そもそも論として、本来、責めるべきは、日本海軍の護衛船ではなくて、あきらかに疎開船とわかる輸送船を、国際条約を無視して魚雷を撃ち込んだ米潜水艦なのであって、命がけの護衛をしていた護衛艦ではありません。
一隻は沈没しました。
けれど、他の2隻の輸送船は、何がなんでも安全に逃さなければならないのです。
これには先例があります。
対馬丸事件の9か月前の出来事です。
生存者の救助にあたるために停止していた護衛艦が、米軍の襲撃を受けて、せっかく救助した被災者とともに爆死した事件が、現にあったのです。
対馬丸事件の一ヶ月前、昭和19年7月には、サイパンが陥落しています。
そのサイパンでは、サイパン戦がはじまる前の3月3日に、「あめりか丸」と「さんとす丸」、5月31日には「千代丸」が島民を満載して出港しました。
ところがこの船は、疎開用の非武装船の旗を掲げていたにもかかわらず、米軍の潜水艦による魚雷で撃沈されてしまうのです。
あっというまの沈没でした。
乗員は全員、行方不明(死亡)です。
サイパン島には、戦いが始まった当初、島に約2万人の在留邦人(民間人)がいましたが、どうせ死ぬなら兵隊さんと一緒に島に残って、なんでもいいからお手伝いしようと考えるのが人情というものです。
この結果、サイパン島には、民間人約2万人が残留しました。
その人たちについて、サイパンの戦いに従軍した田中徳祐陸軍大尉(独立混成第四七旅団)が目撃談を残しています。
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米軍は、拡声器をいくつもすえつけ、一日中、「米軍は虐待しません。米軍によってよい待遇が受けられます。みなさん投降してください」と呼びかけた。
しかし、その呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子は、全員が素っ裸にされ、数台のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。
滑走路に集った老人と子供の周りにはガソリンがまかれ、火がつけられた。
たちまち阿鼻叫喚のちまたと化した滑走路。
我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続けた。
火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。
二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。
「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う米兵士。
こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、それに裸にされて股から串さしにされた婦人を見た。
自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が、五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
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結局、日本側は、この時点で生き残った少数の兵隊さんと、2万人の民間人が、マッピ岬のある島の北端に押しこめられました。
マッピ岬に取り残された民間人は、岬からつぎつぎに身を投げて自決しました。
マッピ岬は、後にバンザイ・クリフと呼ばれるようになります。
その日本人の民間人投身自殺の模様は、米軍の目前でくりひろげられました。
このとき、岬から身を投げた民間人は、最低でも8000人だったといいます。
バンザイ・クリフで日本人の婦女たちが投身自殺する模様は、映像となって、毎年8月15日の終戦記念日頃になると、繰り返しテレビで放映されています。
映像をみると、撮影している米人たちが、まるで娯楽映画を楽しむように、その人が次々と投身自殺をしていく光景をみて、歓声をあげている音声がはいっています。
制止するべきではありませんか?
言葉が通じなかったとしても、その崖に銃弾でも撃ち込めば、婦女たちは崖から飛び込むことをあきらめたとは考えられませんか?
ここにすべてがあらわれています。
サイパン戦の終結後、米軍が収容した日本人民間人は10,424人です。
約半数の民間人が、戦いの渦中に命を亡くされたのです。
東条内閣は、サイパン陥落の報に接すると、即座に緊急閣議を開きました。
そして東条英機首相以下、閣僚たちは全員、サイパンの悲劇をくり返さないようにと誓い、さらに米軍の動向から、次には「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断しました。
