ?
(ことば)
【春の夜の夢ばかりなる】春の夜も夢も、ともに「はかないもの」という意味合いがあります。ですので、ひとことでいえば「はかないばかりの」といった意味になります。
【手枕(たまくら)に】腕枕のことです。
【かひなく】かひなくは、する甲斐もない、つまらないといったときに使われる言葉で、この場合「かいな(腕)」と意味がかかっています。
【立たむ】この場合の立つは、両足で立つということではなく、次の「名こそ惜しけれ」にかかります。
つまり世間の噂がたつ、といった意味になります。
【名こそ惜しけれ】
(歌の意味と鑑賞)
周防内侍は、いまでいったら高級官僚のキャリアウーマンで、まる50年以上にわたって宮仕えを続けた女性です。
歌人としても、歌会に呼ばれるほどの女性ですから、とびきりの才能があった女性といえます。
とかく才能のある人は、さまざまな政治的派閥抗争に巻き込まれ、わりとキャリアが短命におわりがちなのですけれど、周防内侍の場合、特別な才能があって目立つ存在でありながら、そうしたさまざまな激動する政治勢力の動きの中にあって、立派に最後まで勤めを果たした女性であったことがわかります。
よほど有能な女性であったということですから、いまふうに言うなら、まさに「使える女性」であったということができます。そうとう仕事ができ、しかも才能も能力もあり、それでいて派閥抗争にも巻き込まれず、誰からも愛され、仕事上の責任も見事に果たしながら、宮仕えを50年以上にわたってやり通したわけです。
それは、周防内侍が、すごい女性であったということです。
そんな周防内侍の生涯を代表する歌として、藤原定家が選んだ歌が、この「名こそ惜しけれ」の歌でした。
この歌には、『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)に歌詞があって、そこには次のように書かれています。
「二月ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居明かして物語などし侍りけるに、内侍周防、寄り臥して「枕もがな」としのびやかに言ふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける」
現代語にしますと、
「ある年の2月、月が明るい夜に、二条院で人々が集まって、夜遅くまでみんなで語り明かしていました。
遅い時間になって、周防内侍はちょっとお疲れになったのか、かべにもたれて、『枕がほしいわ』なんてつぶやかれました。
すると大納言であった藤原忠家が、すかさず簾(すだれ)の外から腕を差し入れてきたので、この歌を即興で周防内侍が詠みました」といった意味になります。
「腕を差し入れる」ということには、これまた今風に言うと「エッチしましょう」といったお誘いのメッセージがあることから、最近の本などでは、この歌の一般的な解釈として、
「春の夜に儚(はかない)一夜をともにしようと誘われても、そんなことをして、つまらない噂が立てられるのは不本意なのではありませんか?」と、ちょっと艶っぽく即興で返した歌だと解釈されているようです。
もちろん、それも間違いではないと思います。
相手は、大納言です。
今で言ったら、色男の閣僚(大臣)から、口説かれたわけです。
ついついその気になって、よろめいてしまうという下世話な想像力をかきたてられても、無理からぬことかもしれません。
けれど、この歌の大事なことは、そんな下ネタにあるのではありません。
そんな簡単なことではないのです。
身分の上からいえば、言い寄ってきた、つまり腕を差し出してきた藤原中家は大納言であり、後世の世でいえば、いわばお殿様です。
これに対し周防内侍は、宮中の身分からしたら、もっとも格下の一女官にすぎません。
世界の中世における王宮内の出来事とすれば、周防内侍は、お誘いを断れるような立場にはないのです。
一方、誘った側である藤原忠家にしても、誘って断られたとあれば、それは人前で忠家が「恥をかかされた」ということになります。
体面を考えらたら、お手打ちしたっておかしくないくらいの話で、それでなくたって、後々恨みを買い、周防内侍は、宮中での立場を悪くしそうな状況であるわけです。
事情は、実はとても深刻なのです。
要するにもっとわかりやすく言うなら、大企業内において、若い周防内侍が、重役から公然とエッチのお誘いを受けたわけです。
いまふうにいえば、セクハラとパワハラの両方を一緒に受けたようなものです。
女性の人権問題だとか、セクハラ相談所などは存在しない中世のことです。
そんな時代背景のなかで、周防内侍がどのように対処したのか。
そして、言い寄った忠家は、そして平安の宮中の社会がどのようなものであったのかまでを、私たちに語りかけていてくれるのが、この歌なのです。
この時代は、いまのような電気はありません。
あるいみ、夜の灯りは、月明かりがたよりです。
時期は旧暦の二月ですから、いまでいったら1月です。
