世界の三大南極探検家に名を連ねた日本人・白瀬矗(しらせ のぶ)



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源平枝垂れ桃0425


南極は、ヨーロッパよりも大きな大陸です。
日本でいったら江戸時代の中期にあたる1820年に、ロシア探検家によって存在が確認されたのですが、寒さと氷の絶壁に阻まれて、その後、約百年にわたって未知の大陸とされていました。

南極点到達といえば、明治の終わり頃のことで、
ノルウェーの、ロアルド・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)が明治44(1911)年12月14日、人類初の南極点到達を果たし、
翌明治45(1912)年1月17日、英国のロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott)大佐が世界で二番目の南極点到達を果たしています。

ところがこれと同じ時期、実は日本の白瀬矗(しらせ のぶ)率いる白瀬探検隊も、この南極点に向けて探検を行っていました。
そしてこの日本の探検隊は、三者の中でもっとも貧弱な装備でありながら、ひとりの遭難者も出さずに探検を成功させています。
世界は、この3人の探検家を「世界の三大南極探検家」と読んでいます。


白瀬矗0425


三者のなかで、アムンゼンとスコットは、それぞれノルウェーとイギリスが国威をかけて莫大な資金援助をしたおかげで、十分な装備のもとで探検を行いました。
それでもスコット隊は、南極点到達後、帰りに寒さのために全滅してしています。
どれだけ南極探検が過酷なものであったかということですが、そのなかで白瀬探検隊は、民間ベースで乏しい予算で探検を実施しながら、ひとりの脱落者も出さずに全員無事に帰還を果たしています。

これがどのくらいの違いかというと、たとえばスコット隊は、当時のお金で40万円というたっぷりと余裕のある資金で組織されていたのに対し、日本の白瀬探検隊の予算はわずか4万円です。
南極まで行く船も、木造の元漁船です。
アムンゼン隊からは、「よくもこんな船でやってこられたものだ」と、あきれられるほど粗末な木造の機帆船だったのです。

装備も、他国と比べて、貧弱そのものでした。
それでも日本の探検隊は、南極点まであと一歩の南緯80度05分の地点に達しました。
そこに日章旗を立て、「大和雪原(やまとせつげん)」と名前を付け、南極に日本の領土をしっかりと構築してきたのです。

いま、世界には193の国(国連加盟国)がありますが、この時代、世界には63カ国しかありませんでした。
それ以外の国、たとえばアフリカ諸国や東南アジアや中東諸国は、「無主地」と呼ばれ、力のない国や民族は、力のある先進国が統治をするということが、世界の常識であった時代です。

そういう時代にあって、南極大陸は、ヨーロッパよりも広い面積を持つ未知の土地であり、そこに国旗を掲げることは、そのまま無主地の領有をあらわすとされた時代でした。

残念なことに、南極の領有に関しては、日本は昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約第2条(E)で南極地域の権利権原を放棄しました。
その南極も、昭和34(1959)年の南極条約によって、いまでは各国の領有権は、すべて凍結された状態となっています。

ただ、明治の終わりに、アムンゼンやスコットと並んで南極探検隊を、民間ベースで組織し、それを実際に成功させたという事実は、やはり同じ日本人として、忘れてはならない歴史なのではないかと思います。

探検を行ったのは、秋田県金浦町(現在のにかほ市)出身の白瀬矗(しらせ のぶ)です。

白瀬は、文久元(1861)年、寺の住職の長男として生まれ、幼い頃は、両親が手を焼くほどの暴れん坊だったそうです。
8歳で蘭学医佐々木節斎(せっさい)の寺子屋に入門し、11歳のときマゼランなどの冒険物語を先生から教わって、日本には間宮林蔵に続く者がいない、それなら俺がなろう!と、探検家を志したのだそうです。

ところがこの佐々木節斎先生、なかなか厳しい、良い先生です。白瀬に
「君は探検家を志すなら、禁酒、禁煙、禁茶、禁湯、禁火の誓いを立て、生涯これを守り抜け」と、白瀬を戒めまています。

白瀬は、昭和21(1946)年に85歳で逝去するのですが、なんと生涯をかけて、このときの師匠との約束を守り抜きました。
教師というのは、それだけの影響力を子供に持つものなのですね。
その教師が左前で、子供達に誤った日本の歴史やアイデンティティを教えたら、子供たちがおかしくなるのも無理からぬことですし、その教えたことが後に嘘であったとバレた日には、その教師は成長した子供たちから軽蔑されこそすれ、生涯の師になることは、まずありえないものと思います。

さてその佐々木先生の教えですが、よく見ると「禁湯、禁火」とあります。
これは真冬でも暖かいお茶や、ストーブはダメという意味です。
いやはやなんとも厳しい。

白瀬の名前は、もともとは白瀬知教(ともたか)だったのですが、彼は明治14(1881)年に20歳で学校を卒業して陸軍に入隊すると、すぐに名を「矗(のぶ)」と改めました。
「矗(のぶ)」という漢字は、直線の「直」の字が3つ重なった国字です。
「ちょく、ちく、のぶ、なおい」等と読みますが、いずれも「高くそびえる」という意味に使われます。
人生のすべてを極地探検に賭けた男の夢を、彼はそんな名乗りであらわしたのです。

白瀬矗が、29歳で仙台で勤務していたときのことです。
そのときの上官が、あの有名な児玉源太郎でした。
児玉は、極点を目指すという白瀬に、
「そんなに極点に行きたいのなら、先ず先に千島列島を目指せ。
 極寒の地で身を鍛え、その後、素志を貫き、
 一生の事業としてやるがいい」と白瀬を励ましました。

さすがは児玉源太郎!という感じがします。
このときの児玉源太郎が「さすが」と思うのは、白瀬の志(夢ではありません)を聞いたときに、「どーせむり」と言っていないことです。
まず白瀬の持っていたのは、夢ではありません。
極点走破をすることに人生を賭け、そのことを通じてお国の役にたとうとする「志」です。

「〜したい」、「〜になりたい」というだけなら、それは夢です。
「志」は違います。そのことを通じて、何事かを成し遂げたいとする明確な意思があります。
夢は夢であり、そうなれたらいいな、というだけのことです。
いまでは学校でもどこでも、子供達に夢は聞きますが、志は聞かない。
こういうところにも、現代教育の歪みを感じます。

また、児玉源太郎の「こうやってみれば」というのは、白瀬の志を、児玉が真正面から受け止めていることを示しています。
白瀬にしてみれば、この一言で、「わかってもらえた」という感動があります。
感動は人を動かします。
万難を排して、志を実現しようとする、強い意思と行動に結びつきます。

このときもし、児玉が「おまえなー、どうせむりだから」と言ったら、白瀬の心はどれだけ傷ついたことでしょう。
けれど最近の学校でも職場でも、「どーせむり」は、まるで流行語です。

「夢」と「どーせむり」の社会と、
「志」と「こうしてみれば」の社会とでは、雲泥の差があります。
下に植松さんの動画を貼りますので、お時間のあるときにでもご覧いただきたいと思います。

現実には、陸軍勤務の間に、白瀬の千島行きは実現しませんでした。
当時の陸軍は、西南戦争が終わり、朝鮮有事に備える日清戦争前の時代だったのです。軍に余裕がない。
それでも白瀬は、日々、来るべき日のために、自らの体を鍛え続けました。

白瀬が実際に千島に行く機会は、白瀬の陸軍退役後、予備役となった明治26(1893)年に訪れました。
このとき32歳になっていた白瀬のもとに、幸田露伴の兄の郡司成忠大尉が、千島列島への探検隊を組織するという話がもたらされたのです。
白瀬は喜んでこれに参加することにしました。

この明治26年という年は、日清戦争のはじまる前年にあたります。
そもそも日清戦争も、ロシアの南下への恐怖が起こさせた戦争です。
世が、まさにロシアの脅威への対応に追われていた時代だったのです。

そんな中で、郡司大尉の千島遠征隊は、対ロ戦略上、非常に重要な使命を帯びたものでした。
当時、陸軍のこの企画に、国民は熱狂的支持しています。

ところがこの遠征隊は、東京を船で出発したものの、青森県の沖合で暴風雨に襲われて、隊員80名中、19名が命を落としてしまっています。
やっとのことで函館に到着した一行は、すっかり意気消沈していただけでなく、隊員の中には指揮官の指揮に対して公然と反旗を翻すものまで現れる始末でした。

