拉孟(らもう)の戦い



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山の紅葉0909


すこし日にちがさかのぼりますが、9月7日は、拉孟(らもう)守備隊が玉砕した日です。昭和19年のことです。

拉孟(ラモウ)というのは、ビルマとChinaの国境付近にある小さな村です。
この拉孟は、昭和17年(1942)当時は廃村でした。
位置は、怒川という川の西側です。海抜2000メートルの山上です。
東は怒川の大峡谷です。
向かいには、鉢巻山という高山がありました。

気候は日本とすこし似ています。
四季の変化に富んでいて、とくに秋は紅葉が美しいところです。

海に浮かぶ島での玉砕戦は、ある意味、海という逃げ場のない戦いですが、拉孟の戦いは、ジャングルの中の陸戦です。そして陸戦で、120日という長期にわたる戦いを遂げ、全員が玉砕した戦いというのは、この拉孟の戦いが人類史上初のできごとであり、これが史上最大の戦いです。

拉孟に居た日本陸軍の守備隊の人数は、わずか1280名です。
しかもそのうちの300名は傷病兵でした。
その中には、15名の日本人女性(慰安婦)もいました。

彼らは5万人のChina国民党最強の精鋭部隊と米軍による完全包囲を相手取った戦いの末、最後、全員がお亡くなりになりました。最後の玉砕の前に、本部への報告のため脱出した木下中尉のおかげで、その全容をわたしたちは知ることができます。


小坂さんが8/15の動画を作ってくださいました。私もちょっと出ています^^
靖国神社 2014.8.15終戦記念日 靖国映画



その拉孟の北と南は怒川の二つの支流です。
そこに深い渓谷があり、西側にビルマからChinaへ抜ける道があります。

この道が、英米連合がChinaの蒋介石へ援助物資を送り込む援蒋ルートでした。
昭和17(1942)年5月、日本は援蒋ルートの阻止のため、ここに第56師団を送り込み、歩兵第113連隊が、ここに陣地を築きました。

この陣地によって、援蒋ルートは、分断されました。
そうなると、China国民党軍は、軍事物資の補給が停まります。
どうしても拉孟を奪い返したい米支連合軍は、昭和18(1943)年の中期以降、拉孟奪回作戦遂行のため、20万人の大部隊である雲南遠征軍を猛烈な訓練によって徹底的に鍛え上げました。
あたりまえです。彼らにとっては援蒋ルートの確保は死活問題なのです。
そして昭和19年3月、この遠征軍のうちの5万が、拉孟の日本陸軍守備隊に襲いかかったのです。

拉孟(らもう)にいた日本の兵士たちは、福岡の野砲兵第56連隊第3大隊でした。
彼らは日本陸軍最強を自認し、自らを「龍兵団」と呼んでいました。

その「龍兵団」を指揮していたのは、金光恵次郎大隊長です。
現場叩き上げの少佐で、このとき49歳でした。
彼は、貧しい農家の出身で、とても小柄です。
性格もおとなしい。しかも小学校しか出ていません。

そんな彼は、軍隊に入ってから猛勉強をして、なんと陸軍士官学校に合格しています。
そして士官学校で鍛え上げられた彼は、まさに名指揮官の気骨ある逸材に育っていました。
ただ、見た目は、どちらかというとしょぼい。

そんな彼が、自他ともに陸軍最強を自認する拉孟の「龍兵団」の指揮官となっていました。
荒くれ者の猛者ぞろいの大隊です。

戦いが始まる前、金光隊長は、敵襲に備えての防御陣地の構築のため、そんな「龍兵団」の猛者たちに、肉体の限界を超えるような重労働を課しました。
敵のいかなる砲撃にも耐えうる陣地を作らねばならないからです。

古来、穴掘りというのは、もっともきつくて苦しい労働です。
しかも場所は険しい山岳中です。トラックもブルドーザーもありません。すべて人力での作業です。

若い兵たちからは、当然のように不満の声があがりました。
しかし金光隊長は、何も言わず、五十歳近い身で、のこぎりを引き、つるはしやシャベルをふるい、丸太やもっこを担ぎ、土嚢やドラム缶を積み、一心に働きました。
そして金光隊長が仕事を終えるのは、いつも最後の一兵が仕事を終え兵舎に入るのを見届けてからでした。

やるべきことは、やらねばならないのです。
そして彼は、隊長として、それをみんなにやらさなければならなりません。
口下手だし、兵たちを権限にモノを言わせて叱り飛ばすようなことの苦手な金光隊長は、ただ黙って率先垂範・有言実行に徹したのです。
上官風さえ吹かせるようなことさえまったくしません。
ただ、公私ともに陰日向なく、誰に対しても公平であろうとし、進んでいちばん辛い仕事に邁進しました。
口べたな金光隊長は、口頭ではなく、背中で兵たちに語って聞かせたのです。

最初のころ、重労働に不平不満を漏らしていた兵士たちも、そんな金光隊長の背中見て、以後一切、不満の声は上がらなくなったそうです。
さすがは日本男児たちです。ちゃんとわかる。
いつしか守備隊の中には、金光隊長のもとでなら頑張れる、やれる、やってやろう!という気迫までもがみなぎったといいます。

6月2日、本格的な敵襲がはじまりました。
凄まじい砲爆撃が、一斉に開始されました。
間断なく撃ち込まれる巨弾が、大地を揺るがしました。それは、山の形までが変ってしまうほどの猛烈な砲撃でした。

しかし守備隊員が必死で作った陣地は、頑強です。
敵の猛烈な砲撃にも、まるで壊れません。守備隊の将兵は、陣地の中に身を隠し、息を殺して逆襲のチャンスを待ちました。

いつ果てるともない砲撃が続きました。
敵弾が着弾するたびに、壕の中は頭の上から土砂がこぼれてきます。落盤すれば命はありません。恐怖の中にあって、兵たちはすぐにでも飛び出したい衝動さえ駆られました。

けれど金光隊長は、反撃命令を出しません。
隊員たちはじっと命令を待ち続けました。
砲兵将校である金光隊長は、限られた火力しかない守備隊がむやみに撃ち返して、虎の子の砲の位置を敵に教える愚策、砲弾の無駄、を知っていたのです。

夜になって、ようやく弾雨がやみました。
けれど、ほっとしたのもつかの間、翌朝未明には再び敵の砲撃が開始されました。
あらゆる砲種の砲弾が、唸りをあげて落ちてきました。
爆風が土砂を、鉄片を、木片を巻き上げ、硝煙が舞い、昼間だというのに薄暗く、視界さえ利きません。

けれど相変わらず、金光隊長は動きません。
撃たれっ放しです。
やられっぱなしです。
それでも彼は動かない。

恐怖の中で、兵士達にあったのは金光隊長への信頼だけでした。全員が、ただ隊長信頼だけで、隊長の発する反撃命令をじっと待ち、じっと耐えたのです。

夜、弾雨がやみました。
翌、6月4日の朝、またもや敵の砲撃が開始されました。
ただ、この日は、いつもと様子が違いました。
あれほど猛り狂った砲撃が、ペースダウンしたのです。

敵の観測用飛行機が陣地上空を低空で飛びました。
守備隊の陣形、兵の配置などを無線で報告しているようです。

時間が経つにつれ、砲撃の確度が上がりだしました。
それまで、むやみやたらな砲撃だったものが、目標物に対する狙い撃ちに変ったのです。
これを見た金光隊長は、敵の歩兵部隊の侵入が近いことを予期しました。
金光隊長は、全隊員に戦闘準備を命じました。

金光隊長の予想は的中しました。
雲南遠征軍の先鋒を務める、李士奇師長が率いる新編二八師の歩兵一個団(一個連隊)3000人が、沈黙したまま反抗しない日本軍を侮って、喚声をあげて押し寄せてきたのです。
 
