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護るべき国のカタチ
72番歌 祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)
音に聞く高師の浜のあだ波は
かけじや袖のぬれもこそすれおとにきく
たかしのはまの
あたなみは
かけしやそての
ぬれもこそすれ
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(現代語訳)
噂に名高い高師の浜の波しぶきを私にかけて、私を口説かないでね。私の袖が濡れてしまいますわ。
(ことば)
【音に聞く】世間の噂に聞く(耳にする)
【高師の浜】高師は「高し」で、評判が高いという意味と、松並木で名高い高師の浜を掛けています。高師の浜は、大阪の堺市から高石市に至る浜で、かつては松の名所とされていました。
【あだ波】いたずらに立ち騷ぐ波のことで、いたずらに騒ぐ世間の噂と掛けています。
【かけじや】波しぶきをかけないでねという意味ですが、世間の噂という波をかけないでね、という意味と掛けています。
【袖のぬれもこそすれ】波しぶきで袖が濡れることと、世間の噂で涙を流して袖が濡れるという意味の両方がかかっています。
(作者)
祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)というのは、ちょっとまぎらわしい名前で、3つの部分から成り立っています。
「祐子内親王の家の紀伊」です。
祐子内親王(ゆうしないしんのう)」は、後朱雀天皇の第三皇女です。
その祐子内親王の家の家人であった「紀伊(きい)」という名の女性が、この歌の詠み手です。
「紀伊」は、その女性の父親が紀伊守(きいのかみ)だったことに由来しています。
(歌意)
この歌は、一般に「恋の歌」として有名な歌です。
この歌が詠まれたのは、堀河院艶書合(ほりかわのいんのえんしょあわせ)のときのことで、艶書合(けそうふみあわせ)というのは、恋歌を作り合って優劣を競う歌遊びのことをいいます。
ですからこの歌が「恋のヒトコマ」を詠んだ歌であることは間違いのないことです。
この歌会では、まずはじめに宮中の侍従であった藤原俊忠が
人知れぬ思ひありその浦風に
波のよるこそ いはまほしけれ
と歌いました。「人知れずあなたを想っています。波の夜にでもお伺いしたいのですが」といった意味です。
これに対し、返歌として紀伊が詠んだのが、この72番歌です。
音に聞く高師の浜のあだ波は
かけじや袖のぬれもこそすれ
藤原俊忠が、恋する思いを「風に吹き寄せられる波」と詠んだので、紀伊はそれを「あだ波ですわ」と言い、「どうしましょ。そのよう口説かれたら私、涙で袖が濡れてしまいますわ」と返したわけです。
つまり上手にお誘いをお断りしたわけです。
歌は「浜辺の波の音」を「世間の噂」に掛けたり、「波しぶきをかけないでね」と言いながら、その実「世間の噂になったらどうしましょ」と、実に巧妙に言葉を掛けていて、技巧的にもすぐれた歌になっています。
歌の調子も美しく、掛詞を駆使しており、見事な歌になっています。
ではこの歌は、ただの「恋の歌」なのでしょうか。
実はそこが、ちょっと違うのです。
歌会で、はじめのお誘い歌を詠んだ藤原俊忠は、この歌を詠んだとき29歳です。
この時代の29歳というのは、いまなら30歳代の半ばくらいのイメージの年代です。バリバリに仕事のできる壮年です。
これに対し、藤原俊忠の口説き相手として歌を返した紀伊は、このとき70歳です。
もう老境といって良い(紀伊さんごめんなさい)身です。
「えっ!?、藤原俊忠ってそういうご高齢の女性趣味の人だったの?」
いまなら、そんなことを考える人がいるかもしれませんが、それは違います。
なぜならこの歌は、秘め事としての、お二人だけの歌のやりとりではないからです。
たくさんの人が集まった歌会の席での応酬歌です。
みんなが集まっている席で艶歌を詠み合うという席での歌の中だけでの言葉のお遊びとしての歌だからです。
そんなことよりも、もっと大切なことがあります。
この歌会に招かれた紀伊の雇い主である祐子内親王は、第69代後朱雀天皇の皇女です。
そしてこの歌会は堀川院で行われています。
そこは第73代堀河天皇の私邸です。
つまりこの歌会は、堀河天皇の時代に、その堀川天皇の私邸で催されたものです。
