清水次郎長

■ オーディオブック■
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』
ねずさんの百人一首本は平成27年3月下旬発売予定です。
【チャンネルAJER】国連秩序と日本①
【CGS ねずさん】第8話 アメリカ人の本音とは

 

毎週平日の月曜日は「ねずさんのメールマガジン」の発行日です。初月無料です。

人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

清水次郎長
清水次郎長


何々一家と聞けば、すぐに思い浮かぶのが広沢虎造の浪曲で有名な「清水次郎長」です。
以下のお話は、平成23年6月にアップしたものですが、次郎長三国志にはない、ちょっといいお話を書いています。

============
「食いねえ、食いねえ、寿司食いねえ」といえば、ご存知広沢虎三の「次郎長三国志」です。

讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めた遠州森の石松が、帰り道に大阪から京都に向かって三十石船に乗ります。
船の中で、お江戸は神田の生まれという江戸ッ子が、
「清水港に住む山本長五郎、通称清水次郎長が、街道一の親分よ!」と啖呵を切ります。

親分のことを褒められて嬉しくなった石松は、その江戸っ子に、
「もっとこっちへ寄んねえ」と声をかけました。
酒を進めて、
「呑みねえ、呑みねえ。江戸っ子だってねえ」
「オゥ、神田の生まれよ」
「そうだってねえ。次郎長にゃいい子分がいるかい」
「いるかいどころの話じゃねえよ。千人近く子分がいる。その中でも貸元をつとめて他人様から親分兄貴と言われる人が28人。これを唱えて清水の二十八人衆ってんだ。この二十八人衆のなかに次郎長ぐらい偉いのが、まだ五、六人いるからねえ。」


嬉しくなった石松は、
「で、五、六人とは一体誰でえ」
「清水一家で強いと言えば、いちに大政、二に小政、三に大瀬の半五郎、四に増川の仙右衛門・・・」と続きまくのですが、なかなか石松の名前が出てこない。

いい加減焦れた石松、
「おめえ、あんまり詳しくねえな。次郎長の子分で肝心なのを一人忘れてやしませんかってんだ。この船が伏見に着くまででいいから、胸に手ェあてて良~く考えておくれ。もっと強いのがいるでしょが。特別強いのがいるんだよ。お前さんね、何事も心配しねぇで気を落ち着けて考えてくれ。もう一人いるんだよお」
「別に心配なんかしてやいねぇやい。どう考えたって誰に言わせたって清水一家で一番で強いと言やぁ、大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」
石松「ん?」
江戸っ子「大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・・」
「うわぁ~客人すまねェ、イの一番に言わなきゃならねぇ清水一家で一番強いのを一人忘れていたよ」
石「へ~。で、誰だいその一番強ぇってぇのは」
江「こりゃあ強い。大政だって小政だってかなわねえ!清水一家で離れて強い!遠州森の生まれだぁ!」

石「へえ。そこのところをもう少し聞かせてくれや、誰が一番強いって?」
江「こりゃあ強ぇ。遠州森の福田屋という宿屋の倅だ!」
石「なるほど!」
江「森の石松ってんだい。これが一番強いやい!」
石「呑みねぇ、呑みねぇ、寿司食いねぇ、もっとこっちへ寄んねぇ。江戸っ子だってねえ」
江「神田の生まれだい」
石「そうだってなぁ。そんなに何かい、その石松は強いかい?」
江「強いかいなんてもんじゃないよ。神武この方、バクチ打ちの数ある中で、強いと言ったら石松っつぁんが日本一でしょうなあ!」
石「へぇっ、そいつぁ凄い!」
江「強いったって、あんな強いのいないよ。だけど、あいつは人間が馬鹿だからね」

と、まあ楽しい掛けあいが続きますが、森の石松のお話はまた今度ということにして、今日のお題は、清水次郎長です。

清水次郎長といえば、幕末から明治にかけて、東海道だけでなく全国に名を轟かせた大親分です。
上の石松の三十石船で有名な広沢虎造の浪曲をはじめ、映画やテレビで繰り返し取り上げられていますので、ほとんどの方は、ご存知であろうかと思います。

清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市で生まれています。
当時、元旦の生まれの子は極端に偉くなるか、とんでもない悪い奴になるかのどちらかと相場が決まっているとされ、生後まもなく母方の叔父で米屋を営む甲田屋の主(あるじ)山本次郎八のもとに養子に出されます。

