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織田信長といえば、近年ではものすごく恐ろしいお殿様であったように言われています。
けれど、武力や権力をひけらかして強がるだけのボスになど、人は誰もついていきません。
特に日本人にはその傾向が顕著です。
もちろん武門ですから「威」は大事です。
けれど、単に腕っ節だけを言うなら、当時の世に信長よりも腕の立つ者はたくさんいましたし、統率力という面においても、信長以上の存在は、他にもたくさんいます。
けれど信長が、誰よりも強い武将となったのは、彼に思いやりややさしさがあったからです。
そのことを証明する、一枚の書簡があります。
信長が、安土に城を築いて、そこに移り住んだ頃のことです。
秀吉の妻の「おね」が、お祝いの挨拶に信長のもとを訪れました。
そのあとのことです。
信長が、次のような手紙を、「おね」に書いて送っているのです。
まるごと引用します。
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仰せの通りに、今度はこの土地へはじめてお越しなされて、お目にかかることができたのは、まずもって、めでたいことです。
ことに結構なお土産をいろいろといただき、そのおみやげの美しさは、目にもあまり、筆にも尽くしがたいものでした。
祝儀のおしるしに、こちらからも何か差し上げようと思っていたところが、そちらから実に美事な品物をお届けなされたので、もはやこちらからはとくに差し上げたいと思う物もなくなったので、まず今度だけは思いとどまることにしました。またお伺いした時に何か差し上げることにします。
今度のお土産は実に結構なものでしたが、それにもまして、そなたのみめかたちは、いつぞやお見かけしたときを10としますと、今度は20ほどにもなっていました。
藤吉郎は妻としてそなたが不足であるとしばしば言っているとのことでしたが、実に言語道断、怪しからんことです。
どこを探し歩いても、お前様ほどの結構な妻は、かのハゲネズミ(秀吉のこと)としては、二度とまた探し出すことはできないのでしょうから、これからは、そなたも心持ちを快活にして、いかにも奥方らしく重々しく振舞い、悋気(リンキ)などに立ち入らないようにしてください。
しかし、女としての役目もあることだから、いいたいことも口に出さないようにして、やるだけのことはやるがよろしい。
なお、この手紙の文章の通りに、羽柴藤吉郎に意見をしてやってください。============
日本といえば「和の国」です。
「和」というのは、ひとりひとりが理性をもって、全体の中に自分の分(ぶ)をわきまえて存在することから出発します。全体をひとつの大きな和としたものが大きな和、「大和」です。
「和」は、ひとりひとりが「分(ぶ)」をわきまえます。
だからこそ、互いに敬愛や随順が生まれるし、後輩を育成しようとか、子を愛し育もうという行動が自然に育まれるのです。
そして互いにその分(ぶ)のなかで、自分の特性や他者との違いを活かして、全体に調和しようとします。
さらにいえば、「和」は、人の和だけでなくて、万物融合の意味も含むところに、日本の「和」の底の深さがあります。
そして間違いなく、信長も日本人であり、「和」の武将だったのです。
ちなみに昨今の日本では「個人主義」ばかりがもてはやされますが、個人主義というのは、どこまでも自己中心の考え方です。
すこし考えたらわかることですが、誰もが自分を中心にして「私」を主張しだしたら、矛盾や対立ばかりがおこります。あたりまえのことです。
ところが現実の社会関係においては、必ず人と人との共同が必要になります。
「和」がないところで、人と共同しようとすれば、人を支配するしかありません。
そして支配するために、カネや暴力が利用されます。
あるいは下の者には、妥協や犠牲ばかりがつきまといます。
それが「ウシハク」領主と、部下や民衆との関係です。
ところが上にある信長の手紙でわかることは、信長は巷間言われるような支配的棟梁ではなかったということです。
信長がどこまでも、人の和をたいせつにする人であったからこそ、部下たちが命がけでついていったのです。
「個人主義」というのは、万人の万人に対する闘争の思想です。
これに染まり、日本の歴史を「階級闘争」の歴史だ、などと決めつける学者の先生や教科書などがありますが、大きな間違いです。
そういう横車を押す、あるいは個人主義という偏狭なドグマからだけで歴史をみようとすると、日本史は理解できません。そこここに矛盾が生じてくるからです。
そして矛盾を、権威で押し通そうとすれば、それはもはや学会でも教育でもありません。
親分教授を中心にした、ただの「狂信者集団」になってしまいます。
昨今、多くの日本人が、お隣の国の反日洗脳教育を批判しますが、となりの国どころか、日本国内の、しかも教育が、他国を笑えない状態になっているのです。
戦後、教育界は、旧帝大を中心に戦前の日本の教育を「狂信的」と決めつけました。
「すべてを疑うところから学問は始まる」
「古い衣を脱ぎ捨てて、新しい衣に着替えよう」などという標語もありました。
けれど、「狂信的」であり、「疑われるべき」であり、「使えない衣」であったのは、なんと、それを言っていた本人たちだったのです。
日本人は目覚め始めました。
もうとっくに多くの民衆は、現代教育のいかがわしさに気付き始めています。
文科省も大学も、歴史教育界も、いま、自ら浄化を迫られています。
