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8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。
はじめに、長崎での原爆投下によってお亡くなりになられたすべての御霊のご冥福をお祈りします。
なお、8月9日はソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもあります。
長崎で原爆が炸裂したのは、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分です。
この原爆投下時、「空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」とか、「大本営はB29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置した」とかいう妄言があります。
戦後流布されたあきらかな大嘘なのですが、ジャーナリストという肩書のインチキ左翼がはじめに文書を発表し、これを学者という肩書を持つ左翼系(朝鮮系)御用学者が「引用」し、それをアカヒなどの新聞媒体などが宣伝し拡散し、その記事がまたひとり歩きするという、いつものパターンで広まった、非常識なデタラメです。
そこで今日は、長崎原爆当時の模様を、順を追って振り返ってみたいと思います。
ちなみに当時の長崎市の人口は24万人でした。
原爆は、このうちの14万9千人の命を奪いました。
ちなみに、この死者の数ですけれど、一般に戦死や殉職は、国家の保障の対象とされますが、原爆の場合は、熱線による被害、放射線による被害、後障害、高熱火災による被害、爆風による被害、建物倒壊等による被害などがあります。
即死あるいは即日死をまぬがれた人でも、その後数日間に、あるいは数カ月間の間にお亡くなりになったというケースが多々あります。
おおむね、爆心地(爆発地点から1km以内)での即日死が、死者の半数、その周辺地での死者がその半分、そして数ヶ月のうちにお亡くなりになった方を含めると、上の数になるのだそうです。
たいへんな事件です。
けれど、実は被害はもっと大きくなった可能性があったことは、あまり知られていません。
どういうことかというと、長崎への原爆投下の、つまりこの日の原爆投下の当初目標地点は福岡県小倉市(現:北九州市)だったのです。
この日、原爆投下のために米軍が飛ばせた飛行機(B−29)は6機です。
6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところが4機にエンジントラブルが発生し、2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達したのです。
ところがその2機は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を、第二目標の長崎市に切り替えました。
これによって、長崎が被災地となったのです。
なぜ、突然、投下目標地点が変わったのでしょうか。
理由は簡単です。
飛来したB−29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊が、果敢に高射砲で応戦したのです。
そのあまりに激しい応射によって空中には煙幕ができ、B−29は原爆投下目標地点の目視ができなくなってしまったのです。
それでもB-29は、45分かけて目標地点補足を3度やり直しました。
その3度目が失敗したとき、陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、
同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進やってきたのです。
このためB−29は、小倉への原爆投下を断念し、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて小倉の空から去り、結果として長崎に原爆が投下されたのです。
このことは、三つの点で、たいへん重要な意味を持ちます。
1 当初の目標地点が小倉市
2 抵抗の重要性
3 情報の重要性
です。
ひとつ目の「当初の目標地点が小倉市」であったということは、重要な事実です。
当時の小倉市の人口は30万人です。
そして小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。
つまり遮蔽物となる山がないのです。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域、および関門海峡を越えて対岸にある下関市までに及びます。
ということは、被害規模は推定で瞬間の死者だけで30万人以上、その後の被爆による死者が10万人以上、合わせて40万人という途方もない被害者が発生した可能性があったのです。
ぞっとします。
ふたつめは、日本側の「抵抗の重要性」です。
先日、広島の原爆についての記事の中で、日本に何故原爆が投下されたのかという設問に対して、当時の日本側に米国への反撃能力がなかったことを挙げさせていただきました。
それでも、実際に原爆を投下しようとするB-29に対し、陸軍小倉守備隊が、猛然と必死の高射砲での応戦をしたために、B-29は原爆投下のために必要な高さに高度を下げられなくなり、また猛烈な弾幕とそれによる煙幕で目標地点を目視しようにもできなくなりました。
日本の軍隊は、戦時中であっても、物資が不足する中で、めくら撃ちのような速射はほとんどの場合しません。
それが弾幕と煙幕で、上空からの目標地点捕捉ができなくなったほどの応射をしたというのは、当時の陸軍が、どれだけ広島への原爆投下から、強い危機感を持っていたのかということです。
さらにそこに陸海軍の戦闘機が飛来しました。
おかげでB-29は、小倉を去り、小倉から下関一帯は被爆被害に遭わずに済んでいます。
