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(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)小笠原諸島 父島/南島 (鮫池)

慶応4(1868)年の今日、江戸が東京と改称されました。
改称の理由は、皇居のあるところが「京」であり、その皇居が京都から東の江戸に移ったから、と言われます。
けれどそれならば、むしろ京都が「昔、皇居があったところ」として「西京」、あるいはたとえば「山科京」とでもし、いまの東京を「京」と呼ぶべきです。
にもかかわらず、どうして「京」は京であり、江戸が「東京」なのでしょうか。
実は、この「東京」という名前の提唱者は、江戸時代中期の経世家(経済学者)である佐藤信淵(さとうのぶひろ)が文政6(1823)年に著書のなかで提唱したもので、国全体の国防を強化する一環として、江戸を「東の京」、つまり「東京」とすべし、という論じているのです。
そしてこの論を受けて、幕末、大久保利通が、この佐藤信淵の説を受けて改称を決めたのが「東京」なのです。
佐藤信淵

佐藤信淵というのは、秋田出身の元は医者で、江戸に出て開業医をするかたわら、国学者である平田篤胤の門人になりました。
その後、神道家の吉川源十郎と、幕府に無許可で道場開設のための寄付金集めをしたという咎で江戸を所払いとなり千葉県の船橋に移り住んでいます。
そして、その船橋で書き上げたのが著書『混同秘策』です。
この本は最近では、やや意図的に誤訳されて、「世界征服を目論むとんでもない奇書」というレッテルを貼られているようですが、そのように貶められている本に限って、いがいと真実を突いていたりします。
『混同秘策』の冒頭には、次のように書いてあります。
ねず式で現代語訳してみます。
*****
皇国である日本は、大地の最初にできた国です。
ですから日本には、世界万国に共通する根本があります。
日本がその根本を明らかにするとき、世界はひとつになり、天皇を頂いたシラス国となることでしょう。
謹(つつし)んで神代の古典を拝読してみると、この世の海も山川も、そのことごとくはイザナキ、スサノオなどの神々によって育まれたものとわかります。
ですから世界万国の安寧を念頭において行動することは、皇国に生まれた者の要務ということができます。
******
というわけで、読み方によっては、まるで世界征服の野望を説いた本のようにみえてしまうかもしれませんが、ちょっと違います。
佐藤信淵が書いているのは、そういう大切な使命を持った国なのだから、それを護るために、都を江戸に移し、日本の政治機構を江戸、大阪、京都の三箇所、そこからさらに大切な施政機構を、駿河、名古屋、高知、松江、博多、萩、熊本、新潟、青森、仙台など、全国14箇所に分散し、さらにまた海洋においては、八丈島や小笠原諸島、南沙諸島、西沙諸島方面までをも開発しして国防に備えるべし、と書いているわけです。
佐藤信淵は、この書を、ペリーが来航した嘉永6(1853)年の30年前に、堂々と世に送り出しています。
要するに、欧米列強が南北米大陸、アフリカ、アジア諸国を次々と侵略し、植民地化していく中にあって、日本の国防がいかにあるべきかを、佐藤信淵は、市井の一介の経世家(経済人)の立場で堂々とこれを語り、江戸中期に本にして著しているわけで、これはもう「すごい!」としか言いようがありません。
おもしろいのは、この佐藤信淵の『混同秘策』が、佐藤信淵自身が江戸所払いを受けた、いわば罪人でありながら、その思想そのものは幕府もしっかりと学び、それを政治に活かしている点です。
佐藤信淵が江戸を追われたのは、上に述べましたように、私塾の建設資金のカンパを募るにあたって幕府の許可無くこれを行った、というものです。
その結果、佐藤信淵は江戸所払いになるのですが、行った先は、江戸のすぐ近くの船橋です。
彼はその船橋で、船橋大神宮の宮司にお世話になりながらこの書を著しているのですが、その思想は、ちゃんと幕閣の知るところとなったし、それがやや形を変えて施政にも活かされているのです。
というのは、たとえば小笠原諸島です。
実は小笠原は、寛文10(1670)年、4代将軍徳川家綱の時代に、紀州藩のみかん船が遭難して「名も知れぬ無人島」に漂着したことで発見され、その3年後には幕府が島々の調査を行い、各島にはそれぞれ、父島、母島、弟島、姉島、妹島などと名前が付けられ、父島には「天照大神、八幡大菩薩、春日明神」を祀った祠と、「此島大日本国之内也」と記した碑を立てています。
つまり、小笠原は日本の領土になっていたのです。
そして小笠原諸島が日本の領土であることは、1727年にドイツ人医師ケンペルが書いた『日本誌』以降、様々な西欧の文物に紹介され、明らかにそこは日本の先占による日本の領土あることが西洋にも知れ渡っていました。
ところが、文政10(1827)年に英国海軍のブロッサム号がやってきて、勝手にそこを英国領であると宣言して、宣言文を刻んだ銅板を木に打ち付けて行ってしまいます。
