もちろん、いくら「正しい」は対立を生むとはいっても、悪は誅しなければなりません。
だからこそ警察もあるし、軍隊もあります。
世の中を乱す者がいる以上、これは仕方のないことです。
福沢諭吉は、民度の低い国を具体的にあげて、そういう国の政府は「辛き政府」になると書きました。
民度が低く、民衆がわがままで他人から奪うことばかりに走るような国では、政府は苛斂誅求の政府にならざるをえない。これはやむを得ないことです。
民衆の民度が低ければ、大量の警察官が必要になるし、施政者がウシハク施政者で程度が低ければ、大量の警察官どころか軍隊が必要になります。
そういう国が近くにいれば、好むと好まざるとに関わらず、それをはるかに上回る強力な軍隊が必要になります。
これまたやむを得ないことです。
程度の低い国や民族の悪行を放置すれば、民の安全も安心もないからです。
このブログを通じて、昔の日本のお話をいくつかさせていただきました。
縄文時代は、1万5千年以上続いた長い長い時代だけれど、この時代の全期間を通じて遺跡から武器が出土していないこと。このことは、このブログの読者の方であれば、もう常識となっていることと思います。
弥生時代は稲作伝来によって変化した時代と学校では教えますが、実は稲作は縄文中期に始まっていて、むしろ弥生時代は大陸では春秋戦国時代であったがゆえに、日本人は武装せざるをえなくなったのだということ。
古墳は豪族たちの権威権力の象徴ではなくて、水田を切開いた結果生まれた盛土であること。
そして奈良、平安の昔の日本では、天皇の下に太政官と神祇官が置かれていたというお話もさせていただきました。
平安時代、朝廷が京都にあったことは、誰でも知っていることです。
政府が京都にあったのです。
そして政治的意思決定は、太政官が行っていました。
いってみれば、太政官=いまの内閣のようなものです。
けれど、少し考えたらわかることですが、中央で何か意思決定しても、それを全国津々浦々に浸透させるネットワークがなければ、中央政庁は機能しません。
では、古代におけるこうしたネットワークは、どのような仕組みになっていたのでしょうか。
わが国では、天皇が代わるたびに元号が替わっていましたが、これは暦が替わるということです。
その暦は、農作業と切っても切れない関係にあります。
そして元号は、中央で新しく変わると、その新しい暦がおよそ三日以内には、全国津々浦々にまで示達され、徹底されていたことが記録に書かれています。
どうしてそのようなことができたのでしょうか。
なるほど、国内に諸国には、朝廷から国司が派遣されていました。
国司の下には地頭がいました。
けれど、たとえば相模の国といえば、いまの神奈川県ですが、その神奈川県にたったひとりの国司がいたとして、それだけで県の行政のすべてをまかなうなんてことはできません。
国司がいまの県知事だったとして、では国司のいた県庁には、何人のスタッフがいたのでしょうか。
地頭が市長さんだったとして、では市役所には、何人のスタッフがいたのでしょうか。
国司や地頭は、徴税官ですが、現実の問題として、エリア内の行政示達機能は、ほとんどないのです。
このことは、要するに太政官の持つ全国ネットワークには、全国の民衆への直接的な情報示達力はなかったということを意味します。
では、そういうものを、いったい誰がどのように担っていたのかというと、これが神祇官とその下にある全国の神社だったのです。このことは令集解などにもあきらかになっています。
人々は神社に集まり、そこでみんなで食事をし、宮司さんから中央の施政についての話を聞いていました。
そしてその神社は、田植えの際の苗をつくり、農家に配っていました。
また収穫されたお米は、神社で一定量を預かり、これが災害時の非常米になっていたし、翌年の田植えの際の苗になっていました。
もっと簡単に言うと、古代日本では、神社を通じて、日本の農業社会がまわっていたのです。
そして大和朝廷は、こうした全国の神社ネットワークの上に、のっかるカタチで成立していました。