今日のこの記事をFacebookで紹介したところ、國語問題研究会の安田倫子先生から、次のコメントをいただきましたので、これを最後にご紹介します。
==========
わたくしは長い間教育に携わり、恩師にあたる方々が「まず疑ってかかれ、そこから学問が始まる」と盛んに仰っていたので、心の中でずっと「おかしいな」と感じていました。
やはり先人が命を懸けて研究されたものをまず真っ新な心で跡を辿り、そうして彼らが求めた精神や得ることのできた糧を有難く戴くことがマナーではないか、それが間違っていると感じたならばどこがそう感じるところなのか、検証する、という順番を踏みたかったからです。
回り道をしましたが、それも時代の子であるので必要な時間だったのでしょう。
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日本は変わります!

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コメント
takechiyo1949
礼節を弁えず?
自身を過信し?
過大に評価し?
自尊心優先で?
足るを知らず?
感謝を知らず?
これらは、どこぞの者共に対して列挙した訳ではありません。
心に帯びた「刀」は自身に向けるものではありませんか。
分(ぶん)を弁え恥を知る。
今はもう「死語」ですかね。
自分と他人様の特性の違いを知って身を処す。
それこそが、大切な「和」を取り戻す原点だと思うのですが。
落日の秋の空を眺めながら、熟々考え込んでいます。
2019/09/15 URL 編集
あらみたま
だから、信長はどうその力を発揮したのだろう?と常々不思議でした。
そうしましたら、以前何かの本で信長の家臣への根回し力について読んで初めて納得したことがありました。その本の題名を覚えていないのが残念ですが、あの信長でも家臣への根回しがなければ動けなかった、ということは、いかに織田家の家臣団が凄かったかの証明でもあり、それを掌握した織田信長の凄さでもあると感心した覚えがあります。
だから化け物のような描き方をされる信長には閉口しております。
もちろんそれだけを見れば、当時の視点でさえも残虐に見えることも多いとおもいますが、歴史の彼方である現代の目線で見れば、例えばそのお蔭で日本の一般の宗教と争いが切り離されたりしているわけで、海外の宗教をみるとそれがいかに幸せなことかが分かります。
日本人なら今も宗教で平和な日本にしてくれた信長には感謝しないではいられません。
確か、宣教師達が危険だと最初に気付いたのも信長で、それを引き継ぎここまでだと止めたのが秀吉だったかと思います。その行動から秀吉が最初に気づいたということになっていますが…。利用できることは利用するそのしたたかさもtopに立つ者ならでは。お蔭で、宣教師達も日本は他の文明のように滅ぼせないとなりました。
信長様様です。
今回も素敵なお話をありがとうございました。
2014/10/02 URL 編集
雨宮 健
2014/10/01 URL 編集
幸せAAA
2014/09/30 URL 編集
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それを、磨き上げ得意分野に秀でた人達でしょうか。
例えば、足が速い、算数が得意、絵がうまい、などその他日本人は、好きな分野で研鑽に励みます。そのことで、それが政治、経済となるとその分野で実績がある人が選ばれるのでしょうか。政治とは、さざれ石の国民が安心できる生活を保証することです。責任は重いと考えます。
2014/09/30 URL 編集
ポッポ
彼等の崇める進取に飛んだ研究者は、個人主義を佳いものとしたのですが、危急の際に役に立たないものは、全て公共が賄うとの発想では、現実的ではないのです。
>戦後の教育界は、旧帝大を中心に戦前の日本の教育を「狂信的」と決めつけました。
「すべてを疑うところから学問は始まる」
戦後70年を経て日本の歴史教育については、「すべてを疑うところから学問は始まる」を始めなければならないと思います。
全て疑い、一つ一つを検証して、正しい日本の歴史教育を子供や孫世代に行い、誇りに満ちた日本の先人の姿を教えることで、この70年間にわたって行われた自虐史観による日本の歴史教育を一掃しなければなりません。
中国の王毅外相は、国連総会で「日本の軍国主義による侵略で、中国人に3,500万人以上の死傷者が出た」と指摘しました。
この数字は、中国による最終かつ最大の数値になっていますが、これまでに何回も訂正されてきたものです(正しい数字か、否かは別問題です。)。しかし、この3,500万人の場合、南京問題が30万人とされていたと思います。
そして、この30万人には、何の根拠もありません。
義務教育を受けたときには、ソ連や中国の政治を説明する場合、計画的とか科学的と言った言葉が羅列されていたと記憶しています。今、日本を貶める発言をする国がありますが、文字通り科学的に算出した数字を、提出して欲しいものです。
今、中国は第2次世界大戦の勝利者として国連の常任理事国になっていますが、正しくは大戦中は国民党軍の一部でしかなかったと記憶しています。
それが、勝利した国となっていることが、不思議でならないのです。
昭和24年に、中国は建国していますから大戦とは関係がなく、中華民国が常任理事国だったのが、ベトナム戦争で苦しくなったアメリカのニクソン大統領は中国と国交を結ぶことで、傷を浅くすることを試みたのだと思っています。(中国からベトナムへの武器の搬送の妨害を試みた?)