そしてその日のうちに、沖縄本島、宮古、石垣、奄美、徳之島の五島からの、本土及び台湾への大規模疎開の実施を決定したのです。
決定は、その日のうちに沖縄県に通達され、60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を優先させ、本土へ8万、台湾へ2万、合計10万を即時疎開させることになりました。
当時の沖縄県民は、周辺の島々を加えて約59万人です。
そのうち即時疎開者10万、そして開戦までに、さらにできるだけ多くの県民を疎開させよと通達したのです。
実は、このことは、軍としてもたいへんにありがたい措置です。
なぜなら、戦う軍にとって、民間人の残留は、まことに負担が大きいからです。
民間人は、規律と統制のとれた軍人ではありません。
軍人は、命令一下整然と行動をとりますが、民間人は行動が散漫で遅滞しがちです。
加えて逃げ遅れた者がいれば、軍はそのための捜索隊を危険を冒して出さなければならない。
戦傷者が出れば、そのぶん、余分な人手をとられます。
つまり、軍の機動力と戦力の両方が損なわれてしまうのです。
こう書くと、「何のために戦っているのだ。民間人の保護のためじゃないのか」とお叱りの声が聞こえて来そうです。
けれど、そこが「戦場」なのです。
敵の砲弾が飛んで来るのです。
それだけじゃありません。
沖縄は、数々の離島で構成された島です。
周辺の島々に住民がいれば、日本側の守備隊は、それぞれの島の防衛のために、ただでさえ少ない兵力を、余計に割かなければならないのです。
戦いは、戦力が集中した方が有利。それは古来からの戦いの常識です。
離島に戦力が分散し、また本島の民間人保護に戦力を取られたら、それだけでも、戦いは非常に不利なものになってしまう。
まして、高齢者や婦女子は、戦いの場にいたら危険なだけです。
まだあります。
食料です。
当時の沖縄は、年間に消費される米の3分の2を、県外からの移入に頼っていました。
沖縄で戦闘が始まり、海上輸送が途絶したら、県民への食糧補給が困難になります。
ですから一日もはやく沖縄県民を集団疎開させることは、日本にとっても、軍にとっても、ましてや沖縄県民にとっても、まさに喫緊の課題だったのです。
だからこそ、東条内閣は、とにもかくにも、一刻も早く、沖縄県民を、本土や台湾に疎開させようとしました。
けれど、疎開をする側の民間人からしてみれば、その時点では、まだ敵弾が飛んできているわけではありません。
いつもと変わらぬ青空が広がっている、いつもと変わらぬ日常がそこにあるだけです。
郷土への執着もあることでしょう。家畜の世話の問題もある。年寄りもいれば、病人や妊婦や、赤ちゃんもいます。見知らぬ土地への疎開に対する不安もあります。手荷物のことだってある。
女房がウチからいなくなったら、明日からの飯はいったい誰が炊くのか。
疎開先で、子供たちの学校はどうなる?
疎開先での食事の面倒は誰がみるのか?
体の具合の悪い年寄りの面倒は誰がみるのか?
かかりつけの医者があるけれど、疎開先に医者はいるのか?
飼っている牛や犬や猫をどうするのかも、民間人にしてみればたいへん大きな問題です。
現実に疎開ということになれば、それぞれの家庭ごとにいろいろな問題があるのです。
集団疎開なんてしないで済めば、それにこしたことはないし、沖縄が戦場にならないなら、それがいちばんいい。
誰だってそう思います。
見上げる空は、今日も青い。見渡す海は今日も青く広く輝いています。
その海原を埋め尽くすほどの米軍艦船が、巨大な主砲から嵐のように艦砲射撃を加えてくるなんてことを、その時点で、どうして想像できましょう。
沖縄戦が起こるのは、それからまだ8カ月も先のことなのです。
この瞬間は、あくまで、「もし、敵軍が来たら、こうなる」という仮定の話でしかありません。
来ないかもしれない。
昨日と変わらぬ日常を送る一般の人たちにとって、昨日と変わらぬ今日があり、今日と変わらない明日があるだけです。
ですから、ひとくちに疎開といっても、そうそう簡単なことではないのです。
国が事前に疎開をさせようと思う時は、だから住民にきちんと事情を説明し、理解を得ながら、疎開誘導を円滑に進めなければならないし、そのためには沖縄県の行政の協力と働きが不可欠です。
ところが、当時の沖縄県知事であった泉守紀(いずみしゅき)が、疎開に真っ向から反対しました。
「沖縄県が戦場とならないために努力するのが軍の仕事である」などと、わかったようなことまで言い出しています。そして県が疎開行動に協力するのを拒んだのです。
風雲急を告げているときです。
すぐそこまで敵が迫っています。愚図愚図しているヒマなんてないのです。
「沖縄県が戦場とならないために」もちろん最大限の努力はします。
けれど、大切なことは「戦闘はこちらが望んで起こすものではない」ということです。
