はじめは小さな水脈でも/ラクシュミーの物語



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■【CGS ねずさん】第9話 西郷隆盛と征韓論
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ラクシュミー・バーイー
ラクシュミー・バーイー


ラクシュミー・バーイー (Lakshmi Bai)のことを書いてみたいと思います。
インドのジャンヌ・ダルクと呼ばれる19世紀の女性です。
この実話は、非力で小さな水脈だった女性が、やがてインドの大河となり、インドを独立へと誘う民衆の勇気の象徴となったお語です。

インドには、16世紀にムガール帝国があったことは、みなさまご存知のとおりです。
このムガル朝は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国です。
そして、ムガルは、「モンゴル」の現地語読みです。

それ以前にモンゴルはユーラシア大陸を席巻する世界第帝国を打ち立てましたが、そのモンゴルは、相続の制度がなぜか不思議なことに日本の源氏と同じで、子供たちへの均等配分方式(田分け方式)でした。
このため、チンギス・ハーンの領土は、4人の子によって四等分され、さらにその子(孫)によって、細分化されていきました。
こうしていつのまにか、モンゴルの大帝国は、多数の国に分立していくわけですけれど、その中のひとりであるバーブルが北インドへ南下して建てた国がムガル(モンゴル)帝国です。


インドなのにモンゴル(ムガル)とは、これいかにと思ってしまいますが、実は帝国を打ち立てたパーブルは、モンゴル人ではありません。
本人はインドのティムール王朝の血を引くもので、母方の祖父がモンゴル族でした。

モンゴル族は、その統治の方法として、征服した王朝の跡継ぎの息子を、モンゴル族のもとにこさせます。
これには3つの意味があって、ひとつは人質として。ふたつめには世界中のモンゴル支配地の王様の倅たちが、モンゴルで一緒に寮生活し薫陶を受けることで、全員が王様になる頃には、互いに意思疎通ができる。つまり戦いが起こらない。
そしてみっつめには、モンゴルで生活させることで、モンゴル族の女性と恋をし、結婚させる。そうすることで血が混じり、やはり戦争が起きなくなる。

そういうわけでパーブルの母方の祖父がモンゴル人であったわけです。
なのでバーブル自身は、モンゴル族としては血が薄い。
そうなると、せっかく打ち立てた彼の帝国は、いつ何時、周辺のモンゴル族の国から攻め立てられるかわからないわけです。
そこで彼が生き残りをかけて選択したのが、国名そのものを「モンゴル帝国」にしてしまうことでした。
これがムガル帝国です。

ムガル帝国は1526年にはじまり、およそ330年続きましたが、1858年に滅びました。
そしてインドは、1877年に「イギリス領インド帝国」となっています。

ムガル帝国が完全崩壊する直前、1857年にあったのが、「セポイの乱」です。
「セポイ」というのは、英国の東インド会社に雇われていたインド人傭兵のことです。
この傭兵たちが、英国の圧政に対して立ち上が事件です。

「自由を我らに!」
「インドに独立を!」
セポイたちの叫びは、圧政に苦しむ全インドの民衆運動へと広がりましたが、2年後の1859年に、圧倒的な火力を持つ英国軍によって鎮圧され、反乱の首謀者たちは、ことごとく死刑になりました。

下の絵は、ヴェレシチャーギンが1884年に描いた絵画で、セポイの乱の反乱軍の兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射した、残酷な英軍による見せしめ処刑の模様です。
むごいものです。

セポイの乱0218


実は、セポイの乱の鎮圧の背景には、実際に反乱活動をしたインドの民衆に対し、町の指導者たちが、なまじ中途半端に英国と和睦を図ろうとしたことが大きな原因となっています。
リーダーたちの腰が座っていなかったのです。
だから英国の鎮圧に対し、民衆をを裏切って自分だけが助かろうとし、結果としてインドの独立自尊を保てれなかったのみならず、自分たちもこうして大砲に括りつけられて殺されるという残念な結果に至っています。