こういうところ、当時の軍というもものは、なんでもかんでも上官のいいなりのように言われるけれど、いまも昔も日本人は変わりません。
上司の指示がおかしければ、やっぱりおかしい!と言うのが日本人です。
しかし、ここまでまとまりがないのでは、とてもじゃないが、これから千島の探検どころではありません。

白瀬は、函館港で郡司隊に合流しています。
探検隊のこの体たらくをみた白瀬は、彼らを一喝しました。

「諸君は武士である。
 武士には武士の情けというものがある。
 嵐で優秀な仲間を失い困り切っている上官に対して、
 数を頼りに不穏な態度をとるとは何事か。
 逆ではないか。
 それに、ここで千島行きを止めたのなら、
 亡くなった19名は犬死にである。
 むしろいまこそ上官を支え、
 亡くなった彼らのためにも、一致団結し、
 千島を目指すべきではないのか!」

白瀬の不退転の決意の言葉に、探検隊の空気は一変しました。
目指すは、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)です。

北海道の東端から千島列島を目指した一行は、捨子古丹島(しゃすこたんとう)に9名、幌筵島(ほろむしろとう)に1名の隊員を越冬隊として残し、本体は8月31日に、最終目的地である占守島に到着し、そのまま同島で越冬しました。

ところがこの越冬で、捨子古丹島、幌筵島に残してきた10名全員が、水腫病という千島特有の風土病で、お腹が水膨れで太鼓のようになって死んでしまいます。
さらに占守島の本体も、越冬してようやく春を迎えると、その年、日清戦争が勃発し軍に帰還を命ぜられます。
結局、白瀬を含む6名が、その年、2年目の越冬をすることになりました。

ところがこの越冬で、隊員のうち3名がやはり水腫病で死亡、白瀬自身も罹患してしまいます。
この病気は、全身を激痛が襲います。
激痛と絶食状態の中で、白瀬は鍛え抜かれたその心と体で見事に病気を克服しています。
けれど、あとの二人は仲間の死に動揺して、精神を病んでしまったそうです。
どれだけたいへんな越冬だったかということです。

明治42年、人類未踏であった北極点を、米国の探検家ベアリーが制覇しました。
このニュースは世界の探検家に大きな衝撃を与えました。
白瀬も日記に、「私の心臓を凍らせた」と書いています。

北極点が制覇されたことで、世界の探検家たちの次の目標は、いよいよ南極点の制覇へと向かうことになりました。

明治43(1910)年7月5日、当時人気だった雑誌「成功」の村上俊蔵が中心となって、神田の「錦輝館」という映画館で、「南極探検発表演説会」が開催されました。
「人類最後の未踏の地、南極」を「いったい誰が」「どこの国が」「最初に征服し」「南極点に到達するのか」

南極の大地に旗を立てることは、そこに新たな領地を得ることでもあります。
世はまさに植民地時代です。

南極には、すでに明治42(1909)年に英国のシャクルトンが、南緯88度23分まで進んでいます。
英国は、スコット隊を編成し、国をあげて南極点到達を狙います。
一方、極点ならまかせろ!とばかり、ノルウェーのアムンゼン隊も、南極点を目指して出発します。
そしてこの2つの探検隊は、まさに英国、ノルウェーの国家事業として編成されたものです。
両者は、それぞれ国費から40万円(いまなら約4億円)の予算を得ています。

ところが、日本では、村上俊蔵が白瀬を隊長に、後援会長を大隈重信にと、体制は決まったものの、政府が動かない。
実は、大隈重信が明治43(1910)年の帝国議会で、「南極探検ニ要スル経費下付請願」を建議し、衆議院は満場一致でこれを可決したのです。
ところが、時の総理、桂太郎は、白瀬らの成功を危ぶみ、3万円(いまなら3000万円くらい)の援助を決定したものの、そのお金さえ支払いに応じない。
とはいえ、3万円ばかりのお金、政府は払おうとすれば払えないことはなかったのです。
要するに政治的対立関係が、不払いの原因なのですが、残念なことです。