こちらの事情に関わりなく、米軍は米軍の都合で、攻めて来るのです。
沖縄に日本軍がいなければ、攻めて来ないなどということもありません。
当時の航空機は、日米とも、まだ燃費が悪いのです。
米軍が日本本土を攻略するためには、そのための攻撃拠点となる基地が必要です。
だからこそ、サイパンに次いで沖縄本島の占領は不可避なのです。
ならばサッサと降参したらいい、という人もいるかもしれません。
これも違います。
降参すれば、米軍は悠々と沖縄を占領し、そこから日本本土を攻撃してきます。
もっと多くの命が失われてしまうのです。
ですから、理屈はともかく、兎にも角にも、疎開は実施しなければならなかったのです。
ところが沖縄県知事の泉守紀(いずみしゅき)は、昭和18(1943)年の赴任当初から、いわく付きの人物でした。
着任早々から、やれ「沖縄は遅れている」だの「だから沖縄はダメだ」などと、県の職員たちを見下し、こき下ろし、県庁職員たちの反感を買っていました。
昭和19(1944)年3月に、沖縄防衛のために陸軍第三十二軍が着任したときにも軍の幹部と揉めています。
なにを揉めたのか。
軍が駐屯すると、そこに民間施設の「慰安所」ができます。
その民間の慰安所(売春施設)の設置を、拒んだのです。
理由は、「皇土の中にそのような施設は望ましくない」というものです。
けれど当時は赤線が世の中の常識だった時代です。
沖縄にも遊郭はありました。
つまり現実に施設はあったのです。
ただし、万単位の若い兵士たちがやってくれば、慰安所の女性の数が足りません。
それに、民間慰安所で、もし梅毒でも蔓延すれば、それはそのまま軍の機能を損ねます。
だから当然のことですけれど、軍でちゃんと衛生管理のできる慰安所を求めています。
それは、必要があってのことです。
ひとついえることは、この手の、いっけん「もっともらしい理屈や能書きをいう人」に、ろくな人物はいない、ということです。
なぜなら、人間には本能があり、その本能の欲求を否定する者というのは、必ず「自分だけは別」と、特別扱いされることを当然と思っているからです。
「売春宿はよくない」といえばそれまでです。
言っていることは、ご説、ごもっともです。
けれど、明日をも知れない命である兵隊さんたちにとって、性の捌け口は現実です。
このことは、女性の方にはちょっとわかりにくいかもしれません。
けれど男というものは、私くらいの年齢になるともはや現役引退になるけれど、若い適齢期の男性にとっては、ほっておいても精子が溜まるのです。
毎朝、起き抜けには、息子が相手を求めて大騒ぎする。
それが適齢期の男性というものです。
これは人類普遍の男の生理です。
男の生理は下痢と同じです。
切羽詰まってくるし、放出しなければ、頭に血が昇る。
とりわけ戦地においては、明日をも知れない命です。
そうなると、これまた人類普遍の真理で、なんとかして自分の遺伝子を後世に残そうとする本能が働きます。
若い男性なら、女性に対して渇望的になる。これは種の保存のための本能です。
一方、女性の場合は、明日をも知れない命となると、逆に平和と安全を強く求めるようになるといわれています。
なぜなら胎内に子を宿した状態で、戦火を迎えたら、安心して子を産めないからです。
これまた女性の本能です。
戦いの前に、子を残すために女性の胎内に放出して子孫を残そうとする本能がはたらく男性と、これを受け止めて安全なところで子を産みたいという本能が働く女性。
そして男性は、そんな女性たちを守るために、死地に赴く。
女性たちと子の安全のためです。
そういう意味では、人もホ乳動物のうちです。
下痢で漏れそうなときに、トイレを使うことを禁じれば、そこらへんに漏らされてはたいへんです。
たとえは悪いかもしれませんが、どんな綺麗な家でもトイレは必要です。
ちなみに、いまでも自衛隊の駐屯地がありながら左翼系の県知事がいる都道府県では、いわゆるピンク産業について、非常に厳しく規制的です。
自衛官のみなさんは、それでもじっと我慢して日々の厳しい訓練にいそしんでいます。
ですがこれは、男性に一方的に無理を強いるものです。
生物学的には、決して正しい選択ではない。
自衛隊のみなさんは、よく我慢しておいでだと思います。
まさに日本男子の優しさだと思う。
けれど、そのことは同時に、国を護る隊員たちが、美人局に簡単にひっかかってしまうという危険を孕むものでもあるのです。
そういう意味で、女性の読者の方は反感を持たれる方がおいでかもしれませんが、私は、赤線の復活を望む派です。
私自身は、もう歳なので、おそらく利用することはないと思います。
けれど、世の中に必要悪というものがあり、それは否定してはいけない現実であるということを、私達はちゃんと心得なければならのだと思っています。
軍や自衛隊の存在もまた然りです。
戦争はない方がいいに決まっています。
