ペリー来航とペクサン砲



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海軍用ペクサン砲、フランス国立海軍博物館
ペクサン砲


いま、新しい歴史教科書をつくる会で「日本史検定講座」が運営されていることはみなさまご存知のことと思います。
先日、その第五期講座最後の講義を藤岡信勝先生に行っていただきました。
講義テーマが「条約で読み解く日本近現代史」です。

「条約で読み解く日本近現代史」は、近いタイトルで先生のご著書が出版されています。
『条約で読む日本の近現代史』です。
この本は自由主義史観研究会と共著になります。
幕末から明治以降の23ある対外条約について論考した本で、これもまた実におもしろい本です。


そのなかから今日は、ひとつ、日米和親条約にまつわる話として、ペリー来航について藤岡先生の講義をもとに、私なりの感想を書いてみようと思います。

ペリー来航といえば、幕末の黒船来航として、みなさまご承知おきのことと思います。
 太平の眠りを覚ます上喜撰
 たった四杯で夜も眠れず
の狂歌は、学校の教科書でも紹介され、みなさまご存知のことです。

その黒船来航について、みなさまはおそらく学校や小説、あるいは時代劇などを通じて、「黒船が来たときに江戸の市中が大騒ぎになったことを茶化して詠んだ歌です。
ところがこの狂歌が紹介されるとき、同時に「当時の日本は遅れた国だったのだ。そこに黒船という文明の巨大な姿を見たから、日本人は周章狼狽したのだ。幕府もみっともなく慌てふためいたのだ」という、極めて思想的な思い込みを私たちは刷り込まれています。

実は、これが大嘘です。



どの本かは忘れましたが、吉田松蔭が黒船に乗り込もうとしたシーンで、松蔭が、
「私は、なぜあのような鉄の船が海に浮くのかを知りたいのだ。彼らの文明とはいかなるものなのか、是非、自分をあの船に乗せてもらいたい」と、黒船に向かい、逮捕されたという話を読んだ記憶があります。
鉄が海に浮くことが考えられないというのです。

読んだ当時もおかしいと思いました。
なぜなら、江戸の昔といわず、もっと古い時代から、日本には鉄製のお鍋や、オカマがあったのです。
鍋もオカマも、水に浮きます。
そんなことは日本人なら子供でも知っています。
それがどうして「鉄の船が水に浮く」ことが「驚くべきこと」なのか、ちょっと理解不能だったのです。
それにそもそもペリーの座乗した船は木造艦です。

それに鉄の船なら、黒船来航の300年も前に、織田信長が本願寺攻めを行った時に、木造船に鉄板を張った巨大戦艦を建造しています。
なので、吉田松陰ともあろう人が、そんなことに驚くとは、まったく思えません。

蒸気エンジンに驚いたと書いた本もありました。
けれど、エンジンが蒸気であるということが、外交上どのような影響をもたらすのかとなると、その技術への驚きはあったかもしれないけれど、そうしたエンジンがあるということは、すでにそれ以前に、オランダから日本はちゃんと情報を入手しています。
ですので、そのことが幕府を驚かしたということも、あまり説得力を持ちません。

では、どうして幕府は、ペリーの黒船に、あれだけ大きな衝撃を受けたのでしょうか。
答えは、実は「大砲」なのです。

実はそれまでの船舶の大砲は、砲丸投げに用いるような鉄球を相手に発射するだけのものでした。
ところがペリーの時代に、フランスの砲兵将校のアンリ=ジョセフ・ペクサン(Henri-Joseph Paixhans)という人が、船に取り付けることができる爆裂弾直射砲を考案し、これが1849年のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争やクリミア戦争で用いられて、猛烈な戦果をあげたのです。

