清王朝は、ベトナムは自国の支配地と(およそ一方的に)考えていましたから、明治15(1882)年に雲南遠征軍を組織してベトナムに入って、フランス軍を攻撃しています。
これがきっかけとなって始まったのが「清仏戦争」です。
明治17(1884)年8月のことです。(〜1885/4)
この戦争の結果がどうなったかというと、「結果が出なかった」のです。
勝敗はついていません。
戦いは膠着化し、泥沼化し、結果としてフランスは清国の領土から立ち退かず、清王朝も矛を収めるカタチになっています。
そしてこの戦争のあと、フランスはベトナムの支配をほぼ完全に確立しています。
おもしろいのは、この戦いが膠着化していた頃のフランスが、日本に参戦を呼びかけてきたことです。
そのときの条件が面白いです。
フランスは日本に、
「不平等条約を是正するから、一緒に戦わないか」と言ってきたのです。
当時(明治初期)の日本は、まさに幕末に締結された不平等条約に手を焼いていました。
不平等条約是正のために、わざわざ大日本帝国憲法まで作成ようとしていたくらいです(憲法発布は1889年)。
その意味では、フランスの申し出は、たいへんにありがたいものでした。
ところが日本は、この、よだれが出そうなフランスの申し出を拒否しました。
理由は、
1 日本は戦争が嫌いなこと。
2 予算がないこと、
の2点です。にべもないです。
日本は、この15年前に戊辰戦争を、5年前には西南戦争を、10年後には日清戦争を戦っているのです。
にも関わらず「日本は戦争が嫌い」というのは奇異に感じるかもしれません。
でも、そうなのです。
日本は、義を通すため、道理を立てるため、自衛のためには戦いますが、それも、あくまで民衆のためにやむを得ないときに限られます。
要するに、利害のために他国の戦争に易々と乗っかるような政治は、太古の昔から日本には存在しないのです。
もちろん、予算の問題もありました。
政府というのは、たいへんなお金がかかるものですけれど、その明治新政府にはお金がない。
明治政府は江戸幕府のお台所であった大蔵方を、そのまま新政府に組み込んでいるのです。
本来であれば、潤沢な資金があってしかるべきです。
そして当時の通貨は、どこまでも金本位制、つまりお札は金(Gold)と交換できる裏付けがあって、はじめて通用するものでした。
その日本では、江戸時代の通貨は大判小判です。
まさに金(Gold)そのものを通過にしていました。
いまの時代でいったら、みなさんのお財布の中の1万円札が、全部黄金の小判だったわけです。
日本全国です。
いったい日本はどれだけの黄金を持っていたのか。
人類誕生以来、全世界で掘られた黄金は、オリンピックプールに換算して3杯分です。
そしてそのうちの1杯分が、実は日本産です。
そして日本は、その人類誕生以来の全世界の黄金の3分の1のゴールドを、なんと日本国内だけで流通させていたのです。
まさに日本は「黄金の国ジパング」だったのです。
(なぜその日本から金がなくなったかは『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』の第一巻を参照してください)。
とまあ、お話がベトナムからずいぶん脱線してしまいましたが、日本は、このときフランスの申し出を断ったが故に、その後の不平等条約の改正にものすごく苦労をすることになったし、またもし日本がこのときフランスに味方していれば、清國は「清仏戦争」に破れ、列強は日清戦争を待たずに一気に清國に流れ込み、その後の歴史は大きく異なったものになったであろうと思われます。
そしてそのことは、結果としてソ連を成立させず(実はソ連がロシア帝国と対決できたのは、日露戦争のために広報撹乱戦略としてロシア共産党に日本からの資金援助がなされたことに由来します)、共産党政権の誕生を否定し、日華事変も大東亜戦争も起こさず、中共政府の誕生もない、まったく別な世界史を築いたかもしれません。
そしてひとつだけはっきりといえることは、日本にとっては、このときフランスからの参戦要求を受け入れることは、以後の東洋史よりは「はるかにマシ」な東洋を築いていたであろうし、日本にとっても大きなメリットであったであろうということです。
