入唐求法巡礼行記



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日本、サイコー!H26.12.03『小名木善行先生 察する美学について』
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入唐求法巡礼行記


きっと今日のねずブロは、いつになく面白いと思います。

まず、クイズです。
世界で「東アジアの三大旅行記」と呼ばれている古典書物があります。三つあります。

ひとつは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』です。黄金の国ジパングの記述で有名です。
もうひとつは、僧正玄奘(げんじよう)の『大唐西域記』です。これは、孫悟空の活躍する西遊記としても有名です。

あとひとつは何でしょうか・・・?

答えは『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)です。
これは遣唐使としてChina(唐の国)に渡った平安時代の日本人僧侶の円仁(えんにん、794-864)が、唐の国での体験を綴った本です。
円仁は、栃木県出身の僧侶で、第三代天台座主の慈覚大師(じかくだいし)としても知られている人です。

『入唐求法巡礼行記』は、全文漢文で書かれており、世界にも知られ、世界ではこの三つを称して中世の「東アジアの三大旅行記」としています。

ところがこの本は、戦後の日本では、まったく知られていません。
まるで「なかったもの」にされているかのようです。
『入唐求法巡礼行記』をわかりやすく書いた本も、ほとんどありません。

いまだと1961年の筑摩書房の『古典日本文学全集』の第15巻・仏教文学集の中に、他の仏教関連書と並んで、ようやくその原文と現代語訳文を見つけられますが、他にとなると、多少の解説書が出ているくらいです。
ところがこの解説書なるものも、入唐に際して、遣唐使船が航海に難儀したこととか、船の形状や材質などを知る手がかり、あるいは帰国の際の苦労話といった、いわば周辺の物語の解説のみに終始しています。

いいかえれば前書きと後書きのところが詳しく解説されているだけで、肝心の本文のところ、つまり旅行記としてもっとも肝心な、円仁が唐の国での10年間に体験したり目撃した唐の国の事情にあたる部分の解説がありません。意図的な編集なのかどうかまでは知りませんが、不思議なことがあるものです。

『入唐求法巡礼行記』は、円仁が遣唐使として承和5(838)年に博多を出発して、唐の都の長安に向かい、そこで生活して、承和14(847)年に帰国するまでの、10年間の日記です。

このときの唐の皇帝は武宗(ぶそう)でした。
武宗は、道教に入れ込んで、仏教を弾圧した、晩唐の皇帝として知られる人です。
円仁は、滞在中に、百回近くにわたって日本への帰国願いを出していますが受理されず、最後はなんと、外国人僧侶追放令にあって、ようやく帰国できました。

そういう時期のお坊さんの渡唐記録なのですが、内容はすこしも私情を交えず、冷静に、きちんとした観察眼をもって綴られています。
そして冷静だからこそ、世界中から、この書がたいへん高く評価されているのです。

そしてこの本の中に、9世紀の唐の様子が、実に克明に記録されています。
そこで本文をすこしご紹介してみたいと思います。
原文は漢文なのですが、筑摩書房の古典日本文学全集〈第15〉仏教文学集、入唐求法巡礼行記(堀一郎訳)をもとに、ねず流で、おもいきった現代語訳にしてみます。

ご一読いただければ、当時のChinaが見えてくるだけでなく、Chinaのウシハク皇帝、つまり神話を失なった国において、権威と権力と武力を併せ持った皇帝が、いかなる存在となり、臣下や民衆にどのような影響を与えるのか、おわかりいただけようかと思います。

日本は、神話を持ち、権威と権力・武力を分離したシラス国です。
国の大本のカタチの違いが、ここまで大きな違いになることを、私たちは学ぶ必要があると思います。

==========
『入唐求法巡礼行記』
円仁(第三代天台座主:慈覚大師)