爆裂弾を発射するということは、大砲の中に「爆発する砲弾」を仕込むわけです。
大砲は、火薬を爆発させる威力で弾を発射しますが、その大砲の中に爆裂弾があれば、発射と同時に大砲が爆発します。
そこで爆裂弾は、爆発する部分の底に装弾筒を取り付けることで、大砲内部の爆発の威力が炸裂弾に直接及ばないようするのですが、こうなると、弾はほぼ垂直に立てた大砲からでなければ発射できません。
これが臼砲で、底が臼みたいになっていて、爆発の威力を受け止めて弾を発車するから臼砲です。

ペクサン砲の砲弾
Paixhans_砲弾


ところが、海上の戦艦から発射する大砲は、直立砲ではなくて、水平砲です。
水平になっている大砲から、炸裂弾を発射しなくてはならない。
ですから長い間、戦艦に炸裂弾を発射させることは不可能とされてきました。
ところがフランスのペクサンという将校が問題を解決して、戦艦用の爆裂弾直射砲を開発したのです。

ペリーはアメリカ海軍を立て直した英雄とされる人です。
ペリーはアメリカ戦艦にこのペクサン砲を搭載しました。
こうすることで、アメリカの海軍力を、一気に強化しました。
そしてペリーは、まさにそのペクサン砲を搭載した戦艦で、日本にやってきたのです。

当時の江戸の街の物流は、ことごとく河川や港湾、つまり海や川などの水上ルートを通って賄われていました。
時代劇などを見ますと、江戸の問屋街では、船から大量の荷揚げをしているシーンが描かれています。
ところが黒船によって、江戸湾(東京湾)が封鎖されると、江戸の市民はたちまち食料不足に陥(おちい)ります。
ですから幕府は、江戸の海上流通を守らなければなりません。

けれど、ペリーの乗ってきた軍艦が、鉄球を撃ちだすだけの大砲なら、べつに怖くもなんともないのです。
飛んでくるのは、ただの鉄球です。
それも、2〜3キロ離れたところから飛んできますから、向こうから黒い弾が飛んでくるのが見えます。
飛んできたら逃げればよいだけのことです。
家屋などが多少の損害を受けるかもしれませんが、たいした被害にはなりません。

もちろん、鉄の弾は、当時の船対船の戦いなら、威力を発揮します。
船は穴が空いたら沈没するからです。
けれど、海対陸の戦いでは、たいした効果は発揮しないのです。
ですからそれまでの軍艦は、陸からしてみれば、兵隊を運ぶだけでたいした影響のない、ただ迷惑な存在だったわけです。

実際、ペリーの8年前に、アメリカの東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀やってきて、幕府に通商条約を求めていますけれど、幕府はいともあっさりと、これを拒絶しています。
いともあっさりです。
力関係が逆なのです。「文句があるなら沈めるぞ」というだけのことだったのです。

なぜなら日本には、戦国時代から伝わる大砲が、どの藩にもありました。
幕府も持っていました。
しかも揺れる海上軍艦からの砲撃よりも、揺れない地上からの砲撃の方が狙いが正確です。
ですから、ピッドルの軍艦は、まったく恐るに足らないものだったのです。

ところがペリーの乗ってきた黒船は違いました。
ペクサン砲が積んであるわけです。
これに幕府は驚きました。

炸裂弾が飛んでくるということは、まさにこれを江戸の町に撃ち込まれたら、江戸は火の海になります。
何万人の命が奪われるかわからない。
江戸だけではありません。沿岸部の街道沿いの町や村が大損害を受けることになる。
なにせ敵は移動戦艦で、神出鬼没なのです。

だから幕府は衝撃を受けたのです。
これを「砲艦外交」といいます。

日本は、家康公の時代、世界の総鉄砲保有数の概ね半分を所持する、いわば世界最強の軍事大国でした。
ですから日本は、世界最強の軍事大国として、自らその軍事力を封印し、鎖国していたのです。
ところが江戸270年の泰平の時代の間に、ヨーロッパでは軍事技術がぐんぐん進歩し、ついには戦艦が炸裂弾を発射する時代を迎えていたわけです。

