会津戦争と西郷頼母



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会津若松城


今日は、戊辰戦争で会津藩が降伏した日です。
147年前の、明治元(1868)年のことです。

この会津戦争で、有名な白虎隊や娘子隊の悲劇や、家老であった西郷頼母(さいごうたのも)の活躍などが知られています。
その西郷頼母は、会津藩秘伝の「日新館正果武術」の達人です。

会津戦争では、西郷頼母の母や妻子など、一族21名の女性たちが頼母の登城後自刃しました。
ひとつには、国難に際して戦いの足手まといになるのを不本意としたため。
もうひとつには死して御霊となって会津藩の守護を奉るため。
そしていまひとつは、諸般の事情からやむなく天子様の皇軍に刃を向けることを、死してお詫び申し上げるため。
女子であっても、そこに覚悟があったのです。

彼女たちは、全員白装束に身支度すると、辞世を詠んで、水盃を交わしました。
そして妻の千重子が、まず9歳の田鶴子を刺し、続いて4歳の常盤、2歳の季を刺したあとに、返す懐剣で自らの咽喉を突いて自刃しています。
このとき千重子34歳です。

このとき、まだ13歳だった次女の瀑布(たき)がけなげにも

 手をとりて 共に行きなば 迷はじな

と上の句を詠みました。
すると、姉の細布(たい)16歳が

 いざたどらまし 死出の山道

と下の句を継いだと伝えられています。
二人は、互いの咽喉を突いて果てています。

父の頼母は、戊辰戦争を最後まで戦い抜きました。
会津若松城の落城の際、頼母は切腹しようとする主君の松平容保に対して次のように述べています。
「殿が死なれれば、家中の者がみな後を追いましょう」
家中の藩士たちの命を思い、殿の自害を思いとどまらせ、容保に降伏を勧めたのです。

愛する妻子を失った悲しみを胸に、殿には自害を押しとどめる。
自分もまた、藩士たちを生かすためにと自害をせずにいる。
どこまでも公(おおやけ)を第一にしたからこその行動であったろうと思います。

西郷頼母はその後、榎本武揚や土方歳三と合流して、函館五稜郭に立て篭って、官軍と戦いました。
五稜郭の敗戦後、西郷頼母は捕縛され、禁固刑を受けました。
その後、福島県霊山(りょうぜん)神社の宮司となり、そこで「大東流合気武術」を開始しました。
そして明治36(1903)年、74歳の生涯を閉じました。

大東流合気武術は、八百年前、源義家の弟、新羅三郎義光が創始した源氏の武術です。
甲斐源氏の末裔である武田家が代々秘伝の武芸として門外不出のまま伝え、会津藩では、これを会津藩「合気之術」として、上級武士の間だけで伝承してきたものでした。

そしてこの「大東流合気武術」が、西郷頼母によって、武田惣角に伝承され、戦後植芝盛平によって「合気道」と名前を変え、その植芝盛平の弟子で、神と呼ばれた合気道の達人が塩田剛三です。

西郷頼母は、明治政府が陸軍を編成し、兵士たちに柔道や剣道を教えるようになったとき、これに異を唱えています。
武はあくまで、正道を貫き、人の和をもたらす上位者にのみ許容すべきものであって、これを一般化すれば必ず未来に禍根を招くというのです。

無教養な痴れ者が下手に武術を学べば、ただ乱暴狼藉のためにのみ武を用いる。
それをさせないのが本来の政道であり、本来の武であると説いたのです。

それは、明治開花の世の中にあって「古い意見」であったかもしれません。
しかし、昨今の国会の、しかも良識の府であるはずの国会においてさえ、「少数意見を押し通すためなら暴力を用いても構わない」と、平気で腕力に打って出る恥知らずな渡来系議員の姿を見ると、いまいちど西郷頼母の思想を見なおさなければならないのではないかと思えてきます。

また、いまの人達は、命と魂が同じものだと思っています。
そのくせ、お化けや神様をどこかで信じていたりする。
昔の日本人は、両者はまったく別なものと信じていました。
信じていたというより、それは確信でした。

命は今生限りです。
けれど魂は、永遠の存在です。
だからこそ、南の海で肉体が滅び、命が失われても「靖国神社で会おう」と約束したのです。
靖国で会うのは、肉体でも命でもありません。
魂がそこで再会するのです。

肉体や命とは別に、魂は「ある」という確信が、実は日本人の根幹です。
だからこそ「乞食したってこの魂だけは汚さない」という言葉が、人々の人生の柱だったのです。


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【合気道】怪物・塩田剛三の神業と合気道【Aikido】


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コメント

池月映

合気を教えたのは西郷頼母ではなかった
 最近の研究で西郷頼母は、大東流の名前と史実を仮託(創作)しただけで、合気は教えていないと、頼母研究家牧野登氏は修正した。会津では大東流武田惣角を研究した方はなく、惣角は奇人変人の低い評価のままでした。
 故郷会津を10年間調査した結果、生家に同居した会津藩士御供番(藩主護衛役)から武芸十八般、御式内柔術を学び、隣村の易者から真言密教・修験道・易学・医療技術を学んで合気を創始した。合気の語源は気合術の無心気合で、明治の文献にあります。
 また、惣角は双子兄妹で目の不自由な妹を守るために強くなった。官尊民卑の時代、農民の身分を隠し、借金返済の事情もあった。子孫の代で史実は美化されましたが、真実が判明して惣角の名誉は回復されました。