その歌会に祐子内親王が招かれ、そこに祐子内親王の家人である70歳の紀伊も出席していたわけです。
そういう半ばオフィシャルな席で、天皇の侍従という高貴なお方である藤原俊忠が、「夜、あなたのもとに忍んで行ってもよろしいですか?」と艶っぽい歌を詠み、これに内親王の付き人の女官である紀伊が「あなた様のようなすばらしいお方に波をかけられたら、袖が濡れてしまいますわ」と実に上手に歌を返して、みんなで楽しんだのです。
状況を考えれば、からかった藤原俊忠に、お歳を召された女官が、実に優雅にやんわりとやさしくそのお誘いを断る。そういう歌のやりとりに、会場はほっこりとした明るい笑いと笑顔に包まれた様子を窺い知ることができます。
これはすこし時代を変えて考えてみたら、たとえば江戸時代なら、ご家老の若君が、村の老婆に「添い寝しませんか」と声をかけ、それを老婆が実におしゃれに断って、みんながほっこりとしたあたたかな笑いに包まれる、そんな情景かもしれません。
ここまでくると、紀伊の歌が、単に高師の浜のあだ波を詠んだだけの歌ではないことがわかります。
表面上の意味は、お誘いへのお断りを高師の浜のあだ波に掛けているだけの歌ですが、その奥にあるのは、当時の日本社会そのものへの賛美であり、賞賛であり、共感が詠み込まれているのです。
藤原俊忠は、身分の高い男性です。
紀伊は、身分の低い歳を取った(ごめんなさい)女官です。
その二人が、身分の上下や、年齢の上下、あるいは男女の区別なく、お互い対等に、互いを尊敬し、敬愛し、互いに役割分担の違いをきちんと認識しあったうえで、「人として対等」に接しています。
「歌会だから、そんなことはあたりまえじゃないか」、と思われる方がいるかもしれません。
しかしこの歌が詠まれたのは、12世紀の初頭です。
世界史でみれば中世です。
まさにウシハク領主が、領民たちを支配し収奪し、王権を確立していた時代です。
そういう世界にあって、なんと日本では、上下の身分や老若男女の別なく、お互いが人間として対等に接することができる社会を構成していたということを、この歌は見事に証明しているのです。
だからこそ百人一首の選者である藤原定家は、源経信の歌の次にこの歌を配しています。
源経信の歌は、国想う武人の歌です。
その歌のすぐあとに、定家は紀伊の「老若男女の別なく、みんなが互いに対等に、ほっこりとした笑顔で付き合う姿を描いた歌」を配置したのです。
これはつまり、源経信が国を護るというのなら、その護るべき国というのがどういうカタチをした国なのかを、紀伊のこの歌を通じて、語りかけたのだ、ということを、私たちは知ることができます。
「護るべき国」というのは、領主や王に対する忠誠のために護るのではありません。
「護るべき価値がある」から「護る」のです。
そしてその「価値」は、わたしたちの国では、老若男女を問わず、あるいは身分の上下を問わず、みんながほっこりとしたあたたかさの中で、ともに語り、笑い、泣き、支え合い、ともに生きる。
そういう国柄にこそ「価値」が置かれていたということを、この紀伊の歌は見事に証明しているのです。
そしてその価値は、百人一首の時代、つまり千年前の日本に厳然と存在していたということを、この歌は私たちに教えてくれています。
こうなると藤原定家がこの紀伊の歌を、単に「紀伊」とするのではなく、「祐子内親王の家人である紀伊」とした理由も明確になります。
たとえ家人にすぎなくても、これだけ堂々と、我が国最高の権威におわす天皇の側近である侍従と、対等に歌の交歓ができていたということを、この歌は見事に証明しているからです。
紀伊が生涯に詠んだ歌は、他にもたくさんあります。
もっと良い歌も、たくさんあります。
けれど藤原定家がこの歌を選んだのは、この歌が、「古代から続く愛すべき日本の姿」を実によくあらわしているからに他なりません。
この紀伊の歌を、単に恋の歌として楽しむのもよいでしょう。
あるいは、掛詞を多様した技巧的な歌として鑑賞することも、良いでしょう。
けれどそれだけでは、もったいないと思うのです。
この歌が内包する歌の「高み」をしっかりと味わったところに、この歌が千年の長きにわたって人々から愛され続けた理由があるのですから。
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遠く奥州の地もシラス国
