Chinaで中華人民共和国が建国宣言する二ヶ月前、金門島で国民党軍と共産党軍による激烈な戦いが繰り広げられました。
戦いは、国民党軍の完膚なきまでの完全勝利となりました。
そしてこの戦い以降、China共産党は国民党への追いつめ作戦(攻撃)を止めたのです。
だから台湾はいまも国民党政権が存続し、台湾は台湾でいます。
さらにいえば金門島の戦いは破竹の勢いだったChina共産党軍に、国民党を攻める意欲さえも失わせています。
共産党軍は何をおそれたのでしょうか。
実は、「戦神(いくさかみ)」の存在を恐れたのです。
その「戦神(いくさかみ)」がいたからこそ、China共産党軍は金門島ひとつを陥とすために、どれだけの兵力の損耗をするかわからないと恐怖し、攻撃を停めたのです。
この事実が明らかにされたのは平成二〇(2008)年です。
その「戦神」の名は根本博といいます。元陸軍中将です。
根本中将は、明治二十四(1891)年のお生まれです。
二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村・現須賀川市)のご出身です。
仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校にあがり、陸軍士官学校を二十三期で卒業され、陸軍大学三十四期生として陸軍に任官、以後ずっと陸軍畑を歩み続けました。
その根本中将がなぜ台湾の国境紛争に関わったのか。
そこには理由があります。
実は、終戦当時、根本中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、もちろん根本中将のもとにもたらされています。
八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もありません。
考え抜いたあげく、根本中将は、
「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし、
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、命令を発したのです。
八月十九日、ソ連軍とChina八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
ソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきたのです。
激しい戦いは三日三晩続きました。
その結果ソ連軍は、敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
根本中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利した瞬間でした。
さらにこの戦いに先だち、根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていました。
当時、張家口から脱出した当時二十五歳だった早坂さよ子さんの体験談がのこっています。
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張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話にも戦々恐々と致しました。
五歳の女子と生後十ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、なんとか日本に帰らねばと思いました。
駅に着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。
張家口から天津迄、普通でしたら列車で七時間位の距離だったと思いますが、それから三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所々々に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振りました。そして兵隊さん達よ、無事に日本に帰ってきてと祈りました。
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他の戦域とくらべ、なんとものどかな逃避行の手記です。
それだけ根本軍団の手当が行き届いていたということです。
八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は、夜陰にまぎれ、戦地から撤収しました。
列車は全部、民間人避難のために使っていから、徒歩による退却です。
途中の食料は、最早所有者のいなくなった畑のトウモロコシを生で齧りました。
たとえどんなに苦労してでも、たとえ装備が不十分であったとしても、助けるべき者を助ける。そのために命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。強いものほど先頭に立って苦労をする、苦労を厭わない、帝国陸軍軍人の姿です。
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そこで根本中将は、北China方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
北Chinaにいる全日本人(軍民合わせて三十五万人)の命を預かる身となったのです。
この頃Chinaでは、蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせるようになっていましたが、根本中将率いる北支軍は、断固として武装を解かない。
そして日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでもChina兵を完膚なきまでに叩きのめしています。
すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのです。
それでも日本軍を破れない。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神」と呼ばれて恐れられるようになったのです。
昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石が直接北京に乗り込み、根本中将に面談を申し込みました。
