埴輪って何?



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埴輪0907
福島県原山1号墳出土の埴輪群


先日ある方から、おもしろいご質問をいただきました。
それは、
「古墳が出来た由来はわかったのですが、では古墳に埋められていた埴輪(はにわ)は、どうして武装した姿のものが多いのでしょうか」というものです。

古墳がなぜ造られたのかについて、このブログを通じて何度も「あれは、荒れ地を開墾して田畑を作ることによって生じた土砂の盛り土です」と述べさせていただいています。
これは、何も私が申し上げている新説でもなんでもなくて、戦前は、むしろそれが世の中の常識でした。
地元のお年寄りに聞けば、誰でも知っていた、あたりまえの話でしかなかったのです。

ところが学者さんたちは、「あれは豪族たちが権威を誇示するために民衆を使役して強制的に作らせた墳墓である」という異説を唱えました。
それを聞いたお年寄りたちは、「偉い学者さんでも、あんまり勉強ばかりしていると頭がおかしくなるのだな」と、まるでそんな異説が世の中では「たわごと」扱いでしかなかったのです。

ところがいつの間にか、そんな「たわごと」にすぎない「豪族使役説」がすっかり定説みたいになってしまいました。そんなところから埴輪も、墳墓の副葬品であり、民衆を生き埋めにする代わりに埋めたものだという「おどろくべき新説」が、いまではすっかり定着してしまっているようです。
これまた、バカな話です。


まず復習しますと、古墳は墳墓(豪族たちのお墓)ではありますが、そのために造成されたものではありません。
仁徳天皇陵をはじめ、わたしたちの国には巨大古墳がたくさんありますけれど、あくまでも、土地の開墾をしたときに、結果として生まれる土砂を、計画的に盛り土したことによってできたものです。

米を作るためには、水田を開墾しなければなりません。
そのためには水路を引き、用水池をつくり、河に堤防を築かなければならない。
するとあたりまえのことですが、大量の土砂が発生します。
そうした土砂は、今の時代ならダンプカーで沿岸の埋め立て地に運びますが、昔はダンプなんてありませんから、開墾地の近くに計画的に盛り土します。これが古墳です。

このことは、最大の古墳である仁徳天皇陵が、見事に証明しています。
以前、大林組が仁徳天皇陵を造るのに、どれだけの労力がかかったかを計算しているのですが、このときの計算では、完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人かかるという計算になりました。
仁徳天皇のご治世の頃の日本列島の人口は全国でも4〜500万人程度です。
そんな時代にどうやって800万人も動員したのか。しかも工期が16年です。
その間、民衆は老若男女全員が、アホな無駄な土盛り作業だけに狩り出されていたとでもいうのでしょうか。
そんなことをしたら、民だけでなく、施政者たちまで飢えて全員死んでしまいます。

仁徳天皇は、日本書紀によれば、難波の堀江の開削、茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)の灌漑用水、茨田屯倉(まむたのみやけ)設立、和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)の築造、灌漑用水としての感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)の掘削など、広大な田地の開拓を行った、たいへ失礼な言い方ですが、かまどのお話よりも、むしろ仁徳天皇はいわば「土木(どぼく)天皇」といってよいくらい、民のための広大な土木事業を営んだ天皇です。

そしてそれだけの広大な土木事業を営めば、結果として必ず残土が出ます。
その残土は、いったいどのように処分するのでしょうか。
いまならダンプカーで港湾の埋め立てに用いたりしますが、大昔にはダンプなんてありません。
結局、開墾地内に計画的に盛り土するしかないのです。

ちなみに仁徳天皇陵は、周囲が堀になっています。
盛り土は、土が柔らかいですから、雨が降れば土砂が流れます。
つまり付近の田畑が、土砂で埋まってしまいます。
これを防ぐために周囲を計画的にお堀で二重に囲んでいます。
実に合理的な対処法です。