皇帝の討伐軍は、叛乱軍が立てこもる州の境界線で、叛乱軍の激しい抵抗にあって攻め込みきれないで境界線上にとどまっていました。
すでに多くの日数が費やされています。
皇帝からは進軍を促す催促が、毎日、矢のように来ています。
けれども叛乱軍の抵抗が強くて前に進めません。

ところが追討軍が前線から進められないでいることを、中央で「あやしんでいるらしい」というのです。
それを知った征討軍はびっくりして、戦線付近の牛飼いや農夫たちを捕まえて、これを叛乱軍の捕虜と偽って、長安の都に送りました。

長安では皇帝から勅令が発せられ、儀礼刀が賜(たまわ)られ、街頭でその偽りの捕虜たちの処刑が行われました。
捕虜たちは、三段に斬られ、あるいは左右両軍の兵馬が、彼らを取り囲んで捕虜たちを撲殺しました。
かくて前線からは、続々と捕虜たちが送られて来るようになり、兵馬は休みなく往来し、市街で殺された死骸は道路に満ち、血は流れて土を濡らし泥となりました。

これを見物する人も道にあふれました。
皇帝もときどき見物にやって来ます。
一般のウワサでも、「護送されてくるのは叛乱軍ではなくて、近隣の牛飼いや農民ばかり、罪もないのに叛徒に仕立てあげられて捕らえられて来たものだ、皇帝の軍隊はまだ州の境界線を突破できず、皇帝に戦果の上がらないのを怪しまれないようにするために、むやみと罪もない人民を捕まえては都に護送しているのだ」と、言っています。
もう誰もが知ることなのです。

にもかかわらず、そんな捕虜たちを、左右両軍の兵士どもは、斬り殺しては、その眼肉を割いて食べています。
だから市中の人々は、いずれも今年はなんと不吉な年かと言っています。

・・・・・・・

山西省の太原府の三千の軍は、三年間ウイグルとの国境守備に任じられ、ようやく今年、ウイグルを破って凱旋してきました。
ところが太原府に帰ってまだ日も経たないうちに、節度使はこれを再び四川方面の叛乱軍討伐に出発させようとしました。

将兵たちは「三年もウイグルと戦って苦しい思いをし、疲れきって帰国してきたばかりです。故郷に帰って、まだ父母にも妻子にも会っていません。どうか他の軍隊を派遣していただきたい」と固辞しました。
ところが節度使は「皇帝の命令である」と聞き入れません。

このため三千の軍が暴発して太原府城に押し寄せ、節度使を攻撃しました。
節度使は、この事態を皇帝に報告しました。
都から尋問使がやってきました。
調査の結果、尋問使たちは、「この者らは、ウイグルを討伐した功績をあげており、言い分はもっともである。当然、死罪にすべきではない」と、詳しく理由書をつけて上奏しました。
けれどもその上奏は聞き入れられず、三千人は東市の北街の塚のほとりで全員、斬り殺されました。

・・・・・・・

9月にはいって、四川方面の叛乱軍がようやく大敗しました。
叛乱軍の軍団長らは、捕虜として都に護送されました。
彼らへの処刑は67回に及びました。
後に叛乱軍の首魁の劉従簡(るうじゅうかん)の首が長安の都に送られて来ました。
都では、この首を三叉の槍の頭に差し抜き、三丈あまり(10m弱)の竿(さお)の先に名前をしるして、東西の市(いち)を巡回して、内裏に行進しました。

皇帝は銀台門の楼上に坐して、この行列を見て大いに笑いました。
その後数十日のうちに、叛乱者たちの財産や宝物、家具などの一切を政府に没収し、毎回7〜8台の金で装飾した車が、これらを満載して都に入り、宮廷の倉庫に納めました。

