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国民学校『初等科國語七』十九「朝顔に」
千代(ちよ)
朝顔につるべ取られてもらひ水
木から物のこぼるる音や秋の風
何着ても美しうなる月見かな
ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな
一茶(いつさ)
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
やせ蛙まけるな一茶これにあり
やれ打つなはへが手をする足をする*****
千代というのは、加賀千代女(かがのちよじょ、かがのちよめ)のことで、江戸時代中期、18世紀の俳人です。
石川県白山市の出身で、素晴らしい俳人というだけでなく、日常生活においても人々から大変に尊敬され、本人も世間から悪しざまに言われないように身の持ち方に気をつけて、堂々と生きた女性としても有名な女性です。
女性俳人の代表とされ、名句をたくさん残していますけれど、そのひとつひとつに心根のやさしさがあふれ、まじめに俳句を勉強し、まじめに生き抜いた女性としての品格さえも、歌から感じ取れる凄みがあります。
朝顔につるべ取られてもらひ水冒頭にある絵は、歌川国芳が、この「朝顔につるべ取られてもらひ水」を絵にしたもので、まさに歌のイメージにぴったりの絵になっています。
「ある朝、井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶の所につるを巻きつけていました。
水を汲むには、その朝顔のツルを千切ってしまえば済むところ、なんだかそんなことをしたら健気な朝顔がかわいそうで、隣の家に水を貰いに行きました」といった意味の句です。
わずか12文字の短い言葉の中に、朝の情景や朝顔の清々しさが浮かび、おそらく女性でしょうか、ツルを切らずに水をわざわざもらいに行く女性の、やさしい心が、心地よく伝わってきます。
けれどそれだけでなく、朝という時間帯が、出勤前の忙しい時間帯であることは、昔も今もなんら変わることはありません。
そんな忙しい時間にあっても、やさしい心遣いを忘れない。
健気な植物をおもいやる。
自然をたいせつにする。植物をたいせつにする。
そんな「思いやりの心」の美しさ、たいせつさを、この句はあざやかに描いているということができます。
木から物のこぼるる音や秋の風「秋の風」とありますが、ここで詠まれた風は、季節が秋で、モノがこぼれるような激しい音をたてているところから、野分(台風)の強風です。
台風の風はおそろしいです。
けれど、そのおそろしい風を、直接「台風の強風です、こわいです」と書かないで、句から連想させるというところに、俳句の面白さがあります。
つまり、和歌と同じで、言いたいことを直接的に言うのではなく、言いたいことをあえて言わずに、相手(読み手)に連想させるようにする。
いかにも日本的な「察する」文化の句です。
その台風の嵐の風が、まるで物がひっくり返って激しい音を立てている音であるかのように聞こえてきます。
昔の家屋を想像してみたらわかると思いますが(私の家もそうなのですが)、大風が吹くと家が揺れます。
はっきりいって、強風は怖いです。
家が飛ばされかねないからです。
ところがその台風のおそろしい強風を、これまた「秋の風」と千代女は詠んでいます。
つまり、そんなおそろしい風さえも、それはそれで季節の風物として、千代女は現実として受け入れようとしています。
つまり、この句の凄みは、たとえどんなに辛いこと、恐ろしいことがあったとしても、それを受け入れ、消化し、そこからまた強く立ち上がっていく。
「強い」という字は、「勁い」とも書きますが、この「勁い」は、「疾風に勁草を知る」から来ています。
どんなに強い風が拭いても、草花はその風を「柳に風」と受け流す。
それが「勁さ」だという言葉です。
この句は、その「疾風に勁草を知る」を、女性の立場から千代女が俳句にしたということができます。
ちなみに白山市の松任には、千代女の居宅が有った場所に、いまも「なつめ」の老木があります。
もう樹齢300年を超えているそうですが、その「なつめ」の木が、この歌に詠まれた木なのだそうです。
本当に日本は歴史の古い国なのだと思います。
何着ても美しうなる月見かな季語で「月見」とありますから、前の句と同じ秋、おそらくは中秋の名月であろうと思います。
その美しい満月の月灯りのもと、女性たちは、子供達と一緒に、お団子などを食べながら「お月見」を楽しみます。
ちょうど良い加減の満月の月灯りで、普段着の女性たちが、夜風に映えて美しい。
そんな情景です。
さらにいうと、この時代、「美しい女性」というのは、単に見た目が良い、顔立ちが良い、あるいはスタイルが良い女性をいいません。
心根のやさしさや、働き者であること、家事や人付き合いなどを、まめに行う活き活きとした女性のことを「美しい」と言いました。
ですからこの歌にある「何着ても美しい」というのは、いわゆる月見のために着飾った女性、商売で着飾っているような女性たちではありません。
ツギのあたった野良着を着ている女性たちが、月灯りのもとで、生き生きと輝いて見えることを詠んでいます。
さらにいうと、「何着ても」というのは、どんな身分や職業の人であっても、あるいはどのような民族衣装を着た人たち(他国の人たち)であっても、という意味にもなります。
どんな民族、身分、職業の人であっても、お月様の下では、等しく人間です。
それを「美しい」という。
つまり、互いを人して対等な存在として認め合うという精神が、ここにあります。
ころぶ人を笑うてころぶ雪見かなこちらは季節が冬になります。
歌に説明は要らないでしょう。
みんなで雪見をしていると、誰かが雪に転んでしまいます。
その様子を見て大笑いした人が、自分もまた雪にすべって転んでしまう。
そんな様子をみながら、みんなで「アハハ」と大笑いしている。
江戸中期の、そんな街角の楽しげな様子が、まるで目に浮かぶかのようです。
そしてこの歌には、さらに奥行きがあります。
「転ぶ人」というのは、失敗した人です。
失敗には、いろいろなことがあります。
事業の失敗、人間関係の失敗など、さまざまです。
そういう他人の失敗を、嗤(わら)う。
それは、決して良いこととではありませんし、他人を笑いものにする人は、笑いものにした、そのことで自分もまた、失敗して他人に迷惑をかけたりします。
人の世に、100%の成功などありません。
100%良い人もいない。
すべての人は、良いこともすれば、悪いこともしてしまうし、必ず何らかの失敗をします。
そうした人々の喜怒哀楽、愛憎恩恵のすべてを包み込んで、天から降る雪は、すべてを覆って真っ白にします。
人を憎んだり、嘲笑したりするのではなく、自分も、そんな失敗する人のなかのひとりだと自覚して、全部笑って、みんなでまた楽しもうよ、がんばろうよ、といった響きが、この句の中に読み込まれています。
*
次に、一茶(いっさ)というのは、ご存知、小林一茶のことです。
時代的には、千代女よりも半世紀ほどあとの人になります。
一茶といえば、初婚が50歳のときで、なんと28歳の「きく」と結婚し、その「きく」が37歳で早世すると、今度は一茶62歳で田中雪と結婚、ところが雪とは半年で離婚し、その後なんと64歳で「やを」と再々婚して、一女を得ています。
一茶は、58歳のときに脳卒中になって半身不随になり、63歳のときには言語障害までおこしていたそうですが、それでも連日連夜励んでいたのだそうで、まあ、元気がよいというか、むしろ、たいしたものだと感心してします。
雀の子そこのけそこのけお馬が通るここでいう「雀の子」は季語になります。
雀は春に卵がかえって雛になることから、季節は春です。
春先の良い天気の日、雀の雛が道路で遊んでいます。
「そんなところで遊んでいたら、お馬さんに踏まれてしまうよ、危ないよ」
といった歌意になります。
句に「そこのけそこのけ」とありますから、その馬は、いわゆる荷駄の馬ではなくて、大名行列の馬かもしれません。