けれど、万一のときのことを考え、それに備える。
家の玄関の鍵なんて、面倒くさいものは、ない方がどれだけ便利か。
ですけれど、鍵がなければ防犯対策にならないのも現実です。
それと同じです。
話が脱線しました。
対馬丸事件に戻ります。
慰安所設置をめぐって、これに反発した泉守紀県知事は、昭和19(1944)年10月10日の那覇大空襲のとき、逃げまどう市民や県庁職員をほったらかして、自分だけさっさと防空壕に隠れています。
職員すらほったらかしにしました。自分だけ逃げたのです。
さらに空爆が終わると、民間の被害現場さえもほったらかして、こっそり那覇市を脱け出し、沖縄本島中部の普天間に公用車を使って、いちはやく逃げています。
そして普天間で、自分ひとりだけの「県庁本部」を名乗りました。
もちろん県の職員達は、那覇の県庁にほったらかしです。
さらに昭和20(1945)年1月、沖縄戦の2ヶ月前の、敵上陸がもはや眼の前に迫ってきているときには、泉知事は、自ら上京して沖縄からさっさと去ってしまっています。
大蔵省幹部であった実兄に頼み、自分だけが沖縄から転任できるよう、工作を依頼していたのです。
泉知事が着任してからの在任帰還は、約一年半(約500日)ですが、そのうちの三分の一近い175日間もの間、彼は沖縄県を留守にしました。
どこに行っていたのかと言うと、東京との調整と称して、風雲急を告げる沖縄をほったらかしに、ずっと中央で転勤のための根回しをしていたのです。
それも沖縄県の歳費を使って、です。
要するに泉知事は、沖縄が危ないということを沖縄の民衆の誰よりも早い段階で知っていたからこそ、軍に圧力をかけ、軍が嫌がっていちはやく自分だけ沖縄から逃げ出そうとしていたわけです。
そのために、県知事という立場を利用して、内閣や軍の指示にさえ「きれいごと」を言って竿をさし、反発し、邪魔だてしたのです。
もっと簡単にいえば、「沖縄県民の安全を人質にすることで」自分だけが戦地からうまく逃げ出す算段をしていたわけです。最低です。
こんな体たらくの県知事であっても、県の職員のなかには、ちゃんと危機意識を持つ人もいてくれました。
たとえば沖縄県の警察部長であった荒井退造氏なども、そのひとりです。
荒井退造県警部長も、本土からの赴任組です。
彼は、昭和18年7月、42歳で沖縄県警察部長として沖縄に赴任しました。
そして赴任からちょうど一年後に、東条内閣からの疎開指令を受けたのです。
形ばかりのつもりだったのかもしれないけれど、泉知事は、荒井退造を、県民疎開の責任者に任じました。
荒井退造は、すぐに県下の全警察署に指示して、説明会や家庭訪問を実施させました。
県民一人ひとりに疎開の必要性を説いてまわらせたのです。
それはたいへんな作業でした。
沖縄県の全警察官が、一件、一件のお宅に訪問して、事情を説明し、疎開へと誘導するのです。
「おやじさん、7月7日には、サイパンが陥落したんですよ。3万1000名の守備隊は玉砕、1万2000名の在留邦人も運命を共にしたんです。
沖縄で同じことがおこったらどうするか。
ここは、つらくても一時的に疎開するのが一番良いのだから。
みなさんが疎開することで、沖縄守備隊も精いっぱいのご奉公ができるんです」
命令じゃないのです。
警察官が、一軒一軒の家を回って「説得」したのです。
そこまでしても、県民の反応はイマイチでした。
警察官の言う理屈はわかるのです。
けれど、先祖伝来の土地からはそうそう簡単には離れられるものではなかったからです。
やむをえず退造は、県の職員や警官の家族を先に疎開船に乗せることを企図しました。
本来は、順序が逆です。民が先、官が後です。それはわかっている。
けれど、まず、役人や警官の家族が動き出したとなれば、県民たちだって安閑としてはいられなくなるのではないか。
それに、老人や妻子を本土に疎開させた暁には、残った職員たちだって後顧の憂いなく奉公ができる。
そういうことで、昭和19(1944)年7月21日、疎開船第1号が那覇の港を出発しました。
船は輸送船「天草丸」です。
県庁職員や警官らの家族752人を乗せて那覇港を出発しました。
このとき、沖縄県警察部輸送課長だった隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいました。
当時6歳だった四男の勝也さんは、当時の状況を鮮明に覚えていて、それを手記に書きのこしています。
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追い立てられるような、慌ただしい旅立ちだったと子供心に記憶しています。
その日、一張羅を着せられ、まだ新しい帽子をかぶり、ランドセルを背負い、新品の革靴姿でした。