・・・・・・・

※ 仏教と僧侶たちのことも書かれています。

・・・・・・・

8月に太后(たいこう)が薨去(こうきょ)されました。
姓は郭(かく)で、太和皇后といいます。
太后は、仏教をとても篤(あつ)く信仰していました。

皇帝は道教を信仰しています。
その皇帝から、僧侶や尼僧を淘汰せよという条例が出るたびに、いつも皇帝に諫止(かんし)していたのが太后でした。
皇帝は、そんな太后を、薬酒をすすめて毒殺してしまいました。

また義陽殿(ぎようでん)におわす皇后は(皇帝の実母)たいへんな美貌の持ち主でした。
皇帝は、その母を後宮に召し入れて妃(きさき)にしようとしました。
あたりまえのことですが、皇后は拒絶しました。
すると皇帝は弓で皇后を射殺してしまいました。

・・・・・・・

道教の道士である趙帰真(ちょうきしん)らは、皇帝に、
「仏教はインドで生まれて『不生』を説いているが、『不生』とは、単に死のことである。仏教はまた、さかんに無常や苦、空を説くが、これはまことに奇っ怪な妖説であって、道教にいう無為長生(無駄に長生きしない)の原理を理解していない。
老子は、無為自然にあそんで仙人となり神薬を練った。この神薬を飲めば、不老長寿となり、神仙界の一員となることができる。その功力は無限である。
そこで願わくば、宮廷内に神仙台を築き給え。
身体を練磨して、神仙界にのぼり、九天に逍遥し給え。
必ずや陛下の聖寿万歳となり、もって長生きの楽しみを保ち得られることでしょう」と奏上しました。

皇帝はこの奏上を聞いておおいに喜びました。
左右の近衛兵に命じて、宮城内に、神仙台として「望仙楼」を築かせました。
それは、高さ45メートルの楼閣でした。
皇帝は「望仙楼」ができあがることを、とても楽しみにされ、毎日左右の近衛兵三千を動員して土を運ばせ、築造させました。

皇帝は、一刻もはやく完成させたい意向でした。
毎日、できあがりを催促されました。
左右両軍の近衛兵の団長も、指揮棒をとって監督にあたりました。

ある日、皇帝が視察に赴きました。
皇帝は宮内長官に向かって、「あの棒を手にしているのは誰か」と問いました。
長官は、「軍団長みずからが築台の指揮をとっています」と答えました。
すると皇帝は、
「汝、棒を手にして指揮する必要はない。自分で土を担って台を築け」と命じました。
またある日には、「望仙楼」の工事現場に出かけた皇帝は、自ら弓をひいて、何の理由もなく将校のひとりを射殺しました。

・・・・・・・

3月3日、仙台の築造が完成し、皇帝に引き渡しの儀が行われました。
その日、皇帝は、仙台に登りました。
両軍の司令官や道士たちも、登りました。

その途中、両軍の司令官が、道士の趙帰真に、
「今日、仙台の引き渡しが行われますが、あなたがた道士は、不老不死の仙人になれますか?」と問いました。
趙帰真は、うなだれたまま、何も答えませんでした。

皇帝は「望仙楼」に七人の道士を招き、神薬を練り、空を飛んで仙人となる術を行わせました。
皇帝が「望仙楼」に登った日、皇帝は同行した楽師に、「左近衛師団長を建物から突き落とすように」と命じました。
ところが屈強な師団長を前に、楽師はこれができません。
皇帝は、「朕が突き落とせと命じたのに、なぜ命令に従わぬのか」と問いました。
楽師は、「軍団長は国家の重臣です。これを故なく突き落とすことなどできません」と答えました。
すると皇帝は怒り、楽師の背中を杖で20回殴りつけました。

望楼の上で皇帝は、そこにいる道士たちに、
「朕は、ここに二度足を運んだが、汝たちにまだひとりも登仙した者がいないのは、どういうわけか」と問いました。
道士らは、「国中に仏教がはびこり、その邪気がたちこめているために登仙になることができないのです」と答えました。