同時にこの句は、当時の武士達は、いわゆる権力者たちですけれど、そんな武士達に対して、この歌は逆に雀の子たちが「そこのけそこのけ、ここはオイラの遊び場だい」と言っているようにも見えます。
つまり、権力に対して、天真爛漫な庶民が「そこのけ、そこのけ」と言っている。
二本差しの武士達の権力に対して、堂々と「そこのけ、そこのけ」と言っている、いわば反骨精神のようなものも、実はこの句には詠まれています。
おもしろいのは、こうした反権力というか、反骨精神の俳句が、戦時中の小学校6年生向けの教科書に掲載されていることです。
戦時中なのです。
いまどきの学者さんや、一部の宗教家や左翼の人達は、まるで「戦時中は言論が封殺されて、国家権力の下で何もかもが押さえつけられた時代」といいますけれど、まさにそういう時代に、子供達に小林一茶の「そこのけ、そこのけ」が、学校で教えられているのです。
この一茶の「そこのけ」の句と、そのひとつまえにある千代女の「ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな」の句を重ねてみると、おもしろいことがわかります。
それは、
「たとえ国家権力といえども、人の世なのです。間違いを犯すこともある。だからこそ、ひとりひとりがしっかりと勉強し、自立した大人となって、たとえ相手が国家権力であろうとも、間違いは間違いとして、しっかりと訂正できる大人になってもらいたい」という明確なメッセージです。
学校では、この6首の俳句のために、二時間程度の授業が割り当てられました。
最初の一時間は、先生による千代女や一茶の人と俳句の解釈でしょう。
けれど、二時間目には、こんどは生徒たちが主役となって、この句から何を感じるかを授業で先生と討議したり、作文を書いたりします。
当然、歌の表面的な意味だけでなく、その奥にある歌の真意にまで、先生との討議が及びます。
及べば、当然、「そこのけそこのけ」が、馬が雀の子に「そこのけ」と言っているだけでなく、雀の子の側が、馬に「そこのけ」と言っていることに議論が至ります。
戦時中の教育は、このように、ひとりひとりの自立を促す授業であったのです。
そしてこのことは、次の俳句で、尚一層明確になります。
やせ蛙まけるな一茶これにあり痩せたカエルが、何かに飛びつこうとしているのか、それとも他の何かと喧嘩しているのか、それはわかりません。
ただ、痩せたカエルが、何かに挑戦しようとしている。
その痩せカエルに、一茶が「負けるな、がんばれ!、オレがついてるぞ!」と応援しています。
だからといって、一茶は、その痩せカエルが喧嘩している相手を踏み潰したり叩いたりはしないでしょう。
一茶は、ただ、見ていて、応援しているだけです。
けれど、「一寸の虫にも五分の魂」、たとえ痩せても日本男子。
どんなに苦しくても辛くても、戦うべき時には、命をかけて戦う。
世に非道があれば、それを正すために戦う。
この世に、理想社会なんてものは存在しません。
どんなに素晴らしく平和で安定した豊かな世であっても、その中には競争もあり、憎しみもあり、戦いがあります。
それでも、どこまでもみんなのために、自分を鍛え、精進し、みんなのために生きていく。
それは、断じて隷従することではない。
どこまでもみんなのため。
それが皇国臣民の生き方であると、こうして教えられたのです。
やれ打つなはへが手をする足をする「はへ」というのは「蝿」のことです。
蝿は本当に邪魔なものです。
まさに「うるさい(五月蝿い)」存在です。
けれど、だからといって、打つ、つまりただ殺すのではなくて、その蝿が手をする、足をするなら、そうさせてやりなさい、とこの俳句は詠まれています。
「泥棒にも三分の理」、ただ一方的に裁くのではなく、三分でも理があるなら、ちゃんと聞いてあげようではないか、と、この句は教えてくれています。
それは、ただの「やさしさ」ではありません。
そこには「三分の理」は三分の理として、それだけに影響されないしっかりとした自我が形成されていなければなりません。
そうでなくては、蝿のための世の中になってしまう。
