米軍の爆撃や艦砲射撃は、すさまじいものでした。
物量(火力)にものをいわせた米軍は、グアムの美しいサンゴを壊滅させ、山の形までも変わるほどの爆撃を行ったのです。
そこまでしても上陸できない。
日本のグアム守備隊の当初の作戦は、米軍の上陸を水際で食い止めようとするものでした。
他の島でもそうですが、水際作戦のための守備陣地は、初期の米軍のむちゃくちゃな砲撃と爆撃で、ことごとく灰燼に帰しています。
ところが、そこままで破壊しつくしたはずなのに、いざ上陸しようとすると、米軍の上陸部隊がどこからともなく日本側の攻撃にあう。だから上陸できなかったのです。
いよいよ本格的な上陸作戦が開始された7月21日もそうでした。
日本は、揚陸中の米軍のLVT(水陸両用装軌車)20両を、またたく間に粉砕しました。
ところがすでに本土との海上補給ルートを絶たれた日本側は、砲弾が続かない。
それを承知の米軍は、一気に大軍をもって浜に押し寄せたのです。
すこし付け加えますが、よく戦争映画などでゲームセンターのシューティングゲームさながらに、機関銃を連射し続けたり大砲を撃ちまくったりするシーンがありますが、あのような戦いは日本にはできませんでした。
常に物資の不足に悩まされ続けた(そのこと自体が戦争のきっかけでもあったのですが)日本の兵隊さんたちは、弾薬を撃っているまさに戦闘のその真っ只中の最中に、常に伝令がやってきて「射撃何発、残り何発」と報告を求められましたし、無駄撃ちすることは厳しく咎(とが)められました。
逆に言えば、乏しい弾薬で、補給もない状況の中にあって、米軍の6月中のグアム占領の計画を、その上陸さえも一ヶ月以上も引き延ばさせ、さらに上陸後もまる一ヶ月近くも米軍に島の占領を許さなかったということは、どれだけ日本の兵隊さんたちが、ものすごい能力を発揮したかということです。
このことは、常にはっきりと認識しておく必要があると思います。
さて米軍は、まる一週間かかって、ようやく7月28日にグアム島への上陸を終えました。
そして彼らはこの日の早朝から、戦車数十両で日本軍師団司令部のある本田台を包囲したのです。
日本側はこれに対し、対戦車爆弾を抱えて、敵戦車に体当たり攻撃を行いました。
円盤投げに使う円盤のような丸くて大きな対戦車爆弾を胸に抱いて、物陰から米軍の戦車の下に飛び込み、自分の体ごと、米軍戦車を破壊するのです。
当時の戦車での戦いというのは、戦車単体で攻めて来るのではありません。
戦車を弾避けにしながら、多数の米兵の歩兵が、戦車と一緒にやってくるのです。
つまり、対戦車爆弾を抱えて敵戦車に飛び込むというのは、戦車に付属している機関銃だけでなく、戦車の周囲にいる敵の歩兵銃弾を受けながら、戦車の真下まで飛び込むというものです。
しかも、その歩兵たちは、なんと火炎放射器まで持っています。
普通なら、そういう敵を前に対戦車爆弾を胸に抱えただけで、小水を漏らして腰が抜けてしまいそうなくらいなものです。
それでも彼らは、戦車に飛び込みました。
なかには飛び込む前に火炎放射器で丸焼けにされ、全身に火がついている状態で、さらに小銃の弾薬を浴び、それでも戦車に向かって突進する者もいました。
なぜそんなことができたのでしょう。
特別な訓練を受けた将官たちだけではないのです。一般の徴兵兵までもが、そこまでの激しい戦いをしているのです。
命令だからですか?
