1941年12月、開戦直後の閣議で、この戦争の名を「大東亜戦争」とすることを決めた。
「東亜新秩序の建設を目的とする」という理由からだった。
その新秩序の中身は、大戦中の1943年11月の「大東亜宣言」に盛り込まれている。
「アメリカやイギリスは、自国の繁栄のためには、他国や他民族を押さえつけ、特にアジア諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、アジアの人々を隷属化する野望をむき出しにし、ついにはアジア諸国の安定を根底から覆そうとしている」
「そこでアジア各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放し、その自存自衛をまっとうする」(現代語訳)
この宣言は、日本軍が米英軍を駆逐して独立したフィリピンやビルマ(ミャンマー)などの首脳が東京で一堂に会した史上初のアジア・サミット「大東亜会議」で採択された。
宣言は、大戦の原因が米英による「飽くなき侵略と搾取」が大戦の原因だと指摘し、人種差別の撤廃など5原則を掲げた。
そして、大東亜戦争の目的は、欧米による植民地支配からのアジア各国の解放にあることを明確にうたった。
※ この「大東亜共同宣言」、その全文を紹介している本は、いま、ほとんどありません。「大東亜共同宣言」は、意思をもって歴史から抹殺されているかのようです。
ちなみにこの「大東亜共同宣言」が発せられたのが昭和18(1943)年11月6日のことですが、この宣言が世界に向けて発せられたとき、まさに世界中の欧米の圧政下に苦しむ諸国が大歓喜をしています。
ところがこのことは、国内に黒人層を抱える米国にとってはたいへんな問題でした。
そこで危機感を抱いたルーズベルトは、その同じ月の22日にエジプトのカイロに、チャーチルと蒋介石を招き、12月1日には早々と「カイロ宣言」を発しています。
このカイロ宣言には、「三大同盟国(米英中)は、日本国の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつまるものなり。右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものにあらず。また領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」と記載されていますが、歴史を知る私達からすれば、まさにこれは盗人の理屈でしかないことは、すぐにおわかりいただけるものと思います。***************
史上初の有色人種のサミット
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日本が主導した大東亜会議に参加したのは、白人国家の植民地主義に苦しんできた、
中国国民政府(汪兆銘行政院長)
満州国(張景恵首相)
フィリピン(ラウレル大統領)
ビルマ(バー・モウ首相)
タイ(ワンワイタヤーコーン親王)
インド(自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース)もオブザーバーとして加わった。
基本的に、日本がイギリスやフランスなど旧宗主国を追い払った後に独立した各国の首脳が集まったものだ。
この会議の発案は、1943年4月に外相に就任した重光葵。同氏はその狙いについて、こう語っている。
「日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現が即ち戦争目的であり、この目的を達成することを持って日本は完全に満足する」
大東亜宣言は、アメリカとイギリスが発表した「太平洋憲章」に対抗する意味もあった。
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は1941年8月、民族自決の原則をうたったこの憲章に署名した。
しかしルーズベルトもチャーチルも民族自決はアジア・アフリカには適用されないと考えていた。
重光外相はこの矛盾を突いたのだった。
重光外相は、「アジア解放の方針で東南アジア全部に向かわなければならない」と昭和天皇や東條英機首相らを説得し、開催にこぎつけた。
有色人種だけで一堂に会した首脳会議は歴史上初めてだった。
※この「有色人種だけで一堂に会した首脳会議は歴史上初めて」であったことがきっかけとなり、ASEANが誕生しています。
ですから、ASEANの旗は日の丸がモチーフです。
このASEANの会議に呼ばれた韓国の代表が、諸国の代表を前に「我々は日本に侵略され云々」とやったとき、ASEAN諸国から、筋違いだと発言を拒否されたのは最近の出来事です。***************
欧米によるアジアでの「飽くなき搾取」
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大東亜宣言にある、欧米によるアジアでの「飽くなき侵略と搾取」「アジアの人々の隷属化」は、世界の多くの人々からはもう忘れ去られているが、筆舌に尽くしがたいものがあった。
イギリスは、インドの綿織物を本国に輸入して利益を得ていたが、産業革命でイギリスの綿製品生産が盛んになると、今度はイギリス製品をインドに輸出し始めた。
それは、インド製には関税をかけ、イギリス製には免税するという強制的なもの。
インド人の職人の手を切断するという凄惨なことまでやって、インドの紡績業を壊滅に追いやった。
イギリスは、清国から紅茶と陶磁器を輸入していたが、清国側はイギリスから買う物品がほとんどなかったという。
これではイギリスが常に貿易赤字になってしまうので、インドにケシ栽培を強制し、麻薬の一種のアヘンを清国に売りつけることにした。
清国中に麻薬中毒者が広がる一方、アヘン取り締まりも始まり、イギリスと利害が衝突。
1840年のアヘン戦争へと発展した。
オランダは、インドネシアでコーヒーや砂糖など欧州向けの作物の栽培を強制したため、インドネシア人が食べるための水田や畑が減少。
ジャワ島では人口が3分の1になる町も出るほどだった。
先住民を支配しやいよう、教育を行わず、文盲のまま放置。
そのため識字率は数%にとどまった。
300以上の各種族の言語をそのまま使わせ、インドネシアとしての統一意識を持てないようにした。
独立王国のハワイ・カメハメハ王朝を武力で滅ぼしたアメリカは同じ年の1898年、スペインとの戦争(米西戦争)を始めた。
その際、フィリピン人の独立革命家たちにフィリピン独立をいったん約束し、米軍への協力を取り付けた。
ところが、米軍と革命軍がスペイン軍を打ち倒すと、約束を覆し、フィリピンを併合してしまった。
その後の革命軍による抵抗戦争(米比戦争)は1913年まで続き、フィリピンの民間人60万人以上が虐殺されたという。
大東亜戦争は、まさにこうした「アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放」するための戦いだった。
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「善政」だった朝鮮・台湾統治
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一方、「日本も朝鮮半島や台湾を支配し、搾取したではないか」という見方がある。
しかし実態はその逆で、朝鮮と台湾では、日本から多額の政府資金を持ち出され、衛生や教育、産業のインフラに投資され、急速に「近代化」が図られた。
朝鮮総督府の歳入の10~20%は日本政府からの補助金。
これでは「搾取」のしようがない。
その資金で、まずは病院を建てるなどして劣悪な衛生環境を改善。
伝染病を根絶し、乳児死亡率を大幅に低下させた。
教育制度も全域に普及させ、李氏朝鮮の1400年代に創られていたハングルを復活。
「朝鮮の二宮金次郎の大量輩出」の目標を掲げた。
1910年の併合時に公立小学校に通う生徒は約2万人だったのが、1937年には約900万人にもなった。
加えて、京城帝大を大阪・名古屋帝大に先駆けて設立するなど高等教育も重視した。
コメの生産量を倍増させるなど食糧事情も改善し、朝鮮の人口は併合前の980万人から2400万人へと倍増。
1910年の併合時は「日本の源平時代のようだ」と言われた貧困状態を30数年で克服した。
台湾でも同じように医療・衛生、教育、産業のインフラが整備された。
初等教育の就学率は1944年には71%になり、アジアでは日本の内地に次ぐ高い水準となった。
まともな教育を与えなかった欧米の植民地とは正反対だ。
日本による統治が始まった1895年と終戦前の1943年を比べると、台湾の平均寿命は約30歳から約60歳へと伸び、人口も約260万人から約660万人に急増した。
「飽くなき侵略と搾取」「アジアの人々の隷属化」によって、虐殺されたり、産業や生活が破壊されたりした欧米支配の植民地とは、まったく正反対の「善政」だったことが分かる。
そもそも当時の日本は、イギリスがウェールズ、スコットランド、アイルランドで構成されるのと同様、朝鮮、台湾とでつくった「合邦国家」だった。
当時こうした国家は珍しくなく、第一次大戦後に崩壊したオーストリア・ハンガリー帝国や、1992年まであったチェコスロバキアもそうだった。
合邦ならば、「植民地支配をして、搾取した」という議論自体、的外れだ。
※日本が韓国や台湾、満州の民度の向上とそのためにインフラ整備のためにたいへんなヒト・モノ・カネを投じたことがここで述べられていますが、では日本国内はどうだったのかというと、日本は、日本の国政の中核を担う国会議事堂さえも、その間、ずっと仮庁舎のままでした。
国会議事堂の建設は、大正9(1920)年です。
けれど歓声は昭和11(1936)年なのです。
竣工までにまる16年もかかっているのです。
自分のところのことより、まわりの人たちを気遣う。
これが日本のやり方です。
それを欧米の植民支配と収奪と「同じもの」としか思えないなら、それは人非人というべきです。
吉川英治の『新・平家物語』に、「恩を知るをもって人とは言うぞ」という有名な言葉があります。
恩を知るから人間なのです。
恩知らずは、人の皮をかぶったケダモノだ私は思います。***************
日本は戦争目的において「勝った」
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さて、大東亜戦争の目的は、欧米植民地からのアジア各国の解放だったわけだが、その結果はどうだったのか。
第二次大戦前までに独立を保っていたのは、アジアでは実質的に日本だけだった。
1800年代後半までさかのぼれば、東アジアで植民地獲得競争を展開していた欧米(米英独仏蘭露)に対し、日本はひとり立ち上がって反転攻勢をかけ、1904年、日露戦争を戦った。
その後、中国大陸の権益をめぐってアメリカと対立。
アメリカは他の欧米諸国と共に日本を経済封鎖するに至って、日本はやむなく米英などとの大東亜戦争に踏み切った。
大東亜戦争の後、世界は一変した。
戦前の独立国は世界で50カ国程度だったが、戦後、アジア・アフリカで植民地からの独立が相次いだ。
独立国は1960年前後には100カ国を越え、現在は約190カ国になった。
多くが欧米植民地の「束縛から解放」されたものだ。
あまり知られていないが、日本軍はアフリカ大陸の西にあるマダガスカル島で、イギリス軍および南アフリカ軍と戦っているので、日本がアフリカ人に与えた衝撃は大きかった。
南アフリカ政府は、日本がアフリカまで攻めて来たことで、アパルトヘイト(人種隔離政策)をその時点でやめなければならないと真剣に考えたほどだという。
19世紀の戦略論の大家クラウゼヴィッツは、「戦争の勝敗は戦争目的を達成したかどうかで決まる」と定義した。日米戦争の発端は中国大陸での権益をめぐる日本との対立だったが、戦後、共産中国が成立し、アメリカの権益はいったんゼロになった。
イギリスはインドやマレーシアなど世界中の植民地をすべて失い、当時の首相チャーチルは「無用の戦争だった」と嘆いた。
その結果、戦後の1960年代から90年代にかけて、韓国や台湾、東南アジアなどが奇跡的な経済成長を遂げた。
さらには、先進国と新興国のGDPが逆転しつつある近年の「東西逆転」にもつながっている。
日本が欧米と戦ったために、中国も国土を切り売りしていた植民地状態から脱し、現在の“繁栄"を築くことができている。
インドもイギリスからの独立を果たし、人口12億人の繁栄がある。
こうした戦後世界の大きな変化からすれば、日本は、アメリカとの戦闘では負けたが、「植民地支配からの解放」という戦争目的においては「勝った」と言える。
※文中にある「韓国や台湾、東南アジアなどの奇跡的な経済成長」も、実は戦後の日本の影響によります。
プラザ合意によって、1ドル360円の固定相場が崩れたとき、日本の輸出産業は大打撃を受けました。
そして韓国を含む東南アジア諸国に、その生産拠点をシフトしていったのです。
これが起爆剤となって、独立後極貧状態にあった東南アジア諸国は、経済の成長を開始しています。***************
アメリカを独立へと導いた教育と言論
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アメリカも植民地支配から独立した国だった。
アメリカが独立戦争に踏み切ったきっかけは、イギリスが戦費調達のため北米植民地に次々と税金をかけたことにある。
植民地の人たちは1775年、「代表を送れないイギリス本国の議会に押し付けられた税金は無効だ」と立ち上がった。
ボストン港の東インド会社の船を襲撃、港が捨てられた紅茶で染まった(ボストン茶会事件)。
イギリスはこれに怒り、ボストンのあるマサチューセッツ州の自治権を奪い、軍隊を送り込んだ。
そうして独立戦争が始まった。
植民地とはいえ、その頃の北米の人たちは、「自分たちの責任で自分たちの“国"を発展させていきたい」という意識が高まっていた。
最初の入植の1607年から約10年後には、植民地議会が開設された。
1千人規模の移民が初めて入植した1630年の6年後、今でも最高峰のハーバード大学を設立。
荒野を開墾するなかで政治家や聖職者など新しい指導者の養成を優先させた。
入植者にはイギリスの知識層も多く、1640年ごろには出版業を立ち上げ、1704年には本国から発禁がかかる圧力のなか本格的な新聞を出すようになった。こうした環境で「自分の国」という意識が生まれ、独立への機運が高まっていた。
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「自由の創設」としてのアメリカ独立
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20世紀の政治哲学者ハンナ・アーレントは、『革命について』で、こう述べている。
「革命とは自由の創設のことであり、自由が姿を現すことのできる空間を保障する政治体の創設のことである」
ここで言う「自由」とは、公的幸福の追求のことを指しており、公的幸福とは政治に参加する権利のことを言う。
アーレントは、自分たちの国をどう素晴らしいものにしていくかを自由に議論し、決定し、行動するなかに人間としての幸福があると考えた。
「自分たちの国の運命を自分たちで決めることができる自由」と言いかえてもいい。
そして、その民主主義の理想をアメリカ独立革命に見出した。
その理想の原型は、市民が政治に参加し公開で討論していた古代ギリシャの民主主義。
公的空間に自由な議論の場を創り出すことが「自由の創設」の意味だった。
アメリカ独立戦争では当初、植民地内の意見が割れていた。
独立派、英国王派、中立派に分かれていたが、文筆家のトマス・ペインが小冊子『コモン・センス』を書き、「イギリスは北米の繁栄に寄与していない。
独立しか解決策はない」と訴えた。世論が大きく動き、「独立宣言」へとつながった。
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人間は一人ひとりが「この時代に生きた証を遺したい」存在
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アーレントは、人間が政治参加し、自由に議論し、自分たちの国の運命を自分たちで決めることが幸福であると考えたのか。
主著『人間の条件』でこう述べている。
「人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」
人間は一人ひとりが独自の個性を持った存在であるからこそ、政治や言論などの「活動」に参加することによって、その人としての“新しいユニークなもの"がこの世に付け加えられるという考え方だ。
(中略)
独立戦争を指揮したワシントンや独立宣言を起草したジェファーソンらアメリカ革命の指導者は、歴史上、「その時代に生きた証」を遺した代表的な人たちだ。
アメリカ建国時の「自由の創設」の理念を、白人だけではなく黒人にも広げたリンカン大統領も、間違いなくそうだろう。
南北戦争当時、南部の人口は約900万人おり、そのうちの約400万人が黒人奴隷だった。
リンカンはアメリカ国内の奴隷の存在が神の名の下において許されないとして、双方60万人以上の犠牲を出しながら北軍の勝利に導いた。
リンカン大統領は戦争中のゲティスバーグの演説を、以下の有名な一節で締めくくった。
「(我々の任務は)人民の、人民による、人民のための政府を地上から消え去らせてはならない(governmentofthepeople,bythepeople,forthepeople,shallnotperishfromtheearth)と決意することなのです」
この言葉に込めたリンカンの思いは、「アメリカ建国の父たちが自由を創設し、国民が政治参加し、公的幸福を築いてきた公共領域を守らなければならない」というものだったと想像できる。
黒人奴隷の解放は、この大きな目的の一部であったと言っていいだろう。
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「自由の創設」としての明治維新
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アメリカ独立やリンカンによる奴隷解放の精神が、実は日本の明治維新に大きな影響を与えている。
明治政府をつくった維新の志士たちは、ワシントンやリンカンの思想や行動を強く意識し、士農工商の身分をなくし、四民平等の社会を築いた。アメリカの南部諸州で黒人への社会的・法律的差別が取り払われたのが1960年代であることを考えれば、日本はアメリカに100年先んじていた。
明治政府の基本方針は、1868年(明治元年)の「五箇条の御誓文」に示されている。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(広く会議〔あるいは議会という解釈〕を開き、重要事項は開かれた議論によって決定されるべきである)
「上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし」(身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国の政策を遂行すべきである)
この中に政治参加の思想が一部盛り込まれている。
江戸時代はすべての人が「生まれ」によって、その人生が決まってしまっていたわけだが、武士という特権階級がなくなり、政治参加の道が開かれていった。
※ ちょっと誤解があるようなので付け加えますと、江戸時代の日本は必ずしも「生まれによって、その人生が決まってしまっていた」わけではありません。
「江戸時代には士農工商という身分制度があった」という解釈は、現在では左巻きの歴史学会においても否定されていて、いまでは、
「「江戸時代には士農工商という職業区分があった」と書きなおされています。
世襲のことが議論されますが、いまでも親が家具屋なら、息子も娘も家具屋の跡継ぎです。
なかには娘が株主総会で父親を追い出して社長に就任した会社も最近ありましたが、家具屋の娘が家具屋になったからといって、それが現代社会の身分制度になっているわけではありません。***************
「自由の創設」としての大正デモクラシー
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自由民権運動が高まり、1881年(明治14年)には「国会開設の詔」が出され、1889年(明治22年)には明治憲法が公布された。
翌年、帝国議会が発足し、アジアで初めて議会制民主主義の国家となった。
国会開設から20年後には、政党が藩閥や軍を抑えて主導権を握り、戦後とほぼ同じレベルの民主政治「大正デモクラシー」を実現した。
1918年には初めての政党内閣として原敬内閣が成立。
その後、護憲三派内閣を経て、1925年から32年まで政友会と民政党が交代で政権を担う二大政党制となり、政党政治の黄金期を迎えた。
武士という支配階級が決まっていた江戸時代からわずか数十年で、庶民が努力・才能によって道を開き、政治にも参画できる社会をつくり上げた。
つまり、白人が有色人種を支配する世界の中で、日本人は自分たちの政府(公的領域)をつくり、自分たちの運命を自分たちで決めることができる政治体制を築いたのだ。
(その意味で、中国やアメリカなどが「先の戦争はファシズムの日本との戦争だった」と言うのは明らかに間違いだ。
日本は大正デモクラシーの後、一度も議会の機能が止まったことはなかったし、戦時中でも「反軍演説」が堂々と行われていた。
つまり、異論を封じるファシズム体制ではなかった。
権力が一点に集中していたヒットラーのナチス・ドイツやムッソリーニのイタリア、スターリンのソ連などのファシズムとはまったく異なるものだった)
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世界に人種差別廃止を求めた日本
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さらに付け加えれば、日本人は、「白人に支配されず、自分たちのことは自分たちで決められる政治体制」を世界に広げようとした。
第一次大戦後、1919年のパリ講和会議で国際連盟規約を話し合う委員会で、日本は規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」という表現を盛り込むよう提案した。国際会議で人種差別の撤廃を明確に主張したのは日本が初めてだという。
ところが、委員会の議長を務めるウィルソン米大統領が提案を取り下げるよう主張。
これに対し日本は採決を要求した。それが通って投票が行われ、フランスやイタリア、中華民国などの代表11人が賛成。イギリスやアメリカなどの代表5人が反対した。人種差別撤廃が圧倒的多数。ところがウィルソンが「全会一致でないため、提案は不成立である」と宣言し、葬り去ってしまった。
パリ講和会議では、人種差別をめぐって日本とアメリカが真っ向から対立した。この図式はその後も続き、先の大東亜戦争で軍事的に雌雄を決することとなったのだった。
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「インドネシア人と日本人は兄弟」
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このようにアメリカ建国の「自由の創設」の理念は、リンカンの独立戦争や日本の明治維新とその後の議会開設などに大きな影響を与えた。
アメリカ人なら当然、国が独立することの意義や建国の理念をよく理解できるはずだ。
しかし、「日本は先の戦争で、アジア各国が“自分たちの責任で自分たちの国を発展させる"ことを目指した」と言ったら、それを理解できる人はそう多くない。
1941年の開戦後、日本軍はイギリス領のマレー(マレーシア)やシンガポール、ビルマ、オランダ領東インド(インドネシア)、アメリカ領フィリピンを半年ほどで陥落させた。東條英機首相は、マレーシアは防衛拠点として確保しつつ、フィリピンとビルマは独立を認めると表明した。
ただ、最終的にすべての日本軍の占領地で独立を目指したことは、インドネシアでオランダ軍を駆逐した第16軍司令官・今村均中将の言葉にも表われている。
今村司令官は、オランダ軍との戦いのさなか、差し入れなどをしてくれたインドネシア人にこう語ったという。
「我々日本民族の祖先の中には、こっちの島から船で日本へ渡ってきたものがいる。君たちと日本人は兄弟なのだ。我々は、君たちの自由が戻るようにするために、オランダ人と戦うのだ」
今村司令官は軍政を敷いて初めて発した布告にも、その精神がうたわれている。
「一、日本人とインドネシア人は同祖同族である。
一、日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする。
一、同一家族・同胞主義に則って軍政を実施する」
日本が各占領地で目指したものは、現地の人たちを奴隷扱いし、ひたすら搾取した欧米の植民地とはまったく異なるものだった。
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東南アジアで日本軍政で青少年の教育を最優先した
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日本はそれぞれの地で軍政を敷き、独立に向けての準備を始めた。
最優先で取り組んだのは青少年の教育だった。
独立国家に軍隊がないと困るので、若者に軍事訓練を行い、独立軍を組織した。
インドネシアでは「祖国防衛義勇隊(PETA)」を設立し、これが国軍の母胎となった。ビルマでは戦前から独立派を国外で訓練し、開戦後は「ビルマ独立義勇隊」としてイギリス軍と戦った。
イギリスの植民地インドについては、独立運動の指導者チャンドラ・ボースの「自由インド仮政府」を全面支援した。英軍のインド人兵を投降させるなどして「インド国民軍」を組織した。
欧米の植民地では、宗主国が現地の人たちに軍事訓練を施すなどということは一切なかったし、武器を渡すこと自体あり得なかった。
その意味で、日本は現地の人たちを信頼し、一緒になって「独立」を実現しようとした。
次に注力したのが、政治指導者や行政官の養成だった。
官吏学校、農工業学校、商船学校、師範学校などを各地で設立。
インドネシアでの軍政を担当した原田熊吉司令官は、
「明治維新政府の軍隊は3万5千人だった。独立インドネシアの軍隊も3万5千人とし、それを含めて10万人のエリートをさっそく養成するよう努めよ」と命じ、3年余りでそれをやり遂げた。
政治参加は植民地下ではあり得なかった。
オランダ占領下のインドネシアでは、一切の集会や3人以上での立ち話まで「反乱罪」として禁止されていた。
日本軍政下では一転して政治参加が認められ、議会が開設された。
そのうえで国民教育にも力を入れた。
それぞれの植民地では、宗主国の言語によって教育されていたが、日本の軍政では現地語による教育を行った。
インドネシアでオランダが教育を行わず、現地人を文盲のまま放置したり、300以上の種族語を使わせ、統一の標準語を許さなかったことは先に述べた通りだ。
そのため、現地の人たちには「インドネシア人」という意識が育たなかった。これに対し、日本統治下では、言語をインドネシア語に統一し、インドネシア人としての国民意識が育つよう導いた。
ただ、こうした独立への準備にかかわらず、現地の指導者からは「なぜすぐに独立させないのか」と反発も大きかった。
しかし国の指導者がすぐに育つわけではない。
アメリカが170年かかった独立を、日本は東南アジア各国で、結果的にわずか数年でもたらしたのだから、世界史上の奇跡ではないだろうか。
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日本は「自分たちの祖国を自分たちの国にしよう」という心を目覚めさせた
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日本が敗戦した後、イギリスやオランダ、フランスは、植民地支配を続けようと、日本から追い出された植民地に再び軍を送り込んできた。
しかし現地には日本軍が教育した独立軍や政治指導者が育っており、「自分たちの責任で自分たちの国を発展させることができるはずだ」という自信も生まれていた。
戦時中、マレーから日本の陸軍士官学校に留学し、戦後に上下院議員として活躍したラジャー・ダト・ノンチック氏は、マレーシア人にとっての大東亜戦争の意義についてこう語っている。
「私たちアジアの多くの国は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、長い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に感動と自信とを与えてくれました。長い間眠っていた“自分たちの祖国を自分たちの国にしよう"という心を目覚めさせてくれたのです」
マレーシアは戦後、再びイギリスの植民地とされたが、独立を求める国民の声と行動を押しとどめることはできず、1957年、マレーシアは独立を果たした。
敵として戦ったイギリスのマウントバッテン東南アジア連合軍司令官らは、日本軍政を高く評価している。
欧米の植民地化では独立の意志も能力もないと思われていた植民地の人々を、短期間に組織的な訓練を行い、愛国心を育て、軍事力も行政能力も見違えるように変貌させた、と報告書で書いたという。
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独立をもたらした「自由な言論空間」
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戦時中なので日本統治下では言論の自由は制限されていたが、トマス・ペインの『コモン・センス』のような「公的空間の自由な議論の場」は存在し、それぞれの国民の心に火を点けた。
1943年5月、東條首相がフィリピンを訪れ、マニラ市内で数万人の聴衆を前に演説し、改めて独立を約束した。
その年の10月にフィリピンは独立。日本の軍政下でフィリピン憲法が制定されたが、そこには「1年以内に普通選挙を実施し、60年以内に新憲法の起草および採択のための会議を開催する」と盛り込まれている。
アメリカ軍政下で決まったマッカーサー憲法にはこんな規定はなかったが、日本軍は「フィリピン憲法はフィリピン国民が自分たちで議論して決め、自分たちの責任で国づくりをしていくべきだ」ということを十分理解していた。
インドネシアでも「自由な議論」は存在した。日本はインドネシアに対し1945年9月の独立を承認していたが、その前に日本が敗戦。すかさず独立運動の指導者で後の初代大統領のスカルノが独立宣言を行った。
その時点で日本軍がまだ治安を担っており、街頭での演説や集会を抑え込むこともできたが、スカルノらにジャカルタ市内の広場で演説することをあえて許した。
「国民全員が命を賭けて独立を勝ち取ろう」というスカルノの呼びかけに、インドネシア人はオランダ軍との4年間にわたる戦争に立ち上がり、独立を勝ち取った。
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チャドラ・ボースの演説がインド独立の発火点
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インド独立をもたらしたのも「自由な言論空間」だったと言える。
インド独立派の志士チャンドラ・ボースは、インドの解放・独立も同時に目指した日本軍、インド国民軍が共に戦った1944年3月からのインパール作戦で、インド国民にラジオでこう演説した。
「外国侵略軍(イギリス軍)をインドから放逐しない限り、インド民衆に自由はなく、アジアの自由と安全はなく、またアメリカ、イギリスの帝国主義戦争の収束もなし」
全軍総崩れになって撤退せざるを得なくなる直前にも、インド人群衆を前に決意を促した。
「我々に残されたただ一つの願いとは、インドを生かすために死ぬということである。殉教者として死ぬことによってのみ、独立への道は開かれる。血のみが独立への代償となりうる。我に血を与えよ。諸君に独立を約束する」
ボースの叫びが発火点となってインド国内の独立運動が爆発した。
終戦後、イギリス軍がインド国民軍の指揮官3人を「反逆罪」で軍事裁判にかけた。
しかしインド国民は指揮官らを「独立戦争の英雄」と見ていた。
連日、デモや焼き討ちが起きた。
イギリスはもはや収拾できなくなった。
1947年8月15日、200年におよぶイギリス支配の鎖を解き、インドは独立した。
フィリピンやインドネシア、インドではまさに、アーレントが言うような、「自分たちの国をどう素晴らしいものにしていくかを自由に議論し、決定し、行動する」という公的幸福がほぼ実現していたと言える。