それでも日本は参戦しませんでした。
なぜならその参戦は、日本の武士道に反するものだったからです。
日本人にとって、あるいは武士にとっての戦いとは、どこまでも「大切なもののため」であって、利害ではなかったからです。それが日本人です。
さて、ベトナムに話を戻します。
ベトナムは、清朝の影響を受けて分裂し、いわば群雄割拠状態にあったところを、見事にフランスによって整復され、植民地となりました。
ところが明治38(1905)年に日本が日露戦争に勝利したことから、ベトナム内部でも俄然、反フランスの独立運動が盛んになります。
そしてこの年、ベトナムの維新の会(ベトナム語を直訳すると、まさにこの名前になります)のファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が日本にフランスと戦って独立するための武器援助を要請しました。
ところが、この要請を受けた犬養毅は、
「武器によって征服されたからといって、武器を持って立ち上がったところで、独立は覚束ない。そうではなく、独立国家に足る人材を育成していくこと、それによってまっとうな国家国民であることをフランスにきちんとわからせることが、第一である」と、チャウの要請を断ります。
これこそが日本流です。
まず「争いありき」ではなく、まずは人材の育成から、まずはそれにふさわしい人格形成から、なのです。
こういう点、昨今の保守派と呼ばれている人たち(もちろん私自身を含めてですが)は、明治の日本に見習うべきだと思います。
反日運動にただ反対するのではなく、反日が通用しない国家国民に、まずは自らが成長していく。
それこそが日本の進むべき道なのではないかと思います。
ベトナムの独立運動家のチャウも偉いです。
彼は犬養毅の言葉を受け入れ、犬養にベトナムの青年たちの日本留学の許可を要請するとともに、ベトナム国内の青年たちに、日本への留学を呼びかけたのです。
そしてこの結果、科挙に合格していた青年200人以上が、日本に留学しました。
この運動は、いまでは「東遊運動」と呼ばれています。
ここも大切なポイントです。
この当時の日本の大学は、本気で植民地支配から逃れ、新しい国家を築こうとする青雲の志を持った諸外国の若者たちにとって、まさに「学べる場所、学べる大学」であり、それだけの「魅力ある教育がなされている大学」だったのです。
ひるがえって、いまの日本の国立大学はどうでしょう。
文系のファンタジー汚鮮は著しく、また、理系は十分な研究ができるだけの予算がありません。
最新鋭の研究開発は、失敗の連続の上に成り立ちますが、理系でちょっと目立った失敗があると、国中でその人を叩きまくる。
いったい、いまの日本のどこに、アカデミックな教育訓練の場があるのでしょう。
いったいどこに、世界に役立つ優秀な人材を育成する大学があるのでしょう。
小中高教育の問題もさりながら、日本の大学の立て直しは、もはや喫緊の課題といえようかと思います。
ともあれ、当時の日本の大学は、まさに魅力あふれる大学であり、ベトナムの優秀な青年たちが日本に大挙して留学にやってきたのです。
ところが、このことは、植民地支配をしているフランスからしてみると、実に面白くない出来事です。
フランスのベトナム総督府は、ベトナムに残っていた留学生たちの親族を投獄し、拷問にかけ、また日本への送金を妨害しました。
それだけではありません。
フランスは、日本政府に対して、日本とフランスの関係を「相互的最恵国待遇」に引き上げるという餌を提示したうえで、日本がフランスの、ベトナムを含む東アジア地域全域の植民地支配を認めること、および、日本にいるベトナム人留学生たちの日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを求めてきたのです。
これが「日仏協約」で、明治40(1907)年6月10日の出来事です。
フランス政府は、この「日仏協約」が整うと、日本に対してベトナム人留学生たちの引き渡しを要求してきました。
日本は断りました。