結局白瀬は政府から1銭の援助もないまま、頼りは募金だけ、となってしまいます。
そこへもってきて、後援会の幹事だった朝日新聞社も、成功を危ぶんで途中で後援会を降りてしまいます。
(ほんとうに明治の昔からこの新聞社は信用できなかったのですね)。

大隈重信は、当時大阪毎日新聞の記者に次のように語っています。
~~~~~~~~~~~~~~
白瀬氏の競争者ともいうべきスコット大佐は、英国帝室並びに国民の同情を得て、すでに本国を出発したるを以って、遅くも来る8月中に出発するにあらずんば、南極の天王山はついに他に占領せらるる虞(おそ)れあり。
しかるに日本人が学術上大冒険をなすの初陣に際し、僅か4万円の経費のために、みすみすこの勇者を見殺しにするは、国民としてあまりに腑甲斐ないことなれば・・・
~~~~~~~~~~~~~~

明治43年11月29日、白瀬隊は、5万人の大観衆に見送られて東京の芝浦埠頭を出航しました。
いよいよ南極への探検です。
民間からようやく集めた総予算4万円の中から船を調達したのです。
アムンゼンやスコット隊の10分の1の予算です。
当然、大型の寒暖の対策(南極へ向かうには、赤道を通り、南極に向かいます。猛暑と猛寒、両方の対策が必要になる)も、船の大きさ上、充分にとれません。
エンジンも中古です。

船には、東郷平八郎が「開南丸」と名前を付けてくれたし、それはとても名誉なことだったけれど、後に、アムンゼン隊のフラム号の船長がこの船をみて、驚嘆したそうです。
「日本人はクレイジーだ。こんな小さな船では、
 自分たちなら南極はおろか、途中まででさえ覚束ない」

開南丸は、約4カ月をかけて赤道を越え、南極圏に向かいました。
しかし、小船の悲しさです。
26匹連れて行った樺太犬は、赤道をくぐっている間に、暑さにやられて21匹が死んでしまう。
わずか5頭の犬では、南極大陸の犬ぞり踏破はできません。

加えて、速度の出ない船のため、南極圏の到達に時間がかかりすぎてしまいました。
南極に冬が到来してしまったのです。(南半球では北半球の夏が冬)

やむなく一行は、いったんシドニーに引揚げ、南極の冬が過ぎるのを待ちました。
もし、日本政府がちゃんと資金を出していれば、おそらく白瀬隊は、圧倒的に世界初の南極点到達を実現できたのではないかと思うと、本当に悔しいです。

南極の冬を越して、いよいよ白瀬隊がシドニーを出発したのは、明治44(1911)年11月19日のことでした。
犬も、日本から、あらためて樺太犬30頭を取り寄せました。
ちゃんとした船で輸送すれば、素早くちゃんと無事に運べるのです。

しかし、この航海の途中、12月17日に、ノルウェーのアムンゼン隊が南極点到達したとの報が流れました。
このときの白瀬隊のショックがいかばかりだったか。

すでに英国のスコット隊も、南極大陸に上陸しています。
もはや、南極点到達競争で後れを取ったことは明らかです。

けれど、それならそれで、彼らは学術調査を目的に、南緯80度5分、西経156度37分の地点を最終目的地とすることとして、南極の踏破をしよう。
彼らはそう決意し、明治45(1912)年1月16日、南極大陸の鯨湾西側に小さな湾を見つけ、そこに船を停泊させました。
そして、80メートルもの高さのある、ほぼ垂直に切り立った棚氷の氷崖を、すべて人力で荷物を運びあげて、南極への第一歩を記します。