73番歌 前権中納言匡房(さきのごんのちゅうなごんのまさふさ)
高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山のかすみ立たずもあらなむたかさこの
をのへのさくら
さきにけり
とやまのかすみ
たたすもあらなむ
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(現代語訳)
遠くの高い山の頂(いただき)に桜が咲いているのが見えるので、手前にある低い山並みに霞(かすみ)が立たないでほしいなあ。
(ことば)
【高砂の尾の上】「高砂」は高く積もった砂で「尾の上」にかかります。尾上は峰の上のことで山頂の意。
【外山】深山(みやま)の反意語で、平地に接した低い山なみ。
(作者)
前権中納言匡房(さきのごんのちゅうなごんのまさふさ)というのは、大江匡房(おおえのまさふさ)のことです。59番歌で、約束を守らなかった彼氏に「あんた来ないんだったら、あたしグレちゃうわよ!」と痛快な啖呵をきった赤染衛門の孫にあたる男性です。
大江匡房(おおえのまさふさ)は、子供の頃から、いわゆる「神童」と呼ばれた天才児で、長じてからも平安時代有数の碩学(せきがく)とされ、その学才は菅原道真と比肩されたということですから、これはたいへんな逸材です。
大学頭(だいがくのかみ)であり、後三条天皇の御治世のとき、天皇の側近として「延久の善政(えんきゅうのぜんせい)」を推進する中心ブレーンとなった人でもあります。
大学頭というのは、いまで言ったら東大の総長ですが、当時の大学頭は、政治にも強い影響力を持っていましたから、こうなると東大の総長で、かつ内閣の筆頭ブレーンといった地位にあった人ということができようかと思います。
有名な逸話としては、源氏の頭領である八幡太郎義家(源義家)が、大江匡房の兵法の弟子になったというものがあります。
前九年の役でたいへんな苦労をした八幡太郎義家が、実戦の苦労から、当時日本一の英才であり兵法の達人であった大江匡房に弟子入りし、そのかいあって後三年の役では、見事に快勝を果たした、というものです。
大江匡房は、学者として数々の著作をのこし、また和歌も多数遺していますが、百人一首では、この歌が採用となりました。
(歌意)
「遠くの山のてっぺんに桜が咲いているのが見えている。だから手前の低い山並みに、いまはかすみが立たないでほしいなあ」というのが書いてある歌の現代語訳です。
ですからたいていの解説書には、「遠景と近景をさわやかに対比した名歌」などと書かれています。
表面的に書いてあることは、たしかにそれだけのことです。
ですからそれを歌意と受け取っても間違いではありません。
けれど、ここで思い出していただきたいのは、この歌の詠み手の名前に「前権中納言」と職名が付されていることと、和歌は上の句下の句に本当に言いたいことを直接書くのではなくて、言いたいことは別にあるという2点です。
そこでキーワードになるのが、
「延久の善政(えんきゅうのぜんせい)」です。
大化の改新(645年)のあと、我が国は天皇が民衆を直接「おおみたから」とする「シラス国」を目指す国つくりを目指しました。
すべての民衆を天皇の民(公民)とし、国土も天皇の国土(公地)とするという道を歩んだのです。
その証拠に、大化の改新の翌年には「公地公民制」が、さっそく公布されています。
ところが、平安時代も中期になると、新田の開墾が進み、それら新田が私有地となり、そこに住む人々が、天皇のおおみたからとしての民ではなく、豪族や貴族たちの私有民化する傾向が生まれてきました。そしてそういう私有地、私有民の中には、領主によって民衆がまるで奴婢のように私的に支配され、収奪されるという状況も一部に生れるようになってきていたのです。
そこでこれを改革し、あらためてシラス国日本を再構築しようとしたのが第71代の後三条天皇のご治世(1068-1072)です。
このご治世のときに実施された様々な改革を「延久の善政」と呼びます。
よく「延久の善政は後三条天皇が行った」と書いている本がありますが、これは半分正解、半分不正解です。
なぜなら、天皇は政治を行わないからです。
天皇は政治を行う人たちに、そのための権威を授けるお立場にあらせられます。
ですから「延久の善政」は、この時代の太政官が行ったものであって、天皇が行ったものではありません。