金光少佐がじっと待ち続けていたのは、まさに、このときでした。
彼の命令一下、掩体壕(えんたいごう・砲撃から身を守るための壕)に潜んでいた守備隊の虎の子の砲が、地上ににゅうと顔を出しました。
そして、一斉射撃を開始しました。

それまでじっと耐え忍んだのです。
日本の砲撃は、まるでそれまでの憤懣を、激情のままにぶつけるかのような猛射でした。
しかもそれは、鍛え抜かれた一発必中の猛射です。

狙う。撃つ。命中する。
密集して押し寄せる敵兵は、次々になぎ倒され、大混乱に陥りました。

敵が逃げ惑います。
砲撃をくぐり抜けて陣地内に迫った敵兵には、歩兵が小銃弾の連射を浴びせました。
あるいは手榴弾を見舞い、撃破しました。

それをも突破し肉薄して来た敵兵には、抜刀した、あるいは銃剣をふるった歩兵が次々と襲いかかりました。
帝国陸軍にその名を知られた、九州福岡の「龍兵団」の精兵たちです。強い。強い。

守備隊の熾烈な猛反撃に、敵の一個連隊がまたたく間に壊滅しました。残兵は潰走しました。
そして敵が敗走したのを見届けるや、守備隊の砲はまた忽然と掩体壕に隠れました。
あたりには、何事もなかったかのような静寂が訪れる。

6月7日、前回、手痛い敗北を喫した李士奇師長は、今度こそとばかり自ら新編二八師の主力の7000人を率いて、総力攻撃をしかけてきました。
新たな目標は、守備隊の本道陣地です。

しかし守備隊の反撃はまたしても彼らを上回りました。
激闘数時間。
ついに拉孟守備隊は、数倍する敵を粉砕して、敵司令官李士奇さえも戦死させてしまいました。
なんと、わずか千名余の拉孟守備隊の前に、敵の最新鋭の精鋭部隊である新編28師団の7000の大軍が、壊滅してしまったのです。
こうして、緒戦は守備隊の完勝となりました。


戦いは、毎日続きました。
6月半ば、その拉孟から、金光隊長が司令部宛に打った報告電文があります。
「今までの戦死250名、負傷450名。片手、片足、片眼の傷兵は皆第一線にありて戦闘中。士気極めて旺盛につきご安心を乞う」

絶え間ない砲爆撃、肉弾相討つ白兵戦が、いつ果てるともなく続く戦いです。
手を失った者、足を失って這うしかない者、、眼を失った者、普通であれば野戦病院行きの重篤な負傷者たちばかりです。
それでも拉孟(ラモウ)守備隊は戦い抜きました。

無理矢理やらされているのではありません。いやいや戦っているのでもありません。
彼らは、軍医が止めても、聞かなかったといいます。
戦友だけを戦わせるわけにはいかない。
寝ている暇ななんかねえさ。オレもすぐに行かなければ・・・

夜、砲爆撃が止み、敵が休んでいても、守備隊の兵たちに休息の時はありません。
怪我をして血にまみれていても、死ぬほど疲れていても、傷んだ陣地を一刻も早く補修しておかなければ、次の戦闘で敵に付け入る隙をあたえてしまうのです。

15名の女たちも、それぞれに兵隊服を着て、ある者は男たちの作業を手伝い、ある者は炊事婦として働き、またある者は看護婦として負傷兵を手当てしました。
彼女たちも、いまや拉孟守備隊の欠かせぬ一員となって「戦って」いたのです。


6月28日、垂れ込める沈鬱な雨雲のなかから、4機の戦闘機が姿を現しました。
近付いてくる機影を見上げていた兵の一人が、甲高い声で叫びました。
「友軍機だッ!友軍機が来たぞ!」

壕を飛び出した兵たちは、翼に輝く日の丸を見て、手に持った日の丸の小旗を、力いっぱい振りました。

清水千波中尉率いる4機の戦闘機は、敵高射砲の咆哮をものともせず、危険を冒して低空飛行を敢行し、梱包した弾薬を投下しました。
そして、別れを惜しむかのように翼を振り、雲の彼方に消えていきました。
友軍機が、命がけで運んでくれた弾薬の包みを抱いて、兵たちは、声をあげて泣きました。