違うと思います。命令だからというのなら、ではあなたは上司に命令されたら、意味もなく爆弾を持って爆死できますか? 人間、そんなに簡単に死ねるものではないです。
彼らは誰もが、自分たちがここを命がけで死守することが、本土にいる仲間たち、親兄弟や娘たち、そしてこれからの時代を担う子供たち(それはつまり今を生きている私たちのことですが)を守るために戦ったのです。自分のいのちが惜しいのではなく、祖国にいる日本人の同胞のいのちが惜しかったのです。
その仲間たちを守るために、自分にできる精一杯の「まめなる心」を尽くそうとしたからこそ、世界の戦史にはあり得ないような壮絶な戦いができたのです。
ついに対戦車用の爆弾も底をついてしまいました。
次に彼らは何をしたのでしょう。
なんと手榴弾による悲壮な攻撃をしかけたのです。
戦車に手榴弾は通用しません。
ではどうしたのかというと、敵戦車に駆け上がり、敵戦車の上に乗って戦車の天井の蓋を開け、中に手榴弾を放り込んだのです。
完全防備で、しかも周囲を米兵で固める戦車には、近づくことさえ容易なことではありません。
それを近づき、戦車の上に乗り込み、手榴弾を放り込んで戦車を破壊しました。
「このままでは、全員が玉砕してしまう。」
戦いから数時間が経ち、全島の日本軍の生存者が3千名になったとき、グアム島守備隊の高品彪(たかしなたけし)中将は、戦車の重囲から脱出し、島の北方での再起を決意しました。
しかし撤退の命令を発して間もなくの午後2時、高品彪中将は敵の機関銃弾を受け、壮烈な戦死を遂げられています。
高品彪(たかしなたけし)中将

翌7月29日、日本軍の残存兵力は陸軍約1000名、海軍陸戦隊約800名、戦車部隊その他で、合計が約2500名となっていました。
その中で、まだ戦える者全員が又木山(マタグアック山)に集結しました。
全員が負傷兵です。指のない者、腕のない者、足のない者、片眼がつぶれている者もいました。
残された戦いの手段は、敵戦車、敵機関砲に対し、銃剣突撃だけです。銃はあっても弾がない。
8月9日、早朝から約50両の米戦車が、一斉に最後の日本軍陣地である又木山への攻撃を開始してきました。
8月10日、残った日本兵は、みなで話し合って、翌11日を期して最後の攻撃を敢行することを決めました。
午後8時、小畑英良中将が天皇陛下並びに大本営に対し「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」との決別の電報を打っています。
そして、8月11日午後2時35分、 又木山に集結した日本軍残存兵力の約60名が、小畑中将とともに自決されました。すでに兵力の86%が損耗していたのです。
8月13日、米国はグアム全島の占領をラジオで発表しました。
グアムの陥落によって、米軍はグアムに航空基地を設置しました。
そしてグアムを拠点に、戦時国際法で禁止された、日本本土への無差別空爆がを始めたのです。
この戦いで、日本の軍属を含む守備隊総員2万810名のうち、1万9,135柱の命が失われました。
しかし、それでも一部の生き残った兵士はゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行い続けています。
弾薬はありません。ナイフしかない、食べ物も、水もない。
そんな状況下で、亡くなった将兵の武器や弾薬を集め、ジャングルに隠れながら戦い続けました。
そのなかのひとりが、若き日の横井庄一伍長です。
彼は、1972年(昭和47年)まで、グァム島内に潜伏し、味方の再来までと、ひとりグアムで戦い続けました。
その横井庄一氏の帰国の際の第一声は、
「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」というものでした。
横井さんは、日本に帰国後、どうして日本は負けたのかの質問に、こう答えられました。
「武器がなかったからです。精神は勝っていた」
さて、そのグアムには、ラッテ・ストーン (Latte stone) という遺跡があります。
ラッテ・ストーン (Latte stone)

ラッテ・ストーンというのは、マリアナ諸島に見られる石柱群のひとつで、「9世紀から17世紀にかけて作られた古代チャモロ文化の遺跡」らしいという以外、何に使われたのか、どのように使われたのかなど、いまではなにもわからなくなっています。日本の縄文文化との関わりを指摘される方もいます。
現地の人々は、ラッテ・ストーンには「タオタオモナ」と呼ぶ祖先の霊が宿っているとして近付こうとしません。