しっかりとした信念と覚悟を持ち、そのうえで、たとえ蝿であっても、その言い分は、ちゃんと聞き届ける。
そうしても、蝿の言いなりにならないだけの、しっかりとした信念を持つ。
そのために勉強する。
*
ご紹介した7首の俳句は、国民学校の小学6年生向けの国語教科書に掲載された俳句です。
その「国民学校」というのは、それまで「尋常小学校」と呼ばれた小学校を、昭和16年4月から改組して「国民学校」として発足しました。
つまり、まさに戦時中の小学校です。
戦時中の小学教育ですから、戦後には、「軍国主義のファシズムを徹底するための教育制度であった」などと悪しざまに言われ続けてきました。
ところが、では、どのような教育が国民学校で行われ、どのようなことを書いた教科書が使われていたのかと、実際にその教科書を読んでみれば、まさに、今日お伝えした、「やさしい心を持ち、しっかりと学び、察する心を養うことで、たとえ権力であったとしても、間違っているものには、しっかりと立ち向かう精神」が、しっかりと教えられていたわけです。
もういちど歌を振り返ってみます。
千代(ちよ)
・朝顔につるべ取られてもらひ水 (自然をたいせつにする心)
・木から物のこぼるる音や秋の風 (どんなに辛いことがあっても負けない心)
・何着ても美しうなる月見かな (ボロは着てても心の錦)
・ころぶ人を笑うてころぶ雪見かな (人の不幸を笑ってはいけない、純白の心)
一茶(いつさ)
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る (一寸の虫にも五分の魂)
・やせ蛙まけるな一茶これにあり (小兵なりといえども強い者に立ち向かい打ち勝つ)
・やれ打つなはへが手をする足をする (しっかりとした信念を持つ)
こういうことに、千代女や一茶の俳句を通じて、授業のなかで生徒自身が気づいていく。
そういう教育がなされていたわけです。
これは、ひらたくいえば、国民学校の教育理念の根幹にあるのは、生徒たちの自立心そのものであった、ということができます。
なんのためでしょうか。
国民学校当時の日本は、まさに戦時中です。
自分や同級生の父が、兄が、戦場へ行き、お亡くなりになる。
そんな現実が、日々、教室の中で起きている、そういう時代です。
本来であれば、まさに国威発揚、軍国路線まっしぐら、鬼畜米英、憎き露助にChina兵などと反米、反英、反露、反China教育が行われていても全然おかしくない時期です。
現に、21世紀の今日において、別に戦争をしているわけでもない、むしろ日本に助けてもらいながら国をあげて反日教育をしている国も、世の中にはあります。
ところが日本の国民学校では、国威発揚、対立と闘争どころか、その教育現場では「大人たちはいま、政治を誤って戦争という悲惨を行ってしまっている。君たち少年少女が大人になったときには、決して戦火に遭わない、そういう日本を築き上げてほしい」と、そういう教育が、国を挙げて行われていたのです。
ですから国民学校の教科書のどこにも、当時の朝日新聞にあったような「鬼畜米英China露助」のような言葉はなくて、利根を育てた文子さんのやさしい心や、軍鳩の悲しい死、そして千代女や一茶を通じて、思いやりの心や、やさしい心、そして絶対に戰いという不幸を招かないための人材教育が行われていたのです。
どこぞの国では、21世紀の今日においても、ご都合主義的に歪曲した歴史や國語が教えられていると書きました。もっというなら、それらの国では、戦前や戦中の文献史料などによって、本当の真実に子供達がたどり着かないように、故意に使用言語まで変更して、誰も昔の文献などに行き当たることができないようにしています。
はっきり言って、異常です。
けれど、そんな周辺国を、実は、私達は笑えません。
なぜなら、日本国内においても、戦前戦中まで普通に教育の現場で用いられていた旧仮名使い(歴史的仮名遣い)や、旧字(戰、來、戀、國など)が意図的に排除され、私達が戦前の本などを読もうとしても、なかなか難しくて読めないようにされているからです。