清水次郎長の本名は山本長五郎ですが、「山本次郎八さんの家の長五郎」がなまって次郎長と呼ばれるようになったのだそうです。

次郎長15歳のとき、養父の次郎八が逝去したため、甲田屋の跡を継いでいます。
この頃の清水港は、小さな廻船港で、富士山の脇を流れる富士川を利用して、信州や甲府で集められた年貢米をいったん清水港に集め、そこから年貢米を江戸に海上輸送していました。
甲田屋も、米の輸送をしていて、次郎長は結婚もして家業に精を出すのだけれど、天保14(1843)年、ふとした喧嘩のはずみで、人を斬ってしまいます。

次郎長は、妻と離別し、姉夫婦に甲田屋の家督を譲って、江尻大熊ら弟分とともに清水港を出て、無宿人となって諸国を旅してまわります。
これはいわゆる凶状旅というやつで、罪を負った人間が、あちこちの親分さんのところを回り、一宿一飯の世話になりながら、全国行脚する、というものです。

旅を終えた次郎長は、弘化4(1847)年に、弟分の江尻大熊の妹お蝶(おちょう)を妻に迎え、清水に一家を構えます。

最近まで、ヤクザや博徒などは「○○一家」と名乗っていることが多かったのは、ご存知の通りですが、誤解を恐れずに申し上げますと、極道の世界というのは、ある意味、日本社会の価値観の縮図のようなところがあって、この「○○一家」とい名乗りも、その典型です。

日本社会は、すべてにおいて「家」という単位で社会が構成されていました。
たとえば大名にしても、山之内家であり、上杉家であり、浅野家であり、井伊家、松平家等々、藩主を家長とする「家」という概念です。

そこにいる藩士たちも、それぞれは「家」を持ち、家督も俸禄も「家」を単位として形成されています。
たとえば徳川家には八万騎の旗本、御家人がいるとされていますが、その旗本や御家人たちは、それぞれ佐藤家であり、榊原家であり、松平家であり、井伊家、勝家等々の「家」の集まりです。
「家」が集まって、藩と言う名の「家」を構成し、その諸藩が集まって「日本」という「家」が形成されている。
その「家」の中の本家の中の総本家が、天皇家にあたります。

以前、出光佐三氏のことを書いた「社員は家族だ」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-827.html)の記事で、出光石油の創業者の出光佐三氏が、「社員を家族」として大切にした、というお話を書かせていただきましたが、こうした「社員は家族」、会社は、一個の「家族」であるという考え方は、日本社会の、かつては基礎をなしていた考え方です。

日本は、いまから2675年前に、神武天皇が即位された際、建国の理念として「八紘をおおいて一宇となす」と述べられました。
「八紘」は四方八方の意、一宇は「ひとつ屋根の下」という意味です。
「四方八方をおおって、ひとつ屋根の下に暮らす家族のような国家を築く」これが日本建国の理念です。
ですから、大名も会社も家族、もちろん我が家も家族、そして清水一家のような者でも、まさに「一家」つまり「家族」を名乗ったのです。

さて清水一家ですが、保下田の久六を斬ったり、富士川舟運の権益を巡って甲州の黒駒勝蔵と抗争を繰り広げたりしながら、次第に勢力が増え、気がつけば配下千人の大博徒一家に成長しています。

幕末の風雲急を告げた慶応4(1868)年(明治元年)、次郎長49歳のときのことです。
新年早々に、京都で鳥羽伏見の戦いが起こりました。

この戦いのあと、有栖川宮を大総督とする東征官軍が京都を出発して東海道を東に向かって進発するのだけれど、問題は駿府(静岡)です。
駿府といえば、徳川家のおひざ元です。
街の住民も含めて、何が起こるかわからない。