母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、兄や姉は持てるだけの荷物を持って、那覇港に行きました。
埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ見送りの人たちで一杯でした。
父も見送りに来ていました。
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見送る夫、見送られる妻。
これが永遠の別れになるかもしれなかったのです。
去来した思いはいかばかりだったことでしょう。
輸送船第一号として那覇港を出港した「天草丸」は、すこし走っては停まっては耳を澄ます、また少し走っては、停まってあたりを警戒するという動作を繰り返しながら、すこしずつ航海をすすめました。
敵潜水艦による攻撃を警戒したのです。
通常ならわずかな道のりの航海も、だからこのとき、鹿児島に着くまでに2週間もかかっています。
航海の途中、勝也少年は、ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていったのを目撃しています。
大きな魚かと喜ぶ勝也少年を、大人たちは「じっとしなさいっ」と叱りつけて、ぎゅっと体をつかまえたそうです。
それは敵潜水艦の魚雷だったのです。
天草丸は間一髪で助かったのです。
非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、国際条約に従い明らかな「戦争犯罪」です。
戦後日本は、東京裁判で、戦後の事後法である平和に対する罪などで裁かれましたが、法律不遡及の原則といって、法というものは遡って罪をなすりつけてはいけないものです。
法には不遡及の原則があるからです。
けれど、東京裁判は、事後法で裁かれました。
一方、輸送船を意図的に攻撃してはならないという国際法は、米国を中心とする連合軍によって、公然と破られています。
そして勝った米軍は、それら不法行為について、一切裁かれることはありませんでした。
日本の輸送船は、当然のことながら非武装輸送船(疎開船)であることを示す標識を掲げて航海していたのです。
しかも、走ったり停止したりを繰り返しています。
さらに、進路は戦地に兵員や軍備を運ぶ「行き」のコースではなく、沖縄から本土に向かう「帰り」のコースです。
誰がどうみても、素人判断でさえも、あるいはよほど頭の足りない戦闘員であったとしても、それが「非戦闘船」であることは明白です。
それでも、攻撃されたのです。
私たちが忘れてはならないことだと思います。
また、非戦闘船でありながら、ジグザク走法をして敵潜水艦による魚雷攻撃を警戒したことにも理由があります。
実は、沖縄疎開開始決定に先立つ8ヶ月前の昭和18(1943)年12月21日に、沖縄那覇から本土に向けた定期航海の輸送船団が米国潜水艦によって、撃沈させられるという事件があったのです。
それが「湖南丸事件」です。
場所は、対馬丸が沈没した海域と同じ海域です。
攻撃を受けたのは、日本の「沖903船団」でした。
船団は、輸送船が湖南丸、大信丸、延寿丸、慶山丸の四隻、護衛は佐世保防備戦隊所属の特設捕獲網艇の第二新東丸と柏丸の二隻でした。
12月19日に那覇を出た船団は、20日には奄美の名瀬港に着きました。
ここまでは何事もなく航海を続けることができたのです。
同日午後5時、船団は名瀬港を出発し、鹿児島に向かいました。
そして21日午前1時38分、沖永良部島西方18km付近で、湖南丸が、米国潜水艦からの魚雷攻撃を受けました。
魚雷は、2本が湖南丸の右舷に命中しました。
湖南丸は、わずか2分で沈没してしまっています。
けれど、そのわずか2分の間に、湖南丸の船員達は、湖南丸に付属している救命艇を海に降ろし、また筏になりそうなもの、浮き輪などを、海に放り投げました。
湖南丸に乗っていたのは、海軍飛行予科練習生予定者や女子挺身隊などを含む民間人が683名、船員72名、海軍警戒隊4名の合計759名です。
沈没した湖南丸から海に投げ出された乗客たちは、船員達が必死で投げてくれた救命艇や浮き輪などによって、その多くが一命をとりとめました。
一方、沈没のその瞬間まで、乗客達のために救命艇や浮き輪を用意した船員達は、湖南丸と命をともにしています。
海上にただよう乗客達は、救命艇や筏につかまりました。
護衛艦の柏丸は、海に漂う乗客達を助けるために、エンジンを停止させ、人命救助にあたりました。
柏丸は、こうして湖南丸の乗員約400名を救助しました。
ところが、です。
明らかに停船して、海上に漂う人々を救助し、その救助活動によって海上のほとんどの人が柏丸に乗り込んだのをみとどけてから、米潜水艦はその柏丸に向けて、魚雷を放ったのです。
いくら護衛艦とはいっても、停船している状態では戦闘能力はありません。