あくまでも、「後三条天皇の時代に行われた」という意味になります。
そしてこの「延久の善政」における中心的役割を果たしたのが、碩学の大江匡房(おおえのまさふさ)です。
彼は後三条天皇を支える太政官のブレーンとして、形骸化しつつあった律令制度の再構築と、内裏の再建、財政基盤の再確立、そして征夷の完遂を打ち出し、このための施策を次々に打ち出していったのです。
この「延久の善政」によって、私的に私財を蓄えていた摂関家は、かなりの財産を失いました。
けれど内裏の財政はうるおい、また、この時代に起きた「延久蝦夷合戦」によって、いまの青森県までの本州全土が、完全に朝廷の支配下に入り、豪族の私有するエリアではなく、天皇のシラス国の仲間入りをしました。
奥州諸国が天皇のシラス国の仲間入りするということは、奥州の豪族たちにとっては、あまりいいことはありません。朝廷への納税の義務が発生するし、領民たちはそれまでの私有民から、天皇の民という位置づけになるからです。
ところがそこに住む領民たちからすると、それまでは領主である豪族たちに私的に支配される隷民でしかなかった地位が、今度は我が国最高権威である天皇の民という地位に大昇格するわけです。
支配層である豪族たちは、それまでは領民たちを生かすも殺すも自由だったものが、こんどは領民たちは天皇からの預かりものという地位になりますから、勝手に殺したり奪ったりされることがない。
領民たちこそが、最高のたから、という位置づけになるのです。
「延久の善政」における「延久蝦夷合戦」は、朝廷の支配圏の拡大や征服地の拡大を意味するものではありません。同じ国土に住む一般の民衆が、人として安心して暮らせる国の民となるという意味を持つものであったわけです。
ここまでくれば、この歌が、表面上に書かれた「単に遠くに見える山頂の桜を詠んだ」というだけの歌ではないことが、はっきりしてきます。
つまり、ここでいう「高砂の尾の上」は、遠く奥州の津軽半島や下北半島までの遠くにある地域のことであり、「桜」はそこが本朝の一部となったこと、そして「桜」は、朝廷の財政再建にあたって、本来の我が国の理想とする姿である「シラス国」であること、すなわち美しい国日本の理想の姿を示したものであることがわかります。
これを実現するにあたって、障害となっているのが、朝廷内にある「ウシハク」に取り込まれた人たち、つまり低い山に群がる「かすみ」であり、それが「外山のかすみ立たずもあらなむ」と、「どうか、いま行おうとする改革の邪魔をしないで下さいな」と詠んでいるわけです。
つまりこの歌の意味は、「遠く奥州までもが我が国の領土となり、朝廷の財政も改革が成功しようとしている。どうか身近にいる摂関家を筆頭とする改革反対派のみなさん、その改革事業のじゃまをしないでくださいな」というところに、その歌意があるわけです。
藤原定家はこの歌を、源経信の「国を護りたい」という歌、祐子内親王家紀伊の「我が国の美風を守りたい」という歌の次に配置し、さらに大江匡房の名前を、あえて前権中納言匡房と書くことによって、その歌意をわたしたちが解く手がかりを与えてくれているのです。
ちなみに、たいへん不思議なことに、昨今の中学や高校では歴史の授業で、この「延久の善政」を教えません。
教科書だけでなく、副読本にさえ「延久の善政」は書かれていません。
なぜなら、この「延久の善政」に触れることは、当時の日本社会が理想とし、明治の大日本帝国憲法が理想として「シラス国」の概念を説かなければ、延久の改革が「なぜ善政と呼ばれたか」の説明がつかなくなるからです。
大江匡房はまさに碩学と呼べる人です。
その人およびその思想、あるいは彼の理想としたものは、同じく明治の碩学である井上毅(いのうえこわし)に、実はたいへんよく似ています。
井上毅は、大日本帝国憲法を起草し、また教育勅語、学制序文などを書いた人ですが、彼の理想もまた、古事記に出てくる「シラス国」の実現にありました。
日本の歴史は、7世紀の大改革(大化の改新)、19世紀の大改革(明治維新)がキーポイントとなっていますが、同時にこれを再構築しようとした1069年の「延久の善政」も、わたしたちにとって、忘れてならない大改革であったのです。
高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山のかすみ立たずもあらなむ
実に、深い歌だと思いませんか?