けれど「タオタオモナ」と呼ばれる祖先の霊が、いったいどういう霊なのかも、いまでは歴史の闇に消えてわからなくなっています。
私は個人的には、「tao tao mona」は、「tae nai mono(絶えないもの)」もしくは日本語の「to toi mono(尊いもの)」が転じたものだろうと、想像しています。
絶えないもの、絶やしてはいけない精霊が宿っている。あるいは尊いもの、捧げなければいけない尊いものが宿っている。そんな言い伝えが残っているのなのではないかと感じています。
正しいかどうかは、わかりません。私のただの推測です。
けれど縄文人たちは南米までも交易していたというし、古代から海洋交流がさかんに行われてきたなかで、日本的なものの考え方が受け入れられ、チャモロ文化の中に取り入れられたとしてもおかしくありません。
もしかしたら逆に、我々日本人のほうがチャモロ人たちから何かを「学び」、「とうといもの、たえないもの」という言葉を日本語に組み入れたのかもしれません。
クアムを含むマリアナ諸島に人が住みついたのは、紀元前3千年~2千年頃だといわれています。
マレーシアやフィリピン、インドネシアから、カヌーに乗って移住してきたのだそうです。
3世紀末に書かれた魏志倭人伝によると日本は黒歯国(こくしこく)という、どうやら南米のエクアドルあたりまで交易し、領土としていたようですから、縄文人たちとも交流があったかもしれません。
いまとなっては、歴史の闇の彼方のお話です(ただし、エクアドルからは縄文土器が出土しています)。
グアムにヨーロッパ人が最初にやってきたのは、1521年のことです。
やってきたのが、マゼランです。
そして1565年には、スペイン人のレガスピがやってきて、島の領有を宣言し、グアムはスペインの植民地となりました。
現地の人とスペイン人との間には、何度となく激しい戦いがあったようです。
しかし、スペイン統治の333年間に、先住民であるチェモロ人の純血種はすべて絶えてしまいました。
現在島にいるのはスペイン人との混血だけです。
そして、チェモロ人たちの文明がどのようなものであったのか、どのような歴史を持っていたの、どのくらいの人口があったのかさえも、いまでは、まったくわからなくなりました。チェモロの歴史は完全に絶えてしまったのです。
いまのこっているのは、石でできたラッテ・ストーン、ミクロネシアダンス、庶民の生活、恋人岬の伝説、そしてスペインなまりのチェモロ語など、その「痕跡」だけです。
植民地になる、他国に占領される、それはそうなることを意味します。
日本もかつて占領統治を受けました。
それでも私たちが日本文化をいまだに失わずにいるのは、ABC級戦犯などという汚名を受け、多くの人が殺されながらも、生き残った人たちが日本人であることの誇りを失わず、占領統治下にあっても、武器を言論に置き換え、またなによりも国土の保全と復興のために真剣に真面目に取り組んでくださったおかげです。
戦争は、銃を手にして戦うことだけが戦争ではありません。
占領統治下も戦争状態です。
ですから大東亜戦争が終わったのは、昭和20年8月15日ではありません。
昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、やっと戦争が終結したのです。
昭和20年8月15日は、戦争が終わったのではなくて、戦闘を集結させた日です。だからこそこの日は終戦記念日と呼ばれています。
占領軍におもねり、日本を見失い、おかしな政治思想に流された人もたくさんいましたが、それでもなお日本が日本でいれるのは、終戦後も日本を守るためにたくさんの血を長してまで戦い続けてくださった諸先輩方がいてくれたおかげです。そのことをまず申し上げておきたいと思います。
さてグアムを植民地にしたスペインは、1894年にアメリカと米西戦争を起こしました。
戦争は米国の勝利となり、グアムはアメリカに割譲されました。
ここも重要なポイントで、領土は占領したら自国のものになるのではなく、割譲を受けてはじめて領土となるのです。
グアム島で、米国の初代総督となったのは、米海軍のレアリー大佐です。
彼は、グアムの英語化を指示しました。
けれど、彼が課したのは「住民が英語でサインができればOK」というだけのものです。
グアムの英語化といいながら、現地の人たちへの英語教育などは一切行っていません。
住民に対する教育などに、アメリカの関心はまるでなかったのです。