動くことも、避けることもできないまま、護衛艦柏丸は、魚雷をまともに受けてしまいます。
魚雷は、海から救助され、暖を取るために遭難者の多くが集まっていた、柏丸の機関室を直撃しました。
柏丸は大爆発を起こし、救助された人々と、命がけで救助にあたってくれた柏丸の乗組員たち全員を連れて、ほとんど瞬時に海に沈みました。
護衛艦の第二新東丸は、柏丸と湖南丸の生存者の救出をいったんあきらめ、他の輸送船(大信丸、延寿丸、慶山丸)の乗客たちを守るため、輸送船団を指揮して、いったん全艦で、その場を離脱しました。
なぜなら、それぞれの輸送船には、他の大量の乗客がいたからです。
他方、知らせを受けた日本海軍は、即時、対潜艦4隻を現場に急行させるとともに、夜明けとともに航空機を現場に急派しました。
そして、海軍の増援艦隊を確認した護衛艦の第二新東丸はは、再び現場に戻り、生存者の救命活動を行ったのです。
けれど、発見できた生存者はわずかでした。
湖南丸だけでも、死亡者は、船客576名、船員69名・海軍警戒兵3名の合計648名です。
助かったのは、わずか111名でした。
沈められた湖南丸、柏丸に乗船していて亡くなられた方々のおひとりおひとりには、それぞれ家族があり、友人があり、それぞれに人生がありました。
それだけでなく、湖南丸には、沖縄や奄美から本土にいる家族らに宛てたたくさんの手紙を運んでいました。
その手紙の一枚一枚には、遠く離れた家族への思いが綴られていたことでしょう。
非武装の輸送船を攻撃することも国際法上違法なら、救命活動中の船舶への攻撃も、明らかな国際法違法の行為です。
それでも攻撃されてしまう。
すでに沖縄〜本土間の制海権は、半ば敵の手に落ちています。
けれど、それでも沖縄決戦となれば、そこに残る人々は、まず生きて帰れない。
だからこそ、危険を承知で、精一杯の注意を払いながら、疎開船を出さなければならなかった。
それが、昭和19年夏の、沖縄の情況です。
対馬丸事件は、こうした状況の中で起こっています。
対馬丸が那覇の港を出港したのは、昭和19(1944)年8月20日午後6時35分のことです。
目的地は、長崎です。
一緒に船団を組んでいたのは、
輸送艦 対馬丸、暁空丸、和浦丸
護衛艦 蓮、宇治 の5隻です。
対馬丸には、一般人及び那覇国民学校の児童、その介添者合わせて1,788名と、86名の乗組員が乗船していました。
他の2隻は、和浦丸に、学童疎開者だけで1,514名、暁空丸には一般疎開者だけで約1,400名が乗っていました。
子供達の対馬丸での様子は、「まるで修学旅行でも行くかのよう」だったそうです。
「先生、ヤマトに行くと雪が見られるのでしょう?」
「雪って、どんなかなぁ」
「先生、長崎ってどんなとこなんですか?」
「あ、向こうに船が見える!、先生、あの船、なんて名前?」
子供達で沸きかえる船内では、手が空いた対馬丸の乗務員が、子供達に付き合って、「戦争の話や、前に遭難して助かった話など」をしたりしていたそうです。
一方、米海軍は、暗号解読などによって、対馬丸ら一行の予定航路をおおよそ把握していたそうです。
そしてその航路に網を張った米潜水艦のボーフィンは、8月22日午前4時10分に、レーダーによって対馬丸を含む船団の位置を探査し、特定しています。
米潜水艦のボーフィンは、潜航状態で観測を行いました。
船団には、哨戒機が2機が張り付いていました。
しかも船団は、レーダーを妨害するために、強烈なジャミングを発していました。
これにより、ボーフィンは、「当該輸送船団は、重大任務を負っている」と判断。
航空機の援護ができない夜間に攻撃をしかけることを決め、船団から約40キロの距離を置いて、ひそかに追尾しました。
夜になり、対馬丸では、引率教師たちが児童に、救命胴衣の着用を指示しています。
午後10時9分、米潜水艦ボーフィンは、船団との距離を2.5kmにまで詰め、艦首発射管から魚雷6本を発射しました。
対馬丸は、見張員がその魚雷を視認します。
ブリッジでは、艦長がただちに「取舵一杯、両舷全速前進」を命令しました。
けれど、近距離での発射です。
魚雷はみるみる接近する。
艦長の指揮で、1本目の魚雷は船首前方をかすめ去りました。
しかし、続く3本が、左舷の第一、第二、第七船倉に命中しました。
そしてすこし間を置いて、別の魚雷1本が第五船倉右舷に命中しました。
魚雷の命中によって、船内にはおびただしい海水が流入しています。
船体の保持困難とみた艦長は、即座に「総員退船」を命令しました。
子供達を引率していた先生たちは、寝付いたばかりでなかなか起きない子供達を、蹴っ飛ばしてまで起こしたそうです。
そして海水の浸入するなか、船内から乗組員たちと一緒に、子供達をいちはやく梯子を登らせて甲板に出そうとしました。
けれど、梯子を踏みはずして下に転落する子供、おびえて体が動かなくなる子供。そして、みるみるうちにせまってくる海水。