そこで菅軍は、街道筋の年貢を、従来の幕府の半分にするとお触れを出すとともに、遠州浜松藩の家老であった伏谷如水を駿府町差配役に任命します。

この伏谷如水が、次郎長に街道警固役を命じるのですが、このときの様子が(「次郎長翁を知る会」のHPに書かれているので、引用します。

~~~~~~~~~~~~
ある日、清水港の長五郎のところに出頭命令が来た。
駿府町差配役、判事伏谷如水からである。

長五郎はすでに50の声を聞こうという年頃である。
女房のお蝶を呼んで言った。
「おれは罪の多い身だ。出頭すれば、二度とおまえっちの顔を見ることはできめえ。逃げようと思やあわけねえことだが、今度のことは、お上がおれを捕えようというのじゃない。特別のことでお召しになるようだから、逃げかくれするのは、やっぱ、よくねえ。行かなきゃなるめえ」

長五郎が腹をくくって出頭すると、小役人が案内して、別室の伏谷判事に引き合わせた。
判事が言った。
「今戦乱で何かと事の多い時代だ。武士だ、官員だと詐称して悪事を働く者が後を断たない。一方、取締る側も、旧幕臣との間で意見の食い違いから上司に抗するなど、憂慮すべきことが多い。そこで、その方を登用して沿道の探索に当たってもらうことにした。これまでの処世態度を改めて、御奉公につとめてもらいたい」

長五郎は固辞した。
「とんでもねえことです。私らのように身分いやしい無頼の徒が、お上の御用なんてつとまるわけはありません。どうか勘弁して、ほかの人を選んでおくんなさい」

長五郎の返事を予期していたように、判事は部下を呼んだ。
官員の制服を着た部下の男が、書類を手にさげて部屋に入って来た。

下座の方に坐っていた長五郎が、顔をあげてその男を見て驚いた。
よく見かけた顔である。
その男は清水の港町を近頃よく歩いている足袋の行商人である。
長五郎の家にも、一度買ってやったら度たび現われ、時には酒を出してやったこともある。

伏谷如水は小池にささげ持つ書類を朗読するように言いつけた。
長五郎は頭を下げてこれを聞いた。
長五郎の旧悪が細大もらさず記されている。
長五郎は背中に冷水をかけられたかのようであった。

「包みかくしなどできることではございません。お上の御明察には恐れ入った次第ですが、ただ間違っていることが二件ほどございます」

長五郎は誤認の箇所を詳細に申し立てた。
判事は、率直な長五郎をほめ、登用する旨を正式に申渡した。

積年の長五郎の罪科はすべて免除され、平民としては破格の帯刀を許されるという栄誉もあわせて、命を受けて長五郎は退出した。

天保13年、23歳の年に国を売って清水を出て以来、実に27年の間、常に危難の中に身を置き、一日たりとも世をはばからない日はなかった長五郎は、ここにおいて初めて、青天白日の身となったのである。
~~~~~~~~~~

こうして明治元年3月から7月まで街道警固役を無事つとめ終えた次郎長に、この年の9月、事件が起こります。

事件に登場するのは、幕府の軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」といえば、勝海舟が海軍伝習所で、坂本竜馬らとともに操船を学んだ船であり、また、福沢諭吉らを乗せて、サンフランシスコまではるばる太平洋を横断した船としても有名です。

この「咸臨丸」が、明治元年、海軍副総裁榎本武揚らとともに、品川沖を脱走して函館に向かうのですが、途中で台風の影響による暴風雨にあい、榎本艦隊とはぐれて、下田港に漂着してしまうのです。
そして救助に来た蟠竜丸とともに清水港に入港します。

9月11日、榎本艦隊と合流するために、蟠竜丸が先に清水を出発。次いで咸臨丸も出航しようとした矢先、明治新政府の艦隊に清水港内で襲われ、沈没してしまうのです。
このとき次郎長は、傷ついた徳川方の軍人を官軍の目が届かないように密かに逃がし、湾内に浮遊する屍を拾い集めて、手厚く供養して葬りました。

港に浮かんだ多数の幕府軍の兵士の遺体は、次第に腐乱し始めていたのだそうです。
官軍は放置し、漁民たちには漁の邪魔にもなっていました。
けれど「賊軍に加担する者は厳罰に処す」とのお触れが出ているので、誰も怖くて遺体の処理ができなかったのです。

けれどこのとき次郎長は「不仁のために仁をなさずんば」と啖呵を切り、ただちに子分たちを連れて小船を出し、港に浮かぶ遺体の回収作業をおこないました。
政府が何もしないので、地元の自警団が、遺体を回収して埋葬、石碑まで建てた、ようなものです。

この時次郎長は、次のように述べたと伝えられています。
~~~~~~~~~~~
人の世に、賊となり敵となる悪む所、唯その生前の事のみ。
もしそれ一たび死せば復た罪するに足らんだ。
~~~~~~~~~~~
日本人だなあと感じます。

ところがこのことで次郎長は糺問官に出頭を命じられました。
「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」というわけです。

ここで次郎長は、「敵だろうが味方だろうが、死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けしましょう」と啖呵を切って突っぱねたのです。

