通州事件とその背景



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通州事件の新聞報道
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昨日ご紹介した「通州事件(つうしゅうじけん)」は、Chinaで一夜のうちに日本人居留民二百名余がおよそ人類史上類例のない残虐な方法で殺害されたという、とてもつらい事件です。
しかし日本人に限らず世界中が知っておかなければならない事件です。

ところがこの事件、被害者となって殺害された人の数がはっきりしません。
以下、WIKIから抜粋しますと、次のようになっています。

陸軍大学作成「日華事変初期ニ於ケル北支作戦史要」(1939年刊)
死者 223名
陸軍省の調査では、1937年8月5日現在で発見できた死者184名
在天津日本総領事館北平警察署通州分署の調査記録
(1937年7月29日~8月5日) 死者225名
China駐屯軍司令官香月清司中将著『日華事変回想録摘記』212名

日本という国は、全国民の戸籍が整っており、いつの時代にあっても被害者の数を正確に把握し記録します。
にも関わらず、この通州事件に関しては被害者の数が二百名以上ということはわかるのですが、具体的に何人となると諸説出てしまっているのです。
なぜでしょうか。

答えは、China駐屯軍司令官香月清司中将の『日華事変回想録摘記』にあります。
これは昭和15(1940)年2月に刊行されたもので、通州事件の被害状況を次のように記しています。
 *
通州事件に於て犠牲者
 邦人104名(内、冀東政府の職員及其の関係者約80名)、
鮮人 108名
大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりし者

以上の内34名は惨殺によって性別不明なまでに遺体が損傷していた。
 *

説明するまでもないことですが、邦人というのがいまでいう日本人、鮮人というのが朝鮮半島人です。



やまと新聞 小名木善行の「百人一首」 第16番歌 中納言行平
昨日も書きましたが、この事件をねずブロで最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことでした。
当時は、この事件について知る人は、まだほとんどいなかった頃で、まれに知っている方でも、名前を聞いた事があるくらいで、それがいなかる残虐非道な事件であったかを知る人は、まだ少ない状況でした。
その意味では、戦後「消された歴史」です。
ですからこの事件を当ブログでご紹介したときは、「またねずきちが嘘を書いた」とか、「ありもしないねつ造を書いた」、「でっちあげだ」、ねずきちは「差別主義者だ」とか、さまざまな中傷が行われ、あげくの果てが私の人格否定論まで飛び出しました。

騒いでいたのは、日頃保守を自称する在日韓国人の方々ですが、上にありますように、この事件で酷い殺され方をしたのは、Koreanの人たちが半数を占めます。
昨日の記事の「Sさんの体験談」にもありますが、事件前に、このKoreanたちは、Chineseの流す噂に反応し、率先して日本人や日本軍の悪口を吹聴していた人たちです。
そして、「その悪口を言っていた当の本人たちが、まさに率先して残虐な行為の犠牲になっています。

これはChinaの工作員側から見れば、当然のことです。
工作によって扇動して陰口をたたかせていたのです。
事件後、生かせておけば、そんな工作があったことを、彼らはペラペラと喋ってしまうことでしょう。
そもそもさんざん恩恵を受けておきながら、他人の扇動に安々と乗って、その恩恵を与えてくれた人たちの悪口を並べ立てるような連中など、どうして信用することができるのでしょう。

ですから、通州事件では、日本人居留民が襲撃されたとき、どさくさにまぎれて、日頃Chineseに焚き付けられて日本人の悪口を言っていたKoreanが、まっさきに殺されているのです。
そしてChineseのスパイ(Sさんの旦那)は、事件のさなかに、その様子を一件ごとに確認をしています。
その様子がまさに「Sさんの体験談」に描かれているわけです。

在日の方々は、自分たちの同胞が、このような悲惨な事件に遭遇したことを、なんとも思わないのでしょうか。
数年前には「嘘だ〜」と言っていた方々も、今では、冒頭の新聞記事が出てきたりすることで、事件が事実起こったことを認めざるを得なくなっていようかと思います。
そしてこの事件は、このたび自由社の『新版・新しい歴史教科書』に、日本の教科書として戦後、初めて掲載されるに至っています。
通州事件は、まぎれもない現実なのです。

 *

通州事件が起きるまでの経過を少し追ってみます。
事件の経過を知ると、日本という国、日本人という民族、そしてChineseや共産党の恐ろしさが、はっきりと見えてきます。

通州事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起こりました。
そして半月前の7月7日にあったのが盧溝橋事件です。
そしてこの事件に、China共産党が深く関与していたことは、歴史における公知の事実です。