軍事的脅威に対して「抵抗力を持つ」ということが、いかに国を護り国民の命を守ることになるのか。
このことは私たちは、原爆による実際の被害を受けた経験を持つ国民として、しっかりと認識すべきことですし、学校でもしっかりと子供たちに教育すべきことです。
ましてや「侵略国家である日本を懲らしめるために米国は原爆を投下してくれた」などと、まことしやかな嘘を教えるなど、もってのほかです。
「そういうあんたが原爆を受けてみろ!」と言いたくなります。
みっつめは、情報の重要さです。
あとに書きますが、長崎ではたいへん不幸な事態が重なり、結果として十分な抵抗ができないまま原爆被害を受けています。
長崎への原爆投下について、戦後宣伝されたデタラメの中に、
「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」というものや、
「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものがあります。
まったくの妄言です。
どちらも、日本の無能、もしくは大本営の無能として形容され宣伝されたものですが、残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多いです。
けれど、それが妄言であり嘘であることは、ちょっと調べたらすぐにわかることです。
小倉上空を離脱したB−29が長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後、午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い「夏の雲」です。
これがあると上空を飛ぶ飛行機の姿を地上から見ることができません。
B−29

つまりB−29は地上からは発見されないまま、長崎上空に達しています。
発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところがB-29の側も困っていたのです。
B−29は、第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、積雲のため原爆投下の目標地点の目視ができません。
つまり、そのままでは、原爆の投下ができない状況にありました。
ところが空を分厚く覆っていた積雲に、突然切れ目が生じ、そこから地上の様子が見えたのです。
眼下に長崎の街並が見えました。
そこでB−29は「手動操作で」原爆を投下しました。
それが午前11時1分のことで、
放物線を描いて落下した原爆は、約1分後の午前11時2分に炸裂しています。
炸裂した場所は、長崎市街中心部から3kmそれていました。
雲の切れ間からの手動操作による投下であったためです。
原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。
これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。
この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。
広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少それたことと、長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。
それでも約15万にものぼる死者が出ました。
では、長崎では、なぜ空襲警報や応射が間に合わなかったのでしょうか。
硫黄島を出たB29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来しました。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりでしたから、長崎でも危機感を持っていて、B−29の飛来に午前9時には警戒警報を鳴らして市民への警戒を呼びかけていたのです。
ところがそのB−29は、9時44分に小倉に現れました。
そのため長崎では午前10時過ぎには、警戒警報の解除を行っていたのです。
そのためいったんは防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻っていました。
ところが小倉での爆弾投下に失敗したB−29は、次の目標地点である長崎に進路を変えています。
この日、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っていました。
ご存知の通り、積雲は真夏の雲です。たいへん厚みがあります。
高高度を飛行するB29は積雲の上を飛んでいます。
ですから地上からその姿は見えません。
Bー29の側も、ぶ厚い雲で地上の目視ができません。
そこで乗員のひとりが航法士に、「現在地はどの辺りか」と尋ねました。
このとき、答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと無線スイッチを取り違えて返事をしてしまったのです。
このため、無線通信が外に洩れました。
よほど慌てたのでしょう。
これに慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB−29と空中で衝突しそうになっています。
その無線を、鹿児島沖で、作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。
そのBー29は、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、「チャック、いまどこにいる?」と音声無線を返しました。
これが午前10時50分頃の出来事です。
この無線通信を、日本側も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、その一瞬のやり取りで、日本側通信傍受隊は、ひとつが鹿児島沖からのもの、もうひとつが長崎方面と場所を特定しました。
そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけたのです。
知らせを受けた長崎市は、すぐに空襲警報を鳴り響かせました。
これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。
軍と市は一緒になって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも長崎市民への緊急避難を呼びかけました。
ラジオからは、「長崎市民は全員退避せよ。繰り返す。長崎市民は全員退避せよ」という声が繰り返し流されました。
そしてその臨時ニュースの声が「総退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂し、ラジオの音声は無変調になりました。
午前11時2分の出来事です。
アナウンサーの声は、原爆が光ったその瞬間で途切れています。
すくなくとも、長崎の放送局では総退避をよびかけたアナウンサーがいたのです。
「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」というのは、大事な点を抜いた妄言であることがおわかりいただけたと思います。
無責任な「なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」という言葉が、どれだけ御霊を傷つけているのか。
言った人たちには猛反省を求めたいと思います。
また、「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものも、大嘘に他ならないことがおわかりいただけようかと思います。
ほんの一瞬の無線を傍受したからこそ、緊急で空襲警報を鳴らし、市民に避難を求めたのです。
冒頭にある写真は、長崎に原爆が落ちた時のものです。
何もかもが瓦礫の山となった中にあって、長崎の山王權現様の鳥居だけは、まるで無傷であったかのように建っています。
物理的な理由としては、鳥居は石でできた穴の空いた台にはめ込んでいるだけなので、爆風を柳に風と受け流すことができたというものです。
ですが、仮にそうであったとしても、熱風をものともせずに、そのまま立ち続けていることは、何か不思議な印象があります。
山王権現様というのは、日吉(ひよし)様の別称で、もともとは大山咋神(おおやまくいのかみ)を御祭神としています。
お名前にある「咋」とは「杭(くい、くひ)」のことで、大きな山に杭を打つ神様、すなわち大きな山の所有者の神様であり、山の地主神であり、そこから国土鎮守の神様とされています。
つまり、原爆の炎に大山咋神様は、堂々と立ち向かわれ、そのお姿をあらわされたようにも見えます。
「たとえ焼け野原になっても、決してめげることなく、雄々しく起ち上がれ」
この鳥居は、そんなメッセージを私達に伝えてくれているといえるのではないでしょうか。
戦後のデタラメな、まるで人を馬鹿にしたような軽薄な歴史観を、私達はいま改めるべきときにきています。
そしてそのことが、日本を復活させ、東亜に、世界に本当の意味での平和と安定をもたらすのではないかと思います。
おわりにひとつ。
長崎に落とされた原爆は、もともとは北九州市が目標地点であったと書かせていただきました。
そしてこのことから、3つのポイントを上に述べました。
いま、安保、自衛権に関する議論がさかんに行われていますが、北九州が「必死の抵抗を試みたことで救われた」という現実は、私達は世界で唯一の原爆被災国として、しっかりと直視すべきことであると思います。
必死の自衛権を行使しなければ蹂躙されるという、これが世界の現実であるということを、この史実は明確に教えてくれているからです。
安保反対論者の多くは、集団的自衛権どころか、個別を含む「自衛権」そのものを否定します。
けれど、北九州の小倉が行った必死の抵抗が、まさに個別的自衛権の行使です。
上空が弾幕の煙幕で隠れてしまうほどの対空砲火を行ったということは、それが市街地ですから、その対空砲火の流れ弾や上空で爆発した弾薬の破片等が市街地に落下してきて民家等に被害をもたらす危険だってあったわけです。
けれど、だからといって、もし対空砲火を「しなかった」なら、何が起こったのでしょうか。
要するに国土が戦場になれば、あるいは空や海から蹂躙されるようになれば、人口密度の高い日本では、どうしたって、防衛するだけだって被害は出るのです。
ならば、そもそもそうした戦闘が起こらないようにしていく。
それが集団的自衛権です。
昨日の記事で、集団的自衛権を集団登下校に例えました。
あるいは、夜、学習塾の前にお子さんを迎える車が列をなしている様子を、子を守るための集団的自衛権と書かせていただきました。
車で列をなして子を迎えに行ったとしても、子が襲われる危険がゼロではありません。
また、万一、自分の子や、よその子に何か不審者が近づいて、騒ぎが起きたとしても、そこに行列をなしている車に乗っている親御さんたちが、その子を助けに行くかどうかは、それぞれの親御さんの判断になります。
主権国家は、それぞれが独立しているのですから、助けに行こうが行くまいが、それはそれぞれの親御さん(主権国)の判断によるのです。
ですから、集団で夜、塾の前に車が並んだからといって、親御さん自身が、よその子を襲う(日本が侵略する)という意味には全然ならないし、また100%危険が去るということにもなりません。
それでも、親たちはちゃんと夜、迎えに行くわけです。
襲われてからでは遅いからです。
なくてあたりまえなのです。
コトが起きたらたいへんなのです。
だから、万一に備えるのです。
子を持つ親なら、誰にでもわかることです。

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コメント
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また、長崎の原爆投下までの空襲警報などの経緯も私が聞いたものと違うのですがなぜでしょうか?