その3年後の天保元(1830)年には、英国は、小笠原の領有を確実にするため、米英人ら5人と、ハワイ人20人を開拓団として父島に送り込み、そこでやってくる捕鯨船に水や食料、家畜などを販売して生計をたてさせるようにしました。
島は、その後米国が英国から独立したことによって、米国領として彼らは島を専有し、幕末頃には父島には米国人ら50人が住むようになっていました。
つまり、小笠原は米国の領土に飲み込まれようとしていたのです。
これを知った幕府は、文久元(1861)年、小笠原に外国奉行の水野忠徳(ただのり)を派遣しました。
水野の船が港に入ると、島にいた米国人達は星条旗を掲げて、これに対抗しようとしました。
水野は、この島々が日本の領有下にあること、欧米人のこれまでの生活は保障すること、今後日本人移民に協力してもらうことを、彼らに要求しました。
このときの水野忠徳の真摯な態度は、島にいた米国人らの心を打ちました。
実は島では、度々米国人ら欧米人の船乗りたちがやってきて、乱暴狼藉を働き、これにたいへんに困らせられていたのです。
彼らは、積極的に日本に協力することによって、むしろ日本に保護してもらうことを彼らから望みました。
結果、小笠原は、再び日本の領土として再確認されて、現在に至っているわけです。
たいせつなことは、ひとつの議論や意見が、かならずしもそのまま通るというものではない、ということです。
よく、評論家や文筆家の方で、「私が言うとおりにすればすべて良くなるのに、それをしない政府は馬鹿だ」等と批判する人がいます。
それは違うと思います。
意見を言うのは自由です。
ただ、それを実行する側は、当然、そこには大きな責任が伴います。
聖徳太子の十七条憲法には、その第17上に次の御文があります。
夫事不可独断
必與衆宜論
少事是輕 不可必衆
唯逮論大事
若疑有失
故與衆相辨
辞則得理
現代語にすると、次のようになります。
「なにごとも独断はいけません。
からならず皆で議論しなさい。
些細な事なら議論するまでもないけれど、
大事な事柄を議論するときは、
そこに必ず間違いやあやまちがあることを疑いなさい。
そのときはみんなとともに検討しなさい。
そうすればきっと道理に適う理がうまれることでしょう」
佐藤信淵の『混同秘策』は、確かに要点を付いた鋭い内容のものでした。
だからこそこの本は幕閣をも動かしましたし、明治新政府における大久保利通の施政方針にも活かされています。
ということは『混同秘策』は、単に幕閣や薩摩の人達に受け入れられたというだけではなくて、ひろく全国の武士たちに示唆を与えたことになります。
そして佐藤信淵の議論は、多くの人々に影響を与えながら、同時に多くの人々の議論のなかで、トゲがとれ、まるくなり、そして形を変えながら、すこしずつ、世の中を築く土台となっていっています。
その意味では、江戸中期の佐藤信淵の議論と理想は、それから約200年経った現在においても、まだ少しずつ形を変えながら、生き残っているということもできます。
なぜそうなるかといえば、佐藤信淵の議論が、「俺が俺が」ではないからです。
どこまでも天下を案じ、天下の平穏を願いながら、平時のうちにこそ、非常時への備えを盤石なものにしていくべし、という強いリーダーシップを持った議論だからです。
やや過激な言動をとる癖があり、だから彼は江戸所払いになっています。
けれど、その論には、みるべきものがある。わかるひとにはわかる。
だから幕府のみならず、全国の武士たちに『混同秘策』は読まれ、拡散され、ペリーがやってきたときに、まさにその思想が開花しています。
佐藤信淵の論は、核心を突いているけれどトゲがある。
論が核心を突いているから、佐藤信淵が亡くなっても論は残り、様々な人の手を経由することでトゲがとれ、日本の大きな改革に貢献しているのです。
日本は、言論の自由な国です。
なんでもいうことができる。
醜い他人の批判や悪口でさえ、自由に発言することができます。
だからといって「自分がすべて正しい」、「自分の意のままにならなないなら、相手がバカ」などと、他人の「せい」にばかりしても何も始まりません。
むしろ自分の中にある「人のせいにしたがる心」を自覚し、取り押さえ、自分でできることに精一杯の努力を傾ける。
もちろん、それでも世間に通らないことや、場合によっては世間から排除されてしまうことがあるかもしれません。
けれど、それでも自己研鑚に励みながら、すこしでも公のために奉じてきた、それが日本人の生き方であったように思います。
江戸から東京へ。
単に都が移ったというだけでなく、そこには「国の護り」というしっかりとした理念がありました。
その東京に住み、東京の国会にいながら、国の護りをいきなり戦争や徴兵と結びつける。残念なことです。
自分も、どこまでも謙虚に、日々研鑽に励みながら、これからも日本に学ばせていただきたいと思います。
日本に生まれて感謝です。

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コメント
takechiyo1949
読み方によっては、まるで世界征服の野望を説いた本に見えてしまう?
