
写真を見て、なにか気付きませんか?
この中村久子さんは、実は、両手両足がありません。
一緒に写っている人形は、彼女が、クチを使って、器用に縫った人形です。
中村久子さんは、明治30(1897)年に、岐阜県北部の高山で生まれました。
「飛騨の高山」として有名なところです。
冬は、深い雪に埋もれます。
その寒さのために、彼女は2歳のときに、凍傷に罹ってしまうのです。
最初は、左足の甲だけだったそうです。
けれど凍傷は、次第に左手、右手、右足へと広がり、脱疽(だっそ)をひき起こします。
脱疽というのは、体の組織が壊死(えし)していくことです。
そして壊死した部位は、こんどは腐敗菌に感染します。
すると人の体は、肌色ではなくて、まるで墨を塗ったみたいな真っ黒になります。
本当に墨のように真っ黒になります。脱疽です。
そうなっていく過程で激痛を伴ないます。
真っ黒になったところは、すでに組織が死んでいますから、その部位は切り取らなければなりません。
つまり手足を斬り落します。
そうしなければ、感染部位が体全体に広がり、命が失われるからです。
切れば、命は保たれます。けれど両手両足がなくなります。
切らなければ、死にます。
ご家族は、親戚まで集まって、たいへんに悩まれたそうです。
そして幾度となく親族会議が行われ、決断がでないうちに、左手が手首からポロリと崩れて落ちてしまったのだそうです。
結局、右手は手首から、左足は膝とかかとの中間から、右足はかかとから切断しました。
中村久子さんが、まだ3歳になったばかりのときのことです。
7歳の時に、父が世を去りました。
10歳のときには、弟が亡くなりました。
そんななかにあって、祖母と母は、久子さんを、ただ甘やかす育て方はしなかったそうです。
おかげで、久子さんは、口をつかって器用に文字を書き、さらには編み物まで、自分でできるように育っていきました。
大正5(1916)年、20歳になった久子さんは、地元高山を離れて上京し、横浜市などで一人暮らしを始めました。
けれど、母と再婚した継父に、見世物小屋に「だるま娘」の名で身売りさせられてしまいます。
見世物小屋での久子さんは、文字通り手足のないダルマ女として見せ物になりながら、手足のない体で、裁縫や編み物を見せる芸を披露しました。
後年久子さんは、当時を振り返って、次のように語っています。
「(障碍者だからといって)恩恵にすがって生きれば、甘えから抜け出せません。一人で生きていく。そう固く決意しておりました。」
実際、久子さんは、生涯を通じて国による障碍者保障を受けることをしませんでした。
そして彼女は、見せ物となって全国行脚して生計を立てながら、結婚し、二女をもうけています。
そして昭和12(1937)年には、来日したヘレンケラーと会い、口を使って作った日本人形をヘレンケラーに贈りました。久子さん41歳のときのことでした。
久子さんは、50歳頃から執筆や講演などの活動をはじめました。
彼女は講演で、自身の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について恨まず、むしろ障碍のおかげで強く生きる機会を貰ったと語りました。
中村久子さんの言葉です。
「『無手無足』は、私が仏様から賜った身体です。
この身体があることで、
私は生かされている喜びと尊さを感じています」
「人は肉体のみで生きているのではありません。
人は心で生きています。」
「人の命は、つくづく不思議なものです。
確かなことは自分で生きているのではない、
生かされているのだということです。
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はありません。」
昭和43(1968)年3月19日、中村久子さんは、脳溢血のため、高山市天満町の自宅でお亡くなりになりました。享年72歳でした。
三つのことを申上げたいと思います。
1 自立する
ひとつは、障碍者でありながら、自立した女性として強く生き抜いた中村久子さんという女性の強さと輝き、そして強い心です。
辛いこと、苦しいこと、どうしようもないことを、他人のせいにし、恨み、ねたみ、そねみ、他人の足を引っ張っる。
自分は弱者だと規定し宣伝し甘える。
特に政治関連ですと、政治的に敵対し、他人の悪口を言って貶めることで自分自身の小さな自己満足に浸る。
昔の人は、そういうことを良しとしませんでした。
どんなに辛くても、苦しても、自立し、魂を磨いていく。
男女を問わず、それが人としてあたりまえのことだという認識が社会人としての常識でした。
それこそが誇りであり、気骨であったわけです。
2 不自由であっても不幸ではないという気骨
二つめは、来日したヘレンケラーが、中村久子さんに、「私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と言ったのは、単にヘレンと比較して、久子さんの傷害が重くて不幸だと言っているのではない、ということです。
ヘレンケラーは、自分以上にたいへんな傷害を抱えながら、挫けることなく、明るく強く生きている中村久子さんを「偉大だ」と言っているのです。
先般も書きましたが、徴兵され戦地の最前線に行ったのは、徴兵検査で「甲種合格」となった方々です。
徴兵検査は、結果が甲乙丙丁戌の5種類でしたが、その基準を見てびっくりでした。
現役時代の私は、柔道をやっていたし身体頑健には自信があったのですが、基準に照らしたら丙種でした。
これは現役兵にはなれず、後方での国民兵になれるだけ、という結果です。
では、甲種合格となる人はどういう人かというと、だいたいひとクラスに1人いるかいないか。
つまり、級友の中で、とびっきりの健康優良児の優秀な若者しか、兵役にとってもらえなかったのです。
そういうとびっきりの健康優良児が、兵役にとられ、30キロの背嚢を背負って何百キロも行軍し戦う。
戦えば怪我人も出ます。
なかには手足を失う者もでます。
そんな不具者がどうなったかというと、治療後にいまでいうリハビリ施設にはいるのですが、そこで徹底的に厳しい訓練を受けて社会復帰したそうです。
そういう人達の伝記が、東京・九段下の「しょうけい館」に展示されていますが、彼等が語った言葉に、愕然としました。
そこに書かれていたのは、
「私の人生は、不自由だったが、不幸ではなかった」
3 見世物小屋のこと
もうひとつ、久子さんが「見世物小屋に売られた」ということについてです。
「売られた」というと「ひどいことをされた」と条件反射的に思うとしたら、それは戦後史観に染まっています。
なるほど親元を離れるわけですから、さみしさもあるでしょう。
他人の中で暮らすというのは、つらいこともあるでしょう。
けれど、子が親元を離れ、丁稚奉公に出るというのは、どこの家庭でもあったことです。
その丁稚に出たのが、たまたま障碍を抱えていたから見世物小屋だったということです。
その見世物小屋は、すこし大きな縁日といえば、屋台の露天だけでなく、化け物屋敷(幽霊屋敷)などと並んで、昔は必ず出たものです。それは定番の屋台といって良いものでした。
そして障碍を持った人の見世物小屋というのは、ただ障碍者をそこに座らせて見せるだけでは、お客さんは入りません。
あたりまえのことです。
そんなもの見たがる人の方が、よほどの変人です。
むしろ、見たがる人こそ、見世者にしたいくらいです。
見世物小屋のお客さんは、もちろん「こわいもの見たさ」に入るケースもあるでしょう。
けれど、ただ「こわいもの」がそこにあるだけでは、お客さんは二度と来てくれないのです。
たとえば今日のテーマの中村久子さんのようなケースでは、手足のない「だるま女」として見せ物になりました。
そう言われて恐いもの見たさに入場したお客さんも、その興行を許可するお上も、ただ手足のない女性を見るというだけなら、お客さんたちは二度とその小屋に入らないし、お上もそんな見世物小屋は絶対に許可などしません。
そうではなく、手足がなくても、和裁をしたり、きれいな書を書いたり、けっしてくじけず芸事を磨いて必死に生きている。
その姿を、お客さんたちは見たのです。
そのために見世物小屋の興行主は、障碍者だからといって決して甘やかせたりはしませんでした。
身の回りのことは全部自分でやらせたし、両手両足がないダルマ女であっても、口にくわえた筆で、健常者でさえも及びもつかないほどの見事な書を書いたのです。
だから見世物小屋にはいったお客さんは、そこで障碍を抱えながらも一生懸命まじめに努力して生きている姿を目の当たりにしました。
そして次には、友達を連れてきてくれました。
障碍があっても頑張って生きている。まして自分たちは五体満足に生まれてきているのだから、もっと一生懸命生きなければと、あらためて感じることができるからです。
だからそこには感動がありました。
それが「見世物」だったのです。
つまり「見世物」にしたのは、「両手両足がない」ことを見世物にしたのではなくて、そういう障碍を抱えたひとりの女性が、両手両足がなくても立派に書を書き、裁縫をし、健常者以上の仕事をこなしている。