数度にわたり実施された空中投下の都度、金光隊長は第三三軍司令部にあてて感謝の電文を送っています。
「今日も空投を感謝す。手榴弾約百発、小銃弾約二千発受領、将兵は一発一発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。」


7月24日、実際に拉孟陣地への空輸を担当した第三三軍配属飛行班長の小林憲一中尉の記録があります。
この日、軍偵察機3機と戦闘機「隼」12機を一団として、50キロの弾薬筒を各軍偵に2個、隼に各1個、計18個吊し、空輸したのです。
15機は、一団となって飛び続け、拉孟(ラモウ)を目指しました。

やがて拉孟(ラモウ)陣地上空付近に達すると、敵戦闘機のPー38、P−51が、迎撃のため襲い掛かってきました。
「隼」は空中戦に突入しました。
敵高射砲陣地からは、続けざまに高射砲が放たれます。

そんな中で、弾薬筒を投下するために目標を定めようと眼下を見下ろした小林中尉の目に、地上の様子がはっきりと映りました。
それは想像絶する光景でした。
拉孟陣地の周囲が、全部、敵の陣地と敵兵によって、びっしりと埋め尽くされていたのです。

小林中尉は手記に、次のように記しています。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。上半身裸体の皮膚は赤土色。T型布板を敷くため、一生懸命に動いている。スコールのあとでもあり、ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、私は心から手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた」

そして、友軍機の爆音を聞いて二人、三人と壕を飛び出してきた兵隊達の言いようのない感激の表情が、小林中尉の肺腑をえぐりました

「その時、私の印象に深く残ったものに、モンペ姿の女性が混じって白い布地を振っている姿があった。思うに慰安婦としてここに来た者であろうか、やりきれない哀しさが胸を塞いだ」

兵隊たちも女たちも、一心に、手をちぎれるほども振り、声を上げ、感謝している。
小林中尉の眼は、熱いものが溢れてかすみ、手袋をぬいでいくら眼をこすっても眼が見えなくなりました。

小林機は、低空から2個の弾薬筒を無事投下しました。
そして小林中尉は、涙をぬぐった眼でしっかりと、この何分か、何十分後かに戦死しているかもしれない戦友の顔を刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにするのだけれど、あとからあとから溢れるもので眼はかすみ、どうにもならなかったそうです。

激情に駆られた小林中尉は、弾薬筒を投下後直ちに戦場を離脱すべしとの軍命令にもかかわらず、敵高射砲の弾幕をくぐって急降下しました。
そして意地の銃弾を、猛然と敵陣地に向け叩き込んみました。
敵弾が愛機の機体を貫きました。
敵の弾が小林中尉の体もかすめました。
それでも小林中尉は、まなじりを決して、弾倉が空になるまで、あらん限りの銃弾を撃ち続けました。


それから一ヶ月が経ちました。
8月23日午後5時の、金光隊長から司令部宛の電文が残っています。

「19日以来、敵の猛攻に対し死守敢闘せるも、大部の守備兵は不具者となり、また関山を爆破せられた。
2回にわたり夜襲し、これを奪回確保するも、敵兵の集中砲撃により百名以上が戦死。
兵力の寡少の関係上、戦線を横股、檜山、音部山、裏山半部、連隊長官舎南方高地、東北高地を連ねる線に整理す。守兵は、片手片足の者が大部分にあるも、全力を奮って死守敢闘該線を確保しあり」

8月23日の電文です。
「最悪の場合、各種報告のため、砲兵隊木下昌巳中尉を脱出させ報告に向かわす。木下中尉は守備隊本部にあって戦闘参加しあり戦況を熟知。彼は唯一無傷の年少気鋭の将校にあり」