断る理由はありません。
むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。
はたして蒋介石は、
1 根本中将率いる北China方面軍とは争わない
2 日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする
と約束してくれたのです。
そしてこのとき根本中将は、蒋介石の協力に感謝し、
「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束しました。
この会見の結果、在留邦人の帰国事業は、約一年で無事全員が完了しています。
こうして北支の日本人は、ほぼ全員が無事に日本に復員することができたのです。
全てを終えた根本中将は、昭和二十一(1946)年七月、最後の船で日本に帰国されました。
それから三年経った昭和二十四(1949)年のことです。
Chinaでは国共内戦が激化し、戦いは共産党軍の圧倒的勝利に終わろうとしていました。
東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語りました。
傳作義将軍は、根本中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
そのころ、China本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていましたが、敗退につぐ敗退です。
このままでは蒋介石の命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢にあったのです。
「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」という李鉎源の申し出に、根本中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだと、確信したといいます。
けれど、当時はGHQが日本を統治していた時代です。
旧陸軍士官に出歩く自由はありません。
しかも無一文です。
渡航費用がない。
けれどある日、根本中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に「釣りに行って来る」といい残して家を出ました。
そしてそのまま、台湾に渡航するための工作活動にはいったのです。
ちなみに昔の帝国軍人というものは、仕事のことを一切家族に言わないのが常識です。
軍事は機密事項であるし、軍は人と人との人間関係が極めて濃厚な場所です。
あいつは気に入らない、などとついうっかり妻に話し、聞いた妻がたまたまその相手と会ったときにしかめつらでもしたら、ただでさえ濃厚な人と人との繋がりにひびがはいる。
昨今では「軍は命令で動くもの」とばかり思っている人が多いけれど、それ以上に、みんなが納得して動く、動ける状態を築いていたのが帝国陸軍です。
やらされて戦うのではない。感情面と理性面の両方で戦いを納得していたからこそ、帝国陸軍は強かったのです。
このことは日本人なら、誰でもすぐに納得できることだろうと思います。
けれど人間関係を上下関係だけでしかみようとしない戦後左翼に染まると、これが見えなくなる。
不思議なものです。
さて台湾を行きを決意した根本中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会っています。
明石元長は台湾で育ち、戦後は日本にいて台湾からの留学生や青年を援助していました。
台湾に国民党がやってきて以降、彼ら国民党が、元からいる台湾人(旧日本人)を何かと差別し、いさかいが耐えないことは明石元長も承知しています。
しかし蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭う。
チベット、ウイグルの悲劇は、そのまま台湾民衆の悲劇となるのです。
明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えていました。
そのためには、戦いの神様と呼ばれた根本中将を台湾に送り込むしかない。
けれど終戦直後のことです。
明石も無一文なのです。
根本中将に声をかけたはいいけれど、中将を台湾まで渡航させるための費用がない。
当時、金策に駆け回っていた明石氏の手帳には、「金、一文もなし」と書かれています。
どれだけご苦労されたかが偲ばれます。
明石は、資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
根本中将は、その釣り船に乗って、昭和二十四(1949)年六月二十六日、延岡の港から台湾に向かって出港します。
しかし出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻り、そのわずか四日後に過労で死んでいます。
まだ四十二歳の若さでした。いまでいう過労死です。
根本中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
ところが途中の海は、大しけです。
出港から四日目には船は岩礁に乗り上げ、船底に大穴をあけてしまったのです。
乗員全員で必死にバケツで海水を汲み出し、板を貼付けて応急処置し、しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、台湾に向かいました。
そして出港から十四日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市の基隆(キールン)に到着したときは、船はボロボロ、乗っていた根本中将以下全員は、まるで浮浪者姿です。
これでは怪しい人と見られても不思議はありません。
一行は全員、その場で密航者として逮捕されてしまいます。
ちなみに当時の中将の写真が残っていますが、平素どちらかというと下膨れで、どっしりとした体型の根本中将が、このときばかりは、頬がこけ、手足もガリガリに痩せ細っています。
ご苦労がいかばかりだったか偲ばせます。
台湾に到着したばかりの頃の根本元中将 根本中将は牢獄の中で、通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と何度も主張しました。
けれど看守達は、
「何を寝ぼけたことをいっているのか」とまるで相手にしませんでした。