当時は、いまよりもずっと気温が低かったので、まだ雪がかなり残っている。そんな時期であったかもしれません。
そんなまだ寒い時期だけれど、月のきれいな晩に、二条院に貴族たちの男女がいっぱい集まって、みんなでワイワイやっていたわけです。
夜も更けてきて、ちょっと話疲れた周防内侍は、壁に背中を預けて、なんの気なしに、「ふぅ。ちょっと疲れたわ。枕があったら横になれるのにね」と、ひとりごとをつぶやいたわけです。
その声を聞きつけた大納言の藤原忠家が、すだれごしに腕を差し入れ、周防内侍に、「私の腕をまくらにしなさい」と、言うわけです。
腕枕で横になるということは、二人が一緒に横になることです。
これはけっこう大胆な、お誘いとも受け取れる発言です。
それに対して、周防内侍は、「春の夜の夢は、はかないものですわ。そんなはかない一夜の恋の相手に、わたしのような者をお相手になさっては、大納言様のお名前に傷がつきますよ」と、即興で、じつにきれいな歌を返したわけです。
実は、この返し方は、とても艶やかであるだけでなく、おしゃれなものです。
というのは、「腕を差し出した」ということは、大納言にしてみれば、仮にそれが冗談であったとしても、あるいは本気であったとしても、おもいきりストレートなお誘いと受け取られてしかるべきものなのです。
ところが、にっこり笑いながら「わたしのような者をお相手になさっては、大納言様のお名前に傷がつきますよ」と言われれれば、忠家は、「わはははは。おもしろい女御にござりまするな」と、笑って腕を引っ込めることができるわけですし、周囲も、それを見て、みんなでにっこりできるわけです。
一方、周防内侍にしても、お誘いを断ることで、大納言様との人間関係を悪化させるわけにいきません。
相手は大納言なのです。
狭い宮中で人間関係を悪化させれば、下手をすれば宮中をクビになる。
それだけのリスクはあるのです。
ただ「あなたの名前が惜しいのではありませんか」というのでは、これは嫌味です。
おしきせがましいし、まるっきり「おためごかし」ですし、ナマイキです。
くり返しますが、相手は大納言なのです。
けれども、即興歌で、「腕枕」と「かひな(腕)」をかけて「手枕にかひなく立たむ」とやさしく詠み、さらに腕枕のことを「春の夜の夢ばかりなる手枕」と、その男らしくたくましい腕(かいな)を、やわらかく「春の夜の夢」と詠んでいるわけです。
つまり、「大納言様のその強く逞しい腕は、わたしのような者にとっては、1月の寒い中にあって、まるで春の夜の夢のような、温かみと強さをもった素敵な腕ですわ」と、こんなことまで言われたら、大納言にしても、「わはははは。ありがとう」と、素直に腕をひっこめれるし、周防内侍にまるで悪意をいだかない。
周防内侍は、宮中の人間関係に齟齬をきたさないし、大納言の面目もちゃんと保たれる。そういう対応を実に見事に行ったのです。
きわめて知的な周防内侍の対応です。
さらにこの歌には、もうひとつ、たいせつなことが描かれています。
それは、中世の日本が、男女も身分の上下も超えて、仕事の上ではもちろん身分や上下関係はあったけれど、人としては互いを敬い、大切にする人間が人間として互いに対等な社会であったということです。
もし、中世の日本社会が、男尊女卑であり、身分の上下が絶対視されるような社会であれば、周防内侍は、こんな上官に逆らうような歌を詠んだというだけで、死罪を免れなかったかもしれません。
これが中世のChinaの王朝社会であることを想定すれば、そのことはよく理解できるものと思います。
ウシハク国では、身分こそ絶対だからです。
ところが日本はシラス国です。
シラス国は、情報共有化社会ですから、人はそれぞれ対等です。
対等ということは、お互いがお互いの尊厳を認めるということです。
対等は平等とは異なる概念です。
運動会の駈けっこで、みんな並んで「ハイ、ゴール。はぁい、全員一等賞〜♫」というのが平等です。差異を認めない社会です。
ところが、そうはいっても、男女には性差はあるし、社会を維持しようとすれば、身分の上下も生まれます。
つまり、平等な社会というのは、理想であっても現実離れしている概念なわけです。
ところが対等はこれと異なります。
あいつは勉強では学年で1番だけれど、駈けっこだったら俺が一等賞だい、というのが対等です。
お互いがお互いの尊厳を認め、相手の良いところを認め合いながら、それぞれが自分のできる範囲で努力し互いに協力し合う。それが対等観です。
日本の中世社会は、「皇、臣、民」の三層構造といわれますが、すべての臣民が天皇のおおみたからとされた日本社会では、男もたから、女もたから、太政官もたから、女官にすぎない周防内侍もたからなのです。
だからこそ、周防内侍たちは、身分の垣根を越えて、二条院で太政官までも交えて、夜遅くまでみんなでワイワイ騒いでいたのだし、太政官のお誘いを、周防内侍はきれいに断り、そんな二人のやりとりを、みんながまた、素晴らしい、おもしろい(をかし)と讃えたわけです。