この時点で、もはや守備隊には満足な弾薬はありません。水も、食糧もありません。
百名に満たない不具の将兵が、不眠不休で戦闘を続けていました。
それは眼をそむけたくなるような、悲愴な光景でした。


8月30日電文。
「3ヶ月余の戦闘と28日以来、敵の総攻撃により守備兵の健康者は負傷し、更に、長期の戦闘により歩兵砲兵とも、小隊長死傷し皆無となり、守備兵は不具者のみにて音部山の一角及び砲兵隊兵舎西山横股の線に縮小死守、危機の状況なり。又、弾薬欠乏し、白兵のみの戦闘なるも、突撃し得る健康者なきをもって、兵団の戦況之を許せば、挺身隊を編成し拉孟の確保方依頼す」

決して弱音を吐くことのなかった金光隊長が、自分たち守備隊が玉砕した後、なんとか後事を託すため、挺身隊を組織して派遣していただくことはできないか、と願ったのです。
しかし、この時点で、三三軍司令部にも師団司令部にも、もうその余力も時間もありませんでした。

9月5日電文。
「通信途絶を顧慮し、あらかじめ状況を申し上げたく。四囲の状況急迫し、屢次の戦闘状況報告の如く、全員弾薬糧秣欠乏し、如何とも致し難く、最後の秋(とき)迫る。
将兵一同死生を超越し、命令を厳守確行、全力を揮って勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力のためご期待に沿う迄死守し得ず、誠に申し訳なし。
謹みて、聖寿の無窮皇軍の隆昌と兵団長閣下始め御一同の御武運長久を祈る」

これが、拉孟守備隊金光隊長の最後の電文となりました。
電文を打った直後、金光隊長は無線機を破壊し、暗号書、機密文書等のすべてを焼却しました。


9月6日、降り止まぬ雨のもと、敵の砲撃はますます激しさを増してきました。
この時点で生存者は、重傷者をいれて80名です。
敵の迫撃砲弾が陣地周辺に集中し、死傷者が続出しました。

金光隊長は、鞘を捨てた軍刀を握りしめ、戦闘の陣頭指揮にあたっていました。
午後5時、一発の迫撃砲弾が金光隊長のそばに着弾し、炸裂しました。
金光隊長は、腹部と大腿部に致命傷を負い、泥土のなかに倒れました。

付近にいた兵たちが、隊長を安全なところに隠そうとしました。
けれど、もう、隠せる場所すらありません。
金光隊長は、深傷を負いながらも、なお毅然と指揮をとり続けようとしました。
けれど午後7時、ついに戦火の中で息を引き取りました。
享年49歳でした。


この時点で拉孟守備隊は、重傷者をいれても、もはや50名に満たない状態になっていました。
金光隊長戦死のあと、指揮権は真鍋大尉が引き継ぎました。

その夜、真鍋大尉は、護り続けてきた歩兵第百十三連隊の軍旗を焼きました。
彼ら生き残っている将兵の周りには、既に息絶えた戦友たちが累々と横たわっています。
そして動くことのできない重傷兵は、炎に包まれて焼け落ちる軍旗をじっと見つめていました。
まだ息をしている誰もが、声も上げずに泣きました。


9月7日、午後5時、真鍋大尉は、最後の突撃を決断しました。
「諸君!、長い間ごくろうであった。ほんとによくやってくれた。亡き金光隊長にかわって、あらためて礼をいう」
そう言うと真鍋大尉は、軍刀を抜き放ち、「男らしく、立派に死のうではないか!」と静かに言いました。
そして、「いざ!」と声を励ましました。

先頭は真鍋大尉です。すぐ後ろに連隊旗手黒川中尉が続きました。その後ろを、かろうじて動ける兵たちが、一塊になって追いました。

意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺して殺しました。
自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えて自決しました。

天草からやってきていた女たちは、何よりも大切にしていた晴着の和服に着替えました。
そして戦場のすすで汚れた顔に、最後の化粧として、口紅をひきました。
そして全員、次々に青酸カリをあおりました。