ちなみに後年、こうした苗の管理や非常米の保管などは、庄屋さんが担うようになりましたが、それは仏教伝来によって、仏様を拝む人が増えたことが原因です。
一方、いまだに古い神社に行くと「奉納」と書いた看板のところに、米俵やお酒の樽が置いてあります。
古代からの習慣の、これが名残です。
要するに、古代の日本では、神社が各地域の行政府の役割を担っていたということなのですが、すごいなと思うのは、この神社には、まったく武装というものが存在しないし、警察機能としての牢屋のようなものも、存在しないという点です。
もっといいますと、大宝律令とか養老律令という言葉をお聞きになったことがあろうと思いますが、これは古いChinaの言葉で、「律」が刑事法、「令」が民事法を意味します。
そして大宝律令にせよ、養老律令にせよ、「律令」という漢字は使われているものの、結局「令」だけで「律」が発動されることがなかったのです。
このことは、全国津々浦々、警察力をそもそも必要としなかった、ということを意味します。
古代、中世において、警察がないのです。
それで治安が完全に保たれていた、ということです。
それが日本です。
聖徳太子の十七条憲法の第十条にある言葉です。
人皆有心 心各有執
彼是則我非 我是則彼非
我必非聖 彼必非愚
共是凡夫耳 是非之理能可定
相共賢愚 如鐶无端
是以彼人雖瞋 還恐我失
人みな心あり、心おのおの執あり。
彼を是し、我を非す
我を是し、彼を非す。
我、必ずしも聖にあらず
彼、必ずしも愚にあらず
共にこれ凡夫の耳、是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき
相共に賢愚なること鐶(みみがね=まるい環)の端なきが如し
是を以て彼、瞋(いか)ると雖(いえど)も
かえってわが失(あやまち)を恐れよ
こういう感覚は、聖徳太子が十七条憲法を書かれたから全国に浸透したということではなくて、すでに古代の日本社会の中に、このような感覚が立派に定着していたからこそ、それを憲法にしたということです。
世界中どこでもそうですが、そもそも憲法というものは、その国の歴史伝統文化に基づく概念を成文化したものです。
つまり十七条憲法に書かれていることは、すでにその時代、もしくはそれよりももっとずっと古い時代から、日本人にとっての常識であったということなのです。
「対立と闘争」というのは、もともとが19世紀に始まる西洋の個人主義の概念です。
そのさらに奥の原点には、一神教による他宗教の排除があるのですけれど、これが個人や政治の倫理観にむすびついたのが19世紀の市民革命、そしてこれをさらに拡大発展させた思想が共産主義です。
日本人の日本的思考は「和と結(ゆ)い」です。
これは実は「対立と闘争」とは対極をなす思想です。
「対立」の反対が「和」。
「闘争」の反対が「結」。です。
民度の低い、どっかよその国の話をしているのではありません。
それが日本人ならば、「これが正しいのだ」と声を大にして大騒ぎしなくても、もともとが「互いにあい結びて」みんなで力をあわせて未来を築いて行く力を内在させていると思うのです。
もちろん人が生きていれば、必ず争いは生まれます。
利害の衝突もあります。
そういうときに、当事者双方が互いに知恵を絞って、両者にとってより良い未来を築いていく。
最近の流行語で、これを「win winの関係」というのだそうですが、その考えは今から1400年も前の十七条憲法に書いてあります。
日本はずっと「win winの関係」を国是としてきたのです。
人の身でできることは、結局は、それぞれが「まこと」を尽くして生きることしかできないのだと思います。
その時々で、自分がこうだと信じる道を生きることしかできない。
それが結果として間違っていたのか正しかったのかは、後の世か神々にしかわからないことと思います。
ですから、正しく生きるのではなくて、その正しいと信じることのために、自分にできる「まこと」をつくし、和を大切にして生きること。人には、そんなことしかできないのだろうと思います。