私は、どちらも当事者であった北九州市民、長崎の被爆者の方々から直接伺ったのですが…
2016/08/16 URL 編集
日向
2015/08/10 URL 編集
一色 正人
1、「原爆の投下」と殆どのサイトで書いており、ねずさんも同様ですが、原子爆弾爆撃が事実に近い表現ではありませんか。投下などとはアメリカの残虐行為をはぐらかす言葉と考えます。
2、長崎では原爆記念碑として浦上天主教会堂の側壁の保存運動は、途中で潰されましたね。この件に関しての裏の事情をご存知ではありませんか。
2015/08/10 URL 編集
菊
「神様といわれた天皇(呼び捨て)が戦争に負けて人間宣言をした」と学校で教えられてきた日には同じ人間なのになぜ天皇のために死ななきゃいけないの?と、更にA新聞に汚染され、君が代さえも拒否してきましたもの、悲惨なフィルムなど見たくありません。
なぜ戦ったかようやく知ることができました。
それでもどうせテレビは碌なこと伝えてないのだろうなと思っていましたが、ここ数日で目にした番組で流れたことは、
広島の原爆投下3時間後に写された御幸橋での写真を分析すると、犠牲者の年代別統計で15,6歳の女の子の犠牲者がかなり多い話(NHK)
「原爆は実験だった」とか、何故ならそのマンハッタン計画に莫大な予算が注ぎ込まれ成果を出さなければならなかったとか、その影にはトルーマンによるソ連との駆け引きもあったとか、さらっと大量虐殺であり、戦争を終わらせるためとか言い出さないのにはびっくりしました。更にはロシア兵に暴行され堕胎手術を受けた日本女性の話と写真や証言など。
どうした?テレビ、覚醒したか?
と思いました。
まだまだなぜ天皇陛下のために戦ったか、天皇陛下がどのように日本を救ってくださったか、そこをもう一歩と思いたいところでしたが、やっとここまできたのかな?と、今後に期待したいと思いました。
鬼子さんが「日本はアメリカに原爆を2発落とす権利があるとほかの国が思っている」
という話を紹介してくれました。
前述の番組内で、トルーマンの孫があるとき原爆の本当の姿を知り、広島を訪れようとしたとき現地の人の反発を覚悟したそうですが、地元は歓迎してくれ一緒に反原発の運動に参加しているそうです。(マスコミは謝罪しないのか?とか何度も聞いたそうです。クズですね)
日本人は二度とこんなことが起こらないでほしい、こんなひどい思いをするのは私で十分だと思う人が多いです。あだ討ち禁止令が出たおかげでしょうかね?