この日まで、喜びも悲しみも共有してきました。辛さも苦しさも分け合ってきました。
慰安婦だった彼女たちは、このとき、まぎれもなく帝国軍人でした。

そして真鍋大尉以下、最後の拉孟守備隊は、雲南遠征軍の大集団のなかに消えていきました。


最後の突撃の少し前、真鍋大尉は、木下昌巳中尉に、本部への報告のために拉孟の脱出を命じました。
脱出には、山本熊造伍長と窪山俊作上等兵が同行しました。
玉砕の当日、木下中尉は、辛うじて味方の第56師団の前線に辿り着きました。
そして戦闘の様相を克明に報告しました。

重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様、空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面、弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者、15名の邦人の慰安婦たちが臨時の看護婦となり、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働く姿などなど。

報告を受ける56師団も、語る木下中尉も、ただ涙あるばかりでした。
松井少将も、部下を救い得なかった無念の思いで、悲憤の落涙を禁ずることができなかったそうです。


この戦いについて、敵将の蒋介石が雲南遠征軍に発した督戦令があります。
これは無電で発せられ、日本軍にも傍受され、解読されています。
==========
戦局の全般は有利に展開し、勝利の光は前途に輝いているが彼岸に達するまでの荊の道はなお遥かに遠い。
各方面における戦績を見ると、予の期待にそわないものが非常に多い。
ビルマの日本軍を模範にせよ。
ミイトキーナにおいて、拉孟(ラモウ)において、騰越(トウエツ)において、日本軍の発揮した善戦健闘に比べてわが軍の戦績がどんなに見劣りするか。予は甚だ遺憾に堪えない。
将兵一同、さらに士気を振起し、訓練を重ね、戦法を改め、苦難欠乏を甘受克服して大敵の打倒に邁進せんことを望む。
==========
この督戦令は、もちろん蒋介石が国民党軍に対して発したものですが、その内容が、逆に日本軍の強さを讃えるような内容になっていることから、「蒋介石の逆督戦令」と呼ばれています。


こうして拉孟の戦いは終わりました。
遠く異境の地で、こうして果てて行った日本人がいます。
彼らは、間違いなく、わたしたちと血のつながった父祖たちです。

世界中どこの国でも、こうして勇敢に戦った将兵は、国家として、民族として、そして「人として」、感謝し、顕彰しています。
けれど日本だけが、それを止めた。
それどころか、伝えることさえもしていません。

どうなんでしょう。
それは人として、国として、許されることなのでしょうか。



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コメント

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No title
小学校の「こくご」の教科書にそのまま載せても良い位易しい文書で、涙だ止まりませんでした。

やるせない事実に・・・・

あの時の戦争に向き合う時期がきた
その時代にある崇高な意識が、その時代を真に動かす。

私は、英霊の思いを、未だ果たせきれないカス日本人です。

しかし、胸の中には、いつも負けないようにしています。

それには、ねずさんのお話を始め、先ず大東亜戦争をしっかり学び直すところからです。

日本人としての性根をたたき直すところからです。

そして近い将来、必ず、こういう事柄が、受験問題にも出てきて、スラスラ答えられるような若者が、次世代の日本国を牽引してくれることを信ずる。

例 歴史問題

「昭和19年9月7日は、拉孟(らもう)守備隊が玉砕した日です。彼等は、なぜ玉砕までして何を護ろうとしたのですか。また、そのような先祖に対して、あなたは、どのような気持ちを伝えますか。」


もし、そうでないとすると、この日本国は、外交、貿易をはじめとする欧米からの悪辣なルールに負けつづけ、日本の伝統や文化は消し去り、彼等の植民地になりかねないと心配しております。


特攻隊には、17歳の若者もいたという。
今、その若者を目の前にして、今の日本や特に男児をみたら、どう思うか。

こういうレッテル張りはいけないと思いつつ、でも、そういう事にも、自分自身が逃げてはないらないと思う。

戦争は決してしてはいけない。

しかし、他国を植民地にすることを是とする戦争と祖国を護る戦争は、全く違うことを戦争反対や核を保有しない、憲法9条を護ると語る方にも、十分説明できる事柄と思う。

大東亜戦争から学ぶべきは、自衛の為に軍が必要であると同時に、その国民にあっても、世界の中にある日本の軍事力観を持たなければ、日本人は、数十年先には、淘汰されてしまうだろう。

