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明日、9月24日は、西南戦争で西郷隆盛が自刃した日です。享年51歳でした。
明治10(1877)年のことです。
西南戦争は、西郷隆盛の『征韓論』がきっかけとなったというのは、多くの人の知る事実ですが、昨年、このブログで『征韓論』は「朝鮮を征伐にいく論ではない」と書きましたら、多くの方に衝撃が走ったようです。
けれど、そうなのです。
当時、ようやく開国して新政府を築いたばかりの日本にとって、最大の脅威はロシアの南下でした。
英米仏欄などが、主として海路を通じて海軍の派遣しかできないのに対し、ロシアは大人数の陸軍で南下できるのです。これは元寇どころの騒ぎではありません。
まさに国としての死活問題でした。
このロシアに対して我が国を防衛するためには、日本の防衛力を高めるためだけでは追いつきません。
国力が違いすぎるのです。
清国にも、李氏朝鮮国にもそれなりに頑張ってもらうしかない。
いつまでも猿山のボス猿が、国家の境界線さえも曖昧なまま君臨しているだけの中世的国家では、ロシアの脅威に、太刀打ちできないのです。
とりわけ朝鮮半島は、ロシア南下に際しての最大の防衛拠点です。
ここがロシアに蹂躙されたら、次は間違いなく日本です。
ですから、できたばかりの明治新政府は、再三にわたって李氏朝鮮に使いを送りました。
ところが清国の属国である朝鮮王は日本を馬鹿にして首を縦に振らない。
そこで出てきたのが「征韓論」です。
征韓論の「征」の字は、「正しきを行う」です。
ですから「征韓論」というのは、「朝鮮の近代化を促進する(正しきを行う)ことで、ロシアの南下を防ぎ、東亜の、ひいては我が国の自存独立を図ろう」という論です。
こういう字句のイメージからくる認識の違いは、度々発生しています。
たとえば、授産所と聞けば、いまどきの人なら、ほぼ100%、出産所をイメージすると思います。
ところが明治初期でいう授産所は、「産を授けるところ」という意味で、いまの職業訓練所を意味します。
征韓論に対する認識の誤りも、これと同じです。
ですから西郷隆盛自身、朝鮮に軍事出兵しようなどとはまったく言ってません。
彼は自分が朝鮮王に特使として交渉に出向こうとしたのです。
彼自身が朝鮮国を訪問し、朝鮮国を説得し、朝鮮半島の近代化の促進に力を尽くしたいと主張したのです。
ところが日本政府の要人として西郷隆盛が出向くとなれば、そのための陣立てが必要です。
この陣立てというのは、いまどきの「数人のガードマンが政府要人の警護にあたる」と意味合いが違います。
中世的社会は体面を重んじるし、特に儒教国を自認する李氏朝鮮は事大主義の国ですから、それなりの大物が出向くとなれば、それなりの陣立てをし、それなりの行列を組まなければなりません。
この点、同じ政府使節でも、遣欧使節団のように欧米に向かった使節団は、少数でOKです。
欧米には、儒教国家にあるような「体面」という思想がないからです。
李氏朝鮮は「体面」がなにより優先する国です。
もし日本が清国や朝鮮に、政府の公式訪問団を少数で訪問すれば、相手は、自分たちの国が「軽く見られた」と判断し、それだけで言うことを聞きません。
ですから公式使節団は、その国力に応じた、士族の相当な大行列である必要があったのです。
士族というのは、日本では武士団を意味しますが、儒教国では士大夫(しだいふ)です。
要するに特権階級の要人が、大行列を為して訪問すれば、李氏朝鮮は、行列が大きければ大きいほど自国が尊重されたと思い、その大行列に対して敬意を払うのです。
やっかいな話ですが、それが儒教国の中世的社会の基本的構造です。
もうひとついうならば、この士大夫の大行列は、江戸時代の大名行列の江戸入りや、同じ時代の朝鮮から日本への朝鮮通信使と同じように、軍事侵攻を意味しません。