ここも重要なポイントです。
現地の人たちはチェモロ語しか話せないし書けないのに、公用語は英語なのです。
つまり役所関連の仕事は、英語でなければいっさいできない。
ところがその英語を教えてくれる人はいない。そんな教育もない。
当時の現地の人たちの苦労が偲ばれます。
1914年、第一次世界大戦がはじまりました。
この結果1919年のパリ講和会議で、日本は、ドイツ領だったミクロネシアと、北マリアナ諸島を国際連盟から委任されて統治することになりました。
日本統治になることで、ミクロネシア、北マリアナはみるみる発展していきます。
ここでおかしな現象がおきました。
大国が勝手に決める国境とは別に、島の人々は船で周辺の島々と相互に交流しています。
米国領であるグアムのチャモロ人が日本領になった近隣の島々を訪問すると、そこで日本統治による発展を目の当たりにするわけです。
チャモロ人たちが、日本人に対し尊敬と賞賛の気持ちを抱いたのは、当然であったろうと思います。
そして昭和16(1941)年12月8日、日米が開戦となりました。
日本は、真珠湾攻撃の5時間後、米領グアムへの攻撃を開始しました。
そしてわずか1日で米軍の軍事施設を陥落させています。
そして12月10日には米領グアムの占領を宣言しました。日本軍は、めちゃくちゃ強かったのです。
日本によるグアム統治は、その後、約3年7か月続きました。
正確には軍事占領です。日本領としたわけではありません。
けれど日本は、グアムに日本語で「偉大なる神の居る島」を意味する「大宮島」という名前をつけ、グアムの学校、医療、道路などの社会的インフラを整備しました。そしてチャモロ人には、住居・信仰・言論の自由等を保証しました。どこまでも対等な人として接したのです。
現地での教育は日本語で行いました。
これには理由があります。
本当はチャモロ語で教育したいところですが、社会用語や科学技術用語が、当時のチャモロ語にはないのです。ですから現地の社会制度を確立し、技術振興を図るためには、日本語で教育するしかなかったのです。
日本はグアムで、国民皆教育制度を実施しました。
日本語での教育なのですが、島の人々はとても勤勉で、また日本語での教育を受けることをたいへんに喜んでくださいました。
米国統治時代には、名前が英語で書ければ十分という米国に対し、日本は学校を作り、語学、算数、理科、社会をきちんと教育したのです。
いまでは学校教育を面倒に感じる人も多いかと思いますが、それは戦後教育にある一定の歪みが生まれたためのことです。本来、学んだり知識を得ることはとても楽しい喜びのあることです。
昔の日本では、小学校に子供たちが通うのに、毎朝5キロも10キロも歩いて登校するということがあたりまえのように行われていました。
子供たちがどうしてそこまでして学校に通ったかといえば、それだけ学校が楽しかったからです。
楽しいはずです。本当のことを教育してくれるのです。
毎日自分が成長していくことが肌で感じられる。だからこそみんな毎朝5キロも10キロも歩いて登校したのです。いまの学校とは雲泥の差があります。
(ちなみに保守系の教員が担任する教室では、生徒たちがいわゆるツッパリ兄ちゃんに至るまで、みんな学校も勉強も大好きになるそうです。さもありなんと思います)
当時を知るチェモロ人たちも、当時の日本語の学校の思い出が、まさに人生の宝だと、いまでもおっしゃられます。それが本来の教育というものの姿なのだろうと思います。
グアムには、いまでも、当時世話になった日本人の名前をもらい、自分の家族名にしている人たちがたくさんいます。
日本統治時代に教育を受けたことが、いまでも彼らの誇りだからです。
さて、グアムが日本の統治下になったということは、米国にとってグアムは「敵に占領された米国領土」となります。米軍は、日本本土攻略のための基点として、そのグアムの奪還と占領を目論みました。
そうして行われたのが、冒頭のグアムの戦いです。
いま、グアムはアメリカ領土だと、多くの日本人は思っていますが、実はグアムは、米国の「未編入領土(Unincorporated Territory)」です。
これがどういうものかというと、グアムはいちおうの独立が保証されているようでいながら、グアム議会の決議より、米国の意向が優先されます。
またグアムの住民たちは、合衆国政府が定めた納税義務を負っているのですけれど、グァムの人々には、大統領選挙や米国議会の選挙に参加する資格がありません。
要するに「未編入領土」というのは、占領統治を言い換えただけのものだということです。