そして周防内侍は、そういうウィットに富んだ応酬ができることによって、危機に及んでも誰も傷つけることなくその場をおさめることができる。
周防内侍がいれば、場が常にまるくおさまる。
だからこそ、周防内侍は、50年以上にわたって、政争渦巻く宮中にあって、誰からも愛されながら職務をまっとうし、生きのびることができたわけです。
政治には、どうしても対立や抗争がついてまわります。
盛者必衰というたとえもあります。
そして男たちにとっては、仕事は戦いの場でもあります。
けれど、戦いであるがゆえに、正直者であればあるほど、国想う真実を尽くせばつくすほど、傷つき汚れ、政界を追われることもあるわけです。
ところが周防内侍は、女性の身でありながら、そんな政界にあって、キャリアウーマンとして、生涯にわたって重要な職を勤め上げることができました。
そしてその理由は、彼女が「名こそをしけれ」と、誰の名誉も傷つけずに生きたからであったわけです。
周防内侍のこの歌は、政争の中にある男たちからみれば、ある意味、たいへんに貴重であり、またたいへんに勉強になる女性であったのです。
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やすらけき世を祈りしもいまだならず
68番歌 三条院(さんじょういん)
心にもあらで憂き夜に長らへば
恋しかるべき夜半の月かな こころにも
あらてうきよに
なからへは
こひしかるへき
よはのつきかな
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(現代語訳)
心ならずも、憂うことの多い浮き世だけれど、その長い夜の暗闇の中に、恋しいのは夜更けの月だなあ
(ことば)
【心にもあらで】心ならずも、不本意ながら。
【憂き夜に長らへば】物憂い世の中と浮き世(現世)の掛詞。長らへばは、長い憂いと、長い人生、夜の闇の深さの3つが掛けられている。
【恋しかるべき】恋しいのは。
【夜半の月かな】夜半(夜更け)の月だなあ、ですが、月はめぐるものの意が含まれます。
(意味)
この歌は、第67代三条天皇が退位したときに詠まれた歌です。
この時代、政治権力は藤原道長にありました。
道長は「この世をば我が世とぞ思う」と詠んだ、まさに藤原氏の全盛を築いた超のつく権力者です。
三条天皇は、道長の横暴にたいへんお心を悩まされていたのですが、それだけに道長にとっては、自分を必ずしも快く思っていない三条天皇は邪魔な存在です。
そんな長和3(1014)年、三条天皇は眼病を患い、失明寸前にまでなってしまいます。
これはChinaで不老不死の妙薬とされる「仙丹」という薬を献上され、これを飲んだことが災いしたものであると言われています。
「仙丹」というのは、水銀を多く含みます。
水銀中毒であれば、おそらくは失明寸前の状態にまで至ったのであろうと思われます。
その眼病を理由に、道長は強引に三条天皇に退位を迫りました。
日本において、天皇は権威です。
道長は権力者です。その権力に裏付けを与えているのが天皇の権威です。
道長は、眼の上のコブとなった三条天皇に退位を迫る。
いくら天皇の権威の方が、道長の政治権力を上回っているとしても、退位を迫られた三条天皇は重い眼病を患っています。これは三条天皇の方が歩の悪い戦いです。
けれど三条天皇は、道長の圧力に屈せず、天皇の地位を譲りませんでした。
するとこの年、とつぜんの火事で、皇居が全焼してしまったのです。
ようやく仮設で皇居を間に合わせたのですが、するとそのまた翌年、再びその仮設の皇居が全焼してしまう。
このときの火災では、道長の居邸も消失してしまうのですが、道長は自分の居邸の修復を優先し、内裏の修繕は後回しにしています。
重い眼病に加えて、二度にわたる内裏の火事。
ここまできて、三条天皇は退位を決断し、道長の押す後一条天皇が即位します。
三条天皇は、三条院となられ、翌年(1017)年4月に出家して僧門に入り、6月5日、崩御されています。42歳の若さでした。
この歌は、後一条天皇が即位し、三条天皇が三条院となられたときに詠まれた歌です。
心にもあらで憂き夜に長らへば
恋しかるべき夜半の月かな
三条院は、藤原道長が強力な権力者となり、私的に富を独占する、そうした流れにたいへんな危機感を持ち、ほんらいのあるべき日本の姿、天皇の権威のもとに、民衆こそがおおみたからとなる世を、生涯にわたって望まれた方でした。
けれども時代は心ならずも、道長の権勢ばかりが強大になっていく。
こうした流れをみれば、歌にある「心にもあらで(心ならずも)」、あるいは「憂き夜(浮き世)」と詠まれているのが、権力者によって日本が歪んで行ってしまうことを、たいへんにお悲しみになられたものであるということは、容易にわかることです。
その歪みが、すくなくとも三条院の見えない眼には「まだまだ続く」と見える。それが「長らえば」です。
そして「恋しかるべき」は、「夜半の月」と詠まれています。