そんな簡単なことではないかもしれませんが、世界中で起きている憎しみの連鎖が止む影響を与えられたら被爆者も少し救われるかもです。
2015/08/10 URL 編集
猫めでる婆
馬鹿とは如何なる者たちかというと、国家間の緊迫した懸案事項すら話し合いで解決できると信じているスットコドッコイの奴らです。
歴史上、話し合いで戦争が回避できた例を示せと、拳を振り上げながらどやし上げたいです。
それから、他国に友好制圧された都市の名を挙げよと言いたい。
そんな都市は歴史上一つもない。
制圧されたら冨は収奪され、婦女子は強姦され、抵抗力のある若い男性は全部虐殺されます。
古来敵国の兵士に強姦されて生まれた新生児は、その取扱いに大変苦慮しました。
本来生まれてはならない子ですが、無碍に扱ったら占領された国々ではその家族に害が及びます。
本来うちの家族でないのに、養育せねばならないし、母子間では愛情すら生まれて厄介この上ありません。
ところで、日本の昔のお産婆さんは、明らかに国のためにならず家族の負担になりかねない新生児はためらうことなく縊り殺したそうです。
届け出は死産としたそうです。
占領下日本で、敵国人のタネなんぞ生かすものかと度胸を決めたお産婆さんもいたことでしょう。
生まれてはならない子、生きていてはならない子を闇に葬るのはけしからんという人があれば、あなたの娘さんが外国人に強姦されてできた孫を可愛がれますかと問いたい。
戦後混血児を養育したエリザベス・サンダー・ホーム創始者の岩崎弥太郎の孫娘の沢田美喜も相当真っ黒だとバレましたから、人道的配慮などと声高に叫ばれても信じられません。
美名の元に醜聞ありです。
もし日本が今後どこそこの国に侵略されて混血児が生まれたら、その混血児の生まれながらの使命は死ぬことです。
2015/08/09 URL 編集
-
小倉の方々が戦って下さらなかったらきっと私も生まれてなかったでしょう
昔は何とも思いませんでしたが、小さい頃にはきっと生きていたであろうその人達に感謝の気持ちで一杯です
小学生の頃、平和授業が毎年8月9日にありました
教頭先生が当時学生で、その日のお話もありましたが、このお話は一切なかったです
投下日は曇りだった。だから飛行機は長崎に向かった 以上です
平和教育という名のもと、かなり残虐な写真も見せられてきた世代です
真実を知った時は、目から大きなウロコが落ちました
多くの方に知って頂きたいですね
2015/08/09 URL 編集
とおりすがり
http://hinomoto99.com/archives/39474033.html
2015/08/09 URL 編集
フジ昆布
https://youtu.be/NIRdDd8B3pA
2015/08/09 URL 編集
寺島 孝
このブログで小倉がこの大虐殺から逃れることができたのは、小倉の陸軍守備隊の必死の抵抗によるものであることが分かりました。
わずか3日前に広島で大虐殺に遭ったばかりの日本、どれだけ必死の思いで抵抗しれくれたことでありましょう。
今日のこのねずさんの発信のタイミング、まさに安保法案であると思います。これから参議院で審議し採決されるわけですが、実質的には法案は決まったも同然です。でもこれから大事なことは、その中身でしょうね。
与党の自民党議員でも(公明党は反日なので、あれは獅子身中の癌です)、田母神俊雄氏の指摘のように日本派の議員が非常に少ないのですね。 国会でも、どうも反日の民主党などに応戦してるのは、安部総理自らです。彼らは知っているのでしょう、安倍晋三総理さえ倒せばいい、と。
国民だけでなく、政治家にも知って欲しい、多くの国民が関心を持つことが政治家を動かす。この小倉の守備隊の戦う姿勢が小倉を守ったという歴史の事実がある、今こそそれを知って欲しいと、そういうねずさんの思いかと想像しています。 ねずファンなら、多分多くの人がそれを感じたことでしょう。
今、日本が変わりつつあるように思われます。
安倍晋三総理は反日により一度殺された政治家です。そして第一次政権を降りた時、仲間からさえ「失望した、投げ出した、逃げた」と誹謗中傷されました。そうではないでしょう。激務の中、腸の難病で日に30回もトイレに駆け込む。「これ以上続けたら死んでしまう。ここは耐えて引いて欲しい」と秘書全員が並んで泣きながら訴えたのです。
それを中傷など、あんまりです、仲間のくせに。