今のグローバルの中の日本というまことしやか国際協調平和観を打破することは出来ない。

いままで、そんな緊張感もないまま、過ごしてきたのだから、これからが、正念場だろうと思う。

長文あしからず

やまと

No title
「拉孟の戦い」、心打たれる内容です。日本人が忘れてはならない先人の献身的な偉業と思います。残った慰安婦とは日本人でしょうか。自死されたとのこと、かわいそうなことです。NHKのアーカイブでも見られるようですね。ぜひ著作本の中にも紹介して下さい。同じ様な事はアジアの各地であったのでしょう。人が知るようになれば、テレビやドラマでも取り上げられるようになるかもしれません。少しでも多くの人が知ることが供養になると思います。

英霊の方々に敬礼したい

No title
涙もで、感動もし、今の未来に繋げてくださった英霊の方々の御冥福をお祈りしたいと思います。本当に感謝の言葉もありません。
こういう史実を知ることは大切なことだと思います。しかしその一方でドラマティックに描き伝えるのではなく、やる方やられる方の双方の惨劇が繰り返されない様、平和を祈りたいと思います。

先人たちが私たちに残してくれたもの

勇猛果敢な伝説の兵士
舩坂弘軍曹の武勇伝

栃木県出身、当時23歳

アンガウルの戦いで榴弾筒と臼砲で米兵を200人以上をさっしょうさせる

しかし、左大腿部に重症を負ってしまい数時間も銃火の中にさらされる

やっと来た軍医が傷口を見て助かる見込みが無いので自決用の手榴弾を渡す

仕方がないので持っていた日章旗を包帯代わりに止血して夜通し這いながら洞窟陣地までたどり着く

翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復する

その後幾度もひんしの重傷を負うも翌日には不思議と回復

絶体絶命の窮地においても拳銃の3連射で3人の米兵を倒し

米兵から奪った短機関銃で3人を一度に倒し

左足と両腕を負傷した状態のまま拳銃で米兵を倒す

それを近くで見ていた戦友からは不死身の分隊長と呼ばれ、まさに鬼神の如き奮戦の記録となる

しかし、食料も水も底をつき、腹部にも重症を負い、傷口には蛆虫がわき、

傷口に群がる蛆虫を火薬を押し込んでころすが、あまりの激痛で半日ほど意識を失い生死をさまよう

ついには這うことしか出来なくなり、自決を覚悟するが大切に持っていた手榴弾が不発に終わる

部隊も壊滅し深い絶望感を味わった後、どうせ死ぬならばと米軍指揮所へ重症のまま単身で肉弾自爆を決意する

対する米軍側は歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など総勢1万人

(10000人 vs 1人)

左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創、右肩捻挫、右足首脱臼、

その他、火傷や砲弾の破片の食込みが大小20箇所以上の重症を負いながらも

手榴弾6発と拳銃1丁を体にくくりつけて数夜指揮所まで這い続ける

前哨陣地を突破し四日目には米軍指揮所の手前20メートルまで到達する

米軍指揮官らが集合する機会を狙い突入する

誰がどう見ても瀕死の重傷で数日のほふく前進で服もボロボロの状態のまま

立ち上がって指揮所テントへ全力疾走するその姿を見た米軍兵士らはひどく動揺する

手榴弾が届く距離まで迫りつつも首を撃ち抜かれ戦死?