その凛とした姿が「見世物」となったのです。
ここが日本における興行の、ちょっと違うところです。
だからお客さんも、木戸銭を払って中にはいるけれど、出るときにはその障碍者のためにと、寄付までしてくれる。
その寄付金は、見世者になっていた障碍者だけではなく、小屋に出れないもっと重度の障碍者のために使われる。
そうやって互いに助け合い、ともに支えあって生きる社会を築いてきたのが、私達日本人だったのです。
綺麗ごとを言っているのではありません。
感動がなければ、お客さんははいってくれないし、二度と来てくれないし、ましてリピーターなどないのです。あたりまえのことです。
見世物小屋が人を見せ物にすることは、昭和50年に法律で禁じられました。
「それは人道的ではない」ということが理由です。
けれど、障碍者を、ただ手足が不自由だからと法で社会から隔離したり排除したりする社会と、みんながむしろ障碍者から学び、みんなの力で障碍者を支えた社会と、果たしてどちらが人道的な社会といえるのでしょうか。
北島三郎が歌った演歌『風雪ながれ旅』のモデルになったのが、津軽三味線の高橋竹山です。
3歳で失明し、盲目の戸田重次郎のもとで三味線を習い、門付け三味線芸人として身を立てる一方で、それだけでは飯が食えずに鍼灸師とマッサージ師の資格をとり、それでも努力を重ねて、いまでいう津軽三味線のスタイルを確立したのが高橋竹山53歳のときです。
障碍者だからといって甘えない。
むしろ障碍があるからこそ、魂を鍛えて凛々しく障碍をまっとうする。
そういう勁(つよ)さを持つことを、障碍者であれ健常者であれ、ともに大切にしてきたのが日本人だったのです。

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コメント
松さん
両親も兄弟姉妹も、みんな居なくなって独りになりました。
でも、弟の子供が三人いますので、仲良く元気にやってます。
2020/09/23 URL 編集
はらさり
私は身体障碍者です。
と、言う前にひとりの人間、女性です。
身体障碍者になったのは生まれつきではなく、途中からです。いまは障碍者認定やら年金やらを支給されながら暮らしています。
中村久子さんのように強く生きたい。
でも、弱い自分も居ます。
書きたい、言いたいことは沢山あったのですが、大切な事はたった一つ。
ココロだけは不自由にはならない。
2019/09/22 URL 編集
takechiyo1949
障碍者自身の要望を取り入れないのか?と、客先に聞きました。
障碍者の言い分は分かるが、要望が自己中過ぎて車両設計基準を満たせない。
そう言われました。
五体不満足って本。
読みました。
障碍者は障碍にめげず懸命に生きる姿を見せ、周りに勇気を与えなくちゃダメ!
そんな雰囲気を感じました。
著者のような成功事例は稀ですし、健常者である自分は、障碍者の本当の苦労など体感できません。
それでも…障碍者を自己中の塊と言うは、健常者の理不尽だと思います。
実弟は、施設で年老いた第一級障碍者です。
手も無いし、歩くこともできません。
しかし有難いことに、自分の身の回りのことは全て自力でやり元気に暮らしています。
中村久子先生と同じく口を使って、スマホでもPCでも操作できます。
毎日のメール交信は、とても楽しみです。
2019/09/21 URL 編集
愴意
最近の自由とは、したいことをしたいようにする様。というような意味付けをしているように感じます。しかし、彼女の姿は誰よりも自由を映し出しているように感じてなりません。五体不満足であるのに。したいことはできない不自由に見えるのに。
内容を読んで思ったのです。自由とは制限の中でどのように決断するか、また、生きるのか、制約の中で制約に圧迫されているのにそれをものともしない、あるのは気づいているがそれを物ともせず跳ね除けるその様なのではと。
例えるなら、子供に鉛筆と紙を与えて何かを描かせる時の子供の心のようなイメージです。子供にとっては鉛筆で紙に書くという制約があります。それでも子供の純真さの中で、「色鉛筆がない、紙が小さい」どいう不平不満のない清々しく、活き活きとした姿。その様な心が自由に通ずるものなのだと感じます。彼女の場合なら、織物を織る手がなくともそれに縛られずとらわれずに関係なく織物を織るという、その心なのだと。