共産党というのは、もともと世界革命を目的としています。
具体的には、これは「世界をクレムリンの支配下に置く」というもので、クレムリンが世界を支配し隷属させる、そのためには、既存のあらゆるものは破壊して構わないし、抵抗する者は殺して構わないという主義であり政党です。
そんなクレムリンは、ソ連の崩壊とともに、いまでは無くなってしまったのですが、世界中にはまだその残党があり、また国家規模でも、中共などは、まさに新たなクレムリンになろうとしているわけです。

ですから当初、共産党は、世界の征服のために「コミンテルン(Communist International)」をつくりました。
そしてロシア皇帝を殺害し、ドイツのプロイセン皇帝を追い払い、ヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

ところが欧州の各国は手強い。
手強いわけです。欧州各国は世界中に植民地を持ち、巨大な富を持っているのです。
地上の8割は、欧州各国の支配地だったのです。

そこでコミンテルンは、欧州各国の富の源泉となっているアジアを、まず共産党の支配下に置くことを、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定しました。
混乱が生じている国に工作員を送り込み、その混乱をさらに煽り立てる。
当時のChinaは、清王朝が倒れた混乱期にありましたから、まさに狙い目だったのです。
コミンテルンは、決定に基づいて大量の工作員をChinaに送り込みました。
そして毛沢東率いるChina共産党に巨額の経費を与え、Chinaの共産主義化の促進を図ったのです。

共産主義革命の基本は、「対立をあおる」ことにあります。
Chinaは古来、外国人が王朝を築いた国です。
隋も唐も元も明も清も全部、外来王朝です。

つまりChinaは、他の民族によって住民が支配され収奪されることが常態化していた国です。
そして清王朝が倒れ、国内は混乱のルツボにありました。
無政府状態のカオス状態です。
そんななかで、各地の軍閥が、次の覇王を狙って互いに争っていました。
そして治安の悪化したChinaには、世界11カ国から軍が派遣されています。

当時のChinaは、まさに対立と闘争と混乱のさなかにありました。
しかもソ連と国境を接し、国土は広大で人口も多く、人が人を殺すことを何とも思わないという国風です。
欧州の列強各国も、まだ完全にはChinaを支配下においていない。
悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかったわけです。

この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士であるChina国民党でした。
なかでも武力による強硬策推進派だった蒋介石は、China国土の混迷混乱を加速させようとする共産党を嫌い、これに対して徹底的な弾圧を加えていました。

どのような弾圧をしていたかというと、とにかく共産主義者とわかれば、片端から銃殺にしていたのです。
いま、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときのものです。

ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。
下にある写真は、日本軍の蛮行として使われた有名な映像ですが、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。

Chinaの捏造写真73


国民党による共産党の大弾圧によって、毛沢東率いるChina共産党は、勢力を落とし追いつめられました。
ついにChinaの奥地の延安にまで落ち、あと一歩で完全壊滅という情況にまで至っていたのです。
中国共産党史では、この逃避行を毛沢東の「東征」などと勇ましい言葉で飾っていますが、とんでもない。ただ逃げ落ちていただけです。

ところが、ここで皮肉なことが二つ起こりました。
ひとつは、共産主義革命のための費用です。
共産主義革命のために、莫大な工作費(軍費)をソ連からもらっていた毛沢東は、共産党が追いつめられて勢力を落とすことによって、逆に予算面では余裕がでてきていたのです。
当然です。共産党軍の兵士たちや、革命のための工作員たちは、共産党から給料をもらっています。
ところが共産党員が弾圧され、その多くが殺されれば、逆に人件費予算には余裕が出る。

もうひとつは、毛沢東にとって敵となる蒋介石の慢心です。
あと一歩で共産主義を壊滅できると踏んだ蒋介石は、よもやこの時点で自分が共産主義者によって拉致監禁されるなどと思ってもみませんでした。

そもそも蒋介石と、毛沢東や周恩来は、かつて孫文が大正13(1924)年に設立した黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)の蒋介石が初代校長、そのときの学校の政治部副主任が周恩来、生徒の受験面接官が毛沢東という、いわば上司と部下の関係にあります。
互いによく知った仲なのです。

この関係を利用して起きたのが「西安事件(せいあんじけん)」です。
「西安事件」は、昭和11(1936)年12月の事件で、その時点におけるChina共産党の最後の拠点である「延安」が目と鼻の先になる「西安」に、蒋介石がやってきたことに端を発します。