教育勅語は、我が国教育の根幹であり、日本人の原点といえる大切なものですけれど、いまどき「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」を、普通にスラスラと読める人は、現実に限られてしまっています。
周辺国を嗤えない現実が、私達にもあるのです。
千代女の「何着ても」の歌の解説のところで、「どんな民族、身分、職業の人であっても、お月様の下では、等しく人間」と書かせていただきました。
昭和12年7月29日に通州事件が起き、日本人居留民230名が、人類史上まれに見る残酷な方法で殺害された事実は、このブログの読者の皆様なら、みなさますでにご承知おきのことと思います。
けれど、通州城の悲劇は、実は、通州に限ったことではないのです。
通州はたまたま規模が大きかったというだけで、当時、日本人の民間人が、Chinaのあちこちでたいへんな暴力にあって殺されています。
あまりのことに、当時日本政府は、揚子江沿岸付近にいた在留邦人2万9,230名の引き揚げを訓令しました。
この訓令にもとづき、8月9日までに、約3万の日本人が、上海に集まり、そこから海路、日本への帰還をしようとしていました。
そして、上海では、二千名の日本海軍陸戦隊が、この引揚者たちの警護の任務に就きました。
ところが、その、Chinaから引き揚げようとする日本人民間人を狙って、China国民党は、なんと30個師団10万人の訓練された正規兵を差し向けたのです。
目的は、日本人を殺すためです。
これに対して、日本の海軍陸戦隊は、わずか2千の兵力で完璧な防衛戦をしています。
そして、ここからが大事なのですが、当時、China大陸では、日本人居留民が集団でいわれなき暴行を受け(この日本人への暴行については、セオドラ・ルーズベルト米大統領の妻も目撃をし、その模様をワシントン・ポストに寄稿しています。これについては、また稿をあらためて述べたいと思います)、多数が殺害されていた、その同じ時期に、
日本国内には、約6万5千人のChineseが、きわめて平穏に暮らしていました。
それらのChineseは、中華街に住んでいたり、あるいは日本企業で働いたりしていましたが、彼らは日本人から報復されることなど、考えもつかない、平和な環境の中にいたし、日本人もそうしたChineseたちが経営する中華街のお店に、ごく普通に、普段通りに食事をしに行ったりしていました。
Chinaでは、日本人とみるや、残酷な暴行の対象になっていた、その同じ時期に、日本国内では、Chineseたちが、極めて平和に、普通に暮らしていたのです。
もし日本人が、Chinaの宣伝工作に言うような冷酷残虐な民族であったのなら、どうして日本にいたChineseたちは、平穏に暮らすことができたのでしょうか。
日本人は民度が高いと言われています。
私も、そうだと思います。
けれど、その民度の高さは、DNAのなせる業というだけでなく、やはり教育による影響が大であったと思います。
だからこそ、本来の日本の教育を取り戻す。
これは、絶対に必要なことなのです。

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コメント
融雪
一点。「やれうつな‥」は、一寸の虫にも五分の魂だから、命を大切にしようという意味ではないでしょうか?
重箱の隅をつつくようで恐縮ですが、ご検討お願い致します。
2017/07/14 URL 編集
ムーミン親父
ねずさんには物足りないでしょうが、
現在の教科書も正しく改定されると
期待しています
2015/07/02 URL 編集
くすのきのこ
その時代を生きた者にしかわからない事もあり、時代を俯瞰して漸くわかる
事もありますよね。大人たちが抱いていた危機感は子供らにも伝わっている
でしょう。例えば現在。なんとはなしに伝わる黄色信号を子供達もキャッチ
していると思いますよ。学校教育も大事ですが、家庭での子供との会話も大
事でしょうね。ただし・・自らがいかに何も知らないかを実感するわけです