仁徳天皇陵もそうですが、すべての古墳は平野部にあります。山間部にはありません。
平野を開墾するといっても、原始のままならでこぼこです。
それを水田にするなら、水田は水を引きますから、全体が真っ平らでなければなりません。
また水を引くための水路も必要です。水路には堤防も必要です。そうしなければ大雨のときに水害が出ます。
そうした被害を未然に防ぐためには、計画的な土地の開墾と、指揮者、労働者が必要です。
ただ耕せば良いというものではないのです。
そして広大な土地の開墾は、ものすごく年月がかかります。
しかも開墾しただけではだめで、そのあとの土地のメンテナンスが必要です。

いまでも、一級河川と呼ばれる川には堤防がありますが、そこには国土交通省の役人さんが、自転車で毎日堤防の検査監督をしています。これは猛暑でも酷寒でも大雨でも続けられています。
そういう地道な保護があってはじめて、土地は活きるのです。

けれど人には寿命がありますから、そんな工事を計画し、全体を統轄してくれた大将にも、死が訪れます。
全部、大将が面倒見てくれたから、広い田畑ができたのです。
大将がいてくれたから、安全に土地が使えたのです。みんなが腹一杯飯が食えたのです。
そんな大将に感謝するとしたら、大将のお墓はどこに築くでしょうか。
広大な田畑を見渡せる、盛り土のてっぺんではないでしょうか。
古墳が墳墓となった理由は、そこからきています。
ですから古墳によっては、墳墓ではない古墳もたくさんあります。

たとえば仁徳天皇陵は、もともと墳墓とすることだけを目的とした御陵ではないことは、仁徳天皇陵のすぐ近くにある他の古墳がこれを証明しています。
仁徳天皇陵のすぐ脇に、いたすけ古墳とか御廟山古墳といった前方後円墳がありますが、その古墳が誰のお墓であるのか、いまだにわかっていません。そもそもお墓であるかどうかさえもわかっていません。
要するに、墳墓を目的に造成されものではないからです。
もともとが工事の結果としての盛り土で、結果としていちばん大きな盛り土に、みんなが仁徳天皇に感謝して、そこを御陵にしたに他ならないからです。

ちなみに、小さな盛り土を近くに造成したことにも、ちゃんと意味があります。
水田地帯は、大水に弱いのです。
水が出たら、みなさん、どうしますか?
高いとろろに避難しませんか?
一番大きな御陵を天皇陵にしてしまったら、そこは避難所には使えません。
ならば、その周囲に、こぶりの盛り土を造っておき、万一の場合の避難所にする。
実に合理的です。

そして、冒頭のご質問です。
では、副葬品の埴輪(はにわ)は、何のために埋められたの?、人柱ではないの?というご質問です。

古墳がもともとは大規模土木工事のために、計画的に築かれた盛り土であり、そこに土木工事の大将のお墓を作ります。
なんのためでしょうか?

広大な荒れ地を開墾し、みんなのために尽くしてくれた大将がいれば、感謝の心を持つのが日本人というものです。
お世話になった大将に、こんどは、ずっとその農地を守ってもらいたいと思う。これが人情です。
「大将、生前はお世話になりました。こうして田んぼがひらかれ、オラたち感謝にたえません。
大将、オラたち、これかもずっと、この田畑を大事に守って行きます。
そしたら大将、そんなオラたちが災害に遭わないように、作物に虫がついたり、作物が病気にならないように、今度は、墳墓の上からずっとオラたちを見守っていてくだせえ」

それは、大将が、こんどはあっちの世界で大将になって、病魔や厄災からみんなを守ることです。

「そんなありがたいことをしてくださるなら、おひとりっちゅーわけには、いくめえよ」
「だったら、大将に兵隊さんを付けてあげるべえ」
「んだな。じゃあ、どうせなら、たくさんの兵隊さんがいたほうが良かっぺな」