ブルンジ

No title
塩田剛三先生の門下生の道場で現在も合気道を学んでいる者です。
(塩田先生は「館長先生」あるいは「館長」と門下生からは呼ばれていたそうですが、私は没後に入門したため面識はありません。)

塩田先生が教えておられた合気道は戦後の情勢に合わせて「武術としてではなく、人間形成のため」という名目でカリキュラムが組まれたとも聞いています。
塩田先生は「武術としての合気道は俺の代で終わりだ」とも仰ったそうです。
実際、定められた「形」からは危険な技は外されていますが、これは西郷頼母の言葉と通ずるものがあると思います。

ただし、現在の合気道が武術の要素を全く排除してしまったかというと決してそうではありません。技として定められた「形」を延々と、気の遠くなるほど稽古すればするほど、その「使い方」が分かってきます。危険な技など入っていないのですが、形の中に「省略された部分」が数多くあり、稽古していると「あ、ここでヒジを入れられる」「この部分はこうすれば相手を倒して終わってしまうが、相手を傷つけないように制圧するにはこうだ」という気づきが数多く出てくるのです。また、上級者になればなるほど一見何でもない技でも、非常に危険な使い方が出来たり、まったく相手を傷つけることなく制圧できるようになってきます。(塩田先生は「合気道の技は、強くも弱くもできる」という説明をされたそうです。)
そういう武道なので、多少かじった程度の低い「ケンカに役立ててやろう」という目的の者にとっては全く使えないのですが、志を持ってこの道を究めたいと思う者(そういう人はめったなことでは手を出すことは絶対にありません)には今も変わらず、とっさの時に身を守るための技がたくさん詰まった武道である、ということは申し上げておきたいと思います。

西郷頼母は武道を一部の人に限定すべきと思った。それは理のあることだと思いますが植芝先生や塩田先生は武道の門戸をすべての人に開いた上で、志のある者や、鍛えれば志を持ってくれる者を育てていった。その違いがとても興味深いと思いました。いつも興味深く拝見しております。ありがとうございます。

-

No title
コメ欄の鬼子さまのような、先の震災から八重の桜の放送を経て、くすぶっていたかのように戊辰戦争における旧幕軍側を無理に正当化する動きが、最近活発であるように思います。
一般的な日本人の内心は、旧主家に対する忠義の表れによる、抵抗であったことは、深く理解をし、錦の御旗に刃を向けたことも、赦す、そして、赦したこれまでの歴史であったろうかと思います。

なぜに此処へ来てむしかえすのか。戦時における烏合の一部で蛮行がもしあったとして、それをむしかえすのであれば、大坂の陣における黒田屏風に明らかなように、幕軍の蛮行により血の盤石をもってして作られた江戸幕府の歴史には、それに関与していたであろう大和越えの東北諸藩の兵たちの蛮行には、なぜに触れないのでしょうか。

黒い一点があったとして、さもそれが全体であったかのように塗り広げ、恰もすべてが吾が被害者たる主張には、怖気すら感じざるを得ません。

時代の潮流に不感症で、当時の幕府の明らかな失政に全く盲目であった東北諸藩は、江戸薩摩藩邸の焼討、大坂城から京への討薩の進軍を慶喜にけしかけ、兵庫沖での薩摩藩軍艦に対する砲撃でついに、戊辰戦争が始まりました。これは死した龍馬や、勝や慶喜すらも望んではいなかったであろう悲劇であり、新政府に限らず、どの勢力にでもある急進派、そして欧州の貪欲が望んだ対立であって、それを始めたのが、忠義を隠れ蓑にした東北諸藩の原始的保身と外様への蔑視であったというのは、言い過ぎでしょうか。

明治期、福沢諭吉は瘠我慢の説において、幕軍側に立った人物の、その本人による、自己への不始末が、その後の日本へ与えた心情的悪影響を、強烈に指摘しています。

今、その悪影響が現れているとするならば、それは至極、残念なことです。

渡辺

「魂」が命と身体より上位にある昭和初期までの価値観が解らないから、先輩方が戦争で自決した理由も解らない。「恥」「けじめ」「道徳」などと共に、本来の日本を取り戻す為の大切なキーワードのひとつですね。

taro

かつて大東流を学んだ者です
初めて投稿いたします。
私は学生時代に大東流を学んだ者ですが、我慢できん者に技は教えられんと言っていた師匠を思い出しました。
まさに、始祖の教えだったのですね。