この頃「西安」には、地方軍閥である楊虎城(ようこじょう)がいたのですが、この男は、蒋介石も毛沢東もどちらも嫌いで、あくまで自分たちは西安で独自の軍閥でいようと粘っていました。
一方、「延安」に立て篭る八路軍(China共産党軍)は、この時点の兵力がわずか7万です。
国民党は、兵力210万。その中の20個師団と100機を越える航空機を投入すれば、あっという間に延安を殲滅できる。
さあ、最後の大戦(おおいくさ)だというわけです。

ところが、そのための軍の進出地となる「西安」の楊虎城が、協力を拒みました。
「ヤダ」というのです。
しかも楊虎城は、共産軍と相互不可侵協定まで結んでしまいます。
せっかく延安にまで共産党を追いつめたのに、最後の最後で、拠点の確保ができない。
そこで蒋介石は、わずかな供回りだけを連れて、12月4日に「西安」の楊虎城に会いに行ったのです。

蒋介石がわずかな供回りだけを連れてやってくることを奇貨としたのが張学良(ちょうがくりょう)です。
張学良は蒋介石を襲撃し、12月12日に銃撃戦をして蒋介石を拉致してしまうのです。

そして蒋介石の妻である宋美齢と、その宋美齢が尊敬し敬愛してていた実兄の宋子文も同様に拉致し、そして蒋介石との間で、8項目にわたる合意を取り付けます。

【西安事件による八項目合意事項】
1 南京政府の改組、諸党派共同の救国
2 内戦の停止
3 抗日七君子の釈放
4 政治犯の釈放
5 民衆愛国運動の解禁
6 人民の政治的自由の保証
7 孫文遺嘱の遵守
8 救国会議の即時開催

要するに、この拉致事件によって、蒋介石は表向きは従来通り共産主義との対立路線でいながら、水面下で毛沢東の共産党と手を握ったのです。

ちなみに、共産党嫌いだった蒋介石が、なぜ、突然、共産党と仲良くすることにしたのかについて、当時のある記録によると、張学良に襲撃された時、蒋介石は入れ歯を落としたというのです。
捕まったとき、慌てて逃げたため、入れ歯が落ち、逮捕先で入れ歯がないので、会話もろくにできず、飯も食えない。
そこで蒋介石は、自宅にある換えの入れ歯を要求し、妻の宋美齢がそれを持ってきた、というのです。

蒋介石の旺盛な食欲を満たすために、西安事件で蒋介石はChina共産党に寝返り、それまでの日本贔屓を一転させ、自軍の中に共産党員を多数潜り込ませ、それによって日本人や日本軍を襲撃させた。
だとすれば、蒋介石の寝返りによって殺された多数の人々は、蒋介石の入れ歯の身代わりに殺されたことになります。
これがウシハクChinaという国の恐ろしさです。

この西安事件による「国共合作」によって、蒋介石率いる国民党は、「安内攘外」、つまり「まず国内の共産党を駆逐して国内を統一し、それから外国を打ち払う」という方針を捨てて、国民党自体が共産党の手先となりました。
そんなことを当時の日本は、まったく知らずに、国民党軍の訓練の協力などをしていたのです。
酷い話です。

そして昭和12年7月7日に「盧溝橋事件」が起きました。
この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件で、普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

実際、China共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが気って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた。全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という「俗称78通電」を公式に発しました。

ところがこの電文の内容を見ると、「最初の発砲ですぐに両軍が衝突した」と書いてあります。
実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていたのです。
それが、両軍が衝突した、と記述されているということは、この78電文は、事件が起きる前に、あらかじめ準備してあった計画電文だったということです。

ですからいまでも中共は、この盧溝橋事件が日華事変のきっかけだったと主張しています。
それどころか、日華事変の名前も「日中戦争」だと言いはります。
けれど、当時、China国民党も、China共産党も、まだ国家ではありません。
国民党は、蒋介石率いるただの軍閥のひとつだし、共産党は壊滅寸前です。
さらにいえば、この時点で、まだ「中共政府」は成立していないし、その体もなしていません。
そして、戦争とは、国家と国家が行うものです。
ということは、「戦争」ではなく、これは「事変」と呼ぶべきもので、冷静にみて「日中戦争」とは「おこがましい」と申し上げたいと思います。

しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。
この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、

1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること
2 将来このような事件が再発しなようにすることを声明すること。
3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること
4 抗日団体を取締ること

等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容になっています。
要するにChina共産党の意に反して、7月11日には、現地で事件がまるく解決してしまったのです。

そうなると困るのは、China共産党です。
共産党の予定では、盧溝橋事件で日本対国民党軍閥のドンパチがはじまっていなければならないのです。
それがスターリンのコミンテルンからの命令です。
スターリンは、「日本と国民党軍を衝突させろ!」といっているのです。
これは厳命です。
逆らえば、毛沢東の命はありません。

そこで、なんとかして日本とChina共産党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の廊坊事件であり、26日の広安門事件でした。

7月11日の停戦から、25日の廊坊事件まで、まる2週間が空いていますが、これはChina共産党に、新たな作戦のための準備期間が必要だったこと、コミンテルンとChina共産党とのやり取りが交されていたと見れば、辻褄があいます。

ともあれ、こうして廊坊事件、広安門事件が起こりました。
前にも述べたし、これからも何度でも述べますが、盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
これだけで、日本はChinaと開戦するに足る十分な理由となる事件です。

実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
日本には、この時点でChinaに対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底してChinaを撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

ところがそこまでしても、日本は戦争を避けようとしました。
当時の日本陸軍の思惑も、仮想敵国はChinaではなく、むしろその背後にいるソ連でしたし、大東亜の平和と独立を回復することこそが日本の理想とするところでもあったからです。

日本は、平和を愛する国です。
Chinaと戦う気など毛頭ありません。
むしろ日本陸軍に限らず、日本人の誰もが願っていたのは、Chinaの大地に戦乱のない平和な社会の回復そのものです。
だからこそ、日本は、明らかな開戦理由となる事件が起こっても、Chinaの兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしていません。

これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
そこでダメ押しで起こされたのが、人類史上類例のない残虐事件である「通州事件」であったのです。
これが起きたのが7月29日です。

廊坊も、広安門も、通州も、等しく北京とその近郊です。
そして通州事件が起こる前、通州城界隈に終結したのは、廊坊や広安門で蹴散らされたChina国民党の残兵たちと、China共産党の工作員たちでした。その数、約3000人です。

この日の午前2時、突如、Chineseたちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
女性はほとんど強姦されて殺害されました。

=======
旅館の近水楼では入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。
帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。
女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。
カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。
南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた
(第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社)

 *

私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。
20名はほんの子供のような少女だった。
家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
空中にぶらぶらされる拷問である。

共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。
そして1日中続いた。
日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。
それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。
多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
水は彼らの血で赤く染まっていた。
何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。
古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。
この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。
しかし120人は逃げおおせた。
犯され殺された者の多くは子供であった。

この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。
中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。
(中略)
こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。
彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。
他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。」
(フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 -日中戦争の真実-』)
=======

では、この通州事件のあと、日本はいったいどうしたのでしょうか。
世界中の誰がどうみても、世界史に類例のない残虐非道な事件です。
それこそ北朝鮮ではないけれど、日本は「容赦ない無慈悲かつ徹底した鉄槌を」くだしても、なんら咎められる筋合いはありません。

ところが日本がとった行動は、「それでも開戦を避ける」というものでした。
この事件のあとの会議では、日頃意見が衝突しがちな陸軍、海軍それぞれの首脳も、当時の内閣も、全会一致で、それでも戦争を避けようという意見で一致しています。

なぜでしょう。
理由は簡単です。
当時の日本の陸軍兵力は最大で25万です。
これに対して、China国民党は210万です。
さらに南下を狙うソ連は160万の大軍を東亜攻略に準備しています。
日本が自立自尊を護り抜くには、Chinaとはむしろ仲良くし、本当の脅威であるソ連に備える必要があったのです。

加えて、日本がなぜChinaに軍を進出させていたかといえば、それはChinaに平和をもたらすためです。
その平和をもたらす使命をもって派遣している日本の兵が、Chinaで報復のための戦いをする、Chinaを戦乱のルツボに叩き込むというのでは、話にならないからです。

日本は、日本政府の意思として、8月4日に、Chineseたちにたいへん信頼が厚い元外交官で実業家の船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて蒋介石に、きわめて寛大な和平を働きかけました。
なぜ寛大かというと、通州事件という未曾有の厄災を受けていながら、日本はその加害者であるChinaに対して、「あながたのこれまでの日本に対する要望をすべて(すべてです)受け入れるから、争いはやめよう」と働きかけたのです。