一方で、甲板にいる乗組員達は、やはり大急ぎで、救命艇や浮き輪、筏になりそうな器材等を海に放ります。
そうこうしているうちに、乗客の児童や教師たちが甲板に上がって来る。
乗組員達は、急いで海に飛び込むように指示するのだけれど、舷側が高くて、これを乗り越えられない者、夜の暗闇の海への恐怖にふるえて海中に飛び降りれない児童もいます。
船はどんどん傾いて来る。
乗組員達は、子供達を舷側から海に放り投げもしたそうです。
そして魚雷命中からわずか11分後の午後10時23分、対馬丸は、大爆発を起こして沈没しました。
爆風で、舷側にいた救命ボートが転覆し、何人かは吹き飛ばされて海に消えました。
その日、海は近づいている台風の影響で、大しけに荒れていました。
その荒れた海の上で、大声をあげて生存者を捜す者、せっかく来ていた救命胴衣が大きすぎて、そのまま海で溺れて沈む者もいました。
護衛艦の「蓮」は、敵潜水艦による次の攻撃を避けるために、持っている機雷を全て海に放出しました。
そして護衛艦蓮と、宇治は、残った輸送船の暁空丸と和浦丸を連れて、全速力で現場を離れたのです。
これは正しい判断です。
すぐ前に、同じ海域で、湖南丸事件があったのです。
しかも、米潜水艦は、常に三隻で行動しています。
その場にいたら、他の輸送船の乗客達まで、犠牲になる危険がある。
一方、対馬丸の生存者は台風で荒れる海の上で、漂流しながら救出を待つことになりました。
漂流は、暴風雨、三角波、眠気、真水への渇望、飢え、錯乱等との戦いでもあったそうです。
漂流中、対馬丸の小関保一等運転士は、当初、10名ほどの児童が乗った筏につかまりながら、漂流している児童を見つけてはいかだに乗せました。
そうしてまる17時間、小関さんは救助した乗客達を筏に乗せ、自分は海に浸かったままで一昼夜を耐え、8月23日午後3時ごろ、付近を航行していた漁船2隻に救助されています。
このとき漁船に救助されたのは児童、一般人83名、兵7名、乗組員21名でした。
わずか10名の乗る小さな筏で、それだけ多くの人数の人命を保ったのは、海水が腰の高さまで浸水している筏にあって、小関さんが、とにかく「座れ、座ってろ!」という強い指示があったからでした。
彼は、嵐と高波に翻弄される筏にあって、重心を下げることで筏の転覆をついに防ぎきったのです。
同じく乗組員の吉田薫夫さんは、児童3名と筏で漂流しました。
子供達を励まし、軍歌を歌ったりして気を紛らしたりしたそうです。
けれど、体力の衰微とともに、2名の子供が相次いで死んでしまいます。
悲しみにくれながらも、吉田さんは、万一助かったときのためにと、亡くなった子供の遺体とともに、漂流を続け、翌々日の8月24日に捜索隊によって救助されています。
こうして、312名が救助されました。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍の救助隊や、軍から連絡を受けた奄美などの漁師たちの船によって救出されました。
いちばん長い人で、10日間もの漂流をしています。
けれど対馬丸の乗員1788名のうち、児童804名を含む、1,418名が、犠牲となられました。
犠牲者の遺体の多くは、奄美の宇検村などに流れ着いたそうです。
現地には慰霊碑が建立されています。
沖縄からの疎開船は、昭和19(1944)年7月21日の第1号の天草丸からはじまり、翌昭和20(1945)年3月まで、延べ187隻が繰り出され、合計で8万名以上が日本本土と台湾へ疎開しています。
そして、同年3月23日、洋上を埋め尽くした米国の大艦隊の艦砲射撃とともに、延べ二千機におよぶ米航空機による空爆が始まりました。
沖縄戦のはじまりです。
激戦は6月下旬まで続きました。
そして、日米両軍合わせて約18万人が死傷しました。
結果として、沖縄の民間人9万4千名が犠牲となっています。
開戦前に、沖縄から逃げ出した泉知事に代わって、1月から県知事に赴任した島田叡(しまだあきら、当時43歳)氏は、県警部長の荒井退造氏とともに、最後の最後まで県民の疎開に尽力し、もはや海上輸送による疎開では間に合わないとなるや、沖縄県本島北部に、避難施設を作って、3月までに約9万人を疎開させ、さらに医者と半年分の食料を避難民のために確保しました。
こうした努力によって、当時の沖縄本島の住民49万のうち、約20万人が、何らかの形で疎開することができたのです。
けれど、牛島軍司令官が6月23日に自決し、その数日後、荒井県警部長はアメーバ赤痢で亡くなり、島田県知事は、近くの海岸の自然壕でピストル自決してお亡くなりになりました。
沖縄戦のときの、泉知事、後任の島田知事、そして荒井退造県警部長のことについては、当ブログの
「命をかけて守る、荒井退造」に詳しく書かせていただいていますので、ご参照下さい。