当時のインドの町の指導者たちというのは、いまの日本で言ったら、国会議員や内閣閣僚、県知事や地方議員たち、あるいはマスメディアに相当します。
こうした人たちが、戦ってでも独立自尊と自由を勝ち取ろうとした市民の勇敢な行動を、自分だけ助かれればと中途半端に和睦の道を探ろうとしたのです。

当時のインドには、祖国を裏切り英国にすり寄ることで新たな利権を得て、カネと権力を持つ集団がいました。
そうした集団は、当然インド人でありながら英国に与したし、そうした金持ちたちと親しい、街の大物たちは、民衆の行動を必ずしもこころよく思っていませんでした。

けれど、その結果どうなったか。
セポイの乱が鎮圧されたとき、真っ先に英国軍によって、処刑されたのは、中途半端に英国と和睦を図ろうとしたインドの民衆への裏切り者であるインドの指導者たちだったのです。
彼らは全員、英国軍によって逮捕され、大砲の前にくくりつけられて爆死させられています。
要するに勝者である英国は、インド人を平気で裏切るようなインド人を、頭から信用などしていなかったのです。
そして、「代わりはいくらでもいる」のです。

民衆を裏切るものは、古来、味方だけではなく、敵からも信頼などされないのです。
そういう歴史を、Chinaかぶれ、Koreaかぶれの人たちは、すこしは勉強すべきと思います。
私達は、どこまで行っても、日本人なのですから。

さて、そうして終焉をみたセポイの乱ですが、民衆の指導者の中に、最後の最後まで勇敢に戦い、幾度も英国軍を打ち破った勇気ある女性がいました。
それが、インドの英雄、インドのジャンヌ・ダルクと称される王妃ラクシュミー・バーイーです。

ラクシュミーは、最期には英国軍の狙撃銃の前に倒れ、23歳の若い命を散らせました。

しかし、ラクシュミーの心は、インドの民衆の中に赤々と受け継がれ、89年の時を経て、インドを独立へと導いています。
肉体は滅びても、その心は時代を超えて語り継がれ、人々の心に勇気の火を灯したのです。
それが死んで名を残す、ということであろうかと思います。
人の肉体は死んで滅びますが、ひとりの人間の勇気ある行動と死は、やがては民族に再起三起を促す。
そして時間はかかるかもしれないけれど、最期には、正しいものが勝つのです。

インドの初代首相のネルーは、ラクシュミーについて、
「群を抜いた名声を持ち、いまもって人々の敬愛を集めている人物」と述べました。
最大級の賛辞を彼女に与えたのです。

・・・・・・・

ラクシュミー・バーイーは天保6(1835)年に、インドの小さな城塞都市国家、マラータの貴族の子として生まれています。
インドは、日本では室町時代にあたる1526年に、ムガール帝国が起こり、全インドを統一しました。
ムガール帝国は、国教がイスラム教ですが、他にバラモン教や、ヒンズー教、仏教などの宗教が入り混じっていますから、どうにも統一国家としてのまとまりがつかない。
つまり内乱の火種をいつも抱えた国だったのです。
このためインド各地で反乱が起こり、帝国は徐々に衰退していきました。

そこに目を付けた英国が、1600年頃から次第にインドに入り込み、大量の機械製綿織物をインドに流入させました。
このためインド国内では、伝統的な綿織物産業が破壊され、インドの民衆は貧窮のどん底まで追い詰められてしまいます。

ラクシュミー・バーイーが生まれたのは、ちょうどそんな時代です。
彼女の幼名は、「マナカルニカ」といいました。
これは、ガンジス川の別名で、心に悠久の母なるガンジス川が流れるような、凛々しく、おおらかな女性に育ってほしいという願いを込められて付けられた名です。