けれど、今度はフランスは武力をちらつかせながら、「最恵国待遇なのだから、フランスの要求を飲むべきである」と強硬に申し出てきました。
やむなく日本政府は、ベトナム人留学生たちを「国外追放」にしました。
これは、言葉の上では「国外追放」ですが、当時のベトナムはフランスの植民地のわけです。
つまり、日本政府が留学生たちをベトナムに返せば、彼らは、その場で処刑されてしまう。
優秀な若者たちなのです。
これはなんとしても避けたい。
そこで日本が行った措置が、「国外追放」だったわけです。
日本は、あくまでも国外に追放しただけであって、その留学生たちがその後、どこに行ったかは知らない、という立場をとったのです。
昭和15(1040)年、ヨーロッパで、第二次世界大戦が勃発しました。
開戦早々、フランスはドイツに破れてしまいます。
さて、ここからは、拳骨拓史の書いた『昭和の戦争の真実』にある「ベトナムを独立させた明号作戦」を引用します。
ちなみに、この本、下にAmazonのリンクを張っておきますが、昭和の戦争から戦後の自衛隊の活躍まで、実に幅広く、さまざまな事実を紹介しています。
とても良い本です。
引用に際し()内は、私の補記です。
********
拳骨拓史著『昭和の戦争の真実』
「ベトナムを独立させた明号作戦」
昭和16年7月28日、日本軍は南部仏印(いまのベトナムのこと)に進駐しました。
しかし本国フランスがドイツに破れ、またフランス領インドシナは、本国から遠く軍備も脆弱であったことから、独力で植民地を護ることは難しく、親独的な政権であったヴィシー政府は、日本との協調路線をとることになります。
日本軍が進駐したとはいえ、ベトナムの行政権はフランスが掌握していました。
昭和18年になると、中国の昆明(コンミン)から米軍機がベトナムの鉄道などに爆撃を加え、昭和19年6月には連合軍によるノルマンディー上陸作戦、7月にはヴィシー政府が崩壊、そして9月、イギリスに亡命していたド・ゴールがパリに臨時政府を樹立しました。
11月にはインパールなどから撤退した日本軍は、さらにタイや仏印(ベトナム)へと撤退し、南方軍の司令部はベトナムのサイゴンへと移ります。
さらにベトナムは、ド・ゴール派の影響が強くなり、ホーチミンのベトミンも、抗日ゲリラを強化していました。
このままでは、フィリピンを制圧したアメリカ軍がベトナムに上陸し、さらに北から中国国民党が侵攻してくれば、南方軍の壊滅は必至と考えた日本軍は、機先を制してベトナムを支配下に置くため、仏印(にいるフランス)軍の制圧に乗り出します。
これを「明号作戦」と呼びます。
しかし当時の現地軍の兵力は4万であり、仏印軍はこの倍の兵力でした。
まともに戦えば苦戦は免れないため、陸軍中野学校出身者で組織された「安機関」(安南の安をとって命名)による切り崩し工作を実施(しました)。
その結果、昭和20年3月9日、夜襲を仕掛けフランスの提督らを逮捕し、12日までにはベトナム全土を武装解除することに成功します。
しかし3月10日に東京大空襲があったため、明号作戦の快挙は日本国内で報じられず、日本人には印象の薄い作戦となりました。
3月9日の明号作戦の開始直前、日本軍はフランスの保護国であったベトナム、ラオス、カンボジアなどの各国王に対し、独立宣言をすることが可能であることを伝えていました。
ベトナムの阮朝(げんちょう)のバオ・ダイ(国王)は、フランスとの保護条約を破棄、越南帝国(ベトナム帝国)の樹立を3月11日に宣言します。
これに続き、カンボジアのノロドム・シハヌーク国王も、3月13日に独立を宣言、4月8日にはラオスのルアンパバーン朝のシーサワーンウォン国王が独立を宣言しました。
日本軍の明号作戦により、フランスが降伏したことを知ると、民衆はフランスへの怒りを爆発させ、暴徒と化してフランス人の家屋や商店を破壊しました。
日本軍は暴徒を鎮圧する一方、独立を支援するよう動き出します。
日本がフランスを保護したため、ホーチミンら(共産党系の)独立運動の志士たちの反発を招いたのは事実です。