アーレントは大東亜戦争について何も語っていないが、しっかり研究したら、「日本は東南アジアやインドで『自由の創設』をした。それが戦後100カ国以上に広がった」と言うのではないだろうか。
さらに言えば、アーレントは明治維新にも言及したことはないが、もし研究していたら、明治維新とその後の民主主義もアメリカ革命と並ぶ「自由の創設」と評価しただろう。
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日本は、アジア独立の英雄たちの「母」
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ビルマの独立運動家バー・モウは著書でこう書いている。
「日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた(中略)日本ほど誤解を受けている国はない」
実際、イギリス軍やオランダ軍などが行ったBC級戦犯の裁判で、無実の罪やまともな弁明ができないなかで処刑された日本軍人は多い。
先に触れた、インドネシア軍政に携わった原田熊吉司令官も戦後、死刑となった。
アジア諸国が独立を勝ち取ったのはもちろん、それぞれの国に独立戦争の英雄たちがいたからだ。
日本が何も「独立させてやった」などと言う必要はない。
ただ、そうした英雄たちを育み、助け、勇気を与えたのは、日本軍や日本の指導者だったことは間違いない。
タイ首相だったククリット・プラモード氏は、ジャーナリストだった時代の1955年、新聞紙上に「12月8日」という題の詩を発表した。
「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。
さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない」
日本は、アジア諸国の独立の英雄たちの「母」であったということは言ってもいいだろう。
対英蘭軍に対するインドネシアの独立戦争では、残留した日本軍の将兵も助太刀を買って出た。
約2000人が戦闘に加わり、その半数が戦死した。
参戦しなかった将兵も、インドネシア軍に対し、「日本軍の武器を渡すのは軍命令に反するから、自分たちの部隊を殺してくれ」と頼み、死んでいった部隊もあった。
そんな「身を殺して仁をなした」人たちが日本には、300万人もいたということになる。
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「世界精神」が生み出した大東亜戦争とアジア・アフリカの独立
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大東亜戦争が始まった時、幕末を知る世代の人たちは「吉田松陰の言った通りになった」と口々に語ったという。
松陰が「敵を知る」ために渡米を試みたことから、「いったん開国し、欧米の文明を採り入れ、その後に攘夷を断行する」のが松陰の真意で、結局、大東亜戦争でその「攘夷」が実行されたという見方だ。
結局、明治維新の根底にある精神は「尊王攘夷」のほうであり、「開国・文明開化」は手段だったというわけだ。大東亜戦争は明治維新の総仕上げだったということになる。
幕末の動乱は、吉田松陰を“教祖"とする長州藩と、官僚化し意思決定できない江戸幕府との対立ではあるが、考え方のうえでそう大きな差があったわけではない。
井伊直弼大老が登場する前に老中首座を務めた堀田正睦は、「日本は開国して欧米の文明を取り入れ強国となり、世界を『八紘一宇』の精神で統一すべきだ」と語っていたという。
「八紘一宇」は、初代の神武天皇が即位式で「八紘(あめのした)をおおいて、宇(いえ)と為さん(天下をくまなく治め、一つの家のようにしたい)」と宣言した建国の理念だ。
それまで地域の豪族間で戦争が続いたが、それを終わらせ、家族のようになろう、と呼びかけたのだった。
この日本民族の原点にある平和思想は、討幕派の吉田松陰にも幕府の堀田正睦にも共有されていた。
そして、この「八紘一宇」の精神が、「欧米の侵略と搾取から開放し、アジア諸国の共存共栄を実現する」という1943年の「大東亜宣言」に結実した。
インドネシアで軍政を担った今村司令官が「インドネシア人と日本人は兄弟なのだ」と語ったのも、「八紘一宇」からきている。
フランス革命後、皇帝に即位し、ヨーロッパのほぼ全域を制圧したナポレオンをその目で見た哲学者のヘーゲルは、「世界精神が馬に乗って通る」と語った。
1806年、プロセインがフランス軍に征服され、ナポレオンがイエナに入城した際の話だ。
この戦争の結果、封建領主の力が弱まる一方、ナポレオン軍への抵抗を通じてナショナリズムが高まり、近代的な国民国家への道を開いた神の意志を、「世界精神」と呼んだのだった。
大東亜戦争を戦った結果、数多くの独立国を生んだ日本もまた、ナポレオン同様、「世界精神」を体現していたと言っていいだろう。
その意味で、明治維新、大正デモクラシー、大東亜戦争、アジア・アフリカ諸国の独立は、「世界精神」が生み出した巨大な潮流だった。
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戦後70年の日本の行動
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大東亜戦争は、アメリカ革命と並ぶ「自由の創設」である。
それは「世界精神」という名の神の意志であり、日本はその意志の下、「身を殺して仁をなした」。
しかしながら、日本への「誤解」は、今も変わっていない。
中国は「日本はファシズム国家」と叫び続け、誤解を助長している。
アメリカやイギリスなども中国に同調するどころか、むしろ中国以上に「日本は悪かった」と信じている。
戦後70年の今年、もういい加減にこうした誤解を解かねばならない。
日本人は大東亜戦争はアジアを解放する「自由の創設」だったという立場に立ち、以下の行動を起こすべきだろう。
(1) アメリカが歴史認識を見直すよう説得する。
現在はアメリカの反対もあって河野談話や村山談話を見直せない。
しかし、アメリカ独立戦争と大東亜戦争の理想は同じである。
アメリカが未だに日本を犯罪国家扱いするなら、それこそ人種差別である。
(2)「英霊たちはアジア解放の尊い仕事を成し遂げた」という国民的な認識をつくり、まだ成仏していない方々を供養する。
先の大戦では2百数十万の人たちが戦火に倒れたが、その方々は、アジア・アフリカの人たちの、「自分の国を自分たちの責任で発展させたい」という願いをかなえたもので、本来尊敬の対象である。
(3) 憲法9条をすぐにでも改正する。