幼い頃のラクシュミー・バーイーは、美人で頭もよく、父にたいへん可愛がられました。
そして剣術や乗馬を好む、ちょっとおてんばな娘に育ちました。
ところが、マラータ王国が英国と戦闘となり、敗北して父が戦死してしまう。
城を追われ、流浪の身となったラクシュミーの一家は、苦難の中で、母も他界してしまいます。

そんな苦労の中で、ラクシュミーは1850年、15歳で中央インドの小さな城塞国家であるジャーンシー王国のガンガーダル・ラーオ王に嫁ぎました。
ジャーンシー王国は、古くから交通の要衝として栄えた国です。
王妃となった美しいラクシュミーは、ジャーンシーの民衆からもたいへんに愛されました。

やがてラクシュミーは、念願の男の子を出産します。
しかし王子は、わずか三カ月でこの世を去ってしまう。

父の死
母の死
愛する我が子の死。
悲嘆に沈むラクシュミーに、天はさらなる試練を与えました。

英国が「後継ぎのいない国は、東インド会社に併合する」という「無嗣改易政策」を押し付けてきたのです。
世継ぎがいなければ、王家の存続を認めない、というのです。
そうなれば王家は廃絶され、王宮は英国東インド会社の領事館として明け渡され、王室や貴族は四散しなければならない。
そして民衆には、奴隷としての圧制が待っています。

ラクシュミー王妃とラーオ王は、後継ぎに養子を迎え、なんとかして王家の存続を図り、民衆を守ろうとしました。
しかし無理難題を押し付ける英国との交渉ははかどらず、心労を重ねたラーオ王は、1854年に他界してしまいます。
夫を失ったラクシュミー王妃のもとに、英国は、まだ喪も明けないうちから、ジャーンシー王国の城塞の明け渡しを強硬に求めてきました。

このままでは、国が滅んでしまう。
悩み抜いたラクシュミー王妃は、英国の総督のもとに自筆で何度も手紙を送りました。
「インドの伝統を無視し、一方的な「法」を押し付けても、私たちの社会では通用するものではありません。
かえって英国領事の無知、無教養、狭量をさらけ出すだけです。
どうしても養子ではいけないとおっしゃるのなら、誰もが納得のいく説明を求めます。
国の力が強大であれば、それだけ自分の気ままに行動したり、間違いを侵すことを認めなくなるものです。
ジャーンシー王国の併合は、強い大国の、弱い小国に対する権力の発動でしかありません。」

このときのラクシュミー王妃の書簡は、彼女がインドだけでなくヨーロッパの法律や外交や歴史にも通じていた事を示しています。
当時の英国の役人でさえ、その鋭い説得力に感嘆したといいます。
ラクシュミーは、東西の学問に通じる群を抜いて聡明な女性でもあったのです。  

しかし英国によるインドの植民地支配の目的のもとでは、王妃の論説がいかに正しくても、それを政治的に認めるわけにはいきません。
ラクシュミー王妃の書簡は、英国の総督によって完全に無視され、その年のうちに英国は軍を動員してジャーンシー王国を併合してしまいました。
そしてラクシュミー以下、城内の王族や貴族たちは、全員、王宮から追出されてしまったのです。

その日、ラクシュミー王妃は、居並ぶ英国の将兵の前で、決然と顔をあげて、「メーレー・ジャーンシー・ナヒン・デーンゲー」と述べたと伝えられています。「私はジャーンシーを決して放棄しない」といったのです。
王妃とはいえ、そんなきつい言葉を吐く若い女性を、城の摂取に来た英国の将兵たちは、鼻で笑いました。

3年後、セポイの乱が起こりました。
セポイたちの叫びは、圧政に苦しむ全インドの民衆運動へと広がりました。
運動の炎は、ジャーンシー国にも燃え移りました。

決起したジャーンシーの民衆は、城に駐屯していた少数の英国軍を攻め、これを降伏させました。
そして、英国に対して徹底抗戦をしようと考えたジャーンシーの男たちは、城内の武器で武装し、デリーにあるセポイ反乱軍の本体と合流するため、城を後にしました。