そのためこの頃、ベトナムの北部、中部で発生した「水害などの影響で米不足に陥り大飢饉に見舞われた」ことを利用して、ホーチミンは「日本軍の収奪で二百万人の餓死者が出た」として、昭和20年9月2日、日本の責任を追求する演説を行っています。
そのため現在でも、これに同調する論調がありますが、
飢饉が発生した理由は、水害と連合軍の空爆による鉄道破壊によって、南部からの食料輸送が滞ったためでした。(アンダーラインは、ねず)
(ホーチミンを首魁とする)ベトミンが、明号作戦によって越南帝国(ベトナム帝国)が誕生しても親日にならなかったのは、当時、すでにアメリカ軍などから武器や資金などの援助を受けていたからでした。
もう少し早く明号作戦を発動できていれば、各地で実施したように仏印独立軍を編成し、ホーチミンらを吸収して独立運動をおこして、歴史を違う形にすることができたことを思えば、いかにヴィシー政権が親独的であったとはいえ、残念な話であったと言わざるを得ません。
(このあたり、非常に興味深い点です。後に米国はベトナム戦争で米国人を含む814万人の死者行方不明者を出す戦争を、ホーチミン率いる北ベトナムと行っていますが、もともとそのホーチミンが武装勢力として力を得たのは、米国が日本との戦争に勝利するために、ホーチミンに武器や資金を渡してホーチミンを育てたことが原因だったのです。米国がChina国民党の美術品バラ巻き外交宣伝など相手にせず、ハナから日本と連携して東亜の治安と秩序維持にあたっていれば、米国人も日本人もベトナム人も、みんな死なずに済んだのです。)
この間、大川周明が所長を務めた大川塾の一期生である原田俊明が、ベトミンの説得工作中に虐殺される事件も起きています。
日本が終戦を迎えるまで、数ヶ月の期間でしかありませんでしたが、日本は善政を布いたので、ベトナムの人々に慕われました。
8月23日、親日的であったパオ・ダイ帝が退位すると、連合軍は北部を中国軍、南部を英印が管理すると声明を出しました。
ホーチミンは9月2日にハノイで「ベトナム民主共和国」の独立を宣言し、パオ・ダイを顧問として迎えます。
国民は、ベトミンの下に団結し、フランスはベトナムを取り戻そうと、9月にはサイゴンへと派兵を開始、12月にはベトナム軍とフランス軍の全面戦争となり、この戦争は9年間に渡って続けられました。
これを第一次ベトナム戦争といいます。
終戦後、大部分の日本兵は引き揚げますが、一部は残留し、ベトナム独立戦争に参加した人々もいます。
ベトミンとともに戦う決意をした日本人は766名、戦病死者は47名、第一次ベトナム戦争でフランスが敗れたことを契機に、日本へと帰国した者は150名、残りはベトナムに留まりました。
彼らは新ベトナム人と呼ばれ、各地の忠魂碑を囲む烈士墓地に埋葬されています。
元、朝日新聞のハノイ支局長であった井川一久氏の指摘によれば、
「サイゴン西北のアンフードン村には、村の守り神のように大切にされている二つの墓碑がある。
それらは1946年2月の仏軍襲来に際し、村民を逃がすために二人だけで白兵戦を試みて死んだ日本兵の墓なのだが、碑面にはベトナム名しかなく、村人にいくら聞いても、本名、出身地、旧所属部隊などは全くわからない」といいます。
彼らはベトナム独立運動を戦うだけでなく、創氏改名して、ベトナムの人々と心をひとつにして戦ったのでした。
******
拳骨拓史さんの『昭和の戦争の真実』の記述は、このあとも、まだまだ続きます。
ご興味のある方は、是非、お買い求めいただきご一読賜ればと思います。
それにしても、自分たちでは何の努力も犠牲も払わずに「創氏改名を強制されたニダ」と騒いでいる民族もあれば、自ら進んで創氏改名して現地の人となり、現地の人々の盾となって散っていった無名の日本人もいる。
そういう歴史の真実を、私達は真正面から見据える、そんな時代がきているように思います。

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コメント
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フランスの会社がネパールだか南米の山奥に浄水場を造り