前にも述べましたが「月」は、三日月になったり、満月になったりするものです。
いまは細長い月でも、いつかはまた満月になる。
ですから「月」は「めぐるもの」の意です。
つまり、恋しいと思うシラス国日本という、あるべき日本の姿に(いまは歪んでしまっているけれど)、いつか再びもどってもらいたい。そのことを、夜更けに中空に浮かぶ月を見て、三条院は詠まれています。
ちなみに、このときの「月」ですが、「夜半の月」ですので、私は、おそらく満月か、それに近い太った月であったろうと思っています。
そしてその「月」は、「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなきと思えば」と詠んだ藤原道長の満々たる権勢(望月は満月のことです)を意味しているのであろうと思うのです。
その望月のために、この世が闇に閉ざされている。
三条院の眼も、闇に閉ざされている。
その闇も、いつかはめぐり、再びこの世に光が戻る。
それは月の光ではなく、燦々と降り注ぐ太陽の光、つまり太陽はアマテラスオオミカミ様ですから、お天道様の恵をいっぱいに受けた、輝く未来、明るい未来を、院は「恋しかるべきもの」と詠まれたのだと私は解しています。
時代は変わりますが、昭和天皇がお亡くなりになられたときのご時世の句が、
やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるかきざしみゆれど
です。
この御製は、昭和天皇が昭和63年8月15日の全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、それはいまだなっていない。そのことが悔しい。きざしはみえているけれど、そこに手が届かない。」この御製は、そのような意味の歌です。
この歌を陛下は、お亡くなりなる直前に英霊たちにささげられました。
そして「悔しい」とお詠みになりました。
世は昭和から平成へと代わりました。
すでに四半世紀が経ちました。
昭和天皇が祈り続けられた「やすらかな世」を、わたしたちは実現しえたのでしょうか。
陛下が英霊たちに捧げられた思いに、わたしたちは、なにかひとつでもおこたえしてきたのでしょうか。
千年前も今も、そして千年後も、陛下の思いは常にわたしたち臣民とともにあります。
日本は、天皇のシラス国なのです。
さて、次回は、69番の能因法師(のういんほうし)、70番の良暹法師(りょうぜんほうし)、71番の大納言経信(つねのぶ)の三人です。
さて、そこにはどのようなドラマが隠されているでしょうか。
次回をお楽しみに。

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コメント
umeneko
行尊の歌の意味、今まで、行尊は山桜に話しかけるしかない孤独な人なのだと思っていました。恥ずかしい…。
学校ではほとんど習わずに来てしまいましたが、百人一首の世界は作者の人となりや周辺状況まで理解するととても味わい深く楽しいですね。今後も解説を楽しみにしています。
2014/07/31 URL 編集
mari
中国から日本に帰化した石平氏は、唐の詩人杜牧の絶句「江南の春」の情景を京都の嵐山で初めて発見したそうです。
千里 鶯啼いて 緑 紅に映ず
水村 山郭 酒旗の風
南朝 四百八十寺
多少の楼台 煙雨の中
この景色は石平氏の祖国では失われ、中国国内では見る事ができなくなっているそうです。つくる会の教科書に書いてありました。
なんて悲しい・・・と思いましたが、翻ってみると和歌の心は、このままでは「江南の春」と同じ運命になってしまわないかと危惧しております。
歴史や古事記を見直そうという活動はよく見かけるようになりましたが、和歌を見直そうという人は今まであまりいなかったのではないでしょうか?そういう意味で、ねずさんの「百人一首解説」はとても貴重で重要な一手であり、大いに賛同しています。
今日の三首も大好きです。中でもやはり御製はひときわ重みを感じます。今後も御製の御心が世に遍く知れ渡る事を祈りつつ、次回も楽しみにしております。
2014/07/31 URL 編集
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2014/07/31 編集
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2014/07/31 編集
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2014/07/31 編集
はっちょもん
謡曲を習っていた時期がありました。
観世流職分の先生が
「イロハニホヘト チリヌルオワカと区切ったように発音してはいけません。
いろはにおえど ちりぬるを
わかよたれぞ つねならmん~~
とスラリと発音しなさい。」と教わりました。
イロハ は和歌なんですね。
言葉は文化です。
2014/07/31 URL 編集