今、日本は国防を他人任せにし、「自分たちの責任で自分たちの国を発展させる」ことができない。
日本にも「自由の創設」をしなければならない。
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大東亜戦争の理想は生き続ける
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(4) 共産党の方針に反する人々を投獄している中国こそ、ファシズム国家である。中国を民主化へと導き、国民が政治参加できる「自由の創設」を実現する。
中国自体がファシズムであるし、中国国内に「植民地」が存在する。
2013年11月に行われた大東亜会議70周年記念大会で、中国に支配されているウイグル出身の人権活動家ラビア・カーディル氏のメッセージが読み上げられた。
「日本が70年前に打ち出していた、抑圧され虐殺され植民地化されているアジアの諸民族を解放するという崇高な国家理念に立ち戻り、強力な民主主義国家として、わがウイグル民族を支援してください」
ウイグルやチベット、内モンゴルを中国共産党政権の植民地主義から解放する「自由の創設」もまた実現しなければならない。
(5) 敗れたとはいえ、大東亜戦争の理想とそのもたらした結果は正しかった。
この理想を今後も追求し、アジア・アフリカの国々がもっと発展するよう日本として責任を果たすべきである。
インドネシア独立戦争の指導者の一人ブン・トモ氏は情報相として訪日した際、当時の岸信介首相にこう訴えた。
「日本の失敗は、たった一度の敗戦でアジア・アフリカ解放の志を捨てたことだ」
「私は日本に切望したい。アジア・アフリカの有色人種が欧米並みの自由と繁栄を獲得するまで、日本には使命がある。どうか指導・援助を続けてくれ」
幕末から明治・大正・昭和を通じ、国内でも世界でも「自由を創設」してきた日本が果たすべき役割は明らかだ。
政治参加し、自分たちの運命を自分たちで決めることができる自由をそれぞれの国で実現し、「自由からの未来創造」という幸福を手にしてもらう――。
大東亜戦争の理想は、21世紀にも生き続ける。
(綾織次郎)
━…━…━…━…━…━…━…
「大東亜宣言」全文の現代語訳。
【大東亜宣言】(昭和18年11月6日)
(日、中(汪兆銘政権)、満州国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドが参加)
そもそも世界各国がそれぞれ自分たちの国土を持ち、お互い助け合って、すべての国が栄え、みなで楽しみを共にするためには、世界平和の確立がその根本である。
しかしながらアメリカやイギリスは、自国の繁栄のためには、他国や他民族を押さえつけ、特にアジア諸国(東アジアと東南アジアなど)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、アジアの人々を隷属化する野望をむき出しにし、ついにはアジア諸国の安定を根底から覆そうとしている。
大東亜戦争の原因はそこに本質がある。
そこでアジア各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、アジア諸国をアメリカやイギリスの束縛から解放し、その自存自衞をまっとうするために、次の綱領に基づいて大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与する。
1.アジア諸国は協同してアジアの安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設する。
2.アジア諸国は相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、アジア諸国の親睦を確立する。
3.アジア諸国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、アジア諸国の文化を高め合う。
4.アジア諸国は互いに緊密に提携し、それぞれの国の経済発展を図り、アジア諸国の繁栄を増進する。
5.アジア諸国は世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化交流し、進んで資源を開放し、世界の発展に貢献する。
(↑引用ここまで↑)
============
以上が引用文です。
「大東亜の戦いは日本とアジアの「自立自尊」のための戦いです。
なぜ「自立自尊」が大切に思われたのでしょうか。
「シラス」国である日本は、民衆こそが宝とされる国柄です。
その日本が、
「ウシハク」領主である欧米列強に支配し隷属させられることなど、
考えられないことだったのです。
ハリウッド映画によく、「我々は自由のために戦う」というセリフが出てきます。
まさに、そのために資源さえない日本が、死力を尽くして戦ったのが、大東亜の戦いだったのです。
逆に言えば、戦後、先の大戦を否定し、特亜におもねり、日本を否定する人たちというのは、自らが「ウシハク」者になりた人たちであると言い切ることができます。
誰もが「おおみたから」として尊重される社会ではなく、自分さえ良ければという利己主義と我儘と傲慢の、残念な人達なのです。
そういう正体がわかれば、おそらく日本の民意は、あっという間に変わる。
そのように思います。

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コメント
あ
東北は常に割りを食い続けましたからね。朝鮮なんぞにやらずに
東北への投資が必要。
2015/04/20 URL 編集
軍人の娘
数年前に読んだ本で、デュランれい子氏の「一度も植民地になったことがない日本」に、オランダ人から日本の戦争責任について問われるシーンがあります。
(彼女は日本人で、オランダ人と結婚されています)
そのときデュラン氏は、
国連で最初に人類平等の条項を入れようとした国は日本である、
オランダによるインドネシアの植民地政策はひどいものであったと、
毅然と反論されたとありました。
その上で、海外に出る日本人に対して日本の歴史をきちんと勉強する事や、
間違った知識を披露されても「日本風のやりすごす」ことをしないこと、
きちんと反論する事を本に書かれていて、真の「国際人とは何か」を思い知った一冊でした。
世界の日本に対する意識を変えるには、まず日本人が目覚めて勉強する事ですね。
2015/04/20 URL 編集
-
桜咲久也さんのブログ「理想国家日本の条件 自立国家日本」と、ねずさんのブログをいつも見ています。ねずさんのブログが桜さんのブログを引用されるのは、はじめてでは?