皇帝は、宮城内の僧道奉行に対し、「朕はお主らを必要としない」と宣言しました。
そして数日のうちに、国中の僧侶や尼僧で、年齢が50歳以下の者は、すべて強制的に還俗させ、そのまま本籍に返せとの勅令が発せられました。

実はこれには裏話があります。
皇帝は当初、「仙台を築くために掘った土の穴が極めて深く、人民に恐怖と不安を与えている。朕はこれを埋めたい。ついては仙台の落慶供養の食事会を催すといつわって、近隣の僧侶や尼僧をことごとく、無理やりにでも左近衛軍営内に集め、その首を斬り、その死体で穴を埋めよ」と命じたのです。

これにおどろいた卜(ぼく)某が、「僧尼といえども、もともと国家の民です。せめて還俗させて各自生産を営ませれば、国家に利益があがります。穴に追い込むようなことはせず、還俗させて、すぐに地方に帰し、役夫にでもさせればよろしい」と申し上げ、皇帝が「もっともである」とこれを受け入れたために、先の勅命となったのです。

さりとて僧尼たちは、どうしてよいかわからない。
私(円仁)は、書類を提出して還俗したうえで、日本に帰りたいと請願したのですが、奉行もこれを受け取ったきりでまだ返事がありません・・・。

=========

と、話はまだまだ続くのですが、ここまでお読みいただいて、いかがお感じになりましたでしょうか。
すべての権力と権威を握る個人がいるということの恐ろしさ。
そういう国に生まれることの恐ろしさ。

そしてそういう国に生まれ育てば、息を吐くように嘘を言ってでも生き抜かなければならなくなることも、理解できようかと思います。
またご一読いただいて、この『入唐求法巡礼行記』が、世界で「東アジアの三大旅行記」と呼ばれている古典書物でありながら、戦後の日本で、まったく秘匿されてしまっていた理由も、おわかりいただけたのではないかと思います。

当時の唐は、周辺国にたいへんな影響力をもった超大国です。
そしてそこには、数多くの仏典などもあります。
ですから、日本からは、勉学のため、遣唐使が派遣されていました。

他国の状況をキャッチアップしておくことは、とても大事なことです。
いつ唐が、日本に攻め込むと意思決定するかもしれないし、唐に大異変が起これば、難民が押し寄せる危険もあるのです。

円仁の帰国の47年後の寛平6(894)年、菅原道真公の建議によって、遣唐使は廃止となりました。
そしてその13年後の907年に、唐は滅亡しています。
唐の滅亡は、当時の東アジア全体をゆるがす大事件でした。
それは、東アジア秩序の崩壊でもあったし、China本土内で、大混乱、大虐殺は、周辺国へも多大な影響を与えたのです。

ところが日本は、13年前という、絶妙なタイミングで遣唐使を廃止し、事実上の鎖国をしています。
当時の政治家たちの先見性には、ほんとうに知れば知るほど驚かされます。

そして、同じ時代でありながら、500年の長きにわたって死刑さえ行われず、裁判を行う際にも、すでに10世紀には、藤原公任によって、刑事裁判において、被告人には、科せられた懲役年数がちゃんと記載されるようになっていたのが、日本なのです。

現代では当たり前になっている「被告人に科せられた懲役年数を判決書に記載する」ことは、裁判の公平性を担保するうえで、とても大切なことです。
ヨーロッパでさえ、それが施行されたのは19世紀以降です。

国の頂点に、権威と権力と武力を併せ持つ個人が置かれるということは、今回のこの『入唐求法巡礼行記』に書かれた唐の国の実情にも明らかな通り、それはとても恐ろしく危険なことなのです。
なぜ、このような、人の命を平気で踏みにじるような乱暴なことが平然と行われたかといえば、上に立つものにとって、下の者は、常に私有物であり私有民と考えられたからです。
もっといえば、人でさえなく、ただの私物なのです。

自分のモノですから、殺そうが奪おうが勝手なのです。
人の命でさえ、ティッシュペーパーをちょいと摘んで、ハナをかみ、そのままゴミ箱にポイと捨てるようなものとされてしまうのです。