このとき、男たちは城内に残る英国人の将兵を虐殺しました。
城内に残るのは、ラクシュミーをはじめ、女子供や老人と、わずかに残った体の弱い男性ばかりでした。
この時点で、城には戦力と呼べるものはありません。屈強な男たちがいないのです。

歴史は複雑なものです。
ジャーンシー王国が滅亡して、英国がこれを摂取すると、そこにいる民衆たちを裏切って、新たな領主となった英国と結託して特別な利権をもらい、大儲けし、新たな権力を築く連中がいたのです。
簡単にいったら、戦後GHQに我らは進駐軍だといってゴマを摺り、利権を得て駅前の一等地や飲食街を勝手に摂取して、極貧から大金持ちに大変身した在日朝鮮人みたいなものです。

彼らにとっては、ジャーンシーが復国することは、まったくもっておもしろくないことです。
そこで彼らは、すでに女子供しか残っていないジャーンシー国を、自分たちで攻め滅ぼすことで、英国に恩を売り、さらに自分たちの権力基盤を固めようとしました。
そして傭兵を集め、ジャーンシー城の奪還を図ろうとしたのです。

困ったジャーンシーの民衆は、元王妃であるラクシュミーのもとに集まりました。
どうしていいのかわからない。
戦うと言っても、老人や女子供ばかりなのです。

ラクシュミーは、城内にいる老人や女子供全員を城に集めました。
そして古くから伝わるカースト(階級)の差別なく、全員に等しく食事を与え、城内に残るすべての者たちで、徹底抗戦することを説きました。
わけ隔てのないラクシュミー王妃姿勢と、王妃の強くて固い決意に、城内の人々全員の心がひとつになりました。

敵が攻めてきました。
王妃は、兵士や民衆の先頭に立って指揮をとり、最前線に立ちました。
それだけじゃない。
激しい戦闘の中で、人々に食べ物を配り、傷を負った者に手厚い看護も施しました。

王妃の細やかな気遣いに、城内の戦意はますます高まりました。
戦意はあがり、結束はいよいよ固まりました。
ジャーンシー城内にいるのは、婦女子というだけではありません。
カーストによる身分の違いに加え、ヒンズー教、イスラム教、バラモン教、それぞれの信徒がいます。宗教の対立さえあったのです。

しかし彼らは、そうした日ごろの思想や信条や信仰の違いを超えて、ラクシュミーのもとに団結しました。
圧倒的な兵力で攻めてくる戦闘のプロの屈強な傭兵たちの軍団を、次々に撃破したのです。
そしてついにジャーンシー城の人々は、女子供だけで、屈強な傭兵軍団を打ち破ってしまいました。

戦いに勝利した王妃ラクシュミーは、一躍反英闘争の旗手として、全インドにその名が知られるようになりました。
こうなると英国としても、もはや在日、おっと失礼。親英派の人たちを使ってお茶を濁しているわけにいきません。
ラクシュミーを危険人物として、翌年、英国軍の本体によって、ジャーンシー城への総攻撃を敢行したのです。

親英派の利権者たちに雇われた傭兵軍団と異なり、英国軍本隊は、近代装備による圧倒的な火力と兵力を持つ、訓練を受けた軍隊です。
戦いのためにラクシュミーは、私財を投げ打って傭兵を雇いました。
そして城内の女子供たちにも訓練を施しました。
そして、英国軍の圧倒的な火力の前に、なんと半月間も、頑強な抵抗を続け、何度となく英国軍を撃退してしまうのです。

インド人の女子供に、大英帝国の正規軍が苦戦しているのです。
余りの苦戦振りに英国の指揮官であるローズ少将が、当時次のように書き遺しています。
「理由は十分すぎるほど明らかである。彼らは王妃のために、そして自分たちの国の独立のために闘っているのだ。」

