百人一首の日



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20150529 花菖蒲


過ぎてしまいましたが、5月27日は「百人一首の日」でした。
テレビでも「百人一首の日」として紹介していたようですが、正確にいうと、ちょっと違います。
この日は藤原定家の「百人秀歌」の日であって、百人一首はその後に書かれたものです。

文暦2(1235)年5月27日のことです。
この日の定家の日記(『明月記』)に、彼が宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めで和歌百首を小倉山荘障子に貼ったと書いてあります。
だからこの日が百人一首の日だというのですが、ちょっと違います。
これは定家73歳のときのことだからです。

すこし時代を振り返ります。
結構感動します。

実は藤原定家は、58歳のときに後鳥羽院と政治的に対立し、謹慎処分を受けてしまいました。
何があったのかというと、定家はそれ以前に、鎌倉の三代将軍源実朝を和歌の弟子にし、鎌倉武士団と京の都の公家文化の融和を必死になって図っていたのです。
これは尊敬する式子内親王のご遺志でもありました。

ものの本によると、式子内親王と定家は「できていた」などと書いているものがありますが、とんでもない話です。
式子内親王のほうが14歳年上というだけでなく、若い頃から定家は式子内親王を心から尊敬し敬愛していたのです。

ちょっと考えたらわかろうものですが、たとえば今の時代なら佳子内親王殿下です。
とてもお美しくて頭もよく、内面からの輝きをもった皇女です。
同じく才能豊かな藤原定家が、この人のためなら生命だって惜しくないと、そう思わせるだけのものをもった女性です。

その式子内親王が、晩年になってお体をお壊しになり、決して具合のよくない状況でありながら、平安から鎌倉時代へと動く激動の時代の中で多くの人の生命が奪われる。
そのことをとってもとってもご心痛になり、世の平穏を願って百首の歌を詠み奉納しました。
そしてその中の一首を、藤原定家に、笑って手渡したのです。

それが百人一首の89番にある、
 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
 忍ぶることの弱りもぞする

です。
玉の緒というのは、昔は、肉体と魂(玉)は緒でつながっていると考えられていました。
ですから「玉の緒が絶える」というのは、「肉体が死ぬ」ということです。
すでに重い病気となり、死を覚悟された式子内親王は、私の生命なんかどうなっても構わない。
もう、耐え忍ぶ気持ちさえも弱くなってしまいました、と詠んだ歌を定家に渡したのです。

だから不倫だ、恋愛だと騒ぐお馬鹿な学者もいるようですが、そんなんじゃない。
お体の具合を悪くされながらも、それでもなお世の中の平穏を願い続けて、でも、世の中は音を立てて崩れていく。人が人と殺しあう。それが毎日続く。
なんとか平和な日々に戻ってきてほしいと願い続ける。
けれど、その気持も、もう弱ってしまいそうです。私は近く死んでしまうことでしょう、と、こう詠んでいるわけです。

和歌というのは、「察する文化」です。
歌の詠み手の思いを、読み手は察する。

そして藤原定家は、政治家でもあり、高級官僚でもあり、そして当代一の歌人であった人です。
その藤原定家に、式子内親王がこの歌を託したというのは、藤原定家に何事かを託した、ということです。

では式子内親王は、定家に何を託したのか。
世の平和を取り戻すこと以外にはありません。
そしてそのことを、武人ではない、歌人の定家に託したということは、殺し合いを続ける鎌倉武士達にも、殺さない文化、殺し合いになる前に、互いに察して事態を解決する文化を、是非とも定着させてほしいというメッセージです。

すくなくとも藤原定家は、式子内親王の歌を、そのようなメッセージとして受け止めました。

藤原定家は、考えに考え、鎌倉の三代将軍源実朝を、自分の和歌の弟子にすることを思いつきます。
そして定家は和歌を通じて、五百年続いた天皇と大御宝の平和で安定した世が、どのように生成され、形成し、発展し、その結果どのような文化が根付いたのか、そこにある本質とは何かを、徹底して実朝に仕込みました。

源実朝は、頭の良い青年です。
ものすごい吸収力を発揮して、定家の教えをどんどん吸収して行きました。
鎌倉では、「こんどの三代将軍は、貴族ボケして歌ばかり詠んでいる腰抜けだ」と悪口を言うものもいました。
けれど、そのように批判したり対立的に物事を考えること自体が、敵対を生み、殺し合いを呼び、世の中を乱すのです。

藤原定家にしても、源実朝にしても、いまさら貴族の世が戻ってくるとは思っていません。
武力をもった武士団という強力な政治勢力がすでに誕生しているのです。
問題は、その武士団という武闘勢力の力を、いかに平和的な勢力に変えていくか。

武を抑えるために武を用いたら、争いは大きくなります。
その典型が源平合戦です。

武を抑えるためには、武を抑える思想を定着させていかなければなりません。
十七条憲法には、第十六条に「古之良典(古の良典を用いよ)」とあります。
混迷する時代を乗り切るためには、古典にその知恵を求める。
歴史は繰り返すものだからです。

定家は、和歌を通じて、実朝に察する文化を、そして十七条憲法にある精神を伝えて行きました。
実朝はそれによく答えてくれました。
これでようやく、世の平穏を取り戻すことができる。
そう定家が確信を持った矢先、その源実朝が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮で刺殺されてしまうのです。
1219年、定家57歳のときのことです。

最後の頼みの綱が、切れてしまったのです。
後鳥羽院は「もはや鎌倉政権との武力衝突やむ無し」として、さかんに過激発言を繰り返しています。
このままでは、後鳥羽院の要請に応じて地方の武士団が挙兵し、世は再び戦乱の世となってしまいます。
「それでも戦うべきだ」と後鳥羽院はおっしゃいます。

けれど定家は、「それは違う。断じて違う。短慮を起こさず、どこまでも平和の道を築いていくべきだ」と主張します。
後鳥羽院はそんな定家に激怒しました。
「お前の顔など見たくない。二度とオレの前に顔を出すな。歌会にも出入り禁止じゃ!」

この時点で藤原定家は、政界を引退し歌人として、歌の指導などをして生きています。
それが歌会にさえ出入り禁止という。
つまり、後鳥羽院のこのお言葉は、定家に死ねと言っているようなものです。

定家は謹慎処分となりました。
都を事実上追い出され、小倉山に蟄居(ちっきょ)です。

翌年、後鳥羽院は鎌倉幕府倒幕のため挙兵をします(承久の乱)。
けれどその乱は、事前に発覚し、後鳥羽院は隠岐に流されてしまう。

わずか1年前、後鳥羽院と激しく対立し、中央政界を追われた藤原定家は、今度は中央政界と鎌倉をつなぐ政界の実力者として高い官位を得て、政治的影響力を増したのです。

けれど、だからといって調子に乗って政治の世界で権力を揮うことを、定家は望みませんでした。
むしろ、飛鳥、奈良、平安と続いた大和文化を、源氏物語、土佐日記など、様々な作品の書写や評釈を通じて、日本の文化そのものを拡散し、日本の持つ文化性そのものを時代が取り戻せるよう、必死の努力を続けたのです。

このあたりの定家の行動は、非常におもしろいものです。
世の中から、政界への復帰を求められながら、後鳥羽院と政治的に対立しながらも後鳥羽院を尊敬していた定家は、喜々として政界に復帰するのではなく、取り戻すべき日本の文化そのものを取り戻すべく、そのまま謹慎蟄居先である小倉山に篭って、文化の伝承者としての道を選ぶのです。

それから11年、71歳になった藤原定家は、後堀河天皇から、新たな歌集の編纂を命ぜられました。
そしてまる三年をかけて『新勅撰和歌集』をまとめあげます。
その『新勅撰和歌集』の中から、さらに抜き出した百首の歌を、宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めで小倉山荘の障子に貼ったのが、1235年の5月27日のことでした。

これが5月27日が「百人一首の日」とされる根拠になった日です。
けれど、そこに貼りだされた百首歌(『百人秀歌』)と『百人一首』は、似てはいますが、実は別なものです。

翌年(1236年)、75歳になった定家は、『新勅撰和歌集』、そして『百人秀歌』をもとに、彼の晩年最後の仕事として、後世に遺すべき総決戦の歌集として、『小倉百人一首』の選出を開始します。
世の中が、平安から鎌倉へと激動し、明察功過などどこへやら、短慮と短慮が対立し衝突して、すぐに武力衝突になる。
人の生命が奪われ、世が乱れ、悲惨な殺人事件が頻発する。
女達が安心して生きられた時代はどこへやら、武器をつきつけられて着衣を奪われ、強姦され、他人の子を孕ませられたり、あるいは殺される。
毎日のように、悲惨なニュースがもたらされる。