それで副葬品にしたのが埴輪です。
ですから埴輪は、あの世の神様の兵隊さんたちです。
だから、生きた人、秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)の兵像のようなリアルな像ではなくて、のっぺりとした、ちょっとお化けのようなお顔をされています。
あきらかに生きた人とは区別した、あの世の神様の兵隊さんたちなのです。
その「あの世の兵隊さん」たちは、とってもユーモラスなお顔をされています。
これを作った人々の、あたたかで、おおらかで、やさしい気持ちが伝わってくるかのようです。

埴輪は、人柱の代替品ではありません。
黄泉の国に行った新田開墾の大将(大きな古墳では天皇)のための、あの世の軍団であり、最初からそういう、この世のものとは異なる設定のものであったのです。

そしてこれまた、わたしたちの曾祖父の時代くらいまでは、古墳の近くで代々生活している人たちにとっては、およそ常識のことでした。

埼玉の行田市には「さきたま古墳群」がありますが、そこは石田三成が忍城(おしじょう)の城攻めをやったところとしても有名です。映画「のぼうの城」になりました。

この城攻めのとき、石田三成は近隣にある古墳群の古墳を取り崩して堤防を築きました。
石田三成は教養人です。
古墳がお墓なら、そんな乱暴なことはしません。
古墳が盛り土と知っていたから、これを用いました。

いまでもこのときに作られた堤防が残っていますが、その土は古墳と同じものだし、堤防から埴輪の欠片などが出土するそうです。
埴輪が、田畑を守る一種の飾り物だったからこそ、三成は、平気でこれを取り崩したのです。

そんな古くからの常識を破壊したのが、戦後の学者さんたちです。
学者さんたちは、古墳は豪族たちの権力の象徴であり、だから古墳は墳墓であり、副葬品としての埴輪は、人柱の代替品であり、もともとは人間を埋めていたのだ、といいます。

では、お伺いしたいのです。
副葬に人柱を立てたというのなら、その人骨が並んだ古墳を見せてくださいと。

ウシハク領主にとっては、田畑は自分の贅沢のためのものです。
しかし、シラス国においては、田畑はみんなのためのものです。
みんなが安心して食えるように田畑を開墾しているのです。
その民(たみ)を殺して人柱にしてどうするんですか?

日本は太古の昔から、みんなを、そして命をたいせつにしてきた国なのです。

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コメント

YY

日常の疑問の謎が解けました
ありがとうございます。
クルマでよく通る道沿いの田んぼの中に古墳らしきものがあるなあ、と思っていましたが、謎が解けました。

自衛隊に憧れる事務員

腑に落ちました!!!
ねず先生こんばんは。
いつも仕事終わりに楽しく当ブログを読ませて頂いてる者です。

小学生時代に古墳時代を学んだとき、資料集や歴史漫画に「古墳は天皇、豪族が生前の自らの権威を後世に伝えるために民衆に作らせたもの」というのを見て、『大きい古墳ならまだしも、僕の家の近所にある公園ほどの小さな古墳をわざわざ作らせるなんて逆に恥ずかしくないかなぁ?』と子供心に不思議でした。
この歳になってやっと合点いきました!

「古墳は土地を開墾した際に出てくる大量の土砂の盛り土」

言われてみればそうですよね!

埴輪だって『人柱の代わりなら、兵隊さんだけじゃなくて女性や子供、おじいちゃんやおばあちゃんもいて良いじゃない!』とおもってました。

子供が純粋なのを良いことに、自虐史観を刷り込む日教祖、反日教師にはホントに腹が立ちます!!!

あらみたま

今日も目からウロコでした
回りの小さな古墳は避難用!!