まあ、あたりまえといえばあたりまえです。
それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がります。
そのウワサを聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。
鈕中将は、根本中将が北China方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
この話を聞いたとき、鈕中将は反射的に椅子から立ち上がったそうです。
根本中将の人格と信念を知る鈕中将は、
「あの人なら、台湾に来ることもあり得る」と直感したのです。
人物ほど行動が早いものです。
鈕中将はその場で車を基隆(キールン)に走らせました。
鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせました。
根本中将らは、急に看守達の態度が変わったので、
「いよいよ処刑か」と覚悟を決めたそうです。
そこへ鈕中将が現れました。
鈕中将は、根本中将の姿をひとめ見るなり、
「根本先生!」と駆け寄りました。
その手をしっかり握りました。
それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきた鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きな存在であったことか。
根本中将らは鈕中将とともに、八月一日に台北に移動しています。
そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。
湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍です。
日本語も流暢です。
二人は、すぐに打ち解けました。
さらに根本中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、蒋介石総統の耳にもはいります。
蒋介石も行動は早い人です。
その場ですぐに根本中将に会見を求めました。
根本中将が応接室に入ると、蒋介石は、「好(ハオ)、好、好、老友人」と固く手を握ったそうです。
老友人というのは、古くからの信頼する友人という意味です。
しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で根本中将に切り出しました。
「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行く。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を見てきていただきたい。」
即座に快諾した根本中将に、蒋介石は感激して「ありがとう、ありがとう」と繰り返しました。
実はこの会見の二ヶ月前に、国民党は上海を失っていたのです。
上海防衛軍を指揮していたのは、湯将軍でした。
そこへ共産党軍が殺到したのです。
上海を失った事で、国共内戦の行方は誰の目にも明らかとなりました。
五日前には米国務省も、「Chinaは共産主義者の手中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」と、公式に国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのです。
上海を失った国民党軍にとって、China大陸での最後の足場が福建でした。
それも、海岸沿いにある商都、厦門(アモイ)界隈だけが、国民党が守る唯一のChina大陸での足がかりとなっていました。
つまりここを失えば、国民党は完全にChina本土の支配権を失い、一方で共産党軍が、一気に台湾まで攻め込んで来れば、もはや蒋介石の命もないという追いつめられた情況にあったのです。
福建行きを承諾した根本中将を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせました。
いくら根本中将が恐縮して辞退しても、湯将軍はそれを許さなかったといいます。
戦を知る湯将軍は、それだけ根本中将の実力を理解していたのです。
昭和二十四(1949)年八月十八日、根本中将ら一行は、福建に向けて出発する。根本中将は、国府軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られたChina名の「林保源」を名乗りました。
厦門(アモイ)に到着した根本中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この島は守れない」と判断しています。
商都、厦門は、厦門湾の中にある島です。北、西、南の三方を大陸に面し、狭いところではわずか二キロしか離れていない。三方から攻撃を受ければ、島はあっという間に陥落してしまいます。
さらに厦門は商業都市で、二〇万人もの住民が住んでいます。
そんな場所で戦えば、当然、民間人に犠牲が出てしまう。
さらに戦闘になれば、軍隊だけでなく、民間人の食料も確保しなければなりません。
二〇万食です。
食糧の自給は覚束きません。
つまり持久戦ができない。
一方すぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外側に位置します。
海峡の流れが速く、これを乗り越えるためには、速度の速い船を使ってもスピードは出ません。
つまり上陸に時間がかかるのです。
しかも島の人口はわずか四万です。
島民達は漁業やさつまいもの栽培で生計を立てており、食料自給ができます。
つまり大陸との通行を遮断されたとしても、金門島を拠点にすれば長期間戦い抜ける。
その日の夜、根本中将は、湯将軍に、自分の考えを話しました。
そして「共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません」と断言したのです。
しかし湯将軍は押し黙ってしまう。
すでに上海を失っているのです。厦門を放棄すれば、共産軍は厦門を落としたと宣伝する、そうなれば湯将軍は再び敗軍の将となり、ひいては蒋介石の信頼をも失うことになるやもしれない。
けれど根本中将は言いました。
「いまは台湾を守ることが、国民党政府を守ることです。
そのためには戦略的に金門島を死守することが力となります。
自分の名誉ではなく、台湾を守る道筋をつけることが、軍人としての務めではありませんか?」
この言葉に湯将軍は決断します
「厦門は放棄。金門島を死守する。」
基本方針が固まると、さらに根本中将は作戦を深化させます。
共産軍は海軍を持っていません。
彼らが海峡を渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めることになるだろう。
ジャンク船なら、海で迎え討つこともできるが、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。
根本中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を再び採用します。
海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
まさに硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。
根本中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示を与えてまわりました。
十月一日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発せられると、勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に対し、「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけのことだ」と豪語します。
十月半ばには金門島の対岸にある港でジャンク戦の徴発を始め、船がまとまった十月二十四日の夜、いよいよ金門島への上陸作戦を始めました。
この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍二万の兵士であふれかえったのです。
彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありません。
共産軍は悠々と全員が島に上陸し、露営の構築に取りかかりました。
そのときです。
突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。
火の手はあっという間に広がり、油を注がれた木造の小船は、見るも無惨に焼けてしまったのです。
そして夜が明ける。
辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。
そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車二十一両が現れ、三十七ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかったのです。
船は既にありません。共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちました。
これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。
そしてそのまま一気に古寧頭村に攻め込もうとしました。
ところが根本中将は、これに待ったをかけます。
「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ」
「村人たちが大勢殺されたら、今後、金門島を国民党軍の本拠として抵抗を続けていくことが難しくなる」というのです。
そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させ、南側から猛攻をかける。つまり敵に逃げ道を作って攻めかかり、北方海岸方面に敵を後退させ、そこを砲艇で海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を包囲殲滅するという作戦を、湯将軍に進言します。
湯将軍は、根本中将のあまりの作戦見事さに、これをそのまま採用した。
十月二十六日午後三時、根本中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。
敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退しました。
そこにはあらかじめ、砲艇が待機しています。
砲艇が火を吹く。
反対側から戦車隊が迫る。
共産党軍に逃げ場はありません。
砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し、午後十時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏したのです。
この戦闘で共産軍の死者は一万四千、捕虜六千となりました。
国民党軍は、怪我人を含めて三千余名の損傷です。
戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。
わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が殲滅したというウワサは、あっという間に広がります。
これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだとも・・・。
日本陸軍の強さは、当時、世界の常識です。
その日本の戦神が、国民党軍のバックについた。
それは共産軍からみれば死神以上に恐ろしいことです。
共産軍の進撃は完全に止まりました。
そして金門島は、それから六十余年を経た今日も、台湾領でいます。
十月三十日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋する。湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
けれど根本中将は、「China撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語りました。
そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。
ただ、行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国されています。
羽田に着いたとき、タラップを降りる根本中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
それはあたかも、「ただちょいとばかり釣りに行ってただけだよ」といわんばかりの姿でした。
中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出られました。
そのときの釣り竿をずっと持っていたのです。
どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない、それは根本中将の、父として、夫としての家族へのやさしさだったのかもしれません。
奥さんも実に立派です。
奥さんも、いまもまだご存命の娘さんも、そうした父の姿を咎めることをまってくしていないのです。
夫が行方不明の三年間、それはそれはご家族には苦労があったことでしょう。
その三年間に夫が何をしてきたのかも知らないし、わからない。
夫も語らない。
けれど、そういう夫が、何かお役にたつことをしてきたという、その一点だけは完璧に信じられる。
だから問わない。
聞く必要もない。
それが知るべきことなら、いつか知る時が来る。
それまでは夫を信じるだけ。
これが日本の武人の妻です。
おそろしいほどの信頼関係です。
私は中将の奥さんも実に立派だったと思います。
根本中将とこれに従う武人たちの働きは、蒙古の地にあっては四万の邦人の命を救い、北支にあっては三五万人の邦人の生命を守り、金門島にあっては台湾人一千万の人の命を保護しました。
そして自らはそうした功績を一切誇ることもなく、また何らの報奨を受けることなく、そればかりか何も語らず、一介の国民としてその生涯を閉じています。
これが正義でないというなら、いったい何をもって正義と呼ぶのでしょうか。
我が国の鍛え上げられた武人の精神が、いかに多くの民の命を救うことになるのか、そのことを私たちはしっかりと学び、後世に伝えるべき責務を負っていると思います。
※この記事は2012年11月の記事をリニューアルしたものです。
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台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡VIDEO ■ ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
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http://www.mag2.com/m/0001335031.html やまと新聞 小名木善行の「百人一首」 第4回VIDEO
コメント
Leshakko
この方も勇武、政略に優れた手腕を見せられた軍人でした。
それにしても昔の帝国軍人は凄い。
陸海問わず名将の名に相応しい方々ばかり。
今日においても中共には武を以て示すのが一番。
督戦隊が必要なほど逃げ腰の軍隊に何ができるか。
我が国に対して忘恩この上なく、執拗に領土、歴史問題を蒸し返すならば、最後に残るものは”討つべし”でしょうね。
政府がどの様な局面で中共を叩くのかは分かりませんが、
経済面で追い詰めるだけではなく、到底手出しができないと思わせる事も必要な事でしょう。
これをやらないから舐め切った態度を取るのです。
2015/05/10 URL 編集
-
松井老少将は、語った。
「私はなぜ、おめおめ生きているのか、なぜにーそう、答えは一つだけだ。シナへもう一度ゆきたいからだ。拉孟へゆきたいからだ。
私の命令で死んでいった人々の遺骨を、私のこの手で拾って、日本へもちかえりたいからだ。
だが、それができない。たったそれだけのことが、いまの日本にできない。
私はそういう日本を憎む、憎まずにはいられない。憎むこといがいに、いまのこの私に何ができるというのだ」
小じわの刻まれた少将の目から、涙がとどめなく溢れでる。
風景も変わってしまったが、人間の姿や心まで変わりはててしまった。
それを見るのが哀しかったからである。
祖国の為、将来の日本民族が、豊かに暮らせるようにと獅子奮迅の戦いをして、死んでいった日本の将兵達に、未だ何もしてやれていないような気がします。
見せかけだけの繁栄にひたり、溺れきっている、軽薄な経済大国ニッポン
一将功成りて万骨枯る
乃木将軍も詠まれたものですが、この日本国の為、祖国の彌榮を願って、戦ってくれたご先祖様の想いを、少しでも、わずかでも汲み取ることこそが、日本国民たる矜持ではないでしょうか。
「もし玉砕して、そのことによって
祖国のひとたちが、すこしでも
生を楽しむことができれば
祖国の国威が、すこしでも強く
輝くことができればと
せつに祈るのみである
遠き祖国の若き男よ
強く逞しく、朗かであれ
なつかしい遠い祖国の
若き乙女たちよ
清く美しく、健康であれ」
ー玉砕せる一兵士の遺書よりー
この想い、無駄にしてはなりません。
2015/05/09 URL 編集
junn
http://ameblo.jp/kororin5556/entry-11525979153.html
南朝鮮の法改正は、帰化していても徴兵義務を果たしていなければ帰化を認めず、二重国籍に帰すというものである。二重国籍になれば当然日本への帰化は取り消される。全ての在日と帰化人の資料が既に民主党の帰化議員や民団幹部により南朝鮮政府に渡された。私はお目こぼしと言うことなのだが、事後法を次々と作る国だから、いま大丈夫でも将来もというわけではない。日本には信じられないほどの情報網が張り巡らされている。到底逃れられるものではないだろう。
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/33e4904bc117d4e5e02f84bc4a3ffac4
超強烈電磁波IH調理器、オール電化の甘言に騙されるな!
http://deeksha777.blog88.fc2.com/blog-entry-175.html
2015/05/09 URL 編集
じゅんちゃん
2015/05/08 URL 編集
名無し座
本来の日本人とは、日本人としての心意気とはかくあるべき
と再認識いたしました。
私なぞ全く足元にも及びませんが、幾許かの覚悟はございます。
良き日本を取戻すため、
半島人に食い荒らされつつある今の社会を元に戻すため
ささやかながら老骨に鞭を打って尽力する所存です!
2015/05/08 URL 編集
やまとどくだみ
金門島の名物に‘金門包丁’というのがあるそうです。これの由来がなかなか興味深い・・・大陸側から突然一方的に砲撃された、金門砲戦の砲弾をリサイクルして包丁を作ったのがそもそもの始まりだそうです。転んでもただでは起きぬ台湾金門島民のガッツを感じます。もし訪台したらぜひ入手したいと思います。
2015/05/08 URL 編集
junn
まず今回記事では「この状況下では...」「不測の事態が発生しても...」「万万が一に備えて...」「まさかの時には...」という前提条件を無視していること。また中国と紛争、戦争といった事態になった場合の「台湾人が中国人と間違えられないよう」注意勧告メッセージであって、そもそも在日は関係がありません。
次に「準日本人扱い」という用語に「上目線」「失礼だ」という誹謗中傷コメントですが日本語の読解力の低さにあきれるばかりです。「準」という漢字の意味がわかっていません。
日本人ならこの用法と意味に二種類あることを別に意識せずに使っています。
明らかに「準優勝」というような二位とか、はっきりとして区別をする場合。そしてもうひとつは「準用する...」「準じて...」というように「同じような...」という意味を含む使い方です。以前、「朝鮮戦争再開という有事における米国人撤退の際の外国人撤退優先順位に日本人は準米国人として...」という話がなぜか韓国人に漏れてしまって、韓国人を差別していると発狂していたことを思い出しますが、要するに置き換えれば、有事には台湾人を中国人と区別して「準日本人として...」という同じような意味ですね。
有事の場合に日本が自国民の生命、財産を守ることは当然として、他の友好国と同様に、中国人と見分けのつかない、また国として処遇されていない台湾国民も守りますよという話ですよ。中国や半島有事の場合、韓国は切り捨てられるのがはっきりしていますから一連の書き込みに見られる火病の悪化はそのやっかみが原因のようですね。
http://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2015-03-22
2015/05/08 URL 編集
都民
2015/05/08 URL 編集
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2015/05/08 URL 編集
にこちゃん
中共が日本を憎たらしく思う理由のひとつでしょうね。
蒋介石もあんまり好きじゃ無いんですが、在留邦人の帰国に協力してただなんて、これも知りませんでした。
動画もありがとうございます!
ねずさんのお話は本当に勉強になりますよ~。
2015/05/08 URL 編集
にっぽんじん
その中にあって、何故か韓国だけがネパール政府から「支援は不要」と拒否されています。救援隊の規模の問題かと不思議に思っていました。が、どうやら規模ではなく、韓国の「犯罪行為」に起因しているようです。
それが原因かはわからないが、韓国から行った登山隊員がネパール人から暴行を受けたといったニュースもあります。下記は英国の報道です。朴大統領は「外交は信頼が重要だ」と発言しています。
犯罪行為も「信頼外交」の一つでしょうか。
【背後に世界的韓国人身売買組織】ネパール地震、貧村で被災した若い女性達が人身売買ターゲットに―英紙
2015年5月5日、英紙ガーディアンは、ネパールで起きた大地震で被災した若い女性たちが人身売買のターゲットになっていると報じた。
同紙によると、7000人以上の死者が出ているほか、貧しい農村地帯に住んでいた数十万人が家も持ち物も失っている。それらの地域に住む若い女性や少女らは、これまでも人身売買のターゲットとなっており、韓国などで売春婦として働かされてきた。
国連や地元NGOによると、ネパールで人身売買の犠牲となっているのは毎年1万2000人から1万5000人に上るとみられており、韓国や遠くは南アフリカまで連れて行かれ、売春婦として働かされているという。
首都カトマンズにあるNGOの担当者は、人身売買のブローカーたちは、災害時を利用して支援という名目で女性たちを誘い出す実態があると指摘し、人々にそういう情報を知らせるための活動も行っていると述べている。
[レコードチャイナ 2015.5.6]
http://www.recordchina.co.jp/a108162.html
2015/05/08 URL 編集
敦子
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世界虐殺者ランキング
■第1位 毛沢東 (中国共産党) 7,800万人
毛沢東は良識ある人たちすべてを憎悪し、抹殺を指令した。
知識人などを切り刻んで調理し皆で食べた。この虐殺は毛沢東の死ぬ1977年まで続いた。
■第2位 ヨシフ・スターリン (ソ連共産党) 2,300万人
様々な強制収用所を100箇所以上作り、労働させて殺した異常者。
■第3位 ポル・ポト (カンボジア) 170万人
■第4位 金日成 (北朝鮮) 160万人
■第5位 李承晩 (韓国) 150万人
自国民=韓国人を殺害しまくった異常者。
参考: http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/53112772.html
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平塚パラヤン女
2015/05/08 URL 編集
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2015/05/08 URL 編集
鬼子
今朝のニュースで米つくりの特集をしており、大規模農家を支援せずに、麦や畜産米を作ることを薦める国(政府側)の者の度低落ぶりに憤怒しました。
農家が地主に田んぼを返却せざるを得ない悲惨な状況でも支援せずに、米以外のもの作れ」、思わず「無能!」と叫んでしまいました。
こんな日本がどういう国だか分かっていない者が国政を担っていいはずありません。全員首にして入れ替えるべきなのです。
どこぞの「うわぁーーん、国を変えたい~、わぁぁ~ん」と泣いた野〇村議員のようなのがいるなんてもう終わっています。(思い出しただけで笑ってしまいます。)ちなみにこの野々村議員、水を朝鮮飲みで飲んでますね。おや?
余談、メディアでもヤラセが相次いで発覚しています。57歳ニートが母親の年金分けて暮らしていると堂々と報道してましたが、実際は吉本興業の芸人でした。もうメディアいりません。日本にこんな胸糞の悪い者おいといてはご先祖様に申し訳ないです。根本より国を変えなければという想いが強くなっています。
2015/05/08 URL 編集
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在日俳優、隆大介について台湾メディアは、きちんと在日韓国人の張明男と本名で報道していました。素直に台湾メディアは立派だなと想いました。台湾の報道姿勢が世界の常識ですよ。日本のマスコミは、あまりにもお粗末です。
2015/05/08 URL 編集
yuki
以前、「民主党の功績」を投稿させて頂いた者です。
昨日、こんな酷い記事を読み、コミュで拡散中です。
出来れば全国区のねず様にも取り上げて頂きたいと思い、投稿しました。
英紙ガーディアン:「被災したネパールの少女たちを韓国人が買い漁る!1万5000人が売春婦に!」
http://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-12023603634.html
世界は人身売買を公然と行なう韓国と在日を武力制裁すべき!
韓国と在日韓国人社会が行なっている韓国人売春を壊滅させよ!
なでしこりんです。イギリスのガーディアン紙が恐ろしいニュースを配信しています。韓国人の正体を知っている人なら「韓国人ならやりかねない」と思うでしょうが、日本のマスゴミの半分は韓国人犯罪を隠します。ですから韓国人による人身売買が日本にも関係するとは露にも思わないでしょう。しかし、こういう「人身売買の犠牲者」が「韓国~在日韓国人社会」ルートを使って日本にも流れていることを私たち日本国民は気付くべきです。
恥ずべき韓国は今も昔も人身売買国家です!
2015年5月5日、英紙ガーディアンは、ネパールで起きた大地震で被災した若い女性たちが人身売買のターゲットになっていると報じた。同紙によると、7000人以上の死者が出ているほか、貧しい農村地帯に住んでいた数十万人が家も持ち物も失っている。それらの地域に住む若い女性や少女らは、これまでも人身売買のターゲットとなっており、韓国などで売春婦として働かされてきた。
国連や地元NGOによると、ネパールで人身売買の犠牲となっているのは毎年1万2000人から1万5000人に上るとみられており、韓国や遠くは南アフリカまで連れて行かれ、売春婦として働かされているという。
首都カトマンズにあるNGOの担当者は、人身売買のブローカーたちは、災害時を利用して支援という名目で女性たちを誘い出す実態があると指摘し、人々にそういう情報を知らせるための活動も行っていると述べている。(Record China 配信日時:2015年5月6日(水) http://www.recordchina.co.jp/a108162.html
2015/05/08 URL 編集