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(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)菜畑遺跡のジオラマ(約7千年前)

昭和11(1936)年に起きた二二六事件のとき、皇居前はしんしんと降り続く雪に覆われた底冷えのする日であったことは、みなさんご存知のことと思います。
この日の深夜の気温は0度であったことも記録されています。
ところが今年(2015年)の2月26日の東京は雨模様でしたが、最低気温は7度です。
昭和初期とくらべると、年間平均気温で0.8度ほど違うのだそうです。
それだけ日本列島は暖かくなってきているわけです。
平安時代の貴族の女性の衣装として、十二単は有名ですが、その時代の日本列島の気温はやや寒冷化が進んでいました。
ですから重ね着をしないと寒かったわけで、それが十二単という姿になっています。
たぶん、いまの日本では、それだと暑くていられないのではないかと心配になります。
そんなわけで、地球気温とともに、日本列島の気温も、暖かくなったり寒くなったりしています。
地球全体としても、氷河期があったり、そうでない時期があったりしていたわけですから、このことはご理解いただけると思います。
ついでに申し上げますと、いわゆる氷河期というのは、海面がいまより100メートルほど下がり、九州の鹿児島が、いまの仙台くらいの気候だったのだそうで、九州、四国、本州、北海道、樺太、大陸は地続きとなっていました。
ところが約1万2千年前、「アレレード期」というのがあって、この時期、地球気温は温暖化に向かいます。
それが1万1千年ほど前に、「ヤンガードゥリアス期」というのがあって、わずか100年ほどの間に気温がなんと6度も下がったのだそうです。
年間平均で6度下がるというのは、これはすごいことです。
東京に氷点下20度くらいの日があったりするわけです。
やまと新聞 小名木善行の「百人一首」
第31番歌 坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪
たった百年でこの変化です。
ある意味おそろしいことなのですが、恐怖はその後にやってきました。
いまから1万720年前のことです。
わずか50年の間に、今度は気温が7度も上昇したのです。
これによって何が起きたかというと、たとえばビクトリア湖が決壊して、エジプトに大洪水が起き、その水が地中海に流れ込んで、地中海沿岸の水位をいっきにあげています。
おそらく沿岸部にあった民家は壊滅したのではないかと思います。
ところがいまから「ヒプシサーマル期」になりますと、そこからさらに気温が上昇していき、これにより氷河が崩壊し、海面がいまよりずっと押し上げられました。
いまから約8千年ほど前から5千年前までの時期です。
この時期には、なんとサハラ砂漠が森林に覆われ、日本列島も海面がいまより5メートルも高かったのです。
いまの平野部はほぼ全部海面下に沈んでいました。
それが5千年〜4千年ほどまえになりますと、再び気候が寒冷・湿潤化しました。
この時期の最大の特徴は、降水量の増加で、日本列島の沖積平野はこの時期にできたのだそうです。
(ここまでの資料出典は、安田喜憲著『縄文文明の環境』)
さて、ここで問題です。
いまから約8千年ほど前から5千年前までの「ヒプシサーマル期」です。
実はこの時代のことを「縄文海進」とも言うのですが、日本列島はとても温暖化したのは、上に述べた通りです。
日本列島の南部、沿岸部は、この時期、亜熱帯性気候になりました。
そして西日本が亜熱帯であった時期が、3千年近くも続いたのです。
いま、温帯と亜熱帯の区分線は、台湾の真ん中あたりです。
台湾は南半分が亜熱帯、北半分が温帯です。
ですから台湾には、亜熱帯性の果物が豊富です。
稲は、もともと亜熱帯性の植物です。
亜熱帯性の植物だということは、日本列島が亜熱帯だったのですから、当然に「稲は日本列島に自生していた」ことになります。
「稲は亜熱帯性植物で、日本は温帯だから、稲は支那から朝鮮半島を経由して渡来したのである」という説が流布していますが、要するに嘘っぱちなのです。
日本列島そのものが亜熱帯だったのです。
亜熱帯なら、稲は自生します。
つまり「ヒプシサーマル期」において、稲は西日本では、ごく普通にそらじゅうで自然に自生していたと考えられます。
ということは、稲が支那、朝鮮から渡来したという説は、地球気温の経年変化を無視したデタラメ説にほかならない、あくまで、いまの気象状況だけしか見ていない、浅知恵説にすぎないということになります。
稲は、たわわな実を稔らせます。
自生していれば、人は当然、食用にしたことでしょう。
そもそも人は、腹が減れば何でも食べるのです。
稲は育てるために、田んぼに水をひきます。
これが「灌漑農法」です。
これは亜熱帯の雨季と乾季を、人工的に演出して、言葉は悪いですが、稲を人工的に騙して生育させる農法です。
そして亜熱帯には、雨季と乾季があります。
低地に生える稲は、発芽後の雨季で水浸しになり、育つ過程で乾季を迎えて生育します。
要するに稲の生育には、雨季と乾季が必要なのです。
ところが、4500年ほど前、地球気温の寒冷化とともに、日本列島は急速に温帯化しました。
こうなると、温帯には四季はあっても、雨季も乾季もありません。
人は重要な穀物を失うことになります。
ちょっと考えたらわかります。
それまで亜熱帯性気候で、雨季と乾季があり、低地に稲が大量に自生していたのです。
他にも亜熱帯ですから、ドラゴンフルーツのような果物もたくさん生育していたことでしょう。
人はそれらをいくらでも食べることができたのです。
ところが徐々に気温が下がり、温帯化していきます。
果物が育たなくなり、稲も自生できなくなるのです。
これは大事件です。食べ物がなくなってしまうのです。
そこで雨季にあたる頃に、低地に人工的に水をひくことが考えだされます。
雨季がなくて低地に水が張らないなら、川から水を引いて、稲が生育する低地を水浸しにしなければならない。
けれど、ただ水浸しにするだけでは、乾季にならない。
だから、一定期間後に低地から水がなくなるようにしなければならない。
しかも、地球気温が寒冷化に向かったということは、海水面が下がったということでもあります。
かつて海岸だった地域が陸になるのです。
そしてそこには、広大な平野も生まれています。
要するに、日本列島が亜熱帯から温帯へと変化する過程で、自然発生的に生まれたのが、灌漑農法であったであろうことは、稲が食用であることからすれば、あまりにも当然のことといえるわけです。
雨季がなくなったから、雨季を人工的に演出してあげなければならなくなったのです。
ということはつまり、稲作が大陸から渡来する必要性そのものが「ない」のです。
稲は、日本が亜熱帯だった時代に自生し、それが温帯化する過程で、当時の人々が雨が降らないので、やむなく川から水を引いた。
それが灌漑農法となったのです。
もっと簡単にいうなら、「稲作は気象変動によって、日本で自然発生的に生まれた」と考えたほうが、より自然です。
そもそも、揚子江の流域で生まれた稲作が、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来したという説自体に、かなりの無理があります。
なぜなら、もしそうであるならば、福建省あたりから、朝鮮半島に稲作が伝播する過程で、山東半島のあたりや遼東半島のあたