ちなみに、ここまでの報道記事で、
1 天皇皇后両陛下がお召飛行機が、単なる民間チャーター機として扱われることは、これは異常事態というべきことです。世界最古の国家君主が飛行機に座乗される飛行機ならば、本来日本国政府は専用機を用意し、しっかりとした護衛を付けるべきことです。それができないところに、現代日本の政府の異常さがあります。
2 ペリリュー島にある慰霊碑などについては、近年、碑文へのハングルや簡体字による悪質ないたずら書き、碑そのものを横倒しにするだけでなく、慰霊碑に行くための方向指示板まで横倒しにする、あるいは方向を変えるなど、極めて悪質なイタズラが目立っています。
また先日は、パラオの海中に沈む旧日本軍沈没船「石廊」に、Chinaの国旗が結び付けられていました。
このことが国際的に大きく報道されると、国旗はいつの間にか撤去されています。とんでもないことです。
3 共同通信のこの記者会見の報告は、パラオの大統領の言葉の端だけを拾ったものです。パラオの大統領は、戦前の日本軍の勇気を讃え、歴史そのものを語っていました。そういういちばん大切なところを、日本のメディアはまったく報道しない。
などと、ひとつひとつに突っ込みどころ満載といった報道ぶりなのですが、ともあれ、戦後70年を経て、天皇皇后両陛下が、パラオを御訪問されることを、心からお慶び申し上げますとともに、勇敢に戦い、パラオの土となって散っていかれた英霊の皆様、そして同じく戦闘で倒れた米軍の兵士の皆様にも、こころからの哀悼を捧げたいと思います。
さて、このパラオについては、これまでにも何度もとりあげさせていただいています。
戦前まで、パラオは日本でした。
正確にはパラオは、日本の「委任統治領」といいます。
「委任統治領」というのは、国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。
この制度は、もともとは、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配することに国際法的正当性を与えるために作られたものです。
だから、パラオは日本の植民地だった、という人がいます。
違います。
パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものであり、その日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆるものを与えました。
けれどそんなことより、もっともっと「はるかに大きなもの」を、日本はパラオに与えました。
そしてそのことを、パラオの人々は、いまも大切にしてくださっています。
それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。
パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。
日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。
昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。
当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきます。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。
こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
全員です。
そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
議場に籠って話し合い続けるのです。
そうして、みんなの意思を固める。
全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。
中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。
そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」
中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。
しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。
(俺たちのことを「土人」と言った?)
そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。
日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?
集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。
何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。
次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。
そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。
船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。
そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍は、総員48,740人です。
火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。
最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。
島はじっと沈黙したままです。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。
そのときです。
突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。
水際での戦闘は凄惨を極めました。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。
この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

オレンジビーチ10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。
けれど、日本軍には、補給が一切ありません。
食料も水もない。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。
だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。
中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、嘉賞11度、感状3度を与えられています。

中川州男大佐
明治31(1898)年1月23日生まれ
昭和19(1944)年11月24日戦死
享年47才戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。
戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。
戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。
けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。
独立したとき、パラオの人々は、独立記念の歌を作りました。
以下がその歌詞です。
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる
(注:ペ島=ペリュリュー島のこと)
二 小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧もない
三 兵士は桜を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四 日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の”桜"は散り散りに
玉砕れども勲功はとこしえに
五 今もののふの姿なく
残りし洞窟の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂守る
六 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七 どうぞ再びペリリューヘ
時なしさくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
そして、下にあるのが、独立したパラオ共和国の国旗です。
この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗なのだそうです。
パラオ共和国国旗

周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわしています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。
また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。
【ペリリュー島の戦い】
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
村人の死者、負傷者、0名
パラオについて、読者のNさんから、次のようなお便りをいただきました。
~~~~~~~~~~~
最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。
今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。
日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて
「君たちは日本人か?」
と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そのとき老人が言ったことは家内が言うに
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。
この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。
私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
~~~~~~~~~~~
このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。
海に沈むゼロ戦
旧日本軍のトロッコ跡

上の写真は、島に散ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が、当時のままに眠っている。
もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。
もうすこし、パラオのことを書きます。
パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。
スペインが植民地として支配したのです。
スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。
けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。
もともと、人口2万人くらいの島国です。
そのうちの90%が命を奪われた。
それがどういうことか、想像してみてください。
忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。
ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。
米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。
「植民地になる」ということは、そういうことなのだ。
そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。
私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。
そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。
さて、スペイン統治によって、パラオは、人口の9割が失われたパラオは、もともと、産業のある国ではありません。
スペインは、もうこれ以上パラオから収奪するものがなにもないとなったとき、わずか450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいました。
買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのだけれど、あまり効率はあがらない。
同時に、ドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。
パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。
日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦のあとに行われたパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。
けれど、これは英米の頑強な抵抗にあって、頓挫してしまいます。
代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治です。
これは、ひとつには、日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と一緒になり、植民地支配者としての収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたものであったと言われています。
ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治の委任を受けるとすぐに、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。
それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。
ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめました。
その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始した頃の、パラオの先住民の人口は、わずか6,474人です。
それが、いまやパラオは、人口20,303人(2005年)、なんと人口が3倍にも増えたのです。
当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。
中島敦といえば、「山月記」や、「李陵、弟子、名人伝」の著作で有名です。
彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人とまでいわれ、絶賛を浴びた人です。
そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂掛として現地に赴任したりしていたのです。
日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。
これには理由があります。
パラオには、パラオ語を書くための文字がなかったのです。
そして近代教育を施すため、たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。
ですから、すくなくともいったんは、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。
パラオの子供たちは、実によく勉強してくれました。
なんとパラオの子供達は、日本本土を含む、日本の支配地域の全域が参加する全日本共通テストで、総合第二位の成績を勝ち取っています。
これは、パラオで日本が、優秀な教育を施していたということの証拠であるとともに、パラオの子供達が、いかに教育を受けることを歓迎していたかがわかる逸話です。
ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。
まったくそういう都市インフラの整備事業にずっと接してこなかった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり東京タワーを作れ、といわれるのと同じで、そうそう易々とできることではありません。
では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したかというと、日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。
まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。
日本パラオに派遣した職員の数は、軍隊を除いても、なんと2万5千人です。
そして日本は、パラオにあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄いました。
そして戦後は、前々からの宣言の通り、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。
日本統治時代のコロールの街並み

ちなみにこの写真、大正から昭和初期頃に撮影されたとみられるパラオの町並みなのですが、写真の右側にハングル文字が映っているのがおわかりになりますでしょうか。
昨今の在日朝鮮人などは、日本が彼らの言語を奪ったなどとわけのわからないことを言いますが、日本人とともにパラオに来て働く彼ら朝鮮人のために、日本人はちゃんと彼らの文化を尊重したお店を作り、彼らのためのハングル文字の看板まで出しています。
短い期間でしたが、日本は委任統治を受けたパラオで、たくさんのことをしました。
学校をつくり、教育を与え、司法、行政、立法を教え、街のインフラを整備しました。
けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。
中川隊長以下、勇敢に戦い、散って行かれたみなさまに、あらためて黙祷をささげたいと思います。
※この記事は2009年6月の記事をリニューアルしたものです。

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コメント
はらさり
「土人」と怒鳴った方も怒鳴られた方もどちらも辛かった、と思います。
でも、想いが通じ合って良かった。…亡くなった日本兵達は気の毒ですが。
スペインもドイツも収奪することしか考えず、きっとパラオの民をこき使ったのでしょうね。日本や日本人は技術や教育を与えたんですねえ。良いことです。
私もいつかいつかパラオに行ってみたいです。
2019/03/16 URL 編集
takechiyo1949
何度読んでもそんな気がして…グッときます。
グアムまでしか行けませんでしたから、命がある内に何とか行きたい場所です。
無理かな(汗)
2019/03/15 URL 編集
吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/7313
今月2日、私はJohn Blau Skebong氏を
パラオ共和国の前の首都で、最大の町であるコロールのご自宅でお目にかかりました。
この人は1979年、パラオの国旗が公募されたとき、これに応じて当選し、それが現在の国旗になったその発案者です。
(中略)
私「体調が芳しくないというのにご無理を言って申し訳ございません。日本ではパラオの国旗に諸説があって混乱していますので」
S「どういう混乱かな?」
私「①パラオの国旗は日本の日の丸を真似したという説、
②日の丸の太陽に遠慮して、照らされて輝く月にした、
③日の丸が旗面の中心であることに遠慮してすらした」
S「全部違うね。私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない。日本は日本、パラオはパラオだ。あなたはパラオの満月を知っているか?」」
私「あいにく、今回はほとんど月の出ない時期で・・・」
S「それはいかん。いや、気の毒じゃ。今度は是非、満月のときにいらっしゃい。それはそれは感動的な夜景だよ」
私「はい。国立博物館で満月の夜、みんなが踊る大きな油絵を拝見しました。月が文化や生活の中心になってきたことを感じさせるものでした。是非、またトライしたいと思います」
> そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
> 日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
> これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
発案者がはっきりと否定しています。
2015/04/09 URL 編集
雪
私も以前パラオで海に沈むゼロ戦を見たことがあります。
初めてゼロ戦を見たのですが、思ったよりも小さい飛行機なのですね。
同行した友人が「これじゃ、勝てない…」と小さな声で呟いたのを覚えています(優秀な飛行機だと聞いていますが、友人は知らなかったようで)
船上から長く見つめているうちに、なんとも言えない気持ちになりました。
どう表現したらよいのか分かりませんが、周囲の海が余りにも青く、美しい島々に囲まれたその場所だけ時間が止まっているような、そんな気持ちです。
今回、天皇皇后両陛下がパラオを訪問されるというニュースを聞いて、何故か安堵と感謝という言葉が浮かびました。
パラオ御訪問に批判的な方々もいるようですが、あきつしまに乗船されて英霊をお迎えするお役目は、やはり両陛下以外には考えられません。
一日も早く体調を御回復されて、パラオ訪問がすばらしいものとなりますように祈っております。
2015/04/05 URL 編集
そま
軽薄をひたすら助長し思考力を原爆被害なみに壊滅させ
疑問のよってくるところからその両眼両耳を遮断せしめ
あてどなき白昼夢に埋没させる
意力を奪い気力を阻喪させもっぱらの如く平和民主差別と
たばかり続けて煙に巻く
まだ年若い者に、柔らかで純粋なその心を弄び篭絡する
ペリリューの国歌は我々日本人にとって
この上もないギフトである
先人はそれに値する事績をなしとげた
2015/04/04 URL 編集
やまとどくだみ
2015/04/02 URL 編集
うめ
なぜ欧米が支配するとその国が発展できなくなるのか、なぜ日本が統治するとその国が発展するのかよくわかります。
そしてそれはまさに古事記に書かれている、産業を起こしてみんなで力を合わせて国を発展させましょうということを、実践しているんだと思います。
2015/04/02 URL 編集
にこちゃん
昭和天皇も行きたかっただろうな…。
最近、昭和天皇の事を考える時に、ニコニコ笑いながら小さくて可愛らしい天使の子供達と手を繋いで空を飛んでいる昭和天皇が頭に浮かびます。
もちろん私の妄想なんですが、あの世が有るのなら、心穏やかに過ごしていると良いなって思っています。敬語じゃなくてすみません。
2015/04/01 URL 編集
だいごろう
ペリリュー神社にはミニッツ提督の言葉が刻まれた石碑が建てられているそうです。
その言葉とは「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
マスコミは特定アジアの主張ばかり取り上げず、親日的な国のことを素直に伝えて欲しいと思います。
2015/04/01 URL 編集
愛知のおばさん
武器も水も食糧もない環境で、祖国の家族を思って命を失うことを前提に戦う日本人、世界が驚愕する訳です。
これを知って、戦争はいけない、命を大切に、なんて「薄っぺらい」思想が出てくるとしたら、私はその人を相当頭がおかしいと思います。
だって、この人達がこの行動をしてくれたから今の私達がいる、のです。
だからまず感謝しよう、そして二度とこんなことが起きないようにしよう、少なくとも私はそう思います。
最近五月人形を見に行って、この平和な時代に鎧兜なんて…というお客様がいらっしゃるのですよ~というお話を聴いて、仰天したばかりです。
詳しい人に聞いたところ全国で耳にするお話のようで、特定思想の人達が吹聴しているようです。
先人が命を懸けて守ってきた伝統と文化を壊す為に、日々活動する人達を身近に感じた出来事でした。
2015/03/31 URL 編集
寺島 孝
凄い言葉だと思います。 こんな凄い言葉ってない、と。
言った人、どんな思いだったろう。 そしてその思いを知った時、聴いた人はどんな思いだったろう。
胸が熱くなるのを抑えきれないのは、読んだ人みんなだろう。
この話はどうしてもまた友人・知人に拡散する気持ちを抑えられない。
2015/03/31 URL 編集
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朝から胸がいっぱいになり、涙があふれます
なんと崇高な帝国陸海軍の軍人の方々、自己犠牲を厭わない祖国愛と隣人愛
わが身を振り返ると余りの差におののきます
日本人に生まれた喜びと誇り、先人が示された矜持と慎みをもってこれからの日々を大切に過ごしたいと存じます
2015/03/31 URL 編集
敦子
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【ものすごく緊急の情報拡散と協力のお願い】その52
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味蕾 様 Twitter H24.7.15 [加筆済み]
日本人女子高生コンクリート詰め殺人犯の両親は、通名使用帰化在日韓国人であり日本共産党員だった。それがバレたらすぐに、日本共産党は、両親を除名処分した。しかも、日本共産党は、『赤旗新聞』でその事実を認めながらも、日本人被害者遺族に対し全く謝罪してない。それどころか、「日本共産党には全く関係ありませんよ! 文句はその一家に言いなさい」と堂々としてた。
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抗議先[葉書、FAX、メール、テンプレ、ツィート、電話などなど]
日本共産党関係
151-8586渋谷区千駄ヶ谷4-26-7日本共産党中央委員会F03 5474 8358
韓国人、共産シナ朝鮮族および共産シナ人の日本国への定住・永久・特別永住・帰化を全面禁止および剥奪することの関係
100-8962千代田区永田町2-1-1-420参議院外交防衛委員長片山さつき
100-8977千代田区霞が関1-1-1
法務大臣上川陽子F03 3592 7009
法務大臣政務官大塚拓F03 3592 7009
法務事務次官稲田伸夫F03 3592 7009
公安・警察関係
100-0013千代田区霞が関1-1-1公安調査庁長官
100-8974千代田区霞が関2-1-2
国家公安委員長 兼 海洋政策・領土問題担当大臣 山谷えり子
警察庁長官
100-8929千代田区霞が関2-1-1警視総監
その他要求先
100-0014千代田区永田町2-3-1首相安倍晋三F03 3581 3883・3581 9351・5510 0654
100-8910千代田区永田町1-11-23
自民党幹事長谷垣禎一F03 5511 8855
自民党政調会長稲田朋美F03 5511 8855
自民党青年局長木原稔F03 5511 8855
自民党全員
和田政宗など次世代の党全員
【抗議葉書52円もお願いします。】
荒川区フラウエン
2015/03/31 URL 編集
柏木
2015/03/31 URL 編集
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現在の政府専用機はB747で、モデルにもよりますが2,100mでは離着陸ギリギリか不可能です。ギリギリにしても国家元首にそのような危険を負わせる訳には行きません。
2015/03/31 URL 編集
大阪市民
パラオの激戦地で戦死された日本の軍人の方達の御冥福をお祈り申し上げます。
日本の為に、パラオの人達を守る為に
戦って下さって本当にありがとうございます。どうか、まだ現地に英霊がおられますならば、天皇陛下、皇后陛下の御導きのまま日本国に帰国されまように、お祈り申し上げます。
2015/03/31 URL 編集
junn
この故にまた、悠久に国家が永続して行く為の命と活力のエネルギー源は、祖先を尊崇し、祖先が遺した伝統や慣習を畏れを以って保守して行く子孫たちの、いわゆる「保守主義の精神」にしかない。
すなわち我々国民が、「世襲の義務」である「祖先を畏れる精神」「伝統・慣習を保守する精神」を仮に失うとすれば、国家は生命源を涸渇させて行くから、最後には亡国の淵に立つ。
国家とは過去の祖先と、未来の子孫と、現在の国民とが、同一の歴史と伝統とを共有する精神の共同社会であるから、国家が魂を再生して永遠に存続するには、過去と未来と現在の国民とが、いつもパートナーシップの絆で結ばれていなくてはならない。
憲法とは浅薄な人間の智力で、国家を「設計する」が如くに作るものではない。如何なる天才の何十倍・何百倍も賢明な祖先の叡智の中に「発見する」ものであると考える英国や米国の憲法思想を以って、「正しい憲法」、すなわち「正統の憲法」というのである。
またその憲法によって、国民の自由が擁護されるだけでなく、人格の道徳的・倫理的向上が図られるのを「正統の憲法」というのである。
英国と米国の憲法は、自由を抑圧し人格の低級化・動物化をもたらすフランス革命とそれを起こしたルソーらの啓蒙哲学の影響を回避したが故に、「革命のドグマ(教理)」というべき革命フランス系の「偽りの憲法」もしくは「異端の憲法」とは対極的な、正しい憲法原理を堅持する事に成功したのである。
すなわち、英米系の憲法は自由の擁護に欠く事の出来ない、「法の支配」や「立憲主義」を憲法原理とする。
が一方、フランスの革命憲法は逆に、「立憲主義の破壊」を積極的に目的とし実践した。
また「法の支配」を全く知らなかっただけでなく、「法」の支配する政治でなく、「無制限の権力を持つ者(独裁者)」の支配する政治を考案した。
自由は「法の支配」なくしては棲息出来ないから、フランス革命憲法の下で、国民の自由(生命)が侵害されて、人々がギロチンその他で虐殺されたのは当然であった。
中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』(中公公論新社、2001年)
2015/03/31 URL 編集