私は浜松で育ちましたが、浜松も先の大戦のときに、空爆と艦砲射撃で、焼け野原になりました。
幕末はまだ空爆こそなかった時代ですけれど、鉄球を発射するだけの時代にはありえなかった、まさにその炸裂弾による艦砲射撃で街中が灰燼になったのです。

そしてこのことに、幕府も、全国の武士たちも、吉田松陰も衝撃を受けたのです。
私は見たことがありませんが、藤岡先生が以前、高杉晋作記念館に行かれた時、晋作が、炸裂弾と鉄球弾のそれぞれの大砲の構造の違いを書写した紙が展示してあったそうです。
全国津々浦々の武士たちが、まさにこの炸裂弾のペクサン砲に衝撃を受けたという、これもひとつの証拠です。

当時の日本は「察する文化」の国です。
事件が起こってから対処するのではなく、事件が起きる前に対処するのが「公」の役割とされた国です。

ですから当時の武士たちにとって、ペクサン砲がもたらす被害がどのようなものになるか。
それは簡単に想像がついた話ですし、予測がついたなら、被害が発生する前に行動をしなければならない。
それが庶民から見たときに、幕府や武士が慌てふためいているように見え、「たった四杯で夜も眠れず」という狂歌になっているのです。

そういうことにまったく触れずに、「幕末の武士たちは、鉄の船が海に浮かんでいることに衝撃を受けた」とは、恐れいります。

ちなみに、時代がすこし後になりますが、黒船来航のあとに戊辰戦争が起こりました。
このとき、幕府の旗本の若者たちが彰義隊をつくって上野のお山に陣取ったことは有名な話です。
彼らは重たい大砲をお山の上に運びあげ、そこで薩摩と長州の軍勢を待ち受けました。

薩摩と長州の軍がやってきたとき、彼らはお山の下に陣取りました。
彰義隊は上野のお山の上にいます。
官軍がいよいよ攻めてきたとき、彰義隊は大砲を曳き出しました。
そして鉄球の弾を詰め、官軍に撃ち込もうとしました。

敵は坂の下にいます。
よほど緊張したのでしょう。
砲弾を入れた大砲を、下にいる敵兵に向けてしまったのです。
すると、中に仕込んだ鉄球の砲丸がコロコロと。

慌てた彰義隊員が、その砲丸を追いかけました。
けれど弾の転がる速度の方が速い。
その砲弾を、下にいる官軍の兵士が拾あげると、追ってきた彰義隊員に手渡してくれたそうです。
彰義隊員は丁寧にお礼を言ってそれを受け取ると、またお山の上に戻って行ったのだとか。

笑い話のような話ですが、どれだけ当時の旗本の若者たちがモノを大切にし、礼儀正しく、真面目な人たちだったかということです。


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コメント

takechiyo1949

豈國を目指す
連投…失礼します。

断絶だ~!
◯◯人は出て行け~!
私もそうは思いますよ。

ねずさんは仰います。
① 軍事力
② 資金力
③ 政治力
これが世界最高だったからこそ我国は「鎖国」できた…と。
黒船がやってきました。
そして、開国しました。
①②③のどれかが欠けていたからだ…とも。

今の我国はどうですか。
①②③を満足していません。
ですから、事はそんな簡単には進まないのです。
日本を取り戻し豈國を目指す…道は険しいですけど、いつか成し遂げたい。
そう思っています。

takechiyo1949

幕府の情報収集擴散力
とても興味深いブログをありがとうございます。

炸裂弾は恐怖だったかも知れませんが、専門書に依りますと、当時のペクサン砲は射程距離と命中精度に難があったそうですよ。
砲身に対する砲弾の寸法精度は極めて重要です。
おそらく砲弾の品質が不安定だったのだろうと想像しています。