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国の安寧を願う
74番歌 源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)
憂かりける人を初瀬の山おろしよ
激しかれとは祈らぬものを うかりける
ひとをはつせの
やまおろしよ
はけしかれとは
いのらぬものを
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(現代語訳)
私が観音様にお願いしたのは、相手の彼女の態度が、山からの吹き下ろしの風のように、冷たく辛いものにしてくださいというものではなかったのに。
(ことば)
【憂かりける人】憂いの過去形です。思い通りにならなかった人といった意味になります。
【初瀬】奈良県桜井市初瀬のことで、観音信仰で有名な長谷寺があります。
【山おろし】山からの吹き下ろしの強風。山嵐。
(作者)
堀河院の歌壇の中心的歌人となった人で、多くの歌合で判者を務めた人です。
(歌意)
この歌は千載集に掲載された歌で、詞書(ことばがき)には、
「権中納言俊忠家に恋十首歌よみ侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる」と書かれています。
要するに藤原俊忠の私邸で催された、恋の歌を詠む歌会の席で、源俊頼が「祈っても逢えない恋」というテーマで詠んだのが、この歌だというわけです。
藤原俊忠の子の藤原俊成が、この歌の掲載された『千載和歌集』の編者で、その藤原俊成の次男が、小倉百人一首の選者である藤原定家です。
定家はこの歌について、『近代秀歌』で、
「これは心ふかく詞心に任せて学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と大絶賛しています。
藤原定家がこの歌を、
「深い心で詠んだ歌で、私などは到底この域には及びません」と書いているのです。どれだけ深い意味がある歌なのか、とい思います。
ところがこの歌の一般的な解釈では、表面上文字上に書かれている「憂かりける人」が「思いを遂げられなかった相手の女性」のことで、要するに片思いの相手の女性であり、女性になんとかして思いを届けたいと思って、初瀬の観音様にお参りしたのだけれど、相手の女性の態度は、ますますつれなくなるばかりだから、「私が観音様にお願いしたのは、相手の彼女の態度が、山からの吹き下ろしの風のように、冷たく辛いものにしてくださいというものではなかったのに・・・」と愚痴をこぼしているというものです。
そのどこがどう「深い」のでしょうか。どうみてもただの愚痴です。
実は、この歌に深みを持たせているのは「初瀬」です。
初瀬といえば長谷寺、長谷寺といえば願いを叶える観音信仰、だから祈っているのは彼女への思慕であるというようにこの歌は読めるのですが、実は「初瀬」には、もうひとつ別な意味があるのです。
この「初瀬」というのは、奈良県桜井市に残る地名で、いまでは「はせ」と読みますが、大昔はここを「泊瀬」と書きました。
そして泊瀬は、古代において雄略天皇(5世紀)が「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)」を置いたところでもあるのです。
雄略天皇は、第21代の天皇で、古代大和朝廷の基盤を築いた天皇です。
それまでの大和朝廷は、全国の地方豪族たちのいわば連合政権のようなカタチでした。
これを雄略天皇は、圧倒的な軍事力を背景に大和朝廷を倭国の統一王朝にしたとされています。
ただし、雄略天皇は、その分、大悪天皇とされるほどの粗暴さがあり、日本書紀によれば、ある日雄略天皇が狩に出かけた際、気弱な舎人が猪を射殺せないので、その舎人を殺そうとしたところ、「陛下、そのようなことをされては、豺狼と何もかわりませんよ」と皇后にいさめられたという伝説も残っています。(後世の創作だという説もあります。)
けれど、要するにそれくらい雄略天皇が、武力にものをいわせた天皇であったことは、伝承として残っていることで、いってみれば、それだけ怖い存在の天皇であったわけです。
歌に詠まれた「初瀬」は、ですから雄略天皇の王宮が置かれたところで、その初瀬に「山おろしよ」と源俊頼は読んでいます。
つまり「初瀬の山おろし」は、武力によって国が荒れた様子を示していることがわかります。
そうすると「憂かりける」は、片思いの彼女という意味ではなくて、憂いを持って武力を行使する人たちという意味になります。
この時代、新田の開墾百姓である武士たちが台頭した時代です。
当時の武士たちは、田んぼの利水権などをめぐって、まるで年中行事のように、対立し戦(いくさ)を行うことが、たいへんに顕著になっていた(頻発していた)時代でもあります。