そんな世の中がなぜ生まれるのか。
世の中の価値観が狂い、世の中の秩序が乱れ、日本人が日本人としての文化性を失っている。
だからこそ、考えられないような短慮な事件が頻発する。
「ならば」、その日本人の文化の根源を、どうやって世間に知らしめ、定着させていくのか。
どうやって日本を取り戻すべきなのか。
そのために何が必要なのか。

理論や理屈をいくら説いてもダメなのです。
頭でわかっても、それは行動にならないからです。
理屈では人は動かないのです。

ではどうしたら良いのか。
人は感じて動くものです。
だから「感動」といいます。

そうであれば、感動のなかに、取り戻すべき日本の姿を浮き彫りにする。
和歌には感動があります。
ならば、その和歌を効果的に配置することで、和歌を順に読み解いて言ったら、誰もが感動し、日本の文化を取り戻そうとする決意を新たにする。
そういう歌集を創ろうではないか。
それは、勅撰和歌集のような長大なものではなく、そうだ。百首くらいがちょうどよい。
百人の歌人から一首ずつ、百首の歌で、大和の文化を全部語り尽くしてはどうだろうか。

いやまて。
せっかく歌集にしても、その歌集自体が歴史の中に埋没してしまってはなんにもならない。
それに、五百年続いた平和な日本が、いまこうして音を立てて崩れた今、その日本が、再びもとの美しい姿を取り戻すには、いったいどのくらいの歳月がかかるだろうか。
もしかすると、それは五百年?、いや千年はかかるかもしれない。

であれば、千年の間、歌の意味さえも失われてしまったとしても、その歌だけは生き残る。
そうだ。歌には言霊がある。
その言霊の美しさだけは生き残る。
そしていつの日か、きっとその歌の意味を理解する者が現れるに違いない。
それがいつのことかはわからない。
けれど、その日まで、歌集が生き残ってくれなければならない。
そのためには、たとえどんなに歌が貶められたとしても、あるいは言葉が失われてしまったとしても、それでも音の美しさだけで口承され、人々に愛され続けるだけの歌を、選ばなければならない。

定家は、それまで自分が学んだ全ての知識と情熱を傾け、晩年最後の仕事として、百人一首の編纂を開始しました。
たった百首の歌を選び、配置するのに、まる4年の歳月がかかりました。

1241年、藤原定家は、79歳で永眠しました。
そして定家が晩年の全情熱を傾けた百人一首は、小倉山荘に残った彼の遺産とともに、彼の遺族たちによってまとめられ、桐の箱に大切に入れられ、藤原家の蔵にしまわれました。
百人一首は、こうして藤原定家の死とともに、完全に倉庫に眠ったままになってしまうのです。

その百人一首が、あらためて世に出てきたのは、なんと定家の死後230年経ったあとの時代のことでした。
応仁の乱が終わった戦国中期です。
この時代、世の中の価値観は混乱し、細川家といえば当時は大大名の家柄でしたけれど、その細川のお殿様のところの家人たちが、貴族である西園寺さんの家を襲い、西園寺さんの娘さんの着ている衣装まで(下着まで)剥いで持ち帰ってしまう。
貴族たちの荘園は、武士団によって片端から強奪され、貴族たちの生活は困窮を極め、その荘園を奪った武士達は、また別な武士達に殺され、奪われる。
そんなことが日常的に繰り返された時代となっていました。

どうしてこのような混乱が起きたのか。
理由は、三代将軍足利義満にあります。
義満は、明国と交易を開始し、明国皇帝から日本国王の宣旨を受けました。

「国非二君(国に二君なし)」とは聖徳太子の十七条憲法の第12条にある言葉です。
義満は、それを破り、国に天皇と、Chinaの王朝から柵封を受けた日本国王の二君を形成してしまったのです。
このことが世の中の秩序を乱しました。
そして日明貿易は、巨大な富を足利将軍家にもたらしましたけれど、同時に、ChinaやKoreaから大量な人が日本に移住してくる結果をもたらしました。