だから、最近の人の自由は、制約のない絵空事なのだと、ふと思いました。きっと、何もかも映し出す筆で全ての空間に好きな時に好きなだけ書くそんなたしなみのない状態なのだと思いました。それはきっと身勝手過ぎてぐちゃぐちゃで、見るに堪えないものなのでしょう。その空間にはあらゆる色があるのに、あまりに中身のない空虚な、あるのにないに等しい、価値のないものなのでしょう。
だから、私には彼女は美しく輝いているように感じ、とても純真なイメージを写真から受けるのです。五体満足だから感謝とか不満足だから可哀想とかそういうことではないのだと感じました。何者にも縛られない、制約の中で自由にいるから美しく可憐なのだと。むしろ、その考えにとらわれることこそ自由性であるのかもしれない。そして、制約との対峙こそが個性を生み出す力ではと思います。そこからどのように感じて、とらわれることなくどう行動していくのか。それは歴史だったり文化だったり体質、生活など様々なものなのだと思います。最近の人はそれを嫌う風習があります。古臭いとか右翼的だとか個性的でないとか。そのため制約との葛藤がない。だから、上辺だけの軽い雰囲気になる。そして、軽くなり過ぎて傷ついたらすぐに逃げる、諦める、そんな関係になってしまったように感じてなりません。そこには人の姿はない。欲の蜜の味を覚えた理性の獣です。関係が楽だから、得だから、繋げるだけ。嫌になれば「はい、さよなら」となってしまうのです。それは動物の自由かもしれませんが人の自由ではない。
と。長くなってしまって何が書きたいかよく分からなくなってしまいましたが、昔の人たちは自由を無意識に知っていてそれを追求する心を持っていたのでしょう。そして、こういう話と関わって読んでいる考えている皆さんもそういう心を持っているのだと私は思います。また、こういうことを上げ続ける著者さんも自由で個性的なのだとおもいました。私もこんな風に自由に生きようと思いました。
著者さん、こういう考える機会をくれていつもありがとうございます!これからも頑張って下さい!
2015/09/14 URL 編集
のんべやすさんURL紹介ありがとう
完成したものを友達にあげたそうです。
友達は大喜びでしたが友達の母親はつばだらけの着物を
「汚い」と言って捨ててしまったそうです。
この話を聞いた時、私は「この友達の母親なんてひどい人なのだ」
と思ったのですが、ねずさんの記事を読んで
「ああ、この友達の母親も中村久子さんを特別視せず一般の人と同じ扱いをしただけなんだ...」
と判りました。
中村久子さんはそれが悔しくてさらに奮起して着物を作り、
それが写真の様なきれいな着物を作れる技術に昇華されたそうです。
こういう視点というのは大事ですよね。
2015/09/13 URL 編集
のんべやす
その言葉の通り、自らを由と思えた為なのでしょう。
なぜそう思えたのか?
日本は古来より公民の心を縛る事が無かったからでは無いでしょうか?
税の為の労苦は有ったのかも知れません。
ですが、我々公民の心は飽くまで自由であったと思われるのです。
自由とは、強制されるまでもなく責任が伴うもので在ります。
私達は長い時間を掛けてゆっくりとそれを醸成して来たからこそ
この様な方が居たのでしょう。
シラスという統治が連綿と続いて来た事の、数多くの証拠の一つなのだろうかと思われました。
2015/09/12 URL 編集
terag3
私が思うに、久子さんの災難が3歳未満に発生したことにより、三つ子の魂百までもという諺にもあるとおり勿論、このように育てられた、祖母と母親も偉かったのですが、本人の久子さんもその後の人生に対応できたのだと思います。
母親と再婚した継父が成人した久子さんを、見世物小屋に身売りさせたと言いますが現代人の感覚でいえば、薄情、非道の継父という感情論で捉えるかも知れませんが、果たしてそうだったのか?
これも久子さんが成人後も、一人で生きていける自立を促すための継父の考え方が有ったのではないか、私は無宗教者でありますが、これがいわゆる天の配剤だったという観点も必要ではないかと思っています。いずれにせよこのような感動的な良いお話は、次代を背負って立つ子供たちに是非とも読み聞かせてあげたい良いお話でした。
2015/09/12 URL 編集
smile702
忙しいのでいつも流し読みさせて頂いていますが、今回の記事は、何か心に響くところがあったのでしょうか、しっかり読ませて頂きました。毎日の為になる記事の配信に感謝致します。
2015/09/12 URL 編集
くすのきのこ
春風亭柳昇という落語家さんを御存知でしょうか?