なるほど対馬丸事件で、護衛官の蓮と治は、輸送船の暁空丸と和浦丸を連れて現場を離れました。
けれど、その判断によって、すくなくとも輸送船和浦丸の学童1,514名、暁空丸の一般疎開者約1,400名は、無傷で助かっています。
そして、沖縄からの疎開船による約8万名の輸送のうち、犠牲となったのは、あの制海権を奪われた環境のなかで、対馬丸の1,418名だけです。
亡くなられた方々にはお辛いことと思いますが、のべ700回の航海で、8万名の生命が救われ、被害をこれだけに食い止めたということは、むしろ、当時の情況を考えれば、驚異というべきです。
さらに、最後の最後まで乗員達を助けるために、命を賭けて必死の活動をした対馬丸の船員達の最後まで思いやりの心を失わずに、乗客たちを助けるためにした努力の数々と死を、犠牲者への哀悼とともに、私達は心に刻んでおかなければならないと思います。
歴史は、ジグソーパズルのピースのいくつかを拾っただけでは、全体像は見えて来ません。
そして全体像をみなければ、昨日の記事の対馬記念館のガイドさんのように、間違った判断をしてしまうということも、あわせて学ばせていただきたいと思います。
対馬丸の犠牲者のみなさまに、心からのご冥福をお祈り申し上げます。
そしてもうひとつ。
下にあるのは、大東亜戦争船舶遭難位置図です。
昨年、冨山先生からいただいた一文です。
********
輸送船などに乗務し、大戦中に亡くなられた船員は約6万人、死亡率は軍人を上回る43%。
戦没した船の数は7,240隻です。
武器も持たず制空・制海権を失った海域で任務を全うした船員の皆さんに敬意を払いたいと思います。
********
心からの敬意を払い、ご冥福をお祈りしたいと思います。
大東亜戦争船舶遭難位置図

(日本郵船歴史博物館HPより)
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http://www.mag2.com/m/0001335031.html対馬丸の悲劇忘れない 慰霊祭、冥福祈る
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コメント
ビバノン
2015/08/24 URL 編集
にっぽんじん
「リメンバー パールハーバー」はアメリカ人にとって屈辱の言葉と考えられています。が、真珠湾にある戦争記念館にはそのような表現はないそうです。記念館に飾られている飛行機は真珠湾を攻撃した「ゼロ戦」です。
サンフランシスコ講和条約を結んだミズリー号も安置されているそうです。その戦艦には特攻機の傷跡が残っているそうです。特攻で散華した若い日本兵の遺体はミズリー号のアメリカ兵によって厳かに水葬されました。
真珠湾攻撃の時に応戦した元アメリカ兵が語っていました。事前の準備を怠っていたから攻撃されたと。彼らにとって「リメンバー パールハーバー」は「準備を怠るな」という誡めの言葉だったのです。
真珠湾の戦争記念館には「日本兵の攻撃技量」を称える文章があるそうです。「安保法制」に反対する野党の先生方には是非真珠湾の戦争記念館に行って欲しいものです。「準備を怠ればどうなるか」勉強してきて下さい。
2015/08/22 URL 編集
古格
2015/08/22 URL 編集
えっちゃん
自分の命だけは助かりたいという方は、戦争中もいたのですね。
日本人にも・・・。
昨日の十和田市の暴挙・・に関して、10名にメールしました。岩手県で、もう署名活動していた人。署名をして、フェイスブックで情報を流してくれた人。巣鴨でお店を開いている人は、娘さんが東京の新渡戸稲造の学校に入っていたと 今、話しました。学校から、連絡が来ているのではないかと。
全員が署名してくれるとは限らないけれど、自分ができることを全力でするのは、気持ちがいいものです。
高校球児にすがすがしさを感じるのは(テレビは観ていませんが)彼らが全力を出して試合するからなのではないでしょうか。
おかしいことをおかしいと主張し、長いものに巻かれないのが私は好きです。
2015/08/22 URL 編集
はっちょもん
軍隊どうしの交戦では双方が犠牲者を出してしまうので抑止がはたらく。
しかし、丸腰の民間人攻撃は相手側に深刻なダメージを与える。
憲法9条改正で戦争抑止策が最優先である。
2015/08/22 URL 編集
いつも更新ありがとうございます
幼心に大変ショックを受け、教室に戻った後も涙が止まらず同級生にからかわれたものです。
駆逐艦が救助活動もせず逃げたような描写他、歪められた事実を押し付けられたのだと今になって知り複雑な思いです。
小学生時代に限らず、中学生時代もそういう左翼思想的なものにまんまと乗せられていたなと痛感する今日この頃です。
2015/08/22 URL 編集
junn
2015/08/22 URL 編集