すこし、異なことを書きます。
「保守」という言葉がありますが、そのなかに「保守本流」という言葉があります。
この「保守本流」の流れの中にあるのが、加藤紘一さんとか、河野洋平さん、あるいは朝日新聞です。
わたしたちはそれらを反日左翼と呼んでいますが、実はこれが戦後長く続いた「保守本流」です。
どういうことかというと、戦後にGHQが敷いた流れを「保ち守る」というのが、戦後の「保守本流」だったということなのです。
ですから、いまでも反日の先生方や学者さん、あるいはメディアなどの人たちは、「自分たちこそが保守である」と思っています。なぜなら、まさに「本流」だからです。
これに付随して、親米保守、反米保守という造語もありました。
親米なのか反米なのかで、保守層をたて分けようとする、これも思想です。
そしてこの二つは、たがいに相容れないものとして、激突していた時代もありました。
おもしろいのは、この両者とも、我こそは保守と自認していた方々でした。
しかし、この親米か反米かというたて分けそのものは、マルクス・レーニン主義に基づいて相互の対立をあおり、互いに闘争させるための方便ともいえるものです。
そして「対立と闘争」という世界に巻き込まれた瞬間から、それは日本的和の精神から離れ、相互に憎み合い、対立しあって、互いに相手を殲滅するまで否定し続けるだけの存在に成り下がってしまいます。
いま「保守」と自認している方々の多くは、すこし前の概念で言いますと、右翼になります。
ところがこの右翼にもいろいろあって、なかには日本は鎖国して農本主義に戻るべし、という思想もあります。
「保ち守る」べき拠り所が、それぞれ異なるのです。
「保守本流」と呼ばれた人たちは、その拠り所が占領下の日本でした。
占領状態にあった日本が、理想的日本であり、日本は常にそこに還るべきというのが、その思想の根本にあります。
戦前派、戦中派という語もありました。
戦前派の方々の多くは、大正デモクラシーの時代が拠り所であったようです。
戦中派の方々は、むしろ明治にその拠り所を求めていたようです。
農本主義右翼まで行きますと、どうやら江戸時代の鎖国日本の体制を保ち守るべきと考えておいでのようです。
なかにはもっと古い、奈良、平安の時代の日本を保ち守るべしという思想の方々もおいでになります。
もうすこし極端なものになりますと、大和朝廷成立以前の地方豪族たちの地位復活を賭けておいでの方々もおいでになるようです。
要するに何を言いたいのかと申しますと、古代から近現代に至るまで、日本はずっと日本だ、ということです。
私は、対立を好みません。
太古の昔から、日本人はさまざまな試行錯誤をしながら、施政のためのもっとも良いカタチを築いてきました。
そうした先人たちの知恵に学び、次の世代により良い日本を引き継いで行く。
その過程のなかで、自分も神ながらの道をまことを尽くして日々努力して行くだけだと思っています。
聖徳太子は、次の言葉もあります。
=========
以和為貴 無忤為宗
人皆有黨 亦少達者
是以或不順君父 乍違于隣里
然上和下睦 諧於論事 則事理自通
何事不成。
和を以(も)って貴(とうと)しとなし
忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
ここをもってあるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、
また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、
事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、
事理おのずから通ず。
=========
そして、上の文に続けて「何事不成(何事か成らざらん)」とあります。
やたらと彼我の違いをあげつらって、対立し敵対するのではなく、和と睦の心で理解しあう、わかりあう。