ところが日本では、権威と権力と武力を分離しました。
それが何時頃からはじまったのかということさえ、わかりません。
なにしろ神話の時代からはじまっているのです。

オオクニヌシ神話に、因幡の白兎の物語が出てきます。
白ウサギは、隠岐の島から出雲まで、ワニを一列に並べて、その上をピョンピョンと飛んできたとされています。
最近の学者さんたちは、これはワニではなくてサメのことを昔は「鰐(ワニ)」と書いたのだ、と強弁しています。
ところが、1964年に、大阪府豊中市柴原の待兼山丘陵に位置する大阪大学豊中キャンパスの理学部の新校舎建設現場から、ホンモノのワニの化石が出土してしまったのです。
このワニは、体長約7メートルもある大型のワニで、更新世(30-50万年前頃)には、日本中に生息していたのです。
他にもキシワダワニなど、日本各地で、更新世のワニの化石が出土しています。

要するに、日本にも、本当にワニがいたのです。
そしてオオクニヌシ神話には、そのワニが出てくるのです。
オオクニヌシは、いったいいつ頃の人(神)だったのでしょうか。

要するに、いつのことなのかもわからない古い時代から、日本では、シラス統治として、権力と権威の分離が図られてきたのです。
そして民衆は、権力者の私物ではなく、最高権威の宝とされてきたのです。
権力者も、武力を持つ者も、自らのその権力や武力は、最高権威の裏付けがあってはじめて行使できる力です。
会社で、部長という肩書があってはじめて、部長としての権力を行使できるようなものです。

そして権力者にとって、民衆は、私物ではなくて、最高権威から委ねられた宝とされたのです。
つまり国民が宝です。
市民権ガーとか、私権ガーとかガナル前に、ひとりひとりが最高権威の宝なのです。
それが日本です。

そういう日本人にとって、Chinaのウシハク世界は、あまりにも異常な世界です。
だから良いとか、悪いとかではないのです。
なぜなら、我々がいくら非難したところで、Chinaの皇帝は変わりません。

そうでなくて、Chinaはそういうものだ、そういう人たちだと、わきまえて付き合う。
彼我の違いをきちんと認識して、付き合う。
良いものは積極的にどんどん取り入れ、よくないものは、水際でシャットアウトする。
日本は、ずっとそのようにしてきたのです。

そういう古くからの日本人の知恵は、私たちはしっかりと学ぶべきことだと思います。



(参考文献)
筑摩書房『古典日本文学全集』第15巻・仏教文学集
産経新聞社『国民の歴史』西尾幹二著




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コメント

ゆき

ワニの骨が見つかった!
古代、日本のあちこちにワニがいたことが実証された…いいですね!

以前、ねずさんが講演会の余談で、地震のニュースで画面に一瞬巨人の骨が写っていたけど別の時間にはその部分が消されていた、とおっしゃってましたよね

それについてのブログを見つけました!
地球は今より重力が低かった可能性も示唆されてます
http://maakata.holy.jp/2020/03/31/1123/

takechiyo1949

今日は地元の桜祭り
短期留学生なのに帰国許可が出ない…そしておよそ10年も。
一緒だった遣唐使達はどうなったのですかね。
大陸や半島に行きますと、表向きは近代的ですが、一歩裏に入ると怪しげな家並みが延々と続き、貧民が群れています。
「立ち入ってはいけない!」
現地人にも言われます。
それにしても、身の毛が弥立つ恐ろしい記録です。
ご存知「金龍山浅草寺」の中興開山は円仁(慈覚大師)と伝承されているそうです。
円仁様は帰国後も大変なご苦労をされたのですね。
ここまで書いて…昨夜は寝落ちしてしまいました。
一夜明けて…今日は日曜日。
地元の桜祭りに出掛けます。