しかし彼は、戻ってきてくれました。 腸の難病が奇跡的に治り、そして第一次時よりパワーアップして、内政・外交、素晴らしい実行力で、「日本をとり戻す」を実現しようとしてくれています。
田母神敏雄氏も卑劣なやり方で唐突に航空幕僚長を解雇され、自衛隊を首にされました。「日本はいい国だ」と論文を書いたことがです。日本政府は忠臣を殺したのです。あんまりではないか。
6年前から「戦争に巻きもこまれないために核を持つべき」と講演や著書でいつも語っていました。 当時私も「随分過激なことを言う人だなあ」と思いました。 でも今や検討どころか、「持つべき」、という人が多くなってきました。いや少しずつ「当然だ」という、そういう雰囲気が出てきました。
ねずさんは5,6年前(今もかも知れませんが)発信した歴史事実に「捏造」とか誹謗を中傷を随分浴びたと。 いくら反日や変な連中からと思ってもさぞ辛かったであろうと思います。
しかし、今や、多くの講演、著書は売れる。「百人一首」は後世に残ると読後に感じた人は多いと思います。
酷い目に遭った人が(それも明らかに非道な目に遭った)、こうして今多くの国民から受け入れられている。 それこそが、日本が変わりつつある、最大の問題である「自虐史観からの脱却」に向かって前進しているのだろう、と感じてるのは私だけではないと思います。
8月19日に「テレビ朝日」で堀北真希主演で「妻と飛んだ特攻兵」というドラマが放映されます。 ねずさんが「女性の乗った特攻機」で紹介してくれた、谷藤徹夫少尉の朝子夫人が主人公です。
「テレビ朝日」ですが・・・、でも8月19日に放映するという、そこに結構真面目に扱っている可能性も感じます。 終戦が8月15日、そしてその4日後の19日にソ連(日ソ不可侵条約を破って、民軍問わず突然襲いかかってきたソ連軍)への特攻を敢行した兵隊さんとその家族の実話ですね。
当時の日本人がどう思っていたか、踏み込んだ内容になっているかも知れない。もしそうなら、多くの日本人を感動させるかも知れません。 観てみよう。
2015/08/09 URL 編集
昆布
本日も目から鱗でした。それにしても毎年毎年テレビで流される終戦記念特集を見ていると疑問が深まるばかりでした。私の父や周りの父親達がアジアで残酷なことをしていたのか?人の頭蓋骨をコップに血を飲みほし、現地の女子どもを犯しまくっていたのか?私の父母、祖父母がアジアの人間を殺しまくったようには思えません。みんな心優しき平和主義者でした。
2015/08/09 URL 編集
岡 義雄
今の多くの人たちは自分の身は自分で守るという事をしません。しない人が多いと思います。歩行者も自転車も車も相手が避けてくれるとばかりに危険な行為を平然とやってのけています。自分はバイク通勤なので、それらの現象が手に取るように分かります。何故こんな他力本願な社会になったんでしょうか? どんな場合でも常に相手があり、自分の独りよがりだけでは必ず事故につながると思います。
これは今の社会と同じではないでしょうか?
いじめもそうです。おとなしい優しいチョット弱い人が対象になります。ねずさんが言われている反撃される恐れがないからです。あったとしても大した事がないからです。
性善説は大切だと思います。でもそれは信頼に値する対象に対しての話です。こんな状態で、振り上げられた拳を避ける腕も持てないようでは本当にやられっぱなしになります。どうして分からないんでしょうか?
2015/08/09 URL 編集
にっぽんじん
スポーツの世界も同じです。負ければ賄賂で負けたと騒ぎます。賄賂で勝ってきたきたことは棚に上げて相手を非難します。驚くことは「ノーベル賞」も金次第と考えていることです。ここまで来れば本当に民度の低い国だとあきれるしかありません。
「日本の受賞者が多いのはロビー活動が盛んだからだという話になり、韓国では北欧にノーベル賞担当の外交官を送り込むようになった」とのことです。
仮に、ノーベル賞が金で韓国に行けば、ノーベル賞の価値がなくなります。そのことも気づかない韓国という国とは付き合わないにこしたことはありません。安倍首相の談話に韓国の二文字は不要です。
2015/08/09 URL 編集
しめじ
ありがとうございます。
文章を読んでいて、身体が震え涙があふれて止まりません。
戦争が起こらないことが一番なのはもちろんの事です。
しかし、世界の覇権を狙う国家がある限り、戦いを避け隷属の生をとるか、国家の独立をとるか、たとえ一庶民でも考え腹をくくる必要があるのではないでしょうか?