これが「船津工作」です。
骨子は次の通りです。

(1) 塘沽(たんくう)停戦協定、梅津・何応欽(かおうきん)協定、土肥原・秦徳純協定など、
日本に有利な北Chinaに対する軍事協定をすべて解消する。
(2) 非武装地帯を作る。
(3) 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。
(4) 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

この4項目が何を意味するかというと、その時点でChina国民党が日本に対して希望していたすべての条件を丸呑みする、というものです。
通州事件のみならず、盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。
223名の邦人が大虐殺されるという被害に遭いながら、いっさいの賠償請求もせず、日本は、逆にChinaの希望要求を、全部飲むという条件を提示したのです。

残念ながら、この協定案に蒋介石の入れ歯の替えのことは入っていませんが、この停戦案は、相手の要求を「全部飲む」というものです。
そうなれば、もはや、Chinaが日本を敵視し攻撃する理由など、何もなくなります。
そうなれば、当然に、Chinaと日本との軍事的衝突も回避され、亡くなられた方々にはお辛いかもしれないけれど、結果としてその命が、両国の平和、それ以上に、Chinaの未来永劫の平和な社会建設のために役立つなら、それがいちばん良い解決の道だ、日本はそう判断したのです。

そしてこの船津工作は、8月9日は、上海市内で、日本と国民党双方の代表団が集い、相互に調印を図る段取りとなりました。

ところが、その当日に、上海で大山中尉虐殺事件が起こります。
海軍の上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後大尉に昇進)が、斉藤要蔵一等水兵の運転する車で移動中に、China国民党の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて死亡したのです。

自動車のわきにあった大山中尉の遺体は、多数の機関銃弾を受けていただけでなく、ご丁寧に頭を青竜刀で割られていました。
斉藤一等水兵は運転台で多数の銃弾を受けて死んでいます。

この事件の発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になりました。
そしてこの1週間後に起きたのが、第二次上海事変です。

「かつて日本がChinaを侵略した」という人がいます。
けれど、歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチでChinaに軍を派遣していたのです。
それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。

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コメント

-

名無し
失礼しました。日本は賠償金を受け取ってるんですね

それならば慰安婦問題のかの国みたいに、蒸し返すべきじゃないという意見を耳にしました。

……慰安婦問題の質とはまったく内容が違いますが、

賠償金を受け取って解決したとされているのにいつまでもいつまでも忘れるなと言うのは日中友好の妨げにもなるという意見は理解できます
あのときの人たちの供養を願うばかりで、今の中国とは関係ないわけで……難しいですね

名無し

満州で生き残った日本兵の人は、日本兵は確かに現地人を馬鹿にしている風潮があったというのはこういうことがあったからなんですかね
驕りがあったのは事実だけど、まさか裏切って襲われるまでとは思わなかったと
ただ助けてくれた人たちもいたようですが


通州事件があったとして、それでも何もしないと選んだなら日本は仕方がないんじゃないかと思いました。仇をうつ人も公表する国もない。
個人がこうして言っても、現在、ネット上で中国の反応にあるようにねつ造だろ、で終わりです。国が何もしないんだから当たり前です。
日本が被害者づらをしている、殺されたのは中国人だ、中国人はあんな残虐な行為はしないと言い切っている。

私だって、正直、どれが本当かわかりません。国が何も言わないんだから。
日本人が数字として死んだくらいしか信じようがない
どんな殺され方をしたか、なぜもっと世界が、日本人ですら知らないのか
世界中がそう思います。もし本当なら日本政府は腑抜けだなと。
誰もが思います。平和を愛すると言えば聞こえがいいけど、後世に伝えようともしない。批判すらしない。南京も731も、英語や日本語で検索したら残虐な画像ばかりでます。
これはねつ造だと言わない、放置していることを選ぶなら、事実だと世界が判断するのは当たり前です。
戦争は避けるべきですが、抵抗すらしない。日本人を守らない国は、もう国じゃないでしょう
この様子が本当にあったのなら、日本という国はあまりに馬鹿馬鹿しい

-

通州事件は諦めたのに、どうして
北朝鮮拉致被害は諦めないのか、わかりません
あの人らのせいで、日本は軍も持てない、グルじゃないの?