そうした時代にあって、この歌を詠んだ源俊頼朝臣は、宇多源氏の貴族であり、武人です。
自らも武人として、国のなかでの起こる武力衝突や争いは、耐えがたい苦痛でもあります。
「武」は、あくまで平穏を図るためのものです。
それが「武」で衝突が現実に多々発生している。
そのことを源俊頼は、「山おろしよ激しかれとは祈ってなどいない」と詠んでいます。
つまり、武人として、武が民どおしの激しい衝突などなってもらいたくない。
あくまで「武」は、平和のためのもの。
だからこそ、そういう世を「憂かりける」と詠んでいるし、「初瀬の山おろし」に、誰も「激しかれとは祈ってなどいない」と詠んでいるのです。
つまりこの歌は、いっけんすると失恋の歌ですけれど、その心には、平和と民の安寧を願う宮中の武人の祈りと願い込められているのです。
だからこそ、藤原定家はこの歌を、「深い心で詠んだ歌で、私などは到底この域には及びません」と述べているわけです。
さて、ねずブロでの百人一首の解説は、ここまでで74番までが終了しました。
このあと、75番から100番までの26首が残るのですが、これについては本にしますので、そちらで続きをどうかお楽しみいただきたいと思います。
百人一首を学べば日本が見える。
そしてその見えてくる日本は、わたしたちが取り戻すべき本来の日本の姿です。
本ができましたら、講演会などを通じて、このことをますますたくさんの皆様に拡散していき、かつては日本人の常識であった本来の百人一首の歌の意味と、そして取り戻すべき日本の姿を拡げていきたいと思います。

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コメント
umeneko
24時間限定公開ということを途中まで知らずにいたので、毎回の分は読めなかったのですが、本の出版を楽しみにしています。
2014/08/08 URL 編集
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2014/08/08 編集
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現代でも、その精神は生きている。
2014/08/08 URL 編集
(*^^*)
今回でブログ掲載最後と聞き、
初めてコメント致します。
百人一首は、中学の国語の授業中に、
よく国語便覧なら開いてても違和感無いので、こっそりと対訳を読んで、自分のお気に入りを探していました。
当時は恋の歌にばかり興味を持っていましたが、ねずさんの解説を読むと、ただの恋の歌では無かったことを知り、驚くものや、益々好きになるもの、当時全く興味が無かったのに、大好きになったものなど、毎回、とても楽しめました。
いつも、素敵なお話を聞かせて頂き、感謝しております。
本の出版を心待ちにしています!
2014/08/08 URL 編集
百人一首好きになりました
とてもいいお話ありがとうごさいます。
蝦夷征伐はシラス為だったのですね。
山椒大夫の話は実際あった一つの話でしょうか?
奴ひ(変換されません)にされた寿子王が恨みを晴らすより民を守る気持ちに立った事が素晴らしかったです。
シラスの大事を表してると思います。
私の意見ですが、平安時代から確実に人心荒廃が進んだと思います。
と申しますのは、国挙げての内乱の増加・他国侵逼、世界に目を転じればヨーロッパの戦争は数えたらキリがなく中国はそれ以上に凄いです。
果ては二度の世界大戦です。
今は世界規模の戦争になりましたね。
この千年で確実に人の心が荒れたと思います。
しかし日本人はいつの時代も日本人です。
3.11の時の落ち着いた東北の人達の姿に世界は感動しました。
日本人は決して愚かではありません。
この先の国難も心ある人達が必ず大勢現れて乗り越えられると信じてます!
2014/08/08 URL 編集
ひろし
2014/08/08 URL 編集
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2014/08/08 編集
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2014/08/08 URL 編集
mari
私はもともと百人一首が好きですが、こんなにも「シラス」世界が広がっているとは知らず新しい発見の連続でした。こんなに詳しく熱意に満ちた解説書も読んだ事がありません。出版のあかつきには自分用だけでなく周りにも買ってプレゼントしたいですね。そして来年のお正月は皆で百人一首大会をしたいと思います。
2014/08/08 URL 編集