いまでもそうだけれど、ヤクザの大親分の啖呵というのは、実におそろしい迫力のあるものです。
結果として次郎長はお咎めなしになる。

もっと、その裏には、幕末の剣客、山岡鉄舟のフォローがあったともいわれています。

鉄舟は、次郎長の行動に感動し、「壮士墓」と揮毫を贈りました。
これは、いまでも巴川のほとりの埋葬地で墓標となって現存しています。

その山岡鉄舟の勧めで次郎長が明治7(1874)年にはじめたのが、富士山麓の万野原の開墾です。
いまではすっかり住宅街になっている万野原ですが、明治の初めごろは、ここはうっそうとした雑木林でした。
次郎長は、そこをおよそ10年がかりで広大な水田地帯に開墾しています。

はじめたのが次郎長55歳のときですが、次郎長自身も、鋤や鍬を持ち、人夫衆と一緒に開墾をしました。
人夫衆には、お上の了解を得て、懲役囚を数十人を使ったのだけれど、誰ひとり脱走する者はいなかったそうです。

翌明治2(1869)年9月、江戸城を明け渡した徳川慶喜は、駿府(今の静岡)に居住することになりました。
これを受けて、この年の12月、江戸の大物親分の新門辰五郎が次郎長に会い、徳川慶喜公の護衛役を依頼します。

次郎長は辰五郎の意思を引き継ぎ、影ながら晩年まで慶喜の護衛を果たしていますが、徳川家では、その労に対し、葵の五つつの紋が入った熨斗目(かみしもの下につける礼服)を次郎長に送っています。
そして博徒稼業から足を洗った次郎長は、万野原の開墾の他、清水港の整備事業の推進を説いて回り、単なる廻船港にすぎなかった清水港を、国際貿易港として機能するように築造しています。

さらに清水港から、蒸気船を使って清水~横浜間の海運会社を起こし、米や海産物の輸送だけでなく、静岡茶の販路の拡大にも貢献しています。
また清水港内に宿泊施設「末広亭」を築造して、船旅の旅客の宿泊に供し、ここで英語塾を開き、米国人教師を雇って、塾を清水の青年たちに開放したりもしました。

晩年の次郎長は、「どてら姿で縁側に腰をおろし、子供たちの相撲を眺めている好々爺」だったそうです。

たとえ犯罪者であっても、あるいは博打打ちであっても、心のどこかで「いつかは俺も世のため人のためになる真人間になろう」という気持ちを持ち続ける。
それが日本人という生き方だし、そんなことを実際に実行し生涯を駆け抜けたのが、清水次郎長だったのではないかと思います。

次郎長親分が、いまだに大変な人気なのも、単に次郎長三国志の男伊達というだけでなく、晩年の彼がほんとうに体を張って、世のために尽くしたという、そういう姿が、多くの庶民に受け入れられたのでしょう。
ただの喧嘩早い博徒の話なら、広く大衆に受け入れられる物語とはならないからです。

現実の問題として、暴れん坊の次郎長話が好きだと子供が言ったとして、それが単なる暴れ者として好きだというのなら、親にしてみれば心配なことです。
ところが次郎長三国志を呼んだり観たり聞いたりして、子供が興奮状態になったとしても、「実はな、清水次郎長と言う人はたいへんに偉い人で、晩年の彼は・・・」と話して聞かせたら、子供にはものすごくいい刺激になる。

日本神話の神々と、博徒の次郎長親分を同時に語ったらバチがあたりそうですが、日本神話の神々も、このブログで何度もご紹介している通り、最初、若いうちはどうしようもない暴れん坊だったりしています。
けれど年輪を重ねるうちに、誰からも尊敬される、まさに「神」として成長していきます。
人は神ならぬ身ではあるけれど、神と同様、成長することができるのです。

日本社会は古来、集団を大切にしてきました。
個人の利益よりも、集団の利益や協調を尊びました。
けれど、集団内にいる個人は、常に人と人との間に生きています。
そして人間関係は、とてもわずらわしくてやっかいなものです。
けれど、人を成長させるのも「人」です。
おもしろいことに人間関係は、人間関係で苦労するほど、人を成長させてくれます。

そして集団が、よりよく住みやすい社会を築くには、誰もがちょっとずつ我慢したり、周囲に気遣うことが必要になります。
その「気遣い」が「人の道」です。

一昔前の日本では、演歌や浪曲といった大衆芸能でも、人の道や人の生き方がテーマになることが多かったように思います。
それは昔の人が、人と人との関係を、いつもたいせつに思っていたからです。
そしてそれこそが、日本人としての生き方なのかもしれません。