確かに、Wikipediaなどではそんな書き方をしていますね。
しかし、我国の使命と国防の在り方については、実に納得できる論だと思います。
俺が俺がの毬だらけ?
過ちを疑いながら理を探り研鑽する…またひとつ勉強になりました。
2019/07/19 URL 編集
掲載に感謝
https://www.youtube.com/watch?v=kY-7dGQH4WQ
2015/07/18 URL 編集
すー
というのはエドガーケイシー関連の一文でありますが、どこからの引用なのかとても知りたいです。
と、同時に現在の日本人同士の争いにも通じるものがあるかと思います。みんなより良い世界を目指しているのに争いばかりです。争っている間に主人が死んでもいいんでしょうか。ねずさんの言うように自分が信じているものの中にも間違っていることもあるし、自分が信じていないものの中にも真実があることを探して検討して自分の中で消化していかなければ主人を殺してしまうこともあるんだと。。
ネットの情報はとにかく自分の中で消化してから発信していかなくてはと思います。
ネットの情報はいつでもとりあえず、表向きには削除できますが、印刷物は削除困難です。印刷物を介して自分の思いを発信している人の意見を尊重したいです。
わたしもちょっと感情的になってしまいましたがねずさんすみません。
2015/07/17 URL 編集
やまとどくだみ
青葉慈蔵尊のお話で、地蔵つながりでご紹介します。打坂地蔵尊として祀られた鬼塚道男車掌さん。わが身を捨ててバスを転落から救いました。享年21歳・・・とっさに身を投げ出すことができるのか、と胸を打たれました。
2015/07/17 URL 編集
護国世代の者
昭和初期以降の日本の輝かしい歴史が描かれてますので、
皆さんも読んでみてください!
現在は電子書籍で読めます!
私はこれを学校の教科書か図書室に置くべきだと思ってます!
「はだしのゲン」なんて廃棄してこの本を置くべきだと思います!
2015/07/17 URL 編集
えっちゃん
日本は、言論の自由な国です。
なんでもいうことができる。
醜い他人の批判や悪口でさえ、自由に発言することができます。
だからといって「自分がすべて正しい」、「自分の意のままにならなないなら、相手がバカ」などと、他人の「せい」にばかりしても何も始まりません。
むしろ自分の中にある「人のせいにしたがる心」を自覚し、取り押さえ、自分でできることに精一杯の努力を傾ける。
もちろん、それでも世間に通らないことや、場合によっては世間から排除されてしまうことがあるかもしれません。
この文に同感です。
ネットの記事でよく見かける文章の中に、罵り、嘲りの言葉があり、気になっていました。
組織の長は、意見を吸い上げ、全体を見て決断します。結果だけ見て、意見を言うのは簡単ですが、その決断まで、どれだけのシュミレーションがされたか拝察すると、罵り、嘲りは言えなくなるはずです。自分が組織の長になった経験があれば、わかるはずです。
佐藤信淵の『混同秘策』は存じませんでした。その思想そのものはしっかりと学び、それを政治に活かしているということで、幕府の懐の深さを感じました。「人物」はいたのですね。
「たった四杯で夜も眠れず」など面白おかしく揶揄する方もいたようですが。
2015/07/17 URL 編集