無駄だと思いつつも野戦病院に運ばれつつ、右手に手榴弾、左手に拳銃を握り離さない姿を見た軍医がこれが日本のサムライの勇敢なしに方だと語る

3日後、米軍野戦病院で奇跡的に蘇生する

アンガウルの米兵にこの噂は広まり「勇敢なる兵士」と呼ばれるようになる

ペリリュー島の収容所に身柄を移されるが、その噂もペリリュー島に瞬く間に広まる

身柄を移されて2日目には瀕死の重傷と大量出血で両目がほとんど見えていない状態なのに

監視の眼を潜り、1kmもの距離を駆け巡り米軍の火薬庫を大爆発させる

その後、収容所に戻り翌朝には平然と点呼を受け、米軍記録には原因不明の爆発と判断される

1946年に無事帰国したが、すでに戦死したと思われ位牌まであり、村人からは幽霊ではないかと噂される





でも実は本当の武勇伝はここからです↓


書店の経営者として仕事に専念しつつも、

(その後、大盛堂書店代表取締役会長となる)

戦後はアンガウル、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアムなど鎮魂の慰霊碑の建立に生涯をかける

その慰霊碑には「尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、

永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます」と刻まれている

書店経営の激務のなかでも毎年欠かさずアンガウル島で戦友の遺骨収集と慰霊を行う

遺族を募って慰霊団を組織し、現地墓参に引率する

パラオ諸島住民に対して援助を行い、現地と日本の交流に尽力する

戦没者の調査と遺族への連絡など精力的に活動する

出版した本の印税を「世界の人々に役立ててほしい」として国際赤十字社に"全額"を寄付する


除隊後、全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主、テキサス州名誉市民章授与、

また、その白兵戦におけるあまりの戦果から個人名としては唯一「戦史叢書」に名前が載る

2006年2月11日、腎不全のため85歳で永眠





軍隊は悪だ、軍人はひとごろしだと思っている人はとても多いと思います

戦時中、多くの心の優しい青年達が戦地に向かって行ったのは

決して戦争が大好きで、人をころすためにではなく、

アジアの未来のため、守りたい大切な人のために、ではないのでしょうか。。。


そしてそのような国を思う人々が死に物狂いで世界に類を見ない最速で戦後復興させ、

世界第二位のこの豊かな経済大国を創り残していったのではないでしょうか。。。

丹次郎

敬白
小坂達也さんが、”ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!靖国参拝平成26年8月15日終戦記念日”をうpされております。
https://www.youtube.com/watch?v=AXwfmhJH5Wc

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No title
帝国軍人の、なんと凄烈なことか!
現代の日本人と本当に同じなのかと疑ってしまうくらい、戦前の帝国軍人は勇敢に戦ってくれたのですね…。私は40前半の者ですが、最近になってペリュリューの戦いや硫黄島の戦いの事を知りました。40過ぎてですよ…。本当に恥ずかしく思います。こんな私でも平和に生きていられるのは、大東亜戦争で勇敢に戦ってくれた先人たちのお陰であります。私の子供達がもう少し大きくなったら、大東亜戦争の事を正しく話していきたいと考えています。(今は古事記を読み聞かせています。)
今日は父方の祖父が、長沙にて戦死された日です。悔しいですが、詳しい事は何も分かりません。でもきっと今日のねずさんのお話に登場された軍人さん達のように、勇敢に戦って散って行かれたのだと信じています。

中谷直樹

No title
涙が溢れて止まりません。日本兵は本当に強いです。日本人として靖国神社には絶対、参拝に行くべきです。今ある日本の繁栄?は父祖の死に物狂いの活躍のおかげです。
今の自分を振り返って、真剣に日本のために生きているか 問い質したいです。

龍兵団

No title
我が嫁の爺さんも56師団でした。嫁の母は父親の顔を知りません。爺さん達の奮闘が今日の平和な日本である事を感謝しつつ今日のエントリーを読み終えました。涙が止まりませぬ。10月20日は久留米の山川招魂社の秋季大祭です。また、爺さんに会いに行こう・・・

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No title
この「拉孟の戦い」も映画かドラマにしてほしいです。
"慰安婦だった彼女たちは、このとき、まぎれもなく帝国軍人でした"ここが重要なシーンのひとつになると思います。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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