陸軍の歩兵として召集されて訓練を受け、数年は教育係として本土勤務の後、
中国大陸の戦地へ行かれ受傷。利き手の指を失っており、戦後は縁あって落
語界へ。新作落語へとすすんだのは、指の欠損により古典落語では手を使う
表現が難しかったからだそうです。与太郎戦記、陸軍落語兵などの御本を著
されていますが、面白いです。タイリクの子供から玉子を買っては腹を壊し
たりして・・つい、サルモネラ中毒?と突っ込みたくなるような話とか。支
給されていたゴムの名前が突撃・・とかww当時の非日常な日々と一般庶民
兵の感性が・・悲壮感もなく厭世観もなく、いろんな人物が登場し、リアル
に雑多に綴られています。昨今の自己完結をめざすストーリーものよりもずっ
と・・実は重いのですが、軽妙なのはサスガに落語の道へ行ったお方です。
この与太郎戦記をネタにして映画化もされています。
ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげる氏も、戦地で片腕を失われていますね。
2015/09/12 URL 編集
one
私、90歳位のダルマ愛好家の方からお便りを頂いたことがあります。達筆で、実に誠実な文章で、昔の日本人は凄いと思った次第です。ダルマの創作一つとってみても、他者への迎合を良しとしない、己の魂との会話を何よりも大切にした、それが日本人の姿だったと思います。
政治の世界でも”栄華の巷低く見て”とか、井戸塀になったとか、我々にはとても真似できないような人々が、たくさんいたようですね。
2015/09/11 URL 編集
八丈島
今日のお話よかったですね。
表面の差別と心の中の差別、表の差別にはクレームをつけることがでますが・・・・。アメリカでは黒人と結婚する白人は皆無に等しいですね。日本人はどの人種の人とも結婚しますが、それは日本人は人を差別する気持ちが少ないからでしょうね。
2015/09/11 URL 編集
TK
いつも先生のブログを拝見いたしております。今回のお話を読み、わが身を振り返って、身の引き締まるような思いになりました。
ところで本日は、協賛のお願いに参りました。
実は、あの在日特権が、実際に存在することが確認されたということです。
それは、「外国人の扶養控除」における問題で、私たちの生活にも大きな影響があるみたいです。年収が1000万でも、海外の親族を多数「扶養家族」として申請してしまうと、何と税金が0円、保育料なども激安になる!という衝撃の内容です。
そして、日本人差別とも言えるこの問題を、実際に解決しようという動きがあります。
貴サイトでも、是非この問題を取り上げて頂けませんか?具体的には以下の漫画を転載して欲しいのです。
この在日特権廃止のための運動に協賛いただければ、まことに幸いに存じます。
漫画1
https://samurai20.jp/2015/08/relateddocuments1/
漫画2
https://samurai20.jp/2015/09/relateddocuments3/
漫画2の配布用データ
https://drive.google.com/file/d/0B8BIjQLKlyA2c1V3bjZ0MVhkREE/view?usp=sharing
以下のリンク先に協賛受付があるため、是非ご検討をお願いします。
↓中段に、協賛受付フォームがございます。↓
https://samurai20.jp/2015/09/onegai/
2015/09/11 URL 編集
名無し
して、その仕草を参加者が大笑いを
して見るという祭りがあるそうです。
日本とは真逆ですね。
こんな酷い国の人達と友好なんて
考えられません。
2015/09/11 URL 編集
やまとどくだみ
ひざ下が欠損した一人の泳者のバタフライにいたく感激しました。
あの感動は、このお話と同じです。
私には少なくとも四肢がある・・・頑張らねば彼の泳ぎに負ける、と!