がww。バルカンでサイが投げられました。これがEUへ。プエルトルコで
もデフォルトのサイが。これはアメリカへ。もちろんチャイナの株安も同時。
ここの所の世界金融不安に流れがつくでしょうねえ・・。バルカンはいつも
こんな舞台に選ばれるという・・。こうやっていくつかの渦が巻き起こり、
いつの間にか世界大戦になっていたというのが、前の大戦ですし。経済戦が
すでにまっさかり。情報戦は日本は・・中韓の攻撃に初動が遅い。そしてテ
ロ戦・・昨日新幹線内での自爆ならぬ焼身テロ。始まりましたね。オウムの
流れを汲んでいる(ハントウ)のか、チャイナの新幹線アゲのためにやった
のかな?アゲになってないですが。言い訳は年金ですか?マスゴミの攻撃が
度を越せば越す程に、出自がはっきりしてきますね。擁護すればするほどね。
一番稼いでいる東海を選ぶとかね。テロで~す。
そういえば、東京で政策反対の焼身テロしていたハントウ関与の人間がいま
したね。お家芸です。火付け、囲い込み、集団暴行。警察サンと公安サンに
は、活を入れて取り組んでもらいたいですね。終戦時の対応は情けなさすぎ
の感がありますから。
千代 何着ても美しうなる 月見かな・・女の子はね、月のものをみてから
どんどん綺麗になっていくのですよ。
ww大人の解釈です。
一茶 雀の子・・・飛行訓練を始める頃の雀の子は、色が薄くてやや小さい。
地面でも親鳥に餌をねだったりして、動きがトロい。飛
んで逃げるのも低空飛行だったりで危な~い。
弱い者の味方の一茶ですよね。
2015/07/02 URL 編集
だいごろう
戦中の教育はもっと軍国主義一色で鬼畜米英的なものかと思っていました。意外の一言です。
今の義務教育にあっても何ら遜色の無い内容ですね。
戦後これらの教えが占領政策によりプツリと途切れてしまったことは残念です。
ねず先生、これからも色々なことを教えてください。
2015/07/01 URL 編集
junn
日本の憲法学者に関する「第二の衆知」とは何か。全国すべての憲法学者が、劣等生ばかりという事実である。ここで取り上げる長谷部恭男もまた、東大法学部の550名の中500番で卒業した“見事な劣等生”。(私が1963年に「駒場」の東大理一(=旧制第一高等学校の理科)に入学した頃)「東大アホウ科」だと蔑まれたにせよ、プライドだけは高い東大法学部全体にとって、“オソマツ東大法科卒”長谷部恭男が大学教授として活躍するとは、自ら信用と評価を低下せしめる!と眉を顰める思いだろう。
こんな劣等生の長谷部恭男の“憲法学もどき”の「憲法漫談」を批判するのは、私も大いにプライドが傷つきかなり忸怩として気が重いが、日本国のために我慢しよう。紙幅の関係でサワリしかできないが、“逆さ憲法学”と言うか、“反・憲法学”と言うか、長谷部恭男の“有害な珍・憲法学”に、手短だが外科手術的なメスを入れる。
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2015/07/01/150351
2015/07/01 URL 編集
通りすがりに覗いて見ました。
私は不勉強で難しい事は分からないのですが、読むだけで日本人で良かったと思えてなおかつ心が生き生きしてくる素晴らしい内容です。これからもたまに覗かせてもらいたいと思います。
2015/07/01 URL 編集
次郎左衛門
今日の、日本は戦時中でさえも優しさや平和を尊ぶ心の大切さを子供達に教えていたというお話を読んで、驚きと共に日本人として生まれられた幸せに改めて感謝をしております^^
確かに、実際どの写真を見ても、日本の兵隊さんは本当に優しい顔をしていらっしゃいますし、志那の子供達に微笑みかけている写真に到ってはその微笑みが優しすぎて目頭が熱くなります…TT!
…仏印で戦い抜いき奇跡的に還って来た自分の大好きだった祖父も、凛々しく厳しく、そしてとても優しい人でした…^^
ねず先生、今日も誠に素晴らしく幸せになれるお話、誠にありがとうございました^^
いつも心の底から応援しまくっております!(笑)
では!