そうして未来を築いて行くことが大事だと書いておいでです。
互いに謙虚に学ぶ。
大事なことは、そこにあると思っています。

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コメント
通りすがりの武人
2014/09/04 URL 編集
魔除けに牛島辰熊
同時に、某在外日本人(名前忘れた)が「外国に何十年も住んでみて、日本の社会が二千年ほど先行ってるって気付いた」と言ってた事も思い出しましたっけ。
>みんなで力を合わせて未来を築いてゆく力を内在している
>程度の低いウシハク国が近くにいれば、好む好まざるに関わらず、それをはるかに上回る軍隊が必要になる
今ブログで話題のケントギルバートさんが、著書【不死鳥の国ニッポン】の中で、
「日本の人口は、徳川幕府成立時~維新開国まで殆んど変わらず三千万人程だったが、それは誰かが必要以上の富を独占して他の誰かが貧しくならないように、普段から助け合おうという共助の精神が日本人の社会通念であった事を意味する」とか、
「日本が驚異的な戦後復興・経済成長を成し遂げ、オイルショックも何のそのだったのは当然の結果。
なんせオイルショック時点でも兵隊世代がまだ50代の働き盛り。 未曾有の混乱期を生き抜いた彼らが社会を牽引してたんだから、その頃の日本はどこよりもたくましく打たれ強かった」とか、
「ヨーロッパが、15世紀~16世紀に世界中を植民地化しようとしていたにも関わらず日本が無事だったのは、何千丁もの鉄砲を持つ織田軍のような当時世界最強の軍隊があったから。ちなみに当時のフランス軍はまだ槍中心、鉄砲は25丁しかなかった」
みたいなこと述べてました。
なるほど国家は強い抑止力を持ち、我々庶民は共助の精神を持ち、たくましく打たれ強かった先人達を見習いながら日本を取り戻していかねば!って思いましたな♪
※そんなケントさんは、先日の朝日虚報事件を機に、そっち方面でも覚醒されつつある様なので、ぜひ今ねず本第三巻をケントさんにプレゼントしたい!!(^^ゞ
2014/09/04 URL 編集
さくらひとひら
よい言葉ですね。
和を互いに求めれば、和が生まれ、和が一方通行でも良い社会が生まれません。和を求めない者がいてそれで社会が悪くなるならば、それならば和を求めず争い勝利を求めるのが答えか、否ではないでしょうか。
和を以って貴しとなすことを良きこととし、旨として生きることこと、そういうことが広まっていくことで社会が良くなると思います。
何もしなければ、成すこともない。地道なことですがまず、ひとりでもそう思い生きる人が増えることが大切であると思います。
久しぶりのコメントになりました。
さくらひとひら
2014/09/03 URL 編集
ポッポ
しかし、大陸はそうではなく、強者であるために争ってきたと思います。
ヘイトスピーチの規制が叫ばれていますが、聞いているとマイノリティは何を言っても良くて、マジョリティはマイノリティの批判をしてはいけないようです。
しかし、日本のマイノリティはマジョリティに対して好きなことを言うだけでなく、日本の首相の顔をもした人形の首をロードローラーのタイヤで挽きつぶしています。
日本の首相は、温厚ですからこれに対して特にコメントされていないし、法的な行動も取られないようですが、これが他国ならば、どうなるのでしょうか?
差別されているマイノリティであろうが、なかろうが、我慢できることではありません。
隣国では、大統領の行動について記事にしただけでも、その新聞の支局長は検察に呼び出されているのです。
隣国と日本の差は、これだけではありません。
人権の保護が、大切なことは分かっています。しかし、それ以上に自由と平等は重要です。
相手国が不法行為を為すならば、当国としても同様のこと程度は許す程度の寛容な規制にしていただきたいと思います。
2014/09/03 URL 編集
笛使い
いつも貴重なお話を頂きありがとうございます。
先日理論物理学者の佐治晴夫さんの講演を拝聴し、ねずさんの本日のブログにも通じる部分を感じ、僭越ながら初めてコメントをさせて頂きました。
佐治先生は、『この世界は相反する物が調和している』と仰られました。分かり易い例としては、『宇宙に存在するプラスの電子とマイナスの電子の総量はほぼ同一である。そこに3%の誤差が生じると宇宙は崩壊する』との事です。
プラスが有るからマイナスも存在し得る。男女も同じですし、世の中の全ては相反する物が中庸なバランスを保つ事で存在し得るとご教授頂けました。
自分は音楽を専門に勉強し現在音楽を生活の糧にしておりますが、美しい音は有る種ノイズの様な汚い音が有る事でより一層美しさが際立ちます。濁った和音の後には調和した和音がより美しく輝きます。
自分の考えに相反する者を排除するのでは無く、話し合い相互理解を深め、互いを尊重し合いながらどちらもが存在し得る社会を築き上げる努力をしないと、今日のねずさんのブログを拝読しながら感じた次第です。
これからも貴重なお話をご教授下さい。
追伸
第三巻買わせて頂きました。まだ拝読出来ていませんが楽しみです。百人一首の本も楽しみにしております。
2014/09/03 URL 編集
WIZARD03
そのような精神の持ち主は生き残ることができず、一人残らず死に絶えた土地、それがユーラシアだからです。
しかし、最近私はその精神にもデメリットがあるのではないかと思うようになりました。
「和をもって貴しとなす」であるがゆえに、自らの権利が侵害されても我慢し、耐え切れなくなると自害する。
それがブラック企業の跳梁を許している最大の要因なのではないかと。
どんなに人権を侵害しても全く逆らわず、最後には自害して人件費削減に協力してくれる、こんなブラック企業に都合のよい存在は日本人だけでしょう。
自らの権利を守るために戦う、戦って自らの為の権利を勝ち取るという発想に欠けているのです。
日本人の年間3万人の自殺者のなかで最も多い年代は働き盛りの年代です。
どんなブラック企業でもストライキが発生したという話を私は聞いたことがありません。
今この瞬間もブラック企業に命を削られている人間は大勢いるのです。
組織の上位にいる腐敗した人間が末端に責任を押し付け、現場に無茶をさせるという事例は、牟田口廉也や富永恭次の時と全く変わりありません。
そしてこれからも、日本人の永遠の課題として残ることでしょう。
2014/09/03 URL 編集
shengxin
彼らは彼らで、日本を良くしたいと本気で考えているのでしょうが、的外れどころかあさっての方向への志向とでもいいましょうか、そんな思想で動いているようです。
日本の歴史って実は自分は嫌いだったのですね。
面白くないというか、学校で習う日本の歴史ってなんだか哀しい気がして…
自分なりに歴史をネットで調べたり、ねずさんのブログで勉強したり、日本史検定講座などを受講してみたりしていくと、実は国史って楽しいわくわくすることがいっぱい有るものだと。
学生時代は日本史が嫌で世界史を学びましたが、簡単な対立構造。それの発展系であり、特に西洋では東洋的な(日本的な考え)ものは神秘的なものとして捉えていた節もありますよね。
日本人って、世界の楽園を築いていたのだと、再確認。
ヨーロッパの中世におけるプレスタ・ジョンの伝説、東方に楽園があるというのもですね。
キリスト教徒の国と伝えられていましたけど、楽園ていう考え方からすると日本は楽園でしょうね。
民度も高く、争いを好まず話し合いで解決しようとする国。
この伝統意識を未だに持っているのですが、残念ながら世界では通用しないようです。
しかし、大海は荒波を飲み込み静かな海へと変えます。
日本の意識、本来の日本を取り戻して、世界へ示すことが出来れば世界は住み良くなれるのではないかと思うのです。
ただ、対立で利益を求めるアメリカやCHINAを含む特亜と呼ばれる国々、イスラム教の本来の教えを利用して民衆に負担を強いる勢力。
日本的精神、全てを受け入れ、己の一部と成すということを判ってもらえると世界平和に一歩進めるのじゃないかな?