あくまで体面を重んじるため、ただそれだけのための行列です。
江戸時代の朝鮮通信使では、李氏朝鮮の使節団は、平和時でありながら、派遣使節団は800名の大軍です。
ならばロシア南下という非常時における日本からの派遣は、国威を示す意味においても、数千人規模にしなければならない。
そしてその使節団の経費は、大名行列がそうであるように、訪問する側、つまり日本側がその経費を全額負担です。それが儒教社会における常識です。
「征韓論」と聞くと、あたかも日本が武力で朝鮮を征伐し、征服しようとしたなどと、ありもしない妄想を膨らませる学者などがいますが、とんでもないことです。
わずか数千の大名行列で、一国の征服などできる筈もありません。
数千人規模の使節団は、古式にのっとって、数ヶ月かけて朝鮮を訪問し、それに対して朝鮮国が敬意を払ってもてなしをし、すすんで協力をする。そいう構造です。
ただし、その訪韓の経費は、日本持ちです。
ということは、莫大な経費がかかります。
ほんの少数をヨーロッパやアメリカに派遣するくらいなら、出来立ての明治政府にも、その経費の捻出はできました。
しかし、たとえお隣の国とはいっても、数千から数万の大行列の面倒をみるとなると、これは財政的に、ものすごく大きな難題です。
「それでもやらなければならない」
それが西郷隆盛の考えです。
そしてその大行列に、職を失った旧士族たちを充てれば、彼らにとってのそれが生活の糧ともなります。
旧士族は、失業していたからです。
海外派遣は、手当は国内出張よりも金額が大きくなります。
ですから同行した士族たちは、帰国後は、そのときの給金をもとに独立してお店を営んだりするだけの手持ち資金ができるわけです。
そして、朝鮮半島の近代化の促進は、ロシア南下への大きな防御壁になる。
一石が二鳥にも、三鳥にもなるのです。
ところが当時の政府には、カネがない。
いや、むしろ、その後に巨額の経費のかかる西南戦争をしているくらいですから、費用の捻出はしようと思えばできたのです。
西郷隆盛も、なにもそこまで無理難題を吹っかけているわけではありません。
けれど当時の新政府の閣僚たちは、『征韓論』の承認をしませんでした。
ただでさえ、カネのかかる欧州派遣使節を出している最中だったのです。
ただでさえ財政難なのに、さらに朝鮮半島に数千人規模の使節を派遣するなど、財政的には考えられない。
ですから、西郷隆盛の『征韓論』は、却下されています。
ところが歴史というのは皮肉なものです。
征韓費用をケチった政府は、結果としては西南戦争で、征韓を数倍する費用の負担することになったのです。
西郷隆盛としては、その教訓を胸に、日本は、遣うべきときに国費を使うことをためらわない政治の運営をしてもらいたいと、最後は乱を起こした責任をとって自刃しました。
ですから西郷隆盛が切腹したのも、単に戦に負けたからということではなく、必要なときに必要な行動をしっかりととれる政府となってもらいたい、ということを、彼の命に代えた政府への諌言として、切腹をしているのです。
そこを理解しないと、なぜまだ戦う力が残っているのに彼が切腹したのか、その意味がわからなくなってしまいます。
ちなみに、この国防が優先か、財政が優先かというせめぎ合いは、旧帝国政府内において、その後もずっと残りました。
そして財政優先にした結果、明治政府は西南戦争を引き起こしてしまうし、さらに山縣有朋内閣のときに国防力強化のために歳費の7割を陸海軍の増強に遣うという提案もしりぞけられ、結果として日清戦争を招いています。
目先の予算をケチることで、結果として、多額の費用と人命を失っているのです。
大東亜戦争も、実は同じです。
日本が開戦前に、多額の予算を計上して、それこそ圧倒的軍事力とChina国民党張りの国際宣伝活動を展開していたら、もしかしたら戦争は防げたかもしれません。