2015/07/01 URL 編集
ポッポ
小中学校の義務教育を受けているとき、日教組バリバリの教員もいましたが、片方で軍隊上がりの先生もいました。先生は北洋漁船がソ連の監視船に鉄砲で撃たれて抑留される記事を見ると、昔なら日本の軍艦が守れたのにと悔しがりました。
日教組の先生は、役所で暴れて学校に来なくなりました。
その頃は、自分は子供ですから大人の判断を聞いていたと思うのですが、親は戦争は東条首相が悪かったと言っていたから、戦後のWGIP政策に完全にはめられていたと思います。
もちろん、父は兵隊に行っていましたが、無事に帰ってきていたのですけれど、戦争のことは余り聞いていません。ただ、太平洋戦争のことは大東亜戦争と言っていたから、こちらは意味が通じず戸惑ったことを覚えています。
それから、日中戦争のことは日支事変と言っていました。
当時は、これも意味が判らなかったのですが、両方とも日本の法律では正しい呼称でした。その呼称を、戦後の教育で変えていたのです。
それから、社会の教科書では、大陸へ侵略したと書かれていたように思うのですが、その一方で、日本の最大進出範囲という図を。帝国書院の地図に掲載されていたことを覚えています。
団塊の世代より、15年も年下なら社会科は、どのような教員にどんな内容で習ったのだろうと思います。
逆に、15年も年上なら社会科は、どのように習ったのだろうかと思います。終戦から日を経ずにして、教科書は墨塗で消され、これまで正しいと言われていたことが間違っていたとして、日本の歴史観と道徳観は完全に否定されたのです。
おまけに、正しい歴史観を持っていた教職員は公職追放に遭っていますから、残った教員がまっとうなことを言ったら戦後の物不足と不景気な時代に失業します。余り正しいことは言えず、GHQ指示による教育しか出来なかったと思います。
ひたすら、左翼を礼賛する教育しか、行われないようになっていったと想像します。
その結果が、70年を経過した今の教育で、自虐史観としか言えない教育になったとしか思えませんが、高齢者の方にも正しい歴史をもう一度考えていただきたいと思います。
これに加えて戦後の日本は、WGIPと報道管制で全ての情報が狂わされました。
これの報道を流していたのは、朝日新聞を中心とする新聞でしたが、彼等は昭和26年のサンフランシスコ条約締結後にも報道管制の技術をそのまま継続して行うことで、日本の国民の歴史に対する目を誤らせたと思います。その一例が昨年の朝日新聞による32年間の誤報であり、南京事件の捏造ではないでしょうか。
報道管制を、サンフランシスコ条約締結後にも継続した理由は分かりませんが、日本の国のためにならなかったことだけは確かだと思います。
2015/07/01 URL 編集
ゆき子
せっかくの素晴らしい俳句の意味もわからない自分が恥ずかしいです。まるで、ねずさんが通訳してくれているようです。そしてねずさんの言葉を借りるなら
ねずさんの受け止め方こそ心根の優しさが溢れていると思います
ねずさんの仰るとおり日本の本来の教育を取り戻さなければならないと思います
私は勉強ができなかったので子供の勉強は見てやれませんでしたが親から受けた教育だけは子供に引き継がなければならないと思っています。
お年寄りを敬う
立場をわきまえる
もったいない事をしない
みっともない事をいない
弱い者いじめをしない
教育と呼べる程の内容ではありませんが・・・
それぞれの人が父として、母として、先生、先輩として、その立場で本当に大事だと思った事を大袈裟でなくても心をこめて教育すればみんないい子になるのになぁと思います。
2015/07/01 URL 編集
みやび
戦時中の教育は、軍国主義、戦争礼賛の間違った教育であるというGHQや反日の方たちの戦略に騙されてきていました。
だけど、ここ一連のねずさんのブログをずっと読んで、今日のブログを読めば、日本人は昔も今も変わらない平和を愛する国民なのだ、とよくわかりました。
戦争反対、平和を愛する、普通の日本人が、愛するものを護るため、日本の未来の幸せのために、先の大戦ではたくさん散華されていかれました。
それはなぜか。
軍国主義を教育された訳ではなく、愛を教わってきたからなのですね。
このことは、これからの日本の平和を考える上でとても重要なことです。
戦争反対だから、憲法9条を守らなければいけない。
集団的自衛権の恐ろしさ、などを嘘の論理で普通の人を騙す材料にされています。
戦争に巻き込まれないようにするために、英霊の想いに添うように、これからもブログ更新をよろしくお願いいたします(^-^)
2015/07/01 URL 編集
おにこ
ちょっと時代を遡り、昔日本があまりにシャンとしていたもんで、欧米文明のアングロサクソンはこれをどう挫こうかと画策し、日本国内にテロリストを作り上げて内乱を起こさせ、新しくできた政府の中枢に入り込もうという計画を成功させました。(西鋭夫説)
天皇がついてるということと、作物の凶作も絡んで、比類ない平和を気づいてきた徳川幕府はあっけなく崩壊、これが明治維新です。その結果生まれた政府は戦後に至るまで間の抜けた政策をしてくれたようです。
日露戦争に勝った日本はアングロサクソンに危惧され、「日本をこれ以上強くさせてはいけない。そうだ、もっとも汚い劣等民族とごちゃまぜにさせてしまえばいい。」ということで日韓合併が行われたそうです。
この後の第二次世界大戦の際、(これは一説ですが)陸軍上層部も陛下も大反対していた戦争を、海軍大将の山本五十六が独断で勝手にパールハーバーを奇襲し無理やり開戦させました。五十六は大の親米派でした。
この説を裏付ける動きとして、五十六の奇襲では主要戦力となる敵の武器庫や燃料庫をそのままに引き上げられたし、21世紀に公開された米軍機密文章の内容から「暗号の解析は完了していた」と判明しています。ここから五十六が米国と通謀していたという説が有力となっています。
戦争開始後、ここでもチョウセン人(エセ日本人)が日本を貶めます。たとえば硫黄島での戦いの際には、日本兵扱いされてたチョウセン人は速攻で白旗を上げて米軍の捕虜になり、「あそこに日本人が隠れている」と教え、膨大な被害を出させたという情報もあります。
昔からチョウセン人は日本と世界に仇名すテロリスト民族でした。そのテロリストを日本人と同じと見なした日韓合併は、日本もテロリストの仲間だと見なされるのが国際常識です。
現にシナ人が日本人を恨んだのも、日本人扱いされたチョウセン人がシナ人を見下して暴虐を尽くしたためです。
シナ人は嘆いて日本に「何とかしてくれ!」と何度も言いにきたのに、日韓合併してる建前日本はいい対策がとれません。そしてシナ人の被害は広がり、嘘とあいまって日本をよりいっそう恨んで暴動に繋がったのです。
もう分かると思いますが、チョウセン人は自分に恨みの矛先が向かわないようにするために、自分たちが行った悪逆非道を日本人がやった、または計画していると嘘を広めたのです。昔も今も、チョウセン人は全く変わってないのです。
2015/07/01 URL 編集
えっちゃん
実は、今日の記事は軍馬についてと思っていました。
犬、鳩ときたら馬です。
そしたら「国民学校の小学6年生向けの国語教科書『初等科國語七』に掲載された俳句」
はずれたあー。
馬でなく俳句。
「馬がはずれたあ。」など言うと、競馬みたいなのですが、
学校で教えていたのは、「やさしい心を持ち、しっかりと学び、察する心を養うことで、たとえ権力であったとしても、間違っているものには、しっかりと立ち向かう精神」
ということがたまたま、前々回、前回は動物であっただけですね。
分かりました。
2015/07/01 URL 編集
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■きょうの出来事
(1954年=昭和29年)
なお、2014年(平成26年)の同日、安倍晋三内閣総理大臣が「集団的自衛権」の政府解釈変更をこの日にすることにしたのは、本日が自衛隊設立の日であるためであろう。
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『平時の領域侵犯にまったく対応できない自衛隊』
自衛隊法には領空侵犯規定の第八四条はあるが、領海侵犯や領土侵犯の対処規定がない。一九五四年の自衛隊法を制定するとき、日本政府はそのようなことは決して起こらないという勝手な仮定をはっきりとなして定めなかったからである。失念したためではない。第八四条の領空侵犯の定めがあるのは、たまたまソ連(ロシア)機がしばしば北海道附近の領空を侵犯しており、この規定を設けないでは済まされない現実が生じていたからである。
平時の領域侵犯に対して、主権国家が"単独で"対処できないとすれば主権国家の要件の自己否定であり、平時におけるこのソ連(ロシア)の領空侵犯機の対処をいつまでも米国に代行してもらうことは日本は米国の被保護国であると内外に宣することになる。
とすれば、領海侵犯/領土侵犯の規定に欠如する自衛隊法とは、基本的にはすべての領域侵犯対処を米軍がなしていた、日本の主権が喪失していたGHQの日本占領期をそのまま継続しようとしたことになる。
http://blog.livedoor.jp/acablo-nakagawayatsuhiro/archives/39602579.html
2015/07/01 URL 編集