白瀬は、この湾に「開南湾」と名前を付けました。

このときの航海の模様を、白瀬本人がインタビューで語っています。
~~~~~~~~~~~~
昨年11月、シドニー発。
本年1月16日、極地に着けり。
シドニー発後、ニュウジーランドの沖、南緯60度の辺より、極圏に達するまでは、例により海上波高く、40尺(12メートル)を超ゆることあり。航路困難云うべからず。

61度辺より、流氷の東に流るるを見る。
これより氷塊数十里に渡りて浮動する故、航海に危険を感じ、一進一退、多くの日時を要した。

かろうじて極圏に入れば、一面の氷塊にて、71度より先にて、船長はコールマン島を目当てに進まんと主張せしも、陸岸は流氷の危険多からんことを恐れ、エリバス山を目当てに沖の方を航行することとせしに、果して危険大いに減じ、進んでロッス海に入る。
66度より70度までは、氷を縫うて行かざるべからざるため、この間2週間を要し、更に進んで76度辺に至れば、また一面の氷に包囲さる。

かかる次第にて1月13日までは進路未だ定まらず、苦心惨憺を極めたるが、天佑なるかな、14日に至り船路一条を発見したれば、一同雀躍して進みたるに、15日に至れば、始めて大氷原を見る。
更に進んで78度30分に至り、また大氷原を見たるが、種々探検の末、氷原にあらずして時々浮動する大氷塊たるを確かめたり。

イルス湾の手前にて一湾を発見したるも、無名なるを以って開南湾と命名し、国旗を樹(た)て、一行の名刺を埋めたり。
(明治45年5月13日時事新報)
~~~~~~~~~~~~~

現代の南極観測船は、氷を船でガンガン割って前に進みます。
けれど白瀬隊の開南丸は、木造船です。
タイタニックどころの話ではない。
浮遊する氷山にぶつかったら、その瞬間に全員の命がないのです。
だから、ほんとうに注意深く、ゆっくり、ゆっくり慎重に進んだ様子がうかがえます。

1月20日、白瀬以下5名が、29頭の犬に2台のソリを引かせ、目的地へと出発しました。
残った2名は拠点で、気象観測を続けます。
開南丸は付近の海域を調査し、アムンセンを迎えにきたフラム号に会い、たがいに表敬訪問をしています。

白瀬らは、9日間で300キロメートルを走破し、1月28日、南緯80度5分、西経156度37分、標高305メートルの地点を最南点とし、その地点を中心として見渡せる限りの氷原に、「大和雪原(やまとせつげん)」と名前をつけて、日本の領土とすることを宣言しました。

その地点は、南極点は90度ですから、極点としてはほんの入り口にすぎないけれど、彼が到達した西経156度37分の地点は、南極を東方に進んだ記録としては、当時の新記録であり、また黄色人種が南極の領有を宣言したものとしても、これが世界で初の出来事となりました。

しかも、英国のスコット隊が、帰路に遭難し全滅しているのに対し、日本の白瀬隊は南極点には到達していないものの、木造の老朽船で、ひとりの遭難者もなく帰還した勇気と英知に、世界は、嵐のような絶賛をしてくれました。
そして白瀬隊は、氷盤の形成について研究し、新説を発表するなど、多数の学術上の成果をあげ、6月20日、19か月55万キロメートルの航海を終えて、日本に帰国しました。

ところが、それだけの大成果を与えた白瀬を、日本で待ち受けていたのは、勲章でも褒章でもなく莫大な借金でした。

彼は、隊員に給料を支払うために、家屋敷はもちろん、軍服から刀まで売り払いました。
さらに全国各地を講演に回りながら、海外にまで金策に走り、住所を転々と十数回変え、別荘の番人などをしながら食いつなぎ、ほそぼそと借金を支払い続けました。

85歳になった白瀬矗は、愛知県豊田市の間借りした下宿宿の2階で、妻やす子と一緒に、栄養失調となった体を床に横たえながら、
「講和の日に間に合わなかったことが残念だ」と言って、妻と娘に看取られながら、この世を去りました。
昭和21(1946)年のことです。

終戦を迎えた日本が、いつの日か、講和条約を締結してふたたび独立国となる。
そのとき、南極の大和雪原が、あらためて日本の領土として認知される。
白瀬は、その日のことを想っていたのです。

しかし、昭和27年、サンフランシスコで行われた講和条約で、日本は南極の領有は認められませんでした。
それでも昭和37(1962)年、ニュージーランドは、白瀬の功績を称え、ロス海東側を「白瀬海岸」と命名してくれました。
白瀬の名は、世界地図に刻印されたのです。