当時の日本は、秩序が乱れ、人が人と殺し合い、奪い合うたいへんな状況にありましたけれど、それでもChineseやKoreanからしれみれば、日本はきわめて治安の良い安定した国だったのです。
なぜなら、彼らの国では、支配層がただやみくもに、被支配層の人々から、財も女も食い物も衣類も、それどころか生命まで、まるで虫けら同然に殺し、奪っていく。
だから、田畑そのものが育たない。
それどころか、村落共同体自体が育たない。
なぜなら、武器をもった軍隊がやってきたら、村人たちはただ逃げるか殺されるかしか選択肢がない。
彼の国では、軍隊と暴徒と極道は同じものなのです。

そんなChinaやKoreaからみたら、日本はまるで極楽です。
上に述べた西園寺家にしても、なぜ細川家の家人に襲われたかといえば、西園寺家はなんら武装していないのです。ガードマンさえいない。だから簡単に襲うことができる。

そして襲った側も、綺麗どころの娘さんを丸裸にして着衣まで奪って逃走したけれど、娘さんを強姦などしていないのです。
目的は美しい衣類を奪うことにあり、強姦は恐れ多かったのでしょう。

そんな日本に、ひもじくなれば人の肉でも平気で食らうという異人たちが大挙してやってきたわけです。
治安が乱れ、毎日のように、少年が殺害されたり、マンションのエレベーター前で主婦が(子供の見ている前で)殺害されたり、とんでもない事件が相次いで起こる。
いまから500年前のことです。

そんな時代にあって、さしもの藤原家でも、困窮を極め、先祖の遺産を処分することになります。
そして連歌師の飯尾宗祗(いいおそうぎ)に、藤原定家の遺産箱の処分を委託しました。

箱の中をあらためた飯尾宗祇は、そこで百人一首を発見します。
飯尾宗祇は連歌師です。歌の専門家であり、察する文化の継承者です。
「藤原定家は、『新勅撰和歌集』を編纂していながら、なぜ、あえて『百人一首』を編纂したのだろうか。」
この疑問が、すべての答えの手がかりとなりました。

勘の鋭い飯尾宗祇は、瞬く間に『百人一首』が持つ歌の深み、そして藤原定家の「日本を取り戻したい」という強い情熱を見抜きます。
そして彼の主催する連歌会のメンバーを中心にして、百人一首のいわば「研究会」を彼の仲間たちと発足させます。

それは、毎日が驚きの連続でした。
900年前の大化の改新からはじまる日本の大きな改革。
それを成し遂げた天智天皇、それを完成させた持統天皇が、天皇として自ら政治権力を揮うのではなく、むしろ権威というお立場となって、民衆を大御宝(おおみたから)とし、自らは農作業やお洗濯をして、民とまったく同じように労働に精を出されていたこと。

そして平安中期になると、安全で安心な社会の中で、数多くの女流歌人たちがのびのびと人生を謳歌していたこと。

その平安な時代が音を立てて崩れ去ろうとしたとき、どんな気持ちで人々が時代を取り戻そう、時代を支えようと努力したのかということ。

それはまるで、神秘の扉を開けて冒険するような、たいへんな刺激に満ちたものでした。
こうして飯尾宗祗と、その仲間たちは、大名や豪商などを招いた連歌会の席や、あるいは勉強会を通じて、この感動と興奮を周囲に伝えていきます。

そして飯尾宗祗が晩年になったとき、宗祇はこの『百人一首』の全てを、当時、日本における古典の第一人者であった三条西実隆に、伝授します。

その三条西実隆は、全国のお大名や実力者たちから、源氏物語の書写などを頼まれていた人でもありました。
当時は、印刷技術などなかった時代です。
本は全部、書写したのです。
そして一流の学者の書写した、たとえば三条西実隆が書写した源氏物語は、いまのお金なら、1冊200万円ほどもする高価なものでした。

そしてこの写本は、使者によって注文先の豪商や大名、その奥方たちに届けられます。
これは、ただ届けるだけでは済まないのです。
使者となった者は、そこで講義を依頼されるからです。

そしてその席で、使者となった弟子たちは、同時に百人一首の伝播を行いました。
百人一首は、こうして全国に広がり、それもただ広がっただけでなく、その内容の凄みの「語り」とともに伝播したのです。

このことがきっかけとなり、戦国大名たちや当時の豪商たちの動きが変わりました。
彼らは、ただ自分の領地が富むことだけを考えるのではなく、積極的に天子様(天皇)を仰ぎ、その天皇のもとで日本をあらためて統一する。そのために働く、という選択を彼らにもたらしたのです。

そしてそのことは、そのまま、どの大名が京の都に登って、新たな日本の政権になるかを、世の中の最大の関心事にまでしていきました。
こうして今川義元が、京に上ろうとして桶狭間で討たれ、信長が天下布武を宣言し、秀吉が関白太政大臣となって政権を担い、日本が再び統一されていくことになりました。

その頃の百人一首評釈を、細川幽斎(藤孝)が書いています。
その評釈は、昨今の百人一首の解説本とは、内容がまるで異なります。
まさに細川幽斎は、藤原定家、飯尾宗祗、三条西実隆と続く、百人一首の本来の意味を、しっかりと学び、伝承した人であったわけです。

その細川幽斎の子が、細川忠興で、その妻が明智光秀の娘の細川ガラシャ夫人です。
その細川ガラシャ夫人の辞世の句が、有名な次の歌です。

 散りぬべき時知りてこそ世の中の
 花も花なれ 人も人なれ

戦国大名たちは、その中期までは、まるで文化性を失ったかのような状態でした。
けれど後期になりますと、ものすごく深い文化の香りが高くなり、そして関が原くらいの時代になると、女性たちも武将の妻として、たいへんな気丈さをみせる女性たちになっていきます。

日本が、大和人としての文化を取り戻したのです。

そして一度、文化の香りを取り戻した日本は、そのまま一気に江戸270年の太平の世を築いています。
日本は、変わったのです。

定家の時代、後鳥羽院は「平和のために戦う」とおっしゃいました。
定家は「平和を願うなら人々の心を変えなければダメだ」と言いました。
二人は激しく対立しました。

結果は、後鳥羽院は破れ、定家の願いもすぐには叶えられませんでした。
定家の願いが叶ったのは、なんと定家の死後374年経った1615年の大阪夏の陣以降のことでした。
定家の志が、なぜすぐには叶わなかったのか。
それは、元寇があったからです。

神々は、定家の時代から、すでに元寇を予見し、日本の武士達に戦いを教えていたのだろうと思います。
そして次の大きな戦いは、植民地支配との戦いでした。これはウシハク世界を相手にする壮大な戦いです。
そして日本全土が焼け野原になりながらも、世界から植民地は一掃されました。

では、次に必要なことは何でしょうか。
真に平和を求めるなら、武器を手にして戦って平和を得るのではなく、武力を行使せずに平和を実現することなのではないでしょうか。

戦後の日本の試練は、ずっとそのためのものであったような気がします。
約6000年続いたウシハク世界を終わらせ、本当の意味でのシラス世界を築く。
いま、そのための大きな戦いが始まっているように思います。


PS:今回出版した『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』をお読みになってみてください。
そこに書かれている歌の解釈こそが、藤原定家、飯尾宗祗、三条西実隆、細川幽斎と続く、本来の歌の意味であり、戦前、戦中までは、世の中の常識だった百人一首の本当の解釈です。


ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
 http://goo.gl/WicWUi</u>">http://goo.gl/WicWUi
「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。
 http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782
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コメント

伸之助

いつもありがとうございます
ねず様

ねずさんの 日本の心で読み解く 百人一首 少しずつ読んでいるところです。

以前から何度もおっしゃっている(引用させて頂きます)

理論や理屈をいくら説いてもダメなのです。
頭でわかっても、それは行動にならないからです。
理屈では人は動かないのです。

ではどうしたら良いのか。
人は感じて動くものです。
だから「感動」といいます。

ですが、科学的な根拠を理解しないと進まない分野はどうしていくのか難しい問題だと思います。

例えば放射能の危険性についてについての理解ですが、理屈で低線量の放射線を浴びても蓄積はされず人間には遺伝子を修復する能力があると理屈で説明しても

何となく不安

と言う感情の前には無力感を感じます。

百人一首の時代には原子力は有りませんし、人間には感じられない放射線に対して理屈でなく感動で動かすにはどうすれば良いのか考えてみましたがどうすればよいか良い考えが浮かびません。

ふと気になったので遅くなりましたがコメントさせて頂きました。

くすのきのこ

No title
こんにちは。今回も興味深く拝読させていただきました。
式子内親王も藤原定家も難しい時代を生きておられたのだと思います。
例によって言葉あそび・・(あそび というのは、芸のゆとりの意味で・・)
たまのおよ・・はたしてこの”玉(ぎょく)のお”あるいは”玉の御世”は
どなたを指していたのでしょうか?どなたの治世を?
幼い天皇をたて実権を握ろうとする・・そして用が無くなれば交代させる・・
そんな風潮そのものであったかもしれません。土御門上皇が自ら流されたの
は、深いお心があったからかもしれません。結局は、平氏~源氏~北条~
と存亡は続き、結局は南北朝という天皇を中央旗とした世に帰還し~足利~
さらに戦国時代の興亡~後の江戸期には尊王論に基づき「大日本史」が編纂
され・・コレが明治維新にお役立ちアイテムへと。戦国時代は乱世でしたが、
徳川に至るまでに権威の皇室、実権の幕府という2重構造の強かさに気付い
ているようで・・明治でも立憲君主国してますし。時代は繰り返すようで。

すー

No title
さっき、小学3年生の姪っことホームプラネタリウムを観ながら話していて、そばにあったんねずさんの「百人一首」の本にも姪が目を止めて「あっ!百人一首!」てすごい反応したんですよ。
「ちはやぶる」を近くの図書館で借りて読んで、自分でもおこずかいで
買ったりなんかして読んでたらしいんです。
姪のお気に入りは「十二番歌、僧正遍昭」みたいです。
ねずさんの本を読んでいたにも関わらず、うまく姪に伝えられませんでした。私の宿題となりました。
でも、小学三年生にも「百人一首」浸透してますね!図書館にも置いてあるなんて。うれしく思いました。
私の住んでいる地域はそれほど「意識が高い」というわけではないと思いますが、やっぱり概念がない子供はいいものには反応するのかなとちょっと幸せな気持ちです。

-

九条派ですね
定家は元々藤原(九条)義経と同じ家系です。
後鳥羽院の好戦的な姿勢に対応してさすがに平和的な九条派ですね。結局そちらが生き残っています。

ところで、式子内親王と定家の関係をまじめに考えている人など現在は皆無でしょう。能の定家などもあり、昔からうわさとして楽しんでいた人達もいたのは確かかと思いますし、それを中心にファンジーを膨らませて、現代まで残るような演劇が作られているのはたいしたものだと思いますが。

冷えたの阿礼

No title
シラスとはなんぞや。
人々に真実を広く知らしめるなり。

ウシハクとはなんぞや。
めをつむなり。めをつむとはなんぞや。

うるさいな。深く聞くな。そういうやつの目をつむなり。

渡辺

『ねずさんの 百人一首』大切に読ませて頂いております。ねず先生のブログに出会ってかれこれ一年と少し、随分勉強させて頂きましたが、この書籍は「集大成」ですね。先生の思いというか使命感のような、気迫が伝わってくるようです。多くの日本人に読んで欲しいし、教育の副読本にもふさわしい。
それにつけても、日本を繋いできたご先祖方に心からの感謝の気持ちが湧き、私たちも同じ様に「繋ぐ」役割を果たさなければならないという(充実感を伴う)使命感がふつふつと湧いてきます。
本当にありがとうございます。

広島日教組教育から覚醒したs31年生まれ

ありがとうございます。
いつもながら明快な解説ありがとうございます。
私も、藤原定家、宇都宮頼綱、後鳥羽上皇のあたりの文献(学術本でなく歴史小説物ですが)を読みあさりましたが、本日ねづさんの解説のような文章にたどり着けませんでした。後鳥羽上皇が定家を遠ざけた理由は「変わり者で、自分の和歌に難癖付けた」からだ、とか頼綱と定家の子供を政略結婚させるためにお近づきになったのだ!などなど、枝葉のどうでも良いことばかりが書かれており、肝心要の「日本を取り戻す!」という概念がすっぽりと抜けているがよくわかりました。
ねづさんありがとうございます。

戦後マッカーサーの左巻政策により江戸時代よりの解釈は廃棄され今に至る用になったのだと思います。学校教育でも然り。闘いはまだまだこれからですね!

次郎左衛門

…歌の心…
 ねず先生、失礼致します^^

 今日のお話も強烈に胸を打たれました…!
 日本人に本来の姿を取り戻させるため、全身全霊で百人一首を編まれた藤原定家殿には心の底からの感謝しかありません…!
彼は恐らく、神様から使命を頂いて生まれて来られた方だったと思います。
そして、現在の戦後日本はかつての応仁の乱の頃の日本の姿に似ているとねず先生は以前仰っておりましたが…その今の日本に、本来の姿を取り戻させるために再び百人一首を正しい解説を付けて出版された先生は当に、“今を生きる定家殿”に思えて仕様がありませんT T!

 ねず先生、自分は日々先生の御活躍を心から応援しております!
これからも日本の為、お身体を大切にしながら大活躍して下さいね^^

 今日も素晴らしいお話を誠にありがとうございました^^

 では!
 

にっぽんじん

戦後の日本の賠償条約
中韓は日本の戦争責任を批難し、「反省も賠償もしていない」と言い、ドイツを見習えと言います。日本ほど誠実に対応してきた国はありません。

世界の侵略国家が「謝罪して賠償」したことがあるでしょうか。韓国はベトナムに対して謝罪したでしょうか。

下記は戦後の日本が世界の各国と結んだ条約と賠償の一部です。中韓の国民は目を開いて見て下さい。中にはあまり関係ない国も含まれています。たかりのようなものです。

日本の戦後補償条約一覧は、日本の第二次世界大戦後の補償条約についての一覧を示す。

• 条約名(署名年月日/発効年月日)。賠償額。

1. 日本国との平和条約(サン・フランシスコ平和条約)(1951年9月8日/1952年4月28日)。
2. 中華民国との平和条約/議定書/交換公文(1952年4月28日/同年8月5日/ 日中国交回復に伴い終了)。
3. インドとの平和条約(1952年6月9日/1952年8月27日)。
4. フィリピン領海における沈没船舶の調査に関する交換公文(1953年1月24日)。
5. フィリピンとの沈没船舶引揚に関する中間賠償協定 (1953年3月12日/1953年10月29日)。
6. インドネシアとの沈没船舶引揚に関する中間賠償協定(1953年12月16日/発効せず)。
7. ビルマとの平和条約(1954年11月5日/1955年4月16日)。
8. ビルマとの賠償・経済協力協定/ 同交換公文(同/同)。賠償20,000万ドル(720億円)。借款5,000万ドル(180億円)[2] 。
9. スイスとの請求権解決に関する取極(1955年1月21日/1955年3月26日)。無償供与1225万フラン。在スイス資産242万フラン強。
10. 平和条約第16条義務履行に関する交換公文(1955年5月18日/即日発効)。450万ポンド(45億円)。
11. タイとの特別円協定(1955年7月9日/1955年8月5日)。清算金54億円[3]。無償供与96億円[4]。
12. グレート・ノーザン・テレグラフ社(デンマーク)請求権解決取極(1955年9月20日/即日発効)。
13. オランダとの私的請求権解決に関する議定書(1956年3月13日/1956年6月1日)。損害賠償請求権1000万ドル(36億円)。
14. フィリピンとの賠償協定(1956年5月9日/1956年7月23日)。賠償55,000ドル(1980億円)[5]。
15. 同5千万ドル分に関する交換公文(同/同)。
16. フィリピンとの経済開発借款取極(同/同)。借款25,000万ドル(900億円)[6]。
17. ソビエト連邦との共同宣言(1956年10月19日/1956年12月12日)。
18. スペインとの請求権解決に関する取極(1957年1月8日/即日発効)。無償供与550万ドル。
19. ポーランドとの国交回復協定(1957年2月8日/1957年5月18日)。
20. チェッコスロヴァキアとの国交回復議定書(1957年2月13日/1957年5月8日)。
21. フランスとの特別円議定書(1957年3月27日/即日発効)。無償供与15億円&479,651ドル[7]。
22. スウェーデンとの請求権解決に関する取極(1957年9月20日/1958年5月2日)。無償供与725万クラウン。
23. インドネシアとの平和条約(1958年1月20日/1958年4月15日)。
24. インドネシアとの賠償協定(同/同)。賠償23,308万ドル(803億880万円)[8]。
25. 同沈没船舶引揚中間賠償協定の廃棄に関する交換公文 (同/同)。
26. インドネシアとの旧清算勘定等残高処理に関する議定書(同/同)。無償供与17,691万ドル(636億8760万円)[9]。
27. インドネシアとの経済開発借款取極(同/同)。借款40,000万ドル(1440億円)[10]。
28. ラオスとの経済・技術協力協定(1958年10月15日/1959年1月23日)[11]。
29. カンボジアとの経済・技術協力協定(1959年3月2日/1959年7月6日)。賠償15億円[12]。
30. ベトナムとの賠償協定(1959年5月13日/1960年1月12日)。賠償3,900万ドル(140億4000万円)[13]。
31. ベトナムとの借款協定(同/同)。借款750万ドル(27億円)[14]。
32. ベトナムとの経済開発借款取極(同/同)。借款910万ドル(32億円7600万円)[15]。
33. デンマークとの請求権解決に関する取極(1959年5月25日/即日発効)。無償供与117万5000ドル。
34. イタリア為替局(イタリア)との特別円取極(1959年8月4日/即日発効)。
35. 英国との請求権解決に関する取極/交換公文(1960年10月7日/即日発効)。無償供与50万ポンド。
36. カナダとの請求権解決に関する取極(1961年9月5日/即日発効)。無償供与17,500ドル。
37. タイの特別円協定改訂協定(1962年1月31日/1962年5月9日)。
38. ビルマとの経済・技術協力協定(1963年3月29日/1953年10月25日)。無償供与14,000万ドル(504億円)[16]。
39. ビルマとの賠償再検討要求に関する議定書(同/同)。
40. ビルマとの経済開発借款取極 (同/同)。借款3,000万ドル(108億円)[17]。
41. インドとの請求権解決に関する取極(1963年12月14日/即日発効)。無償供与900万円。
42. 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(1965年6月22日/1965年12月18日)。無償供与3億ドル(1080億円)。借款2億ドル(720億円)[18]。
43. 韓国との民間信用供与に関する交換公文(同/同)。民間借款3億ドル超[19]。
44. ギリシャとの請求権解決に関する取極(1966年9月20日/即日発効)。無償供与161,763ドル。
45. オーストリアとの請求権解決に関する取極(1966年11月29日/即日発効)。無償供与16,700ドル。
46. マレイシアとの1967年9月21日の協定(1967年9月21日/1958年5月7)。無償供与2500万マレイシア・ドル(29億4000万3000円)[20]。
47. シンガポールとの1967年9月21日の協定(1967年9月21日/1968年5月7日)。無償供与2500万シンガポール・ドル(29億4000万3000円)[21]。
48. 米国とのミクロネシア協定(1969年4月18日/1969年7月7日)。無償供与500万ドル(18億円)。
49. イタリアとの請求権解決に関する取極(1972年7月18/即日発効)。無償供与120万ドル。
50. 中華人民共和国との共同声明(1972年9月29日 条約ではない)。
51. 北ベトナムとの経済の復興と発展のための贈与取極(1975年10月11日/即日発効)。無償供与85億円[22]。
52. ベトナムとの経済復興と発展のための贈与取極(1976年9月14日/即日発効)。無償供与50億円[22]。
53. モンゴルとの経済協力協定(1977年3月17日/1977年8月25日)。贈与50億円。
54. アルゼンティンとの請求権解決に関する取極(1977年6月10日/即日発効)。無償供与27万ドル。

鬼子

No title
ちょうど昨日ねずさんの百人一首本が届きました。まだ持統天皇の歌までしか読んでませんが、すでに二回感動で泣きました。(あと98回泣く予定です。)
 天皇みずから汗を流してお働きになることや、持統天皇のつつましさや健気さ、香具山を天武天皇に見立てて夫の気配を感じるアミニズム的な感受性の高さ、どれをとっても感動します。日本人で本当に良かったと思いました。

以前なら百人一首はカルタ遊びに毛が生えたものくらいだろうと興味が全くわかなかったのですが、この百人一首の本を読んで価値観が反転しました。もう夢中、ハマりました。

感動した後再び現代語訳のそっけない訳を読んで比べると、怒りが湧きます。「この現代翻訳、日本文化じゃなくて大陸文化じゃねーか!」と。もっとこの本を日本人に広めないといけません。

じょあ

アニメ化したいですね
今日もとても良いお話ありがとうございました。
どうして百人一首ができたか、そしてそれぞれの歌にどんな意味を持つか、これをアニメにできたらいいですね。
大和和紀先生の漫画ような雰囲気にして、クラウドファンディングなどで資金を集めて実現できれば、この世の中も良くなるかもしれません。
現代の飯尾宗祇になれますね。

皇国臣民

文化が衰退すれば人心が荒ぶ。現代がそうなのでしょうね。日教組が邪魔してると思います。そして、ねずさんが仰る様に、日本人は「天皇陛下の」を大切に日々事に当たって欲しいです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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E-mail info@musubi-ac.com
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