人は人の中でしか生きられない。
だからみんなが気配りをする社会は、わずらわしくて、面倒で、やっかいだけれど、その分、住みやすい社会になります。

これに対し、戦後日本に蔓延した個人主義は、自分さえよければいい、いまさえよければそれでいい。人の道よりゼニカネが大事、という社会です。
そして人が個人主義に走れば走るほど、人間関係の煩わしさからは解放されるけれど、人は鍛えられず、社会は互いが互いを気遣わない、住みにくい社会となっていきます。

どちらがより多くの人に幸せを与えるか。
答えはあきらかだと思います。




人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。



【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
 ↓  ↓
ねずブロメルマガ
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
\  SNSでみんなに教えよう! /
\  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

あわせて読みたい

こちらもオススメ

コメント

にっぽんじん

慰安婦という呪縛からの解放
韓国は朝日新聞が火をつけ、煽ってきた「従軍慰安婦問題」を利用して日本から多額の金を収奪してきました。謝罪しても無駄なことはアメリカの識者も指摘しています。問題は韓国だけではありません。

最も問題なのは「種火」を起こし続けている「なりすまし日本人」がいることです。帰化して日本人となっているから排除は困難です。日本政府はこれ以上「なりすまし」が増殖しないように、帰化条件を厳しくするべきです。

他国を貶め続ける最良の手段は「教科書に自虐的歴史」を書きこむことです。中韓は執拗に「正しい歴史認識」を教科書に記述しろと迫ります。一度教科書に載れば未来永劫続きます。

アメリカの歴史教科書には慰安婦問題に関する誤った歴史記述が「正しい歴史」として教えられています。日本政府が修正を求めればアメリカの19名の歴史家が日本政府を「歴史修正主義」と言って批判しています。

彼らは多くの歴史研究によって日本の慰安婦は性奴隷であったと主張しています。その根拠は中央大学の吉見義明教授の著書と慰安婦本人の証言だとも言います。

アメリカ政府が約30億円を投じて数年間調査した結果は無視しています。アメリカ政府の調査結果では「日本軍の慰安婦は単なる売春婦」でした。

世界の反日歴史学者と戦うためには「吉見教授」の性奴隷根拠と「慰安婦証言」の捏造を明らかにする必要があります。が、日本政府は「慰安婦証言」の公開はしないと言っています。

一方、韓国政府は「慰安婦証言記録」を世界文化遺産に登録すると言っています。公開できない理由はないはずです。冤罪の歴史を変えたいなら徹底的に戦うべきです。

慰安婦の人権と日本国民の人権とどちらが大事でしょうか。韓国で登録された元慰安婦は238人だったと思います。生存者は53名です。中にはジープで連行された、クリスマスの時は忙しかったなどと言っている慰安婦がいます。

河野談話が出た頃の登録慰安婦は110名でした。この中で信憑性が高いと判断されたのは19名です。判断したのは韓国の学者や支援団体です。19名の中で日本軍に連行された言った慰安婦は4人で、そのうちの2名は親に売られたと言っていた証言を変えています。

残りの2名は日本軍の慰安所がなかったところに連れていかれたと証言しています。

「吉見教授」と「元慰安婦証言」の検証が喫緊の問題です。

-

No title
> 清水次郎長は、文政3(1820)年1月1日に、いまの静岡県清水市で生まれています。

「静岡県静岡市清水区」です。細かいことですみません。

ケイシ

更新ありがとうございます。
こう言う義理も人情もわきまえた、典型的な日本人の豪傑の話を聞くのは大好きです。 次郎長親分は博徒から身を起こしましたが、幕臣達の遺骸を手厚く葬ったり、清水港発展の為に尽力されたり、私利私欲の念の極めて薄い方だから大親分になれたのですね。 功利主義を第一とする西洋の考えでは、こんな傑物は生まれないでしょう。

通りすがりの武人

No title
武道の関係で清水に数年前より、次郎長記念施設も拝見しました。その銅像の面構えと幾多の二枚目俳優が演じる次郎長親分とのギャップ!、「やっぱり本物はこうだよな・・」と感じ入りました。次郎長親分も私たち日本人の大切な偉人の一人だと思っています。老骨武人も頑張らねば!!

No title
「スヒョン文書」なるものを読みました。胸糞悪くなる思いです。安倍さんは毎日読んでいたらしいですね。

*「拡散!!!」*

http://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-11383136883.html

http://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2015-02-09-1

http://www.news-us.jp/article/413794077.html

非公開コメント

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

スポンサードリンク

カレンダー

08 | 2020/09 | 10
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
テーマは、ご自由に設定いただいて結構です。
講演時間は90分が基準ですが、会場のご都合に合わせます。
E-mail nezu3344@gmail.com

電話  080-4358-3739

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク