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いまの日本は法治国家です。
大学でも、法学部はたいていの大学にあります。
法を学んで司法試験や司法書士試験にパスすれば、法律家としてそれなりの未来も拓けますし、国も法によって形作られています。
だから法はとても大切なものです。
けれど、いまの法は、果たして本当に進んだカタチといえるのかは、また別な問題ではないかと思います。
法には大きく分けると、刑事法と民事法があります。
刑事法は処罰のための法です。
民事法は、民生の用の法です。
これに関連して様々な法が派生します。
大昔の日本では、大宝律令、養老律令のように、律令制度が敷かれていましたが、律令というのは、律が刑事法、令が民事法です。
学校では、「だから古代においては律令政治が行われていた」などと教わるのですが、おもしろいことに大宝律令にしても養老律令にしても、刑事法である律のほうは、ついぞ内容の詳細が決められないまま何百年も過ぎ去ってしまっています。
一方、民事法である令の法はというと、詳細な解説書まで作られて、広く世間に普及しています。
ではなぜ、我が国では「律」が広がらなかったのでしょうか。
律令制度自体は、Chinaの王朝の制度に倣(なら)ったものです。
Chinaでは日本と逆で、むしろ律令は刑罰のための「律」が中心でした。
令は補完的なものにすぎないし、むしろ政治によって破られるのがあたりまえのものでしかありませんでした。
ところが日本では、「律」は、ほとんど施行されず、むしろ「令」ばかりが、広がったわけです。
どうしてでしょうか。
実はここに法のもつ基本的な問題点があります。
法は結局「起きた問題を裁く」ものだという点です。
つまり法は、問題が起きるまでは対応せず、問題が起きてはじめて機能するものでしかないということが、その問題の根幹にあるといわれています。
大水が出て、田んぼの境界がわからなくなってしまった。そのため当事者間で紛争が起きた。
有名な話ですが、隣の家の柿の木の枝が、我が家の敷地内に伸びてきた。
その(境界の内側にある)柿の実を取って食べた。果たしてその柿は、我が家のものか、隣家のものかなど、人々の生活には、様々なトラブルがつきものです。
こうしたトラブルが起きたとき、どのようにジャッジするかを前もって取り決めるのが法です。
民事法である「令」には、これがとても大切です。
人が生きて生活していれば、必ずトラブルはあるからです。
そうした民事間のトラブルに、あらかじめ、「この場合はこのように処理する」と決めておくことは、平和で安定した統治を実現するうえでは、とても大切なことです。
ところがこれが刑事法の「律」になると、だいぶ様子が変わってきます。
たとえば盗人が、ある家に強盗に入った。捕まった。そこで処罰するのに、刑期を何年にする、と決めたのが刑事法の「律」です。
ここに問題があるのです。
というのは、「強盗が行われてからでしか法は裁いていないから」です。
もっと生臭く言うなら、強盗や強姦や殺人が行われれば、犯人を逮捕して裁くけれど、残念なことに、強盗や強姦や殺人が「行われた後」でなければ裁けないのです。
それは犯罪を犯された被害者にとって、とっても不幸なことです。
それだけじゃなく、被害者の家族にとっても不幸です。
さらにいえば、加害者の身内にとっても、とっても不幸です。
そして、そうした不幸が起きてからでなければ裁けないということなら、その国はとっても不幸な国です。
なぜなら、犯罪を未然に抑止していないからです。
ですから日本では、神話の時代から伝統に従い、どこまでも「未然に防ぐ」ことを統治の基本にしてきました。
日本は「シラス統治の国(知国)」ですから、すべての民は、天照大神からの直系のご子孫である天子様(天皇)の「おおみたから(大御宝)」です。
「民」が国家の最高権威である「皇」の大御宝なのですから、その民が不幸な状態にならないようにすることが「臣」の勤めです。
そうなると当然に、問題が起きてから対処するのでは、臣が「皇の民」を守ったことになりませんから、それは臣の責任問題になります。
逆にいえば「臣」、つまり政治や行政、司法の最大の仕事は、天皇の民を守ることですから、天皇の民が不幸にならないようにしなければならない。
もし、天皇の民が不幸な事態に巻き込まれる、つまり強盗や強姦や殺人事件などに巻き込まれたなら、それは「加害者の責任ではなく、臣の責任」と考えられたのです。
なぜそのように考えられたのかといえば、答えは明白です。
「責任と権限」は一体だからです。
権限があるから、責任があるのです。
責任があるから、権限があるのです。
強盗が行われてから処罰するのでは、権限者は責任をまっとうしたことになりません。
なぜなら強盗などの犯罪によって、民の生活が脅かされることがないようにするために、権限を与えられているからです。
権限があるのに、強盗の発生を抑止できなかったのなら、責任を問われるのは当然です。
古い日本で「律」があまり用いられなかった理由がここにあります。
権限のある者が、総力をあげて犯罪を未然に防いだのです。
だから犯罪のない、安定して安心して暮らせる世の中が生まれました。
奈良・平安時代には死刑が執行されなかったという話は、学校でも教わることですが、死刑が非人道的だから死刑を執行しなかったのではありません。
死刑の執行など起きないように、つまり重大犯罪が起きないように、総力をあげて犯罪を未然に防いでいたから、結果として死刑を執行する必要がなかったのです。
この点、現代の日本は、奈良平安の昔の日本よりも、はるかに遅れた社会を営んでいると言わざるを得ません。
現に、日々重大犯罪が起きているのに、誰も責任をとりません。
国会で乱闘騒ぎがおき、女性議員が羽交い締めにして投げ飛ばされるという、明らかな暴力事件が起きても、責任はうやむやです。
刑法はあるのに、犯罪を犯した者を取り締まり処罰するだけです。
刑法に書かれていなければ、明らかにそれが犯罪であっても、放置されます。
それが果たして、人々のための世の中といえるのか。
ここに法治主義の限界があります。
道徳心を養い、権限と責任が明確であること。
それが実現できないのが法治主義だというのなら、法治主義は、極めて退廃的かつオクレタシステムと云わざるをえないのではないかと思います。
冒頭に「なぜ我が国では律が広がらなかったのでしょうか」と問を投げさせていただきました。
ここまでお読みになられた方には、もう答えは明らかであろうと思います。
「犯罪者に罰を与えるための律」は、犯罪そのものを抑止することに注力することによって、事実上、ほとんど利用価値がなかったからです。
みなさまは、いかが思われるでしょうか。
Chinaのように、次々と起こる犯罪に厳罰をもって対処する国と、
昔の日本のように、世を挙げて犯罪そのものを発生させない国と、
どちらが安心して住める、住みよい国といえるのでしょうか。
前者は、悪いことをする人にとっては、捕まりさえしなければ天国です。
けれど、一般の普通の人にとっては住みにくい国です。
後者は、道徳に縛られますから、一般の人々にとって、ちょっと窮屈かもしれません。
けれど、弱い者ほど安心して住める国です。
これは価値観の問題かもしれません。
けれど私は、たとえ少々窮屈であったとしても、後者の国に住みたいと思います。
そしてこれがどういうことかといえば、すくなくとも私には、現代型法治主義よりも、日本の古くからのカタチである「明察功過」の方が、はるかに進歩した住みよい国であったように思えます。
ですから私達が、もっと進んだ未来を創造するなら、明察功過に法治をくわえた、新たな社会システムを構築していくこと。
そのことが私達日本人がご先祖に恥じない立派な国造りへの道であり、世界の民衆が望む政治の未来なのではないかと思います。

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コメント
渡辺
難民問題のなすりつけなど、欧米とも距離を置く時期が来ているのではないでしょうか。今や得るものは少なく、害が大きすぎます。
2015/10/01 URL 編集
ポッポ
中国人の場合は、法律を厳しくしないと守らないのだと思います。
ところで、中国では、この厳しくした法律を破ることが大人の器量だとされているのです。
これを下手に真似したのは、民主党政権時の幹事長であった小沢氏でした。
天皇陛下と習近平当時副主席を会見させるため、30日ルールを無視したのです。
ルール無視の理由は、憲法で許されているというものでした。この憲法については、第7条の国事行為とされましたが、この十項の儀式は対象国のトップだけが対象でした。これを、小沢氏は副主席というトップではない者を対象としたのです。
これが、民主党の政治でした。
民主党は平和安全法制において、日本の憲法を厳格に守るように要求したと思いますが、その民主党こそ政権にあるとき、憲法を足蹴にしたと思います。
2015/09/28 URL 編集
coca
幼子に家庭で人としてのやって良いこと悪いことの区別を教え、立ち振る舞いの躾を与えることで、就学時に学習する力が生まれるのです。学習する力がないと人は育ちません。戦後教育は道徳観念を社会の中の自分に何ができるかというより、ひたすら個に向かうような教育をしてきましたから、個人の欲望を忠実に追及することに忙しく、又、上下関係より横の繋がりに重きを置いてきましたから、人の気持ちを思いやるどころか、人の話を聞こうとすらない人たちも増えているようです。
教育で日本を取り戻すという事が可能であるならば、早々に日本人社会の継承が可能にして頂きたいと心から願わずにはいられません。
2015/09/28 URL 編集
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孔子の徳治主義を実地で行っていたのが、
大和朝廷~徳川幕府なんですね
2015/09/28 URL 編集
にっぽんじん
解釈を変えてはいけないと法に定めていれば別です。が、そんな法はありません。司法の場でも解釈は時代と共に変わっていきます。遺産相続における嫡出外子への相続権などはその最たるものです。
刑法は「犯罪行為」を明確に規定し、それを犯せば裁判によって罰せられます。しかし、刑法に定められない行為は、それが犯罪行為と考えられても罰することは出来ません。
憲法も同じです。憲法条文に規定されていなければ憲法違反に問われないのが法です。集団的自衛権に関する条文は何もありません。行使してはいけないとも書かれていません。単に「行使してはいけない」と解釈しているだけです。
集団的自衛権が憲法違反と言う人に聞きたい。憲法のどの条文にそのようなことが書かれているのか。書かれていない以上憲法違反にはあたりません。憲法9条を具体的に規定しないから解釈議論が出るのです。
そのようなことが起きないように早く憲法を改正するべきではないでしょうか。国会の場で具体的に自衛権を明確にすれば良いだけです。国民の総意であれば「集団的自衛権は認めない」という改憲もあり得ます。
2015/09/28 URL 編集
えっちゃん
明察功過は、好きな言葉の一つです。
天地明察という映画を観て、本も読みました。両方とも★★★です。
算額の問題を解くとこと、距離を歩数でだすこと、などで、明察という言葉が使われていました。正解という言葉より、ほめ言葉の感じが好きです。
正解:その通り、よくやった・・・・上から目線
明察:いいですねえ。素晴らしい・・・人として同等
のような感じがするかもしれません。
外国人が日本の様々な分野の視察をするTV番組があります。来日した、その分野のプロが一様に驚くのが、管理を徹底していること。
その根底にあるのは、お客様のため、仕事への責任感です。
日本に生まれて本当に良かったと思える番組です。
2015/09/28 URL 編集
あばら家 送達
ですので明察功過型の法治主義は良いように思います。
しかしそれは明察功過型の法治主義を行うに相応しい立派な人材が沢山居るということが前提です。
・・・残念ながら今の我が国には、そのような立派な人材が沢山居るとは思えません。
なので前提は成り立たず明察功過型の法治主義は実現できそうにないと確信できます。
現在の我が国で幅を利かせている者たちというのは、政治家にしろ、官僚にしろ、法律家にしろ、教育者にしろ、マスゴミにしろ、その多くが敗戦利得者か、その系譜に属する者たちであるというのが現実だからです。
そして一般の日本人の多くが、この敗戦利得者やその系譜に属する者たちのコントロール下にあるというのも悲しい現実です。
なので現代型法治主義はもとより、敗戦利得者やその系譜に属する者にとって都合の良い部分の「日本の形」は悔しいけれど当分変わらないでしょう。
2015/09/28 URL 編集