てすら

No title
比叡山焼き討ち 一般信徒も含みことごとく殺害された。宣教師フロイスの書簡では死者数約3000人。
天正伊賀の乱 伊賀全体の人口9万のうち、信長により3万余が殺害された。
700年も後の一例としてのこういうことの数々はないことに

白髪三千丈、それこそ当時から大げさに盛って言う傾向の中国人、
おまけに仏教徒として弾圧されている側、
今のように情報社会ではない完全な伝聞で、周囲の「中国人から聞かされた」話の内容と数はしかしなぜかすべて事実として信用できる

南京虐殺の数を数十万人から数百万、数千万とどんどん増やして吹聴する中国人の言うことは全く信用できないが、なぜかこれは信用できるっ
押しなべてこのレベル

-

No title
なぜライシャワー氏の研究には触れないのですか?

けて

本の入手
平凡社の東洋文庫から出ています。
昨日書店に行きましたらば上巻だけですがありました。
何刷目かは忘れましたが発行年2014年でしたので、絶版だとしても入手は難しくなさそうです。

-

唐は征服王朝
皇帝が母を妃にするという項目がありました。
そう思う心がモンゴル、鮮卑でいう蒸です。
漢民族はそれを、野蛮人であるとしています。
李氏と名乗った人はは武川鎮軍閥出身です。
裏付が一つ増えました。

愛知のおばさん

昔から変わらない…
そんなお話があったのですね。
日本の常識は世界の非常識、という言葉を思い出します。

そんな国の遥か昔の現状を知り、現在の住民が世界で「移住及び移民」「爆買い」という特技を披露しているのを思い出しました。

様子を報道で見る度、「随分お金持ちなのね、共産圏ってそんなにお金持ちがいるのね。人民皆平等じゃないのね」と思いました。

我が街中で数人で一つの買い物袋や箱を運んでいる人達と、何という格差でしょうか。

そんな折、自宅のポストにあった日本共産党の「格差是正!」という文字をみて、思わず笑ってしまいました。
日本共産党だけは常に折込が入るので、「随分お金持ちな政党なのね」と思っていたのです。

本家本元は是正どころか格差拡大まっしぐらなのに、本家を見習わないとは、不真面目な分家だなぁ…と思ってしまいました。(笑)

toorisugari

No title
済みません、訂正です。
眠気も手伝ってよく見たら文章滅茶苦茶でした…。

②公正を要求した担当者自身の思想はどうなのか? ↓
②校正の段階で訂正を要求した担当者自身の思想はどうなのか?

>③~その公正を要求した担当者は把握しているのか?↓
その校正の段階で訂正を要求した担当者は把握しているのか?

toorisugari

No title
追記
まあ、成人式のお祝いの場でトラブルが起きる事を避けたいと言う担当者の気持ちは良く分かります。責任を問われるかもしれませんからね。でももしトラブルが起きるならそれは長期的に見れば自由と民主主義の国にとって必要な事かもしれないので明らかにしてみたいという、無責任な第三者の勝手な意見です。

toorisugari

No title
竜仁 様
・校正の段階で公人として相応しくない表現があるとのことで、訂正してほしいと云われました
・「戦後レジームからの脱却」と盛り込んだわけですが、それがダメだとのこと…
・「地域の住所には護憲の方も居るので、波風は立てたくない…」~

興味深い話で、色々な疑問があります。
①戦後レジームの脱却と言う表現が何故公人として相応しくないのか?
②公正を要求した担当者自身の思想はどうなのか?
③その護憲の方というのは一体どこのどういう人物で、波風が起きると言うのは具体的に何が起きるのか、その公正を要求した担当者は把握しているのか?
④護憲派との間で波風が起きるから反対意見が言えないと言うのなら改憲派は今後何も言えないすなわち言論の自由が無いという事になるのではないのか?
⑤波風と言うのが単なる論争なのか暴力沙汰なのか分かりませんが波風が起きる事が明らかになってこれが克服される事は自由と民主主義の国では必要な事ではないのか?
⑥自身が波風に巻き込まれる事は面倒で勇気のいる事ですがこれを恐れて何も出来ない様な個人が大勢を占める社会であれば自由と民主主義の国を維持出来ないのではないのか?