そのように考えると、戦前の日本人は一般庶民でも、(軍の情報操作に踊らされていたと主張する人もいるでしょうが)そういう気持ちを持っていたのでしょうね。
2015/08/09 URL 編集
-
>当時の軍人、民間人を問わず日本国民の戦闘意識の高さに驚かされます<
戦闘意識⇒国防意識です。
すみませんでした。
2015/08/09 URL 編集
えっちゃん
読みながら、身体が震えました。
ねずさんの想いが伝わってきたのでしょうか
ブログで拡散しました。
2015/08/09 URL 編集
taigen
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1439004158/-100
「中韓の主張を子供に刷り込まないでほしい」長崎被爆の伝承妨げる“政治の語り部” 島原・有明中の校長に聞く
被爆体験だけを語れば良いものを、何で中韓の捏造まで子供に注入しようとするんでしょうね。
2015/08/09 URL 編集
-
当時の軍人、民間人を問わず日本国民の戦闘意識の高さに驚かされます。
当時は戦いの真っ只中に居たから当り前と思われるでしょうが、果たしてそうでしょうか?
当時だけではありません、先人達は常に国家、国防を念頭に置いておられました。
ここ最近の世界を見ていると形は違えど、何となくキナ臭くなっているその様に感じます。これもそれも日本の歴史、真の歴史に目を向けはじめ、初めて見えない物が見えてきた、その様に思います。
日本を憂いブログを通して、また色々な形で私達に教授下さる皆様のおかげです。
当時と比べると今の情報量は比べ物になりません。
言い替えれば情報戦の中に生きていると言っても過言ではありません。
そんな中、戦後、日教組教育において自虐意識を刷り込まれ、そのうえ、斜め上、お隣の国の嘘の歴史に振り回され、今の日本は本当におかしな国になってしまっています。
今一度歴史の真実に目を向ける時がきています、強く思います。
爆心地近くで原爆の日に合わせデモ行進、集会され大声を張り上げている皆さん、今日もやられるのでしょうか?
今日は祈りの日です。
政治に利用するのではなく、本当に今日一日だけは日本人として、人間として心静かに祈りを捧げて頂きたい。
遺族として切にお願いしたいと思います。
もうすぐ運命の時間が来ます。
心静かに原爆被災者の方々のご冥福を心からお祈りします。
2015/08/09 URL 編集
junn
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『親ソ(親ロ)という名の“反日”活動』
ソ連を正く理解しなければ、ソ連を客観的に分析しなければ、日本がソ連に対してどのようなつきあいや対応をしたらよいのか、という日本外交の根本に重大な過誤をもたらすことはいうまでもない。
たとえば、ソ連との間に、あの中立条約(昭和十六年)を締結したことが、日本の領土である千島列島や南樺太への、ソ連の侵略と不法占拠をまねく原因の一つとなった。ソ連が条約をいっさい守らないことすら知らなかった戦前日本の最悪の大ミステークであった。
尾崎秀実だけでなく、当時マルキストの牙城であったA新聞などは、一丸となって「鬼畜米英!!」と、大声絶叫の大キャンペーンを張って、国民を米国との対決に導いていった。これは、スターリンの指令に基づくものであったのか、それともテレパシーで自主的にしたのだろうか。
なお、当時のA新聞の報道ぶりは、日ソ中立条約の締結(一九四一年四月)については大歓迎しており、戦後とまったく同じく、「反米親ソ」を基調としていた。戦前と戦後のA新聞の政治的立場は一貫しており寸分も変わっていない。それはともかく、日ソ中立条約は、ヤルタ秘密協定と並んで、ソ連に南樺太と千島列島を貢ぐ最も愚かな条約となった。
なお、ソ連が執拗に日ソ中立条約侵犯と対日侵攻の正当化の口実とする、あのヤルタ秘密協定は、日本は署名していない。国際法の大原則、すなわち、「協定(条約)は、第三国を利せず、害せず」にしたがい、なんら日本を拘束するものでない。しかも、このヤルタ秘密協定は、当時国たるソ連すらすでに破棄し、もう一つの当事国である米国も、無効宣言を発している。ヤルタ秘密協定は、すでに死骸化した代物である。
中川八洋『ゴルバチョフの嘘』ネスコ/文藝春秋
2015/08/09 URL 編集
眞鍋
2015/08/09 URL 編集