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『論語』の為政篇のなかに、次の文があります。
子曰、為政以徳 譬如北辰居其所 而衆星共之
子曰、導之以政 斉之以刑 民免而無恥
導之以徳 斉之以礼 有恥且格
いつものように、ねず式で現代語訳しますと次のようになります。
孔子「道徳をもって統治を行えば、北極星が天の中心にあって他の星が北極星の周りをめぐるように、すべてがうまく回る」
孔子「民衆を法による刑罰で統治すれば、民衆の中に、法律の網をくぐり抜けて恥じることがないような、とんでもない悪人が誕生する。
道徳と礼節で民衆を統治すれば、民衆は道徳と礼節のない悪行を恥と思い、自然に身を正すようになる」
いまの日本はどうでしょう。
法律を万能薬のように曲解し、法制度を細かくしさえすれば、世の中が良くなると、頭ごなしに信じられてはいないでしょうか。
孔子は、紀元前551〜紀元前479年に生きた人です。
いまから2400年も前に、孔子さまが解き、否定したことを、まるで正しいことのように勘違いしていないでしょうか。
孔子は、法や刑罰だけで統治を行なえば、人心は乱れて方の網の目をくぐって悪いことばかりする馬鹿者が現れるから、徳育が大事なのだと説いています。
それだけではありません。
川崎の中1児童殺害事件のような悲惨な出来事があれば、二度とそんな事件が起きないように、少年法の適用年齢を下げよということばかりが取沙汰されています。
何か大きな勘違いをしていないでしょうか。
国家権力は、国会で法を定め、行政府がこれを実施し、その法や行政が適法であるかを裁判所が司法判断する。
それが国家のあるべき姿だと、頭ごなしに信じこんではいないでしょうか。
もしそうであるとすれば、ものの見事に戦後の洗脳にひっかかっています。
悪いけれど、それはひところ問題視されたオウムのマインドコントロールと同じです。
「法による統治」は、冒頭に述べたように、なんと2400年も昔に「完全に簡潔に明瞭に否定」されているのです。
実際、法の網の目をくぐる、あるいは見つからさえしなければ何をしても良いのだという、不埒としか言いようがない考え方や価値観が、いまの日本には蔓延してはいないでしょうか。
それどころか、自分さえ良ければそれで良い、あるいは自分さえ良ければ他人はどうなったって構わないとまで言われてはいないでしょうか。
実際、生活保護問題、慰安婦問題、南京問題などは、まさにその極地であるわけですし、日々発生する凶悪犯も、まさにそういう思考の延長線上にあります。
犯罪の発生件数について、最近、メディアなどで実によく目にするのが、
「戦前と比べて、いまの日本は犯罪件数は減ってきているのだ」というご高説です。
これなど、典型的で実にいい加減な詭弁(きべん)です。
戦前においては、凶悪犯を犯した者を逮捕する、というのではなく、凶悪犯に至る前に、できるだけ事件が小さな火種であるうちに逮捕する、というのがあたりまえだったからです。
重大な交通事故の発生件数と、重大事故を防ぐための予防的な交通取り締まりの件数を比較すれば、後者の方が比較にならないくらい件数が多いのはあたりまえです。
むしろ、戦前の後者の件数に、最近の前者の件数が追いついてきていることが問題なのです。
これが江戸の昔まで行くと、もっと大きな違いに驚かされます。
まさに奉行所は、予防のための機構であって、それこそ重大犯が出れば、奉行自身が切腹ものだったのです。
いまでいったら、川崎で中1児童が殺害されたなら、犯人逮捕後、すみやかに、校長、学年主任、担任教師、および所轄警察署の署長が切腹ということです。
また、江戸の小伝馬町には、有名な牢屋がありましたが、当時の牢屋というのは、いまで言ったら未決囚を入れておくところであって、刑罰として犯人を入れておくところではありません。
刑が決まれば、その刑に応じて、遠島なり、所払いなり、笞打ち、あるいはサッサと打首にしていました。
懲役にすることが目的ではなくて、犯罪を防ぐことが目的だったからです。
こういう話をすると、必ず疑問に持たれるのが、「その儒教を根本にしたはずのChinaやKoreaは、おかしな国になっているではないか」ということです。
そこが問題です。
まずChinaの場合、古代に秦の始皇帝がChina全土を統一したのが紀元前221年です。
孔子が生きた時代よりも260年もあとの時代のことです。
その秦の始皇帝は、儒教でなく法家による統治を行いました。
つまり道徳ではなく、刑罰による恐怖で民衆を支配しました。
その秦の始皇帝は、ウイグル族であって、漢族ではありません。
つまり、秦の始皇帝によるChinaの統一というのは、実は詭弁であって、実際にはウイグル族の秦によって中原の漢族が植民地支配された、というのが、実際のChinaの歴史です。
そして外来王朝であり、植民地の支配者である始皇帝は、徳道ではなく、「逆らうものには死を」という刑罰による統治を行ったわけです。
ちなみにCHINAというのは、秦を英語読みした名称です。
秦は、紀元前202年に滅んでいます。
たった19年しか統治しなかった植民地支配者の名称が、いまだに世界中で、China大陸に住む人々や国家の一般的呼称として使われています。
実に不思議でおもしろいことです。
逆に言うなら、Chinaの秦以降の統治は、すべて秦以下であったということができるからです。
秦に続く前漢(紀元前202〜紀元25)を除いては、後漢、晋、隋、唐、宋、金、元、明、清に至るまでの1900年間、Chinaはずっと外来王朝によって統治され続けました。
そしてその間、ずっとChinaでは、建前は儒教、実態は法家による厳罰主義が国是とされ、それはいまのChina共産党政権によってもまったくそのままに続けられています。
そしてこうした統治の状態は、朝鮮半島も同じです。
法家というともっともらしいですが、その内容は極めて単純明快な「逆らう者には死を」という「応報主義」です。
儒教的な思想であれば、本来は刑罰は予防主義になるはずなのですが、そうはならなかったのが、ChinaやKoreaだったわけです。
これに対し、日本で行われてきたのは、神話の昔から「シラス」統治です。
604年には十七条憲法が発せられ、
645年には復古運動として「シラス」国の再建を目指した大化の改新、
701年には大宝律令、
757年には養老律令が発せられています。
律令というのは、「律」が刑法、「令」が民法です。
中世には、「令集解」などの国法の解説書が書かれたりもしていますが、そこに書かれているのは民法である「令」の解説ばかりで、刑法である「律」については、解説書どころか、具体的な律までほとんどありません。
なぜなら、日本は「シラス」国であり、国そのものが徳によって治められ、厳しく過酷な「律」を定める必要すらなかったのです。
しかも十七条憲法によって規定された「明察功過」は、常に「予防主義」に力点をおいていたがゆえに、厳罰に処するほどの犯罪自体がほとんど起きていない、そういう時代を、君民が一体となってつくりあげてきたのです。
江戸時代も、犯罪が極めて少なかったのは、皆様ご承知おきのことと思いますが、明治時代に西洋から法治主義を取り入れても、民間レベルでは、町の駐在さんは、町の治安を予防することが役割と、誰もが普通に認識していたし、だからこそ駐在さんは、誰からも信頼され、愛される存在であったわけです。
そして地域でも、学校でも、教育の根幹は徳育にあると、誰もが信じていたし、また教師はそのように行動していたし、生徒もまた、道徳心を涵養することこそ、人の道と誰もが信じていたのです。
ところが戦後のGHQによる統治後は、この様子が一変しました。
愛される駐在さんという概念はすっかりなくなり、警察はあくまで起きた犯罪を捜査し、犯人を逮捕するのが仕事、刑務所も、犯罪を起こした者を放り込む収容所へと変化しました。
いまの日本では、刑務所といえば、犯罪者が行くところと誰もが認識しています。
けれど戦前は、刑務所は、犯罪を起こしそうな人が入れられるところであったのです。
そして戦後70年が経過すると、いまではすっかり、民衆を法による刑罰で統治する、というのが、あたりまえの感覚に、多くの日本人が染まってしまっています。
そしてこの結果は、2400年も前に孔子が為政篇で述べた言葉、「民衆を法による刑罰で統治すれば、民衆の中に、法律の網をくぐり抜けて恥じることがないような、とんでもない悪人が誕生する」の通りになっています。
私も、なんでもかんでも戦前を良しとする、戦前を美化するというのは、間違っていると思っています。
しかし、戦前であれ、江戸の昔であれ、中世であれ、あるいは西洋であれ東洋であれ、そこに学ぶべきものがあるならば、それはしっかりと学び、洋の東西を問わずに、良いものはどんどん取り入れて、より良い未来を築いていくというのが、いまを生きている大人たちの使命だと、私は思っています。
人間の世に完璧なものなどありません。
どんな施策であっても、かならず良い面、悪い面があると思います。
けれど、良くないところがひとつでもあるからと、全否定するのではなく、「より良い」状態を常に切り開いていくことこそが、大切なことであると私は思います。
憲法論議が、ようやく遡上にのぼるようになってきましたが、私は、小手先の字句の修正にとどめるのではなく、日本の古くからの歴史伝統文化に則した抜本的な見直しが不可欠だと思っています。
なぜなら、ここは日本だからです。

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コメント
通りすがりの武人
2015/04/25 URL 編集
Can PC
それに対して法家が主張するのは、身分や出身に関わらず等しく法を適用すべしというものです。戦乱の世では無能や我儘、裏切りを防止する枠組みとして有効だったのでしょうが、平和になると異端の天才や自由な創意工夫、自然な思いやりさえも押しつぶす権力の道具になり下がってしまったのでしょう。
ヨーロッパでは法は作るものではなくて、「すでにあるもの」でした。中世ヨーロッパには「古き良き法」という基本的な考え方があったといいます(命名は近代になってから)。英語のlawは物理法則というときの「法則」も含みます。
法のことを「条文を作文してそれを権力で庶民に守らせるもの(自分は除外)」と考えるのは、極めて設計主義的サヨク思想に属する発想だと思います。
2015/04/24 URL 編集
限界挑戦
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150420/frn1504201140001-n1.htm
【夕刊フジ画像】
http://pbs.twimg.com/media/CDASK9RVAAAKoAF.jpg
●韓国人の半分は怒りの調節が困難、1割は要治療レベル・・韓国ネット「この国は殺人と強姦、暴力大国か?」「怒らせる側にも問題ある」
FOCUS-ASIA.COM 4月3日(金)12時18分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150403-00000024-xinhua-cn
●怒りを抑えられない障害、若い男性を中心に急増
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/03/21/2015032100991.html
ttp://www.chosunonline.com/site/data/img_dir/2015/03/21/2015032100958_0.jpg
【韓国】●新種の精神病で、前頭葉が破壊されてる韓国人激増。 子供の発病率、7年前より100倍に増加
ttp://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2004021674158
2015/04/24 URL 編集
ジェットモール
そういえば、何年か前に郵便局がトヨタ方式を導入する(生産性が上がると人減らしにつながりかねないので労組はネガティブキャンペーンも盛んでした)なんて報じられていましたが、警察はカイゼンとはほど遠そうですね。
2015/04/24 URL 編集
-
日本の儒教は、日本の神道に基づいた儒教で、中江藤樹のような聖人が日本には多数出ています。 日本の神話、和歌、人の生きる道や高度な処世術の日本儒教を若者に教えたら、これは本当に素晴らしい日本人になるのは、言うまでもありません。なれど、これを伝える人が、今の日本にはいない。いや、いるのかも知れませんが。 私は知りません。
2015/04/24 URL 編集
junn
http://www13.big.or.jp/~yokayama/debate/thesis/shonen.htm
2015/04/24 URL 編集
寺島 孝
から入荷し、早速読み始めた。びっくりの連続だ。
「ひとりごと」で昨年初めから百人一首を紹介していただいた時、毎回目から鱗だった。
しかし、今回の本は、その時とはまた随分違う。 一首一首を百首全体の流れから捕えているためか、歌い手たちがまるで語り合っている、そのような感じがしてくる。 勿論、それぞれ生まれた時期が、ほとんどの人たちは全く離れているので、会ったこともない、知らない、のは言うまでもないのだが。 なんだろう、とても不思議なはずだが、でもそう不思議にも感じずに読んでいる。
ねずさんを読むといつも、まるで、その本人たちが目の前に現れて語りかけてくるような感じがする。 1000年前の人たちが私の前に来て、ぽつぽつと話しかけてくるような。 そう感じる人は少なくないだろう。
一首一首の解説が驚きだ。 和歌は広汎で深い教養なしでは読み解れるものではないことがよく分かった。 そして読み解くことができると、深い感動があることが分かった。
歌い手の人たち、凄い!
それにしても藤原定家さん、凄い!
そしてなにより定家さんの深い意図を読む解いたねずさんは凄い!
定家さんもきっと驚いているに違いない。
読んでいて、何か人間業とは思えない、そんな気がしている。 それはおそらく
私だけではないだろう。
この4月「倭熟」に初めて行った時、「何かが自分に降りてきて、それが自分に書かせているような、そんな感じがした」と確かそんなこと仰っていた。
無理に誇張したりしたものではない、率直な感じなのだろうと思ったが、読んでいて、その時の言葉が思い出された。
とても平易な文章で、無理や無駄がない、でも説明が懇切丁寧だ。だから読み易くて且つ面白い。 中学生でも読めるだろう。
そして大きくなったら、また読み直して欲しいと、そういう気持ちを感じる。
装丁も美しい。
倭塾に連れて行った友人が、「ねずさんの読みは深いね」って感動していたので、本を送った。
この感動を自分一人だけで味わっておくのは、あまりに「もったいない」。多くの友人に分けたい、感じて欲しいと、そんな風に思ってる。
2015/04/24 URL 編集
hiyo
2015/04/24 URL 編集