無責任な第三者の通りすがりですからあまり勝手な事を言えませんがもし出来るのであればもう少し詳しく追求しても良かったのではないでしょうか?

えっちゃん

No title
東アジアの三大旅行記として『入唐求法巡礼行記』の存在を知り、すばらしいと思って読んでいきました。
 ふつうなら、現代語訳が出て、これが東アジアの三大旅行記の一つ
日本が誇れる旅行記ですと出版されると思うのですが・・・。
 次から次の恐ろしい情景にめまいがしました。
 日本人として生まれて幸せだなあとつくづく思います。
 
 

達磨将軍

竜仁 様
「戦後レジームからの脱却」と盛り込んだわけですが、それがダメだとのこと…

     ~~~~~~~~~

「戦後レジームからの脱却」を言っている現内閣総理大臣は立派な公人です。

ダメだと言った方の論拠は破綻しております。

反日左翼主義者じゃなければ、あまりに勉強不足といえるでしょう。

敦子

風の便りですが、ドイツの技術や実務の関係者と日本国の技術や実務の関係者の軍事通信システム網構築などについての技術的協議が行われるみたいですね。
風の便りですが、

ドイツ首相メルケル女史は、H27.3.10離日します。

しかし、H27.3.11日から数日間、

ドイツの技術や実務の関係者と日本国の技術や実務の関係者の軍事通信システム網構築などについての技術的協議が行われるみたいですね。

ポッポ

No title
>ところが追討軍が前線から進められないでいることを、中央で「あやしんでいるらしい」というのです。
それを知った征討軍はびっくりして、戦線付近の牛飼いや農夫たちを捕まえて、これを叛乱軍の捕虜と偽って、長安の都に送りました。

これで思い出したのが、応永の外寇です。
1419年、対馬に押し寄せた17,285人もの朝鮮軍は、宋氏の少数の武士団の抵抗に手こずっただけでなく戦果が挙がらなかったため、百姓や老人100人余りを斬首したと読んだことがありました。

弱い兵隊が戦果を上げられないときは、無抵抗の民を戦果として自慢します。
ベトナム戦争の際の韓国軍の戦果も似たようなことがあって、これが民族解放戦線の士気を高くしたために、敗戦をもたらしたのかも知れないと思いました。
日本の陸軍は朝鮮兵を前線に配置せず、後方や捕虜の管理に従事させていたのですが、弱い相手には残虐になる民族性からC級の戦犯を作り出した可能性が考えられます。

竜仁

戦後レジームからの脱却
いつも、拝見させて頂いております。
ありがとうございます。

ねずさんのお陰で日本人として誇りが持てる様になりました。
こちらのブログに訪れるのは、今では日課になりました。

現在私は長野県北部の小さな町で地域公民の役員を務めておりますが、先日、新成人へのお祝いの言葉をお願いされ、200字程度の文章に致しました。しかし校正の段階で公人として相応しくない表現があるとのことで、訂正してほしいと云われました。「戦後レジームからの脱却」と盛り込んだわけですが、それがダメだとのこと…
「地域の住所には護憲の方も居るので、波風は立てたくない…」と云うのが理由だそうです。
なんだかその日は一日、モヤモヤして気持ち悪かったです。

山寺の小僧

円仁さん
円仁、慈覚大師は山形市の山寺 立石寺を創建されたのでも有名です。去年慈覚大師が彫った薬師如来坐像がご開帳になりました。わたくし17年前、秦の始皇帝陵に登り兵馬俑にも見学に行きました。そのときの感慨が忘れられません。兵馬俑のドームに入るなり、皇帝の強大さに感動するどころか、無性に腹が立って腹が立って憤りを抑えることができませんでした。皇帝の虫けらのごとくの所有物である民を見せつけられた思いでした。同じ為政者として日本の天皇の御所のなんと慎ましやかなことかと日本に誇りを感じました。唯一印象深かったのは、司馬遷の史記に書かれている項羽が阿房宮を焼き尽くしたという史実の土の焼け跡 黒焦げた地層 彼の国の真実だけでした。

戒和同修

          
日本という国のスゴイ所は、今日の記事のように神仙思想が唐の皇帝たちを虜にしていた時代よりも以前に、日本書紀で高橋虫麻呂が浦島太郎の物語として長歌を詠み、この神仙思想をケチョンケチョンにけなしているところです。

常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣太刀(つるぎたち) 
汝(な)が心から おそやこの君  巻9-1741 高橋虫麻呂

【常世の国にずっと住んでいればよかったのに、お前の狭い了見でバカなことをしたものよ、この人(浦島太郎)は】

人間と神の領域をきちんと区切り、人間と神が混在する世界を忌避し、人間が不老不死の神になろうなどおそれ多いことなのだと考える思想が日本書紀に記述されている。そして、浦島太郎の物語が現代まで途絶えること無く語り継がれて来ている。これってものすごいことだと思うのです。ここに奇跡というか神の意志を感じざるを得ません。

名無しさん@ニュース2ch

No title
9世紀には、新羅からの帰化人が国内で反乱を起こす事件が相次いだのですね。難民に偽装したりする賊が入り込んできて、当時の深刻な社会問題でした。
これもわが国が、鎖国した理由の一つです。
わが国は、1100年前に移民政策の失敗していたのです。

名無しさん@ニュース2ch

No title
マキャベリは、移民は経費のかからない侵略であると、君主論の中で述べています。外国人の受け入れ制限は、差別でも排外主義でもなく、防衛であり、国家としての権利であり、義務です。
豊臣秀吉が伴天連追放令を出しのは、イエズス会が日本人婦女子を奴隷として海外へ売り飛ばしていたことへの制裁ですし、キリスト教を禁止したのは宣教師にけしかけられた信者が、神社仏閣を破壊しまくったからです。
外国人をわが国は、やみくもに排除したのは出はなく、相応の理由があって排除したのです。

にっぽんじん

ビザは厳格に
観光立国を目指すのかビザの緩和を進めています。その結果、日本を訪れる外国人が急増しているようです。その一方で不法滞在外国人も急増し、治安の悪化の要因にもなっています。

そもそも、ビザがあるから旅行者が少ないなどといった考え自体が異常です。旅行したい人はビザを取得してでも行きます。ビザがなければ旅行に行くと言うのは「悪意のある渡航}としか考えられません。

中国は日本に対して更なるビザ緩和を求めているようです。意図は明らかです。中国人の輸出です。犯罪者などを作業員などとして片道切符で他国に送り込むことも平気でやっています。

テロが心配される現在、ビザ緩和は危険です。



デロイト トウシュ

唐末
「安禄山の乱」以降の唐は乱れていて、皇帝権力も弱まる傾向にありました。武宗自身、皇太子・皇太弟ではなかったのに軍人に担がれて皇帝になった人です。エントリの事例は皇帝権力の絶対性を表すものではなく、皇帝が権力維持のために難癖をつけて反対派を粛清していたことを示すものでは? 諸命令が武帝自身によるものだったかどうか分かりませんが。

鬼子

No title
いや、むしろ付き合う必要ないのでは?異常な国がまともな国と関わるのは間違いでしょう。クソミソまぜこぜあいならんと思います。

日月神示には「神の国には神の民しか住めんことになるぞ」とありますから、近い将来には外国人はいなくなると思います。早くそうなるように、多くの日本人の目覚めが必要ですけど。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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