それよりも…黒船に乗り込んだ浦賀の一介の役人が、備砲を「ペクサン」と見抜いた事に私は驚きました。

黒船来航は嘉永6年(1853年)
幕府は、それ以前の嘉永元年(1848年)にはペクサン砲の開発情報を入手済みで、黒船来航も知っていたとか。

オランダを介しての情報戦でしょうけど、今と違うあの時代ですから、実に凄い情報収集力と擴散力には感心します。

愛知のおばさん

史実って…
学生時代、個人的事情から、本日のお話の「いわゆる一般説」ですら知りませんでした。
このような「史実」を知らないで「私は歴史に詳しいのだ」と戦後知識をひけらかす人が圧倒的に多いのでしょうね。
そして、それはやがて「常識」として定着してしまうのでしょうね。
「歴史は勝者が作る」という言葉を思い出します。

-

No title
>当時の日本は「察する文化」の国です。
事件が起こってから対処するのではなく、事件が起きる前に対処するのが「公」の役割とされた国です。
ですから当時の武士たちにとって、ペクサン砲がもたらす被害がどのようなものになるか。
それは簡単に想像がついた話ですし、予測がついたなら、被害が発生する前に行動をしなければならない<


ねずさんが仰るように日本は「察する文化」において幕末、明治、昭和と激動の時代を生き抜き日本を守りました。

あの時代は今と違って情報を取るのも難しい時代でしたが、先人達は世界の状況、周辺国の動きなど洞察力を持ち国難に当たって来ました。
それは、政府は勿論の事ですが、当時の国民も同じでした。
先人達は日本国、そして日本民族としての誇りを持ち、国際社会の場においても毅然たる態度で臨んでいます。

何よりも現代の日本と最も違うところは、国民の一人一人が強い愛国心を持っていたという事です。

当時の国民は情報が乏しい中においても学ぶ努力をしています。
狂おしいまでの祖国愛です。
「愛国心」「祖国愛」などと言う言葉を聞いただけで、中には発狂しそうな輩もいると思いますが、
人間として当り前の事を当り前に言ってるだけです。
その当り前が当り前として捉えられなくなってきてしまっている日本、本当に異常ですね。

>被害がどの様になるか予測がついたなら、被害が発生する前に行動しなければいけない<

まさにその通りですね、「先見の明」に他なりません。
今の日本は、「先見の明」この一番大切な言葉を忘れています。


安倍政権において、少しづつですがやっと本来の日本国を取り戻す努力がされています。
政府と国民が同じ方向を向き、本来の日本を取り戻す、肝要ですね。

話は変わりますが、先日の「陸自配備、賛成が過半数 与那国町住民投票」ですが、
現日本の状況をよく把握しておられ、まさに「先見の明」をお持ちになった与那国町の皆様の英断に感謝します。

-

No title
 いつも勉強になります。有難うございます。義務教育の歴史では、理解できなかった分野が、よく分かるようになってきました。毎日、拝読させてもらい、日本人としての知識を、身につけていこうと思います。

鳳凰丸

横須賀、函館では有名人
中島三郎助永胤(江戸幕府浦賀奉行所与力)、黒船来航の際に副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船。アメリカ側の記録では、船体構造・搭載砲(ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだとされている。箱館戦争で戦死。享年49。父・中島永豊はビッドルとの交渉に当った。

桂小五郎は中島家に寄宿して造船技術を教わって以来、永胤を師と仰ぐようになり、明治天皇の東北巡幸のおり、中島父子の戦没の地付近を訪れた木戸は、人目をはばかることなく慟哭したという。

通りすがり

No title
大変興味深い内容で、面白く拝読いたしました。
ただひとつ残念なことは、「陥る」を「落ちいる」と誤表記なさっていること。
せっかくの内容ですから、早々に訂正なさることを強くお勧めいたします。

えっちゃん

No title
今日もありがとうございました。
今日は、泣かないかわりに、目からウロコでした。一体、いくつウロコがついているのでしょう。おそるべし、捏造の歴史教育の成果でありましょう。民のため被害を察していられたのですね。ますます、本当の真実を知りたい気持ちが高まってきました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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