ラクシュミーも、寝る間も惜しんでライフル片手に奮戦しました。
けれど多勢に無勢です。
城内に立てこもるラクシュミーたちは、次第に物資も不足してくる。
英国軍自慢の大砲の前に、城壁が破壊され、城門も破られ、ついに城は陥落してしまうのです。

戦いに敗れたラクシュミー王妃は死を決意しました。
けれど周囲がそれを許さないのです。
なんとしても祖国と民衆のために生き抜いてほしいという。

仲間たちの懇願に押された王妃は、養子の男の子を連れて、少数の護衛兵とともに馬にまたがって絶壁を駆け降りて、城を脱出しました。
このときラクシュミー王妃の一団は、一昼夜で160キロを走り続けたと伝えられています。
途中でいちど英国軍の検問に引っ掛かって逮捕されたのですが、警護の英国士官をラクシュミーは、手にした剣で、抜く手も見せない早業で斬殺し、全員をそこから脱出させたといいます。

そして一団は、やっとのことでカールビー城に到着しました。
ラクシュミーは、カールビー城の反乱軍に交じって、徹底抗戦を主張しました。

ところが英国軍本隊の強大な火力に怖れをなしたカールビー城の指導者たちは、闘いを前にしてすでに腰砕けになっていました。
英国と和睦の道を探るのだ、と主張しました。
なによりも人命が第一だ、というのです。

いっけん、綺麗事です。
けれど、平時ではない、戦時においてこうした綺麗事を言う者というのは、市民の命など、むしろなんとも思っていない連中です。
自分だけが助かりたい。それが「人命が第一だ」という言葉の意味でしかないのです。

逆に「戦う」というのは、言っている本人が、自分の命を犠牲にしてでも市民を守りたいという覚悟があります。
表面的な綺麗事に、決して惑わされない。
そのことがどれだけ大切なことか。こういう歴史から学びたいものです。

意見が対立したラクシュミーは、年若い女性ということもあって、カールビー城で孤立してしまいます。
そこに英国軍がやってくるのです。大軍です。
指導者が腰砕けになっているカールビー城塞は、あっけなく陥落してしまいました。
そして中途半端に和睦の道を探っていた城の指導者たちは、英国軍にとらえられ、兵士たちとともに大砲の先にくくりつけられたあげく、みせしめに全員殺されてしまったのです。
古来、戦うべきときに戦えない腰ぬけや、卑怯なゴマ摺りには、最後は死が待っていると相場が決まっているのです。

カールビー城の一軍の戦士たちを指揮しながら徹底抗戦を続けたラクシュミーは、再び城を脱出しました。
そして計略を以って近くの城塞都市グワーリオル城を、無血奪取しました。
そしてここを拠点に、全インドの民衆に徹底抗戦を呼びかけたのです。

ラクシュミーのもとに、全インドから陸続と同志たちが集まってきました。
グワーリオル城は、ラクシュミーを盟主とする、闘う大軍団となったのです。

衝撃を受けた英国軍は、軍の本体の大軍をグワーリオル城に差し向けました。
迫ってくる英国軍の本体に対し、ラクシュミー王妃は、騎馬隊を編成し、最前線に立って英国軍に果敢に突入します。
そして騎乗のラクシュミーたちの一団がやってくるたび、英国軍は、蹴散らされました。
とにかく騎馬の利点を活かしたラクシュミーは、神出鬼没なのです。
あるときは夜陰にまぎれ、あるときは早朝の眠りの中を、突然現れては、英国軍を蹴散らしていく。

たまりかねた英国軍は、ついに、奸計をもってラクシュミーをおびき寄せました。
そして遠くからラクシュミーを狙撃してこれを殺害しました。
こうして安政5(1858)年6月17日、ラクシュミー王妃は、23歳の若い命を散らせました。