中華民国は、このため国連の常任理事国から国家扱いをされないことになったのです。アメリカの失策だと思います。
それに、ソ連(ロシア)にしましても、日本とはわずか一週間しか戦争していません。
それも、日本とソ連との国家間の条約である日ソ中立条約を一方的に破棄して、モスクワの日本大使館(電話線を切断して)に宣戦布告をしたのです。この方法は、凡そ国家の行う方法ではないし、これに較べたらパールハーバーなんて小さいものです。(ロシアはこのソ連の後継国ですから、信用など出来るものではありません。)
この2カ国が、国連の常任理事国ですから、国連なんてええ加減なものです。
アメリカもやっていることですが、日本も国連がええ寡言なことをする場合には、国連の加盟費の支払い拒否をしても構わないと思っています。
2014/09/30 URL 編集
名無しさん@ニュース2ch
いまだ継続しております。第2の天安門にならない事を祈っておりますが、これは台湾の人々にも影響するし、ひいては日本にも関わってくるでしょう。30日15:33分まで、youtube でライブ配信されていましたが・・突然切れました。ライブ以外の映像はありますが・・???不穏ですね。
2014/09/30 URL 編集
次郎左衛門
今回の信長公の優しい優しい御手紙、一般的に言われているキャラとは大いに異なり、そのギャップから自分は益々信長公のファンにりました^^
…ねず先生はご存知かもしれませんが、信長公には他にも優しさを示すエピソードがあり、それは信長公の教育係であった平手政秀殿に関係するものです。
…信長公の父上の葬儀での彼のやんちゃ極まる行動に、教育係であった政秀殿は自身に大きな責任を感じて自決してしまわれたわけですが…、その政秀殿に対する深い罪悪感からか、信長公は終生、鷹狩りをする度、その獲物の肉を一部裂いてそれを天高く放り上げ…、
「…喰え、政秀…」
…と仰っていたらしいです。
そのエピソードからも、彼の内に秘めた優しさが分かりますよね^^
ねず先生、先日の松陰先生のお話も、誠にありがとうございます^^
各種イベントまであったとは知らなかったため、自分は益々松下村塾に入塾したくなってしまいました!(笑)
ねず先生、今日も誠に勉強になるお話、ありがとうございます^^
いつも応援しております^^
では!
2014/09/30 URL 編集
にっぽんじん
仮に3500万人の数字が正しいとすれば、それは中国国内の内戦の犠牲者数です。日本政府は中国に対して公式に反論すべきです。
日本軍と主に闘っていたのは蒋介石軍の国民党軍です。共産党の毛沢東軍とは直接大きな戦闘はありませんでした。その国民党軍が逃げ込んだ台湾の中華民国が1955年に公表した、1937年から1945年の8年間の中国側の犠牲者は、戦死者:131万9958人、負傷者:176万1335人、行方不明者:13万126人の合計:321万1429人でした。
1桁の数字まで書かれているのは怪しいですが、侵略の被害国として犠牲者数を多くしていると思われます。それでも321万人です。直接交戦していない共産党政府が正しい数字を知るわけがありません。
3500万人の多くは内戦の犠牲者ではないでしょうか。
2014/09/30 URL 編集
自衛隊に憧れる事務員
2014/09/30 URL 編集
防人
2014/09/30 URL 編集
昆布
2014/09/30 URL 編集
hatty
2014/09/30 URL 編集