凄く納得です。歴史の勉強では納得できないことがたくさんありましたが、ねずさんのブログではなるほど!!ばかりです。

ところで、大きい古墳は平野部にしかないかもしれませんが、私の故郷のような北関東で山が増え始めるエリアでは、山上にも古墳がたくさんあります。山といっても小さい山、丘のようなものですが、古墳群のある場所がいくつもあったようで、私が子供の頃は100ぐらいの古墳群が私の町内の山にもあって地元の考古学者が発掘していたそうです。地域開発の際に見つかったもので今では存在しないものですが、小さな集落の小さな山になぜそんなに古墳があったのか不思議でした。また、そんなにたくさんあったお墓を壊しちゃったの?と無気味だったのです。しかし、その学者さんの本によればそのエリアは随分昔から水田が開発されていたということですから、土の置場所がなくて、その小さな山上に置いたのだとすれば、数がたくさんあるのもわかりますし、それをなくしたのも納得できます。大きいのだけは残っているのですが。

多分、水田を少しでも多く作るために、小さな平野部を避けて小さな山に土を運んだのかもしれません。

因みに日本で最初に正式に発掘された古墳も私の地元の栃木県の足利で、小さな山の上に古墳があります。

周辺は渡良瀬川の氾濫が繰り返された場所ですから、きっと昔から土木作業も行われてきたんだと思います。

目からウロコの話を今日もありがとうございました。

大清国属大韓民国国属旗

何時も 目からウロコが落ちる記事ばかり県県民で 勉強させて頂いています。
自分は 宮崎県出身ですが、県のシンボルの一つは 埴輪です。西都市の西都原古墳群には 宮内庁管理の 雄狭穂 雌狭穂塚をはじめとして 300基程の古墳があります。
確かに 昭和30年代生まれの自分は 歴史では 埴輪は 以前は 人柱として副葬していたものを 埴輪に 置き換えたものだと教えられました。子供向けの歴史マンガでも そういった描写がされていました。

それならば 人柱が ハニワ化する以前の もっと古い時代の 人柱を何十柱も副葬した 古墳も 当然 有りそうなものですが 聞いた覚えは 有りません。
左翼歴史学者は 史実の裏付けなど 全く無い ウソの 理論で 支配ー被支配のマルクス歴史観を こじつけていたのですね 。
朝鮮半島南部に 存在する 前方後円墳についても 九州の前方後円墳の方が 時代的に 古く 日本から 朝鮮半島南部に 任那日本府として 日本の勢力下に あったという事実さえ 無視した歴史観が 未だにはびこっています。

ロザリオ

有難うございます。
去年、母の叔母がお亡くなりになり
母の叔母と1度も顔を合わせたことの無い、私の息子ふたりと私
そして、私の両親 総勢5人で母の叔母の葬儀に行きました。

その時の部屋に葬儀場が備えて下さっていた折り紙を私が見つけました。
母が「ああ〜折り鶴、おばちゃんに持っていってもらおう」
と、言いました。
未婚のまま身寄りは、甥や姪しかおらず
キャリアウーマンで80代の方でした。

母のその一言で、5人みんなで折り鶴を織りました。
私は心を込めて、織りました。

私の息子の折り紙の技術は拙く、随分時間が掛かりました。
葬儀屋の方は、時間が差し迫っていたのに、息子達が織る鶴を笑顔で黙って見守って下さりました。

古墳の埴輪もそうゆう代物だったじゃないか、
そう感じます。

あの、無心で一所懸命に拙い手つきで、折り鶴を織る息子の姿が脳裏に焼きついています。

有難とうございまいます。

k.k

いつもいつも目からウロコのお話し、ありがとうございます。

なるほど、よく分かりました。
以前、大阪に単身赴任で住んでたことがあって、その頃、よく纒向遺跡や古い古墳を見に行ったんです。

すると、付近には、天皇陵とか箸墓古墳とか有名な古墳以外に、いくつも小山が重なり合うように点在していました。ご先祖様のお墓に重なり合うように新しいお墓を作るなんて、随分雑な扱いだし、そもそも最初の天皇である崇神天皇(当時、僕はそう信じてました)のお墓より古そうな古墳がいくつもあって、いったいこれらは誰のお墓なんだろう、って思っていました。