指揮者を失ったグワーリオル城の反乱軍は、散り散りになりました。
そして反乱軍は鎮圧されました。

闘いのあと、英国軍のローズ少将は、貴人に対する礼を以て彼女の遺体を荼毘に付しました。
それだけ彼女の勇敢な戦いは、英国軍にとっても脅威であり、尊敬に値するものだったのです。
こうしてセポイの反乱は、鎮圧されました。
そして英国のインド植民地支配は、ますます強められていきました。

英国支配が強化される中、ラクシュミーは、すくなくともインドの表面上は、歴史の忘却の彼方に忘れされたかのように見えました。
英国は、ラクシュミーの生涯を描いた本は、見つけ次第、すべて焚書処分にされました。
ラクシュミーにまつわる演劇などの上映も禁じられました。
ラクシュミーという女性が生きた証となる遺跡や遺構も、すべて取り壊されました。
遺品さえも没収され、廃棄されました。
こうしてすくなくとも表面上は、インドの歴史から完全にラクシュミーは抹殺されました。

けれど、彼女の勇敢な行動は、わずかな水脈となってインドの民衆に語り継がれました。
それは初めは、まるで細くて小さな水脈でした。
けれどその細くて小さな水脈は、時とともに、やがてインド一国を支える巨大な大河に育っていったのです。

そしてラクシュミーはインド独立の戦士たちの、かけがえのない心の支えとなり、89年後の時を経た昭和22(1947)年8月15日、ついにインドは英国からの独立を果たしたのです。

いま、インド各地に、彼女の名を付された「通り」や「女子大学」がたくさんあります。
彼女は、祖国インド解放の先駆者の一人として、人々の胸に今なお生き続けていまるのです。

戦うべき時には戦わなければならない。
「死して名を残す勇気」を、私たち現代日本人は、もういちど思いだす必要があると思います。
そして、まさにそれをした英霊に感謝を捧げ、あらためてわたしたちは日本建国の理想と、世界で最も古い歴史をもった国家と民族への誇りを取り戻していかなければならないと思います。
ひとりひとりは、小さな小石かもしれないけれど、それが固く寄せ集まって「さざれ石」となるのが、日本人なのですから。


※この記事は2010年10月の記事をリニューアルしたものですが、なんだかラクシュミーの勇敢な行動に、なんだか前衆議院議員の杉田水脈先生がとてもイメージされて、再掲させていただきました。

杉田水脈先生
杉田水脈先生0219





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コメント

愛知のおばさん

インド…
インドではそのような歴史がありましたか。
最近、インド料理のお店を多く見かけるようになりましたが、その都度思い出しそうです。
日本はインドのようになれるでしょうか…。

おかざき

No title
ねずさん 有難うございます。
反日日本人達への警鐘だと思います。
特亜へ尻尾を振っても、最後にこうなるの図。
所詮使い捨ての駒ってこと。
理解出来ない左翼脳は残念ですね。

花田良春

No title
ラクシュミー王妃、大奮闘の物語。感涙を以て拝読させていただきました。

売国日本人の、未来の、哀れは姿が、克明に描かれていることも感激です。
一生懸命、自国を陥れ、予想敵国に尻尾を振るマスコミ、国会議員等は、自分達の売国活動が、万一、功を奏した場合は、真っ先に、大砲に括り付けられ、爆死させられる運命にあることを悟るべきです。

junn

No title
結婚したら私がお父さんお母さん日本に呼んで日本で暮らしたいですよ・・・お父さんもお母さんもそれがいいと言ってますから早く結婚しろといいます。







そうなんだぁ~・・・







結婚したらみんな家族になりますよ・・・だからきっと彼氏の家族も助けてくれるから・・・

私が日本で結婚してお父さんお母さん呼んだらお父さんお母さん何でもただで日本の国がお金くれると友達が言っていました・・・







あ・・・あ~あっ・・・生活保護って事?







そうかな・・・それかな・・・毎月日本の国がお金くれて何でもただになりますね?・・・それです。

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だから早く彼氏と結婚して日本に行きたいんですよ。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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