高額な水道水を近辺の農村に売る商売をしているのをやってました。
少ない水源から根こそぎ水を取り、貧しい人達は買える訳もなく
途方に暮れて辺鄙で遠い場所に水を求め・・・な内容でした。
フランス人はエゲツないなー
日本企業ならインフラ整え現地の人を雇い教育し、
経済的に豊かになるようにして、現地で長期的な経営が出来るようにするだろうにと思いましたが、フランス人のやり方こそ世界の常識で
日本人が特殊なのだとブログを拝見する度痛感いたします。
2015/08/04 URL 編集
やまとどくだみ
五里霧中の戦前・戦中・戦後史の、霧を吹き払って頂いている心持がします。
知らないために繋がらなかった日本軍の実相を眼前に示して頂くことで、ご先祖様の苦悩と敢闘を納得できます。
日本は大義なき戦いはしないが、米国はじめ諸外国は利益なき戦いをこそ避ける。
知彼知己者百戦不殆
彼らには、戦争すると不利益なことを相手に認識させることが抑止力ですね。
ヴェトナムへの修学旅行を控えている家人がおります。
事前学習の一つに、拳骨拓史氏の書籍を与えたく思います。
2015/08/04 URL 編集
くすのきのこ
現状、帰ってきても住む日本人は少ないでしょうね。中韓人が入り込んで、
ついでに中が領土主張して南のセンカク、北のホッポウとなりそうだ。
領土主張は続けるが、ロシアに管理しておいてもらうのがベターかと。
ロシアに対しては、領土主張できないでしょうからね。歴史を捏造するのが
アタリマエの中は、日本本土さえ中だと教科書にのせているわけですから。
準備もな~んにもない現状での背伸びは、かえって国益を損じますよ。歴史
と知識は伝えつつも、実力がつくまで待つのが上策。中露の関係性をよ~く
みつつね。ロシアは予定していた中への天然ガスラインをしばら~~~~く
やめておくと発表しました。ドコまで発表なのかはさておき。現段階でヤば
いのは中では?見極めもなく声をあげるより、じわ~~っと待機しつつ態勢
を整えましょう。ロシアは面白いですよ。ソチの時、露選手に対してハント
ウ人らがフェイスブックで悪戯をしましたが、たちまちハントウ上空に戦闘
機を飛ばしてました。日本の空自に連絡しつつスクランブル演習してくれて
いるという人達。相手をまず知るべきなのです。旧ソとは違います。戦争を
望む国際金融資本勢力のプロパガンダに載せられないようにしなくてはね。
戦かったら負け。金を毟られ、国民を失い、国の道を失う。国際金融資本勢
力の悪さをじ~っと見るのも大事です。ベトナム戦にしても、戦争屋にとっ
ては新兵器の実験みたいなものでしたし。巻き添えにラオスにこれでもかと
いう程クラスター爆弾の空爆実施。今でも不発弾の撤去が続いてまして、日
本のNPOもやっています。人権が~団体は日本もアメリカも動いてない模
様?というか、アメではこの事を知らない人ばかり。愚民政策に呑まれてま
すから。カンボジアの地雷撤去など、日本の自衛隊OBが率先しているので
す。地雷ですが、おもな輸出国が中だそうですよ。そんな金で爆買いされて
もねえ・・。
状況の見極め、そしてそれを伝えていく事。それが大事なのでは?和をもっ
て対処というのは、反発することではなく、巻き込んでしまう流れを作る事
だと思いますよ。決してあきらめずにね。時間はかかりますが・・。
2015/08/04 URL 編集
junn
──「プーチン新蒙古帝国」の近づく襲来に、一億日本人は「北条時宗」になれるか──
前半の前半では、ロシア領土膨脹史/ロシア軍事脅威論を解説。前半の後半は、北海道や新潟その他へ迫るロシアの侵略の動きに対して、これからの日本国は対ロ防衛の軍事国防政策を急ぎどうすべきかについて。
後半は、全北方領土の即時無条件奪還は可能であるとの議論であり、そのために復権させ普及させねばならないことが二点提示されました。一つは、国民がもつべき北方領土の国際法上の地位に関する知見と、もう一つは、これまで二百年間にわたる日露外交交渉史の知見です。http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2015/08/03/144908