それが、彼らが身を以て世人に教えてくれることです。
支援するつもりが、かえって多くのことを教えて頂けます。
2015/09/11 URL 編集
こもも
この方は何年も前に日テレで放送していた「知ってるつもり」という番組で取り上げられていて、大変印象に残り覚えていました。
ご本人ももちろんお辛かったでしょうけれど、甘やかすことなく立派に育て上げられたお母様もさぞ辛かったことかと察します。
私の息子も生まれた時に300人に1人という病気があり、1才になる前に手術をしました。まだまだ要観察の日々が続きますが、親として何もできずもどかしい思いです。
でもその病気のために将来学校でいじめられたりすることがあるとしても、それをはねのける強さを持つ子に育てることしかできません。
カテチかも知れませんが、親目線でこの記事を拝見し思わず投稿させていただきました。
最後になりましたが、いつも素晴らしい記事を発信して下さってありがとうございます。これからも楽しみに拝見させていただきます。
2015/09/11 URL 編集
ポッポ
身体の不自由な方が、その身体で物事を凜として処理されることは素晴らしいことだと思います。
今なら両手両足を持たない方が色々なことを健常者以上にされることを見るのは、笑いものにされる可能性があると言うことで「人道的ではない」と言うことですが、五体が揃っている癖に身体の不自由な方よりも上手にできないのならば、笑うことなどとんでもないことだと思います。
私は過去に目の不自由な方から、自分よりも電気の工作が下手だと笑われたことがあります。
今の日本には、身体に不自由はなく、若くて健康状態に異常はないのに、仕事をする気のない人がいます。そして、そんな人が仕事ができないからと、生活保護の受給を請求することがあるそうです。
そんな人は、片方で身体が不自由なのに頑張っておられる人のことを、どのように見ているのかと考えてしまいます。
昨日は、茨城県常総市で鬼怒川の堤防が決壊して、死者行方不明者が20名を超える大変な災害になりました。
マスメディアでは決壊した場所は市も把握しており、災害シミュレーションの対象にしたり、堤防の改修工事の予定地だったことが報じています。
3年前の民主党政権下で事業仕分けが行われたとき、蓮舫参議院議員は200年に一度の災害に対応するスーパー堤防の設置について、まるで笑いものにしていました。
しかし、200年と言わずとも50年対応の堤防(現行の法律は50年に一度の災害対応を目標にしています。)でもよいから、これが確実に整備され維持されていれば、これだけの被害は無かったかも知れません。
国土強靱化を馬鹿にしてはいけません。それなりに経費は掛かっても、それによって国民が災害を受けない又は軽減されることにより、被害を免れるだけでなく、修復費用も少なくなるのです。
効率的に国民の安全を守ることは、政治として必要なことだと思います。
それから、自衛隊、海上保安庁、防災ヘリ、警察、消防を始めとする公的機関の方々による救助能力は凄いと思いました。
日頃の訓練が、生かされた結果だと思います。
余分ですが、各マスコミの取材ヘリは邪魔にならないのでしょうか? 取材ヘリが、救助ヘリの邪魔をしていないのかが気になりました。ヘリは近づくとやかましいから、救助隊の連絡に支障が出ますし、ローターの発生する風も気になります。その前に、余分なヘリが飛んでるだけで、救助隊の邪魔になりかねないと思います。
2015/09/11 URL 編集
はなみずき
障害者年金にも頼らず自立されていたのですね。
頭が下がります。
五体満足なのに働かず生活保護に寄生する人に読ませたいですね。
映画「エレファントマン」を思い出しました。
彼も障害を持っているのですが
とても器用で、そして心が美しいのです。
最初は怖いもの見たさで映画を観に行ったのですが、
観た後は
本当に色々な事を考えさせられました。
改めて、
もっと出来るのに怠けている自分を反省しました。
頑張ります。
2015/09/11 URL 編集
日本人
2015/09/11 URL 編集
7C
2015/09/11 URL 編集
おかざき
その仕事は参詣客が一番多く通る売上が上がる場所に未亡人で子供を抱えてる人を優先的に配していました
やくざに見える業界ですが、昔は互助会みたいなものだったと聞いております
今日のねずさんのお話で、亡き親父の話を思い出したので書いてみました
2015/09/11 URL 編集
しめじ
障害を持った方は、人々に勇気を与える為の使命を持って生まれてくるのだと聞いた事があります。
今日のお話はまさにそれですね。
私もですが人間なんて弱いもので、すぐに
「もうダメだ」「苦しい」「〜のせいだ」
と、泣き言を言い、人のせいにして逃げようとします。
このお話はプリントアウトして、挫けそうになった時いつでも読めるようにしておこうと思っています。
それにしても、見世物小屋にその様な意味合いがあったなんて、目から鱗です。
私達が抱いているイメージは、TVドラマで描かれている様なもので、現在の価値基準から色眼鏡を通して見えているものだったのですね。
2015/09/11 URL 編集
えっちゃん
昨日、通院の帰りに、買い物をしました。
1階の催事場で、障がい者施設の子どもたちの作品を展示販売していました。その中に、トートバックがあり、ついているタグに世界のみじんこ堂とartist:Yoshie Sibasaki と記入してありました。
そのミジンコの絵といったらかわいいし、縫製もしっかりしたバックです。
今日の記事にぴったりの出来事でしたので、コメントしました。
2015/09/11 URL 編集
junn
2015/09/11 URL 編集
junn
2015/09/11 URL 編集