私は不器用だったので打撃技しか授けていただけませんでしたが、今思うと得意分野を伸ばせとのメッセージだったのかもしれません。

懐かしさのあまり、つい書き込んでしまいました。

これからも応援しております。

今年は昨年より寒くなるのが早いですから、どうかお身体にはお気をつけ下さい。

それでは失礼いたします。

たまにはコメントしてみます。

No title
私の生死感。

私の祖母と父親の話です。
祖母が腹痛を訴えて入院しました。
検査をしたところ癌に侵されていて高齢により手術も無理ということになり入院生活が始まります。

誰も癌のことは告げなかったのに祖母は直ぐに自分の状況を悟ったのでしょう。
全く食べないのです。全ての食事を拒否してみるみる骨と皮になりました。

しかし、一度だけ食べ物を口にしたことが有ります。
お袋がアイスクリームを見舞いに持っていったら三口食べて優しく微笑みました。
しかし、その晩に祖母にお迎えが来ます。

だいぶ経ってお袋はこんなことを言いったんです。
「旧来の嫁姑の確執も在った中でしたが最後だけはありがとうを言いてくれたように思う」
父親は付け加えました。
「おばあちゃんは人に世話になってまで生きたくないから自ら命を絶ったんだ」
当時は中学生の私には良く解りませんでした。
親父の涙目を見たのは最初で最後です。

そして私が成人してからだいぶ経って親父が脳梗塞で倒れます。
重症で完全介護状態です。

私が見舞いに行くと一言私に告げたのです。
「もういいよ・・・○○してくれ」

衝撃が走りました。同時に祖母の時の記憶がよみがえります。
私には泣くことしか出来ませんでした。

祖母は大正生まれ、父親は戦中に学生時代を過ごした年代です。
共通して言えることは「生き恥を曝さない」ということです。
言い換えらば生きて人の迷惑にはなりたく無いということでしょう。
私の実体験での日本人の生死感です。

自刀された方達の思いは「生き恥を曝さない」ではなかったのではないでしょうか?

私も生き恥は晒さないと思うこの頃です。

敬具。

ポッポ

No title
>無教養な痴れ者が下手に武術を学べば、ただ乱暴狼藉のためにのみ武を用いる。
それをさせないのが本来の政道であり、本来の武であると説いたのです。

含蓄のある言葉だと思います。
これは、個人のことを対象にしている言葉ですけれども、いくつかの国家に対しても適用させたい言葉だとも思います。



平和安全法制が参議院でも可決されたことについて、民主党と共産党は「議事録もろくに取れていないから無効だ」と言っているそうです。

成る程、一理あるとと思います。

それならば民主党政権においては、自由な議論をするために内閣の閣議録が作られていなかったと聞いていました。これは、どうなるのでしょうか。

民主党の方々には、政権に就かずして自民党のアラを批判するのならまだしも、一度は政権について日本の政治を思うままにしたのですから、御自分の足下を見てから発言していただきたいと思います

えっちゃん

No title
今日もありがとうございます。
「無教養な痴れ者が下手に武術を学べば、ただ乱暴狼藉のためにのみ武を用いる。それをさせないのが本来の政道であり、本来の武である」

簡単にいうと、「キチガイに刃物」ということですね。

登場人物の画像を貼る、よみがなをふる、ねずブロで動画は観る、ポッチと押していいただくようにと 構成をしたものを拙ブログで拡散いたしました。

鬼子

No title
もし政府軍が本当に誇りある日本の軍隊であったなら官軍の侵攻で女子供が命を絶つなんてことは考えにくいと思うのですが、この政府軍はこともあろうと強姦・略奪・惨殺を繰り返しながら函館まで北上していったと言います。明治維新とは本当に今伝えられるような話だったんでしょうか。次の事柄をちょっとだけ客観的に捉えていただきたいと思います。

明治政府を立ち上げた長州藩は、坂本竜馬を仲介としてイギリスのロスチャイルド系であるグラバー商会から武器と金を提供され、それによって明治維新を起こしました。
さらにグラバーは後の日本を動かしやすいように伊藤博文などの5人の若者を外国へ密航させ、その莫大な資金はグラバーが出しています。
 つまり薩摩・長州藩(明治政府)は外国と通謀してたのは間違いないのです。今で言えば外患誘致罪が適用されるような事態です。
 ”外患誘致罪:外国と通謀して日本国に対して武力を行使させることを内容とする”ウイキペディアより。

維新後明治政府はいきなり日本を開国しました。本来なら徳川幕府は攘夷を基本として一部だけ開国して外国の技術を輸入しようとしてたようですが、それが転覆されました。(薩摩藩には気をつけろと徳川家康が言ってたという話もあります。)
 その後は日本人に厳しく、外国人を優遇する政策が次々に取られ、北陸は飢餓に襲われ、よりによって日韓合併し、大陸に進出し、共産主義が国内に入ってきたという流れに繋がります。
明治維新の際の選択によって日本は日本を失ったように、私には見えます。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

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