もっともらしい綺麗ごとで目先の財政にとらわれ、国家百年の体計を誤ると、結果として取り返しのつかない切羽詰まった事態に陥るのです。
それが今も昔も変わらぬ政治の現実です。
ちなみに冒頭の絵は、フランスのニュース紙に掲載された西郷隆盛とその仲間たちの肖像画です。
明治10(1877)年のものですが、ここに描かれた西郷隆盛の肖像画は、後年描かれた西郷像とは、ずいぶんと雰囲気が違います。
それにしても・・・・もし大西郷の意向が実現し、共揃えをしっかりと充実させた使節団が、朝鮮半島に赴き、そこで李氏朝鮮が胸襟を開いて日本と同じような近代化を推進していたら、東亜の歴史はどのように変化して行ったでしょうか。
ひとつ言えそうなのは、朝鮮半島は、明治43(1910)年の日韓併合ではなく、遅くとも明治20(1887)年頃には日本に併合されていたであろうということです。
それは朝鮮半島の近代化を早くに促したでしょうし、また、日本の統治期間が35年でなく、台湾と同じく50年以上に渡る期間となることによって、半島の日本化を目覚ましく推進したかもしれません。
けれど、八百万の神々の御心は計り知れないものです。
ただひとついえそうなのは、神々は、大西郷の命を奪ってまで、それを認めなかったのです。
そしてこれまた不思議なことに、半島と組んだ国は、どこもみんな滅んでいます。
いまも昔も、韓の法則は生きています。
※この記事は昨年9月の記事をリニューアルしたものです。

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コメント
トミー・ハート
大久保利通ほど、維新後に変貌を遂げた人物もいないでしょう。外見はスリムになり、非常にスマートな印象を受けます。
外見だけではなく、中身はもっと変わりました。近代政治に目覚めた結果です。諸外国の要人からも、非常に信頼を得ていたと聞きます。
この政治家の資質が、吉田茂さんや麻生太郎さんに受け継がれたのでしょう。
西郷隆盛は、乱世の英雄にはなれても、平時の大政治家にはなれなかった。
大西郷とうたわれる反面、それとは真逆の伝聞もあります。
真偽のほどは、ここでは問いません。
大事なのは、大西郷を没落させ、神々が良しとされなかった征韓論を、現在の我々がどう始末をつけるか?にかかっています。
征韓論は、名前を変え中身を変え、今こそ論ずべき課題ではないでしょうか?
2014/09/28 URL 編集
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結局、かの国の小中華主義の尊大な態度によって西郷さんが侮辱され、それに怒った薩摩系の武士が、ねずさんが否定されている征伐の意味での「征韓論」に至り列強の介入を招く結果になったと私は思います。
今、韓国で開催中の仁川アジア大会の数々のトラブルを見ても精神性は当時から現在まで良くなることなく連綿と続いているのではないかと思ってしまいます。
又、仮に統治時代を長くしても結局のところ彼らの言うところの独自の「民族教育」は、家庭内や、独自のコミュニティーにおいて残され、日本が負けたと同時にもとの自大に戻ってしまうと私は思います。
2014/09/26 URL 編集
島田一郎
大久保たちは「西郷派遣が失敗したら士族を抑えられない」と危惧していたんでしょう。朝鮮は明治日本に侮蔑の言葉を投げつけていましたから、誇り高き士族が激高しないわけがありません。大久保が参議を受けるときに、遺書めいたものを書いたといいますから、反対論を述べれば暗殺されると感じてたのかもしれません。
でも、遣欧使節団が出掛けている間、旧藩主や武士の不満を抑えていたのは西郷さんでした。版籍奉還や廃藩置県、徴兵制が出来たのは西郷さんがいたからです。そもそも1年半もの長きにわたって政府首脳が海外に出たのは廃藩置県の反発から逃げ出したんじゃないかと思います。果たして本気で条約改正を成し遂げるつもりだったのか?
明治政府はこのゴタゴタで西郷さんを失いました。自分で安全装置を外したんです。「西南戦争は、大久保利通の『反征韓論』がきっかけとなった」のほうが実態に近いんじゃないかと思います。でも西郷さんが怒ったは大久保じゃなくて、岩倉具視の不実と三条実美の惰弱に対してじゃないかと思いますけどね。
2014/09/24 URL 編集
お節介者
さて、タイトルの通りの件で気になる事があります。左系専門家の史書ならまだしも、渡部昇一先生の史書で『「日本の歴史」⑤世界史に躍り出た日本』という本があります。P57~58に「"大西郷"の存在と征韓論」という項目があります。そこから以下多少引用します
-----------------------引用開始---------------------------
当然のことながら、大久保利通らの洋行経験者は、朝鮮半島への武力進出にはまったく否定的であった。朝鮮に陸軍を出兵するような余裕は、日本のどこを探してもない。一刻も早く商工業を興し、鉄道などの社会資本を整備しなければ、日本は西洋に飲み込まれてしまう。朝鮮が無礼だの何だのと言ってはおれないという心境である。
(中略)
西郷の言い分は、「外交文書のやりとりで埒が明かないのなら、自分が特使として朝鮮に乗り込んで直談判をする。それで、もし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」というようなものであった。
はたして西郷自身の胸中に朝鮮出兵を願う心があったかどうかはさておき、一国の陸軍大将が国交もない国に乗り込み、開国を迫るというのは尋常なことではない。さらに付言しておけば、当時「大将」の肩書を持つ者は西郷ただ一人だったのだ。
朝鮮からすれば、日本が脅迫に来たと思うであろう。西郷は、それこそ殺されるかもしれない。また、西洋列強は、この行動を「日本に朝鮮進出の意図あり」と見るであろう。
当然ながら、岩倉や大久保、木戸たちは彼の意見に猛反対するが、西郷も一歩も譲らない。さらに困ったことに板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、福島種臣らが、それぞれの思惑から西郷を強力に支持した。ここに至って、新政府は分裂寸前の様相となった。
(後略)
------------------------引用終了----------------------------
この記述では西郷さん自身の立場からは純粋に「直談判」をすることこそが「征韓論」であったと読み取れます。ねずさんの本文の主旨と一致します。ところがこの書籍の文脈だと維新政府の立場からは征韓論を武力行使というオプションも含みにしていると読み取れます。当時の指導者層の立場立場で「征韓論」に複数の意味があったとも考えられます。
渡部先生は歴史の純粋な専門家ではないので存在するあらゆる根拠を元に最適な描写をしているかどうかはわかりませんが、やはり「征韓論」について西郷さんの立場からの「征韓論」だけではなく、維新政府が理解している「征韓論」という立場からのものも合わせて記述したほうがよかったのではないかと感じました。
歴史を動かすのは西郷さんだけではないので、「征韓論」が実行されたifを考える時、維新政府の視点からのものは外せないと思います。
2014/09/24 URL 編集
とおる
西郷さんの征韓論は、お説の通り、
李氏朝鮮を正しく導くために、持ち上がった論理だと思います。
しかしながら、当時の日本は、廃藩地権、身分制度[士・濃・工・商]の廃止で混乱していたと思います。
武士としての身分を剥奪された士族の皆さんは、それはそれは大変だったと思います。
朝鮮に使節を送る勇気は、ないと思います。
2014/09/24 URL 編集
日本みつばち
じょあ様
「征」が「正しい事を行う」という事、
私も気になって検索してみたのですが、
と言うくらいですから、詳しくはないのですが、
グーグルでは「孟子」の言葉がヒットしました。
征之爲言、正也=『征』の本来の語義は『正』
と。
すみません。勉強不足なのでこれくらいしか・・。
横から失礼しました。
2014/09/23 URL 編集
通りすがりの武人
2014/09/23 URL 編集
ゆき
怖いなー((((;゜Д゜)))と面白がってましたが、今日のねずさんのブログを読んで、本当なんだ… と思いました
QPさんのコメントに続き …
4)情報を隠蔽・撹乱する能力
ある勢力に乗っ取られ、日本を内部から破壊しようと情報操作する今のマスコミ…
鵜呑みにしてしまう多くの(ある意味)善良な日本人…
私の老親は、WGIPの洗脳から解けないままでいます
2014/09/23 URL 編集
防人
2014/09/23 URL 編集
edwalker
征韓論が韓国征伐でないとは聞いてましたが、よく事情がわかりました。
>朝鮮を征伐し、征服しようとしたなどと、ありもしない妄想を膨らませる学者
日本語の不自由な「もどき学者」が単語を見て火病って喧伝したと見ます。
古代文字にしても橋本進吉「八母音説」を根拠に嘘と決めつけてますが、これも「もどき学者」の仕業と考えます。その真偽は後述しますが、橋本進吉の八母音説は上代古文書(『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』)を元に組み立てられた説で、上代以前の日本語がどう(五母音?)であったかを示すものではない。
私は大野晋氏のいうタミル語影響説があると見ますが、タミル語を話す方々が稲作とともに渡来し、文化的に大きな影響(サンガムという三十一文字の詩もあった)を与えた。つまり当時のタミル語の発音が日本語へ影響し、文化の一時を映し文書として残った可能性が高いとみる。
現在私たちは、その五母音以外の母音を使い分けていない。大多数の日本人がいたわけですから、少数のタミル人の影響が徐々に立ち消える回帰現象が起きたとみれば、古代日本語は、五母音が妥当だ。
ということで、古代文字は五母音で整理されていても何の不思議もない。古代文字が営々と日本に伝わるものだと証明される日が待ち遠しい。その頃には「もどき学者」もいなくなっていると嬉しいのだが・・・
関係ない話で失礼しました。
2014/09/23 URL 編集
じょあ
リニューアル記事でも、こうやって思い返す事で、より記憶に刻まれるので助かります。
ところで「征」が「正しい事を行う」という事ですが、辞典を引いてもこのような意味がでてきません。
ねずさんのおっしゃる事が正しいと証明するにはどのようにすればよろしいでしょうか。
そもそも辞書も八紘一宇などと引くと、「旧日本軍が侵略の理由とした」などと書いている、でたらめな反日辞書もあるくらいなので信用できないのかもしれませんが、やはり根拠があると受け入れ安いです。
これからも応援しております。
2014/09/23 URL 編集
鬼っ子
たまたま頭によぎったのですが、このブログの中で説明のある、元寇の前に何百年も続いた平和な世が崩れ去ったことで74年後の元寇で勝つことが出来たとありますが、その流れならば戦後の武力を否定してきた腑抜け日本にも神々の意図がありそうな感じです。
たとえば、今の日本は「9条もあるし侵略戦争なんてもう出来ないっす」と戯言のたまって竹島を侵略されていますが、もし近いうち第三次世界大戦が勃発するとしたら、日本は戦争当時国ではなく偉大な調停者という立場になることが出来る可能性があります。もちろん日本を狙う者どもから守る国防力は絶対必要です。
日韓合併していたので絶対ありえないことですがもし第二次世界大戦で日本が勝ったり、あるいは軍国主義が今に至るまで続いていたら、第三次世界大戦に巻き込まれ比べ物にならないくらい悲惨なことになったのかもしれません。
実際9条はこれっぱっちも意味がないですが、現に憲法解釈としてしっかり自衛隊はありますし、2015年からは確実に在日排除が始まります。流れとしては悪くないはずです。日本は核を持つ必要があると考えるのですが、核を持たないことにも千万の神の意思があるのかもしれません。なにしろ昭和天皇(スメラノミコト神)が核を作ることを反対したのですから。
これからは大日本帝国(天皇を中心とした軍国主義)ではなく、大日本皇国(天皇を中心とした神国主義)という流れに入らなければなりません。全てのものを神に捧げ、神から与えられるような政治をする必要があります。市役所と神社と市場を一つのものにするのです。これは絶対うまくいきます。なにしろ天皇と神とみんなのためなら喜んで身を捧げるのが日本人なのですから。
2014/09/23 URL 編集