でも、とても嬉しかったのでコメントしました
2015/04/20 URL 編集
日本みつばち
4月1日のブログで教えて頂いた本を取り寄せ、
読み始めました。WGIPの本です。
本日のお話共々、ウソがまかり通っている現状に、
なかなか穏やかな心ではいられない・・。
そんな本日(日付かわり昨日)
待望のご本が届きました!「ねずさんの(略)百人一首」
ズシッと重いです。
私も日本の心をしっかりと取り戻し、
曇らぬ目で物事を見てゆきたいと思います。
2015/04/20 URL 編集
jun
この記事は、英訳してアメリカの黒人に伝え教えるべき話です。
アメリカの黒人は無教養な人が多いのが現実です。オバマさんも歴史を正しくは認識はしていません。
見えない人種差別も存在し度々事件も起こる。
アメリカが歴史認識を見直すよう説得するには、
黒人に日本の歴史を正しく理解してもらうよう努めることです。
2015/04/19 URL 編集
ポッポ
日本はアジアを、米英仏等の植民地支配から解放し独立させることが目的だったことが良く判ります。それに、日本は国際会議で、人種差別の撤廃を主張しました。
戦後の教育は、日本が侵略者だと決めつけて悪者だと教えたのですが、なぜ、パリ講和会議で規約前文に「国家平和党の原則と国民の公正な処遇」を約すとの表現を盛り込むよう提案したことも含めて、主張したことを教えなかったのかと、疑問に思います。
これらのことが教えられることで、日本の子供達は外国においても、日本の国に誇りを持って生活できるのではないかと思います。
広島空港でアシアナ航空機が着陸に失敗した事故で、国土交通省運輸安全委員会や広島県警による乗員8人への事情聴取が終わり、機長や副機長ら韓国人スタッフは18日中に帰国したそうです。
飛行機事故のことですから、機長を始めとする乗員への事情聴取をするのは当然でした。しかし、この件では報道において、機長の所在が不明でした。
また、乗員への事情聴取をしたこととその内容は、マスコミでは全く報道していません。
この事故が小さな事故でしたら詳細の報道がないこともあるかも知れませんけれど、少なくとも大型旅客機が飛行場の誘導アンテナを破壊して飛行場に着陸する失敗をして、負傷者が22名も発生した大事故です。
アジアな航空の社長がお詫びしたから、それで終わりではないと思います。
この事故についてテレビを見ていますと、評論家やコメンテーターは飛行場の建設位置が海抜300メートル以上あることや気象状況において視界が急に悪くなったことを解説していますが、どれも評論家やコメンテーターの話していることで、国土交通省の公式説明はありません。
また、このような大事故ですから機長等の乗員に対して、刑事処分があってしかるべきだと思いますが、これも公式発言はありません。
それなのに乗員を帰国させてしまっては、後の問題はないのかと思います。
2015/04/19 URL 編集
とおりがけ
2015/04/19 URL 編集
ビッケ
この東條声明や昭和18年5月の大東亜政略指導大綱(マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは当面軍支配下に置き、将来的には大日本帝国の領土とする)を以て、日本はマレーとインドネシアを独立させるつもりはなかったと言う人がいますが、間違いです。
フィリピンやビルマはすぐに独立させるという方針が決まったのに対して、マレーやインドネシアは方針が決まらなかったのです。昭和18年の大綱も案の1つにすぎません。事実、昭和19年9月になって小磯國昭首相は第85帝国議会で「東インド(インドネシア)の将来的独立を約束する」と声明。昭和20年5月にインドネシア独立準備調査会を設置、同年7月17日に日本政府がインドネシア独立の方針の決定、8月7日にスカルノを主席とする独立準備委員会の発足を正式発表、第1回会議が8月18日に開催される予定でした。
大東亜戦争開戦の段階で、フィリピンには米国傀儡のコモンウェルス政府、ビルマにはビルマ人を首班とする植民地政府がありました。すでに現地人が参加する統治機構があったのです。後年ですが1945年に日本軍が仏領インドシナ政府(フランス人の植民地政府)を解体したとき、ベトナム、カンボジア、ラオスがすぐに独立宣言したのは、フランス統治下においてもそれぞれの王家が存在したからです。
マレー半島、インドネシア地域にも王侯(ラージャ、スルタン)はいましたが、王侯国ごとに独立させると小国に分裂してしまいます。実際、戦後するには分裂(分断)します。かといって旧支配者である英国人や華人、オランダ人を排除するとこの地域を統一的に統治できる機構も、人材もありません。さらには「マレーとインドネシアを独立させるときは、1つの国に!」という誓願もありました。独立させようにもその枠組みが現地でも決まっていなかったのです。
2015/04/19 URL 編集
えっちゃん
桜咲久也さんのブログで、知識が増え、理解が進みました。
ねずさんのブログでは、それ以外に、感動・誇り・自分ができることをしていきたいという思いが湧いてくるのです。
2015/04/19 URL 編集
たんぽぽ
民意がーと言いつつ、権力(実権)を握ると、ごく普通の愛国者の意見を弾圧する、民主、社民、共産党。この人達は『ウシハク』の人達だったんですね。
言っていることと、やっていることが「矛盾」だらけ...
時にはわざわざ、ありもしない弱者を作りあげてまで、対立を煽り
自分達の利権を守るために汲々としている。見苦しい限りです。
(本当の弱者には寄り添うことなく、自立を邪魔して、彼らがやっていることは利権の温存の為に利用している様に見えて仕方ありません)
偽善と欺瞞だらけの『ウシハク』の時代はいりません。
早く終わらせたいです。
2015/04/19 URL 編集
はっちょもん
高天原のはるか高次なところから鳥瞰しているような覚めた内容でした。
>日本は戦争目的において「勝った」
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。
今の日本はやはり長期療養中ということなのだ、早く本来の姿を取り戻さなければならない。
>大東亜戦争は、アメリカ革命と並ぶ「自由の創設」である。
中国は「日本はファシズム国家」と叫び続け、誤解を助長している。
アメリカやイギリスなども中国に同調するどころか、むしろ中国以上に「日本は悪かった」と信じている。
戦後70年の今年、もういい加減にこうした誤解を解かねばならない。
アメリカも独立した時の事を思い出し、日本に対して行ってきた事を反省しなければならない時期にきている。
>「日本の失敗は、たった一度の敗戦でアジア・アフリカ解放の志を捨てたことだ」
「私は日本に切望したい。アジア・アフリカの有色人種が欧米並みの自由と繁栄を獲得するまで、日本には使命がある。どうか指導・援助を続けてくれ」
感動しました。勇気を与えらました。
桜咲久也さん、ご紹介ありがとうございました。
2015/04/19 URL 編集