2015/08/03 URL 編集
kenz
新ベトナム人〜所謂残留日本兵の方々にホーチミンさんは陸軍学校の設立と教育を依頼したのではなかったでしょうか?只今3連勝中の越国ですが、これからは海軍を強化しなければなりません。
2015/08/03 URL 編集
ポッポ
インドネシアにおいては、終戦後にも残留して独立戦争に加わった話が有名ですけれど、ベトナムのことは知りませんでした。
欧米というか、日本人以外には理解の出来ない発想だと思います。これは、日本が植民地の国々に対して、本気で植民地を解放すると言った目的を兵隊までもが知っていたと言うことですから、どう考えても国家の目的であったと思います。
現地に残って戦った兵隊にはなんの利益もなく、あったのは純粋な八紘一宇の精神に殉じることだけでした。
米軍以下の連合軍は、植民地体制の維持を目的に戦い、日本は植民地体制から開放するために戦ったのです。このことを知らずに、日本が侵略したとは言えないと思います。
>サイゴン西北のアンフードン村には、村の守り神のように大切にされている二つの墓碑がある。
このお二方は、部隊が帰還する際に残られたとき、日本人であることを捨て、もしベトナムが独立した際に生き残られた場合には、ベトナム人として生きるつもりだったと思います。(ベトナムは、独立戦争を戦った日本人に対して永住権を与え、帰化を進めたと思います。)
もし、外国人が母国から他国へ向かい、そこで永住するつもりならば、その国のために戦い、命を捨てるつもりでその国への忠誠心を誓うべきだと思います。
そのくらいの覚悟がなければ、移り住んだ国に対して失礼だと思うのです。
移り住んだ国があるのに元の国へ忠誠を誓うのならば、帰化をしてはいけないし、その国に対して失礼です。
ところで、先日特別委員会を見ていますと、「生活の党と・・・・・」の山本太郎議員が今度稼働する川内原発の安全性に質問して、中国や北朝鮮からミサイルが飛んできた場合の対処が出来ていないことに追求していました。
確かにそのとおりです。
政府は各原発の安全性向上のために、パトリオットミサイル(PAC3)を原発周辺に設置することが必要だと思います。
北朝鮮はこれまでに何回も、日本を火の海にすると言っています。
これにおおっぴらに対応することが出来ますし、また、野党がこれの設置を支持してくれるのですから、予算付けも楽でしょう。
日頃は、日本の国防の増強に文句ばかり言うのが野党ですから、ありがたい発言には感謝して利用させて貰えば良いと思います。
2015/08/03 URL 編集
寿樹
「当時、トンキン・デルタ全体の人口は多くみても500万人くらいでしょう。人口の一番多いハノイは15万くらいで、ビンは5万でした。したがって、ハノイとビンが全滅したとしても、20万です。ですから、200万人が餓死したというならば、人口の二人に一人ぐらいは餓死したことになります。そんなことは全然なかったから200万人餓死説というのは全くの嘘です~」
「駆け出し外交官の戦時仏印体験記――昭和18年9月-昭和21年5月――」 石川良孝/『軍事史学』第32巻第2号(通巻126号)、1996年9月/錦正社
2015/08/03 URL 編集
えっちゃん
目からウロコというより、始めて光をみることができた人のようです。
*フランスが、日本に参戦を呼びかける
*東遊運動
*ベトナム独立運動を戦う、創氏改名して、ベトナムの人々と心をひとつにして戦った
*「日本軍の収奪で二百万人の餓死者が出た」として、昭和20年9月2日、日本の責任を追求する演説
という事実。
知りませんでした。
*反日運動にただ反対するのではなく、反日が通用しない国家国民に、まずは自らが成長していく。
それこそが日本の進むべき道なのではないかと思います。
共感、同感。感動するところです。
ネットでの、いじめのような記事、上から目線の記事、汚い言葉の記事を読むと、読む気にもなれません。
自分がそれらを言えるようなご先祖さまに恥じない生き方をするよう日々努力しているのだろうかと思います。
2015/08/03 URL 編集