物申すTV

No title
レッドクロス~女たちの赤紙。てなTBSドラマ見てますが、ひっどい中国アゲ。
ソ連軍・日本軍は極悪非道に、中国人・軍はまるで正義の味方。
共産党サイコーていうプロバガンダですわ。

通州事件や竹林遥か遠く、真鍋郵便局事件等も是非ドラマ化して大々的に全国放送すれば良いのに。

ポッポ

No title
通州事件、通化事件、尼港事件は、日本人として知っておかねばならないことだと思います。
もっとも、そのどれもが真相を知るととても辛いのですけれど、どれもが日本人が覚えておかないと闇に葬り去られると思います。

それから、蒋介石が予想もしなかった西安事件について、もっと影響は大きかったのではないかと、妄想しています。
だって、西安事件の後の蒋介石の反日行動と言えば良いのか、中国共産党への締め付けの緩さは、まるで、いつも蒋介石の横に中国共産党が銃を突きつけていると言っても良い位の気がします。
蒋介石をころすことは可能だけど、そうすると国民党軍は別の者が支配するから、共産党としては彼に生きて貰って操れる方が得だと思ったのです。
まあ、なんの歴史的根拠もありませんけれど・・・・



皇后陛下は心臓疾患に悩まされており、検査を受けられるそうです。
悪い予想をすることもはばかられますが、天皇陛下が3年余り前に心臓手術をされたことがありました。

万一の場合には、同じような病状だと言うことになります。
そのときですが、誠に無礼な話かも知れませんけども、天皇陛下と同様な手術をされることだけは止めて欲しいと思うのです。まどろっこしいので、手っ取り早く言いますとバイパス手術ではなく、心臓カテーテル治療にして欲しいと思っています。

何分にも皇后陛下はご高齢ですから、そうしないと後の負担が大変だと思います。
天皇陛下もその方が良かったと思うのですが、なぜかバイパス手術を選択されました。神の手だと担当医師をもてはやしていましたが、天皇陛下のお顔をテレビで見ていますと、むくみが相当に強く出ているように見えます。
多分、相当体に影響が出ているように思えるのです。

なぜ、心臓カテーテルにしなかったのかと不思議なのですが、当時は民主党政権であったことが影響したのかもと、妙に納得しているこの身が情けないです。

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中国様にお褒め頂きたく、日本人政府に反発してるどっかの知事なんて、中国様が領土占領したら即刻殺害されるのでしょうね。

鬼子

No title
大変勉強になります。一つの懸念を書かせていただきます。

2010年にシナと南チョウセンは国防動員法の改正を行い、次のようになりました。
①シナ共産党 改正国防動員法:「シナ国内での有事発生の際、16歳~55歳までの(国内外の)シナ人は軍属として活動する。その際シナ本土にあるすべての企業等の資産は共産党の支配下とする」(邦人は帰国出来ないばかりか非常に危険となる)

②韓国国防動員法:有事の際には国内外のすべてのものは軍属となる。(これも同様。大統領宣言一発でそうなる。日本国内のザイニチも旅行中のチョウセン人も老若男女すべてが軍属となる)

つまり今回のねずさん記事は「”昔こんなことがあった”」というだけの話ではなく、「今度はそれが日本国内で起こるかもしれないんだぞ」っていう話にもなりますね。(そうさせないように安倍さんは自衛隊をテロ対策に整えました。)

*もうお花畑と平和ボケの人はご退場願います。(”そういう人達も守るのが、自衛隊です”けどね)

しめじ

No title
ようやく教科書に掲載されるのですね。
私も2年前に初めて知った時は驚きました。いや、驚いたなんてものではありません。
日本人がされたことは隠し、通州事件の写真を使って南京大虐殺の証拠資料だと言い立てる。私達が事実を知らないから反論すらできない。
残虐な事件を積極的に知りたいとは思いませんが、正しく伝えるべきです。背景がわからなければ、正しい判断はできません。

しかし、日本人はいつの時代も変わらないですね。争いを避けようと努力する。
水間政憲氏の「ひと目でわかる日の丸で歓迎されていた日本軍」の一節を思い出しました。

通州事件から遡ること10年、1927年南京事件の際
「英米は、揚子江上の軍艦から城内に砲撃して中国暴民を威圧しましたが、我が駆逐艦は碇泊していたにもかかわらず一発も砲撃しなかったため、その後、中国が日本を舐めてかかってくる原因になったのです。」

情報収集をしっかり行い、相手を良く知ることが大切ですね。

えっちゃん

No title
今日も、ありがとうございます。
昨日は、読めなかったので、この記事から拝読しました。
「りの乗一・・。あ、右から左に読むのが、昔の読みかたね。」
と読み始め、通州事件について理解しました
昨日の視点は、Sさんから、今日は俯瞰した視点。
物事は、このように視点を変え検証していくことが大事だと学ばせていただきました。
ありがとうございます。

junn

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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