また昭和60(1985)年、米国の「ANTARCTCA」という本は、白瀬をアムンゼン、スコットと並ぶ、世界の三大南極探検家として、とり上げてくれています。


彼が11歳で抱いた極地踏破への志は、日本国政府に認められず、後の彼の生活は、莫大な借金を抱えて困窮を極めました。
彼はその借金を20年かけて払い終えました。
そんな白瀬の言葉です。

「やがて晴れるときがくるに違いない」

心に残る名言だと思います。

そうそう。ひとつ付け加えておきます。
それは、晩年に至っても、白瀬はいつも、堂々として、さわやかな男だったということです。

けれども彼は、極地探検という志に一目散に進み、そして何があってもくじけずにその信念を貫き通したのです。
そんな白瀬の心は、世代を超えて伝わるものなのですね。
彼の弟の孫の白瀬京子は、昭和45(1970)年に、日本人女性として、初めて小型ヨットで世界一周を果たしています。

やっぱり、人の人生って、経済ばかりじゃないですよね^^


※この記事は2010年にアップしたものをリニューアルしたものです。

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コメント

姫空木

道徳
自称?社会学者の古市憲寿が、学校で道徳を教えるよりマンガを
読ませる方が道徳教育になる、と言い、武田鉄矢もそれに同調
していたそうです。
漫画を否定するわけではありませんが、誰かの頭の中で創った
ヒーローや物語より、実在した人の話を教える方がはるかに
学ぶことも多いし、価値があると思います。
勧善懲悪もいいけど、苦労をじっと耐えてやがて偉業を為す
人の姿にこそ、日本人は心惹かれると思うのです。


話は変わりますが、ねずさんの百人一首の本を、文学部の子供に
プレゼントしました。
もし興味を持って読んでくれなくても無理強いは出来ないな・・・と
思っていましたが、黙々と読んでいました(時々メモを取りながら)

にっぽんじん

映画『スコッツボロガールズ(Scottsboro Girls)』
谷川雄二朗氏の名前を御存じでしょうか。2011年の東京都知事選に立候補した方です。その方が、安倍首相の訪米に合わせて自作映画『スコッツボロガールズ(Scottsboro Girls)』を28~29日(現地時間)、アメリカのワシントン州エレンズバーグに位置するセントラル・ワシントン大学(Central Washington University)内の学生レクリエーションセンター(320人収容)で上映する予定だそうです。

この映画はアメリカで起きた黒人による白人女性○イプ捏造事件を元に造られたドキュメンタリーだそうです。その事件を引き合いに、日本軍従軍慰安婦の捏造を訴えたものです。

韓国系団体が上映を阻止するために火病を起こしているそうです。当日の混乱が心配ですがアメリカ全土で上映して欲しいものです。

下記のURLは上記映画の予告編とのことです。

https://www.youtube.com/watch?v=bqmWOSV--mE&feature=player_embedded

-

いつも、ありがとうございます。
ねず先生の百人一首のご本七五番から八十番まで読み進みましたが、胸の高まりが収まらない感じになりました。 藤原定家は、保元の乱で流罪にされた崇徳院様を心から敬愛されていたのですね。 四国の守り神として当地の方々に信仰されている崇徳院様は、ある意味菅原道真公と境遇は似ておられます。八十番以降、胸の高鳴りと共に読ませて頂きます。

junn

No title
ワクチンを受けない方が健康的 衝撃的な研究結果
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11834538611.html


junn

No title
領土・領海・領空(=領域、territory)は国家にとり神聖でありその不可侵性(integrity)を守りつづけるのが主権国家である。国民たるものすべてが国家の領域を守るに生命を棄てる価値があると考えてこそ、その国家が未来に向って世界に存在しつづけることが可能となる。一九八二年にサッチャー首相は英本土より一万三千キロメートルも遠隔の小島(フォークランド諸島)を守るため、アルゼンチンとのいっさいの外交交渉を拒絶して、断固たる武力奪還の道を選択した。かなりの数の英国の将兵が生命を落とした。しかし、国家の領土を守ることは血を流すに値する。
http://blog.livedoor.jp/acablo-nakagawayatsuhiro/archives/38472162.html
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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