天皇のお墓もあるけど、多くはただの盛土というのなら、あの小山群も説明がつきます。

それから、今住んでいる所のわりと近くに、風土記の丘と呼ばれる古墳群があり、ご丁寧に100以上の番号がつけられています。これらが全て、天皇家の影響を受けた地方豪族が自分の権威のために作ったのだったら、随分と権威のないことをアピールしてるものですね。中には数日で作れそうな小さなサイズの物もあり、そこで眠っている豪族は何て人々から人気が無かったのでしょう。

土木工事の際の盛土、なるほど、それなら納得です。

みやび

ねずさん、みなさま
こんにちは(^-^)/

今日も、ねずさん流解説をありがとうございました。

百人一首でも、今日のお話でも
ねずさん流解説を読むと、今までの通説が間違っていたのでは?
と思えてきます。

なので、いつかは
ねずさん流解説が浸透して、当たり前となっていきますね♪

嬉しいことです!

通行人

納得
おかしな解釈が罷り通るのは何かの陰謀があると思い探究したくなります。

ケイシ

ねず先生、いつもありがとうございます。
大阪には仁徳天皇の事跡や仁徳天皇が祭神の神社が多数あります。 大阪を含めて関西は、仁徳天皇、父君の応神天皇(八幡大神)、古代朝鮮を征討した祖母であられる神功皇后のご恩を深く受けている土地柄である事が分かります。民を慈しみ、国と国民の繁栄の為に尽くして下さった天皇さま方に末長く私達を見守って下さいと感謝と祈りを捧げるのは当然の心情だと想います。現代人よりも遥かに心が清く信仰心の篤かった当時の方達であれば尚更です。 埴輪が親しみを感じる素朴なお顔されているのも当時の方達の素朴な感謝の表れであるのは頷けます。

鬼っ子

No title
千葉の成田までの道にハニワ道がありますが、確かに近くには田んぼや畑が広大に広がっていて、米収穫センターがいくつもあります。ハニワ道のはにわは人よりも多少大きいんでよく見かけましたがみんな笑顔で手を振ってる形でした。

ハニワは「この世でもあの世でも兵力は必要なんだ」と暗に示してますね。

もし現代において私たちが再び大将のためにハニワをつくるとしたら、おそらく迷彩服にレンジャーバッチつけて小銃と16菊紋彫りのある日本刀を身につけた軍人ハニワになるだけでしょう。きっと馬の代わりにアパッチやら機動装甲車に乗って笑顔で手を振ってるに違いありません。時代は変わっても日本心は変わりませんなぁ。

通りすがりの武人

No title
明快な解説ありがとうございました。それにしても戦後の売国学者どものインチキ学説には腹が立ちます。彼らは間違いなく隣接する野蛮国のスパイに違いない!!

知らせない教育反対

通説って何?
銅鐸は鐘(かね)というのが通説ですが、天体観測器(太陽の角度で季節を知る)だという説がありますね。「通説」だけを教える無味乾燥な教育より、異説を紹介する方がスリリングで授業も面白いと思うのですが

スイカツリー

仁徳天皇陵
毎回、興味深い話しを有難う御座います。質問ですが・・・

「仁徳天皇陵は完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人かかるという計算になりました。」

15年8ヶ月≒5640日として、延べ796万人ということは、一日当たり1万4110人です。
これは有り得ない話ではありません。

札幌ドーム野球場に5万人が入場可能ですが、北海道の人口は600万人強でもこれだけ入っています。しかも忙しい中、お金を払って喜んで集まります。

だんじり祭りが終わった次の日から、来年の祭りの為に、自腹を切ってでも準備を始めるそうです。

仁徳天皇陵の造成に自主的にこれだけ集まっても不思議には思えませんが、どうでしょうか?
さらに、食事サービス・労賃付きかも知れません。

勿論、「古墳は土木工事の残土」説は正しいと思いますし、日本人なら喜んでこの工事に参加すると思います。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
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