日本人ってすばらしい。
優劣ではなく、精神的にすばらしい素材を持っているのですよね。
文化も歴史も、そして国家としても最も長い歴史を持つ国家。
そして政治形態もほぼ変わらず、天皇を家長とする国民が家族的意識で繋がっているのだと思うのです。
反天連のデモをする方を見ると、日本国籍で無い人が居ますが、日本国籍の方々については、家族でもちょっと困った息子、娘が居る、おじさんがちょっと困った人で…といった様な方々と同じと思うと、かわいそうと思うだけですよね。
それはそれで意見を尊重しているという日本人が凄いなと思うこのごろ。
左翼?は不安を煽り対立を生じさせて己の地位を確保しようとしています。
流れのままにという意識で見ると、なんと馬鹿げた事でしょう。
成るようにしか成らぬのですから。
2014/09/03 URL 編集
鬼っ子
信憑性は分かりませんが、日月神示の第一人者中矢伸一氏がダウジングを元にした予言話を紹介したとき、「今上天皇様のおあとは今の皇太子様ではなく、秋篠宮様の悠仁親王様がそうなる。彼は400歳を超えて生き、日本のみか世界天皇として世界をしろしめす唯一の王となる」と言いました。ガイアの法則1・2(千賀氏著作)とあわせて考えると、さもありなんと思います。
ちなみにこのガイアの法則はすごい本で、地球の文明の転換周期について驚くべき事実をのべています。
それは約800年周期で西側文明と東側文明を交互に交代して発展させているとし、シュメール、メソポタニア、ギリシャ、インド、唐、ロンドン(0度・アングロサクソン文明)もこの地球(ガイア)の法則に基づいて発展衰退をしています。天皇家に伝わる16菊紋はその法則を表したものとしています。
そして次の世界新文明の中心は東経135度、日本(淡路島)なのだそうです。それは1995年、阪神淡路大震災によって産声を上げ、前後100を挟んで文明転換を果たすそうです。
すごいのは周期年が具体的で、1995年の100年前に西洋文明との交代が始まったと言い、日露戦争がそれにあたっているところです。これは別の72年リズム周期で社旗的発展と衰退を繰り返していき、72年の半分周期にあたる36年後の1941年は、決して戦争などしてはならない陰リズム(衰退時期)に該当しました。それなのに大東亜戦争が起こり、敗戦し、今もその傷を引きずっています。それを戦争へと誘導したのは朝日新聞などの売国マスコミなのです。
正確にその36年後の陽のリズム(発展時期)には高度経済成長が起こり、さらにその36年後の2012・2013年の陰のリズムではTPPと朝鮮軍による対馬進攻、日本乗っ取りが迫ってきておりました。
しかし神の思し召しか、3・11が起こったことにより日本が一つに結ばれ、神社に礼拝する人々が非常に多くなり、自衛隊も発足後初めて陸海空が統合され、戦争を起こすことなく無難に乗り切りました。そのおかげで今、TPPが頓挫し、反日勢力が相次いで自爆して行っています。
これから発展のリズムに向かう日本は伊勢と出雲の融合を果たし、再び世界の優位に立ち、新文明を開化させていきます。この本はすさまじいので、手にしてみることをお勧めします。
話がそれましたが、日本が今ガザを攻め滅ぼそうとしてるユダヤと手を組むなんて考えられないことでしょうが、ユダヤの中に日本の精神を真ん中に入れることで新しい文明が始めるという内容のようですのです。
スメラ(天皇)とユダヤが手を組んだら、日本のようにお花畑でもないユダヤは容赦なくシナ朝鮮を滅ぼすかと思います。彼らは契約を破ることを最も嫌う民ですから。一説によるとイスラエルは近く旧満州国に引っ越してくるという話も出ています。「真の悪とは外道の悪である」、すなわちユダヤではなく、シナ朝鮮獣が人類の本当の敵なのではないでしょうか。
◎『悪をいくら殺しても、煮ても焼いてもしゃぶっても、悪は一向になくならん。なぜなら悪を失くそうとするそのことが、悪そのものだと知らざるや』
2014/09/03 URL 編集
山葵
この「保守本流」の流れの中にあるのが、加藤紘一さんとか、河野洋平さん、あるいは朝日新聞です。
わたしたちはそれらを反日左翼と呼んでいますが、実はこれが戦後長く続いた「保守本流」です。
どういうことかというと、戦後にGHQが敷いた流れを「保ち守る」というのが、戦後の「保守本流」だったということなのです。
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戦前と戦後では保守本流という言葉の意味が180度変わってしまったわけですね。
それでは保守派がまとまるはずもありません。
2014/09/03 URL 編集