つまり、グアムはいまだに米国の軍政が敷かれているわけです。
そしてグアム全島の3分の2が、米軍基地になっています。
日本統治時代を知るグアムのお年寄りたちは、日本統治時代を懐かしがってくださいます。
あの頃が一番幸せだったとおっしゃる方もおいでになります。
けれど、グアムの人たちの幸せな時代と、美しかった珊瑚やきれいな山並は、日本の兵隊さんたちのいのちとともに失われました。
世界から「力による支配」がなくなり、民度の高さと人々の幸せが第一とされる時代は、いったいいつになったら来るのでしょうか。
すくなくとも日本では、我が国最高権威のご皇室が、軍備さえ持たない、宮城には高い城壁さえもないという時代が2千年以上も続きましたが、それはいったい何故だったのでしょうか。
今日は、戦時中にグアムでお亡くなりになられた敵味方すべての人々に黙祷を捧げるとともに、そういう本当に人類が目指すべき社会について、思いを馳せてみたいと思います。

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コメント
WIZARD03
>世界から「力による支配」がなくなり、民度の高さと人々の幸せが第一とされる時代は、いったいいつになったら来るのでしょうか。
人間の本質は太古の昔から全く変化していないし、これから未来永劫変化することもありえません。
すなわち人間とは理想を実現できる生き物ではない、という事実をわきまえることからリアリズム思考は始まります。
日本人が求めるべきものは理想的な世界などではなく、「生き残り」であり、そのためにも日本人はリアリストにならなければなりません。
リアリズム(現実主義)の反対語はリベラリズム(理想主義)であって、決してロマンチシズムではありません。
>すくなくとも日本では、我が国最高権威のご皇室が、軍備さえ持たない、宮城には高い城壁さえもないという時代が2千年以上も続きましたが、それはいったい何故だったのでしょうか。
日本人がそのような民族性をもつのは、日本列島という地形ゆえだと思います。
民族性とは地形によって培われるもであり、世界地図が現在の形になった時点でそこに住む人間の民族性は決定されました。
他人に迷惑をかけないよう気遣うという精神は日本列島という地形ゆえであり、ユーラシアにはそのような精神は微塵もありません。
日本人は義経や真田幸村が大好きで、その延長線上で戦中強大な米軍相手にこれだけの頑強な抵抗をしてやったニダ! ホルホルホル!
とか言う人もいますが、それらはいずれも戦術的抵抗にすぎず、はっきり言えばただの悪あがきです。
強大な米軍相手に戦わなければならない状況に陥ること自体が戦略的な誤りです。
スターリンいわく「日本をソ連にまかせてくれれば、百年は立ち上がれないようにしてみせる。」
これが敗戦の本質であり、その後の米ソ冷戦がなければカルタゴの平和になっててもおかしくなかったのです。
ゆえに二度と敗戦しないためにはどうすればいいか、それを考えるのが国家戦略です。
戦略的勝利を収めた頼朝や家康にこそ学ぶべきなのです。
2014/08/11 URL 編集
悲しい爺
自分の家族は自分が守る・愛する故郷はみんなで守る。常に心に刃を秘めて考え行動しよう・・・ねずさんにはいつも感謝です。
2014/08/11 URL 編集
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2014/08/11 URL 編集
ひろし
「大いなる精神は、静かに忍耐する。」
昨日はNHKがめずらしく自衛隊について放映していました。 この言葉は幹部候補生に対する訓辞として校長が述べたものです。 実弾訓練をしている模様も映していましたが、指導官を含め幹部候補生も精悍な良い顔をされていました。 現在の防衛大学の校長を含め、指導官も優秀な立派な方達なので内心嬉しく想いました。 他国の侵略から日本国と日本国民を守る、その最前線に立たれている自衛隊の皆さんに感謝を捧げます。 立場は違えども志は同じです。
2014/08/11 URL 編集
はっちょもん
お前の顔はグアム人(現地人)そっくりだ。
日本に不正出国をするのではないのか?と疑われて30分程の間、引き止められたのでした。
時代をさかのぼればグアム人も日本人と同じ民族であったのだと感じました。
国境という線を引いたのはどういう意味であるか。
天は「愚かな行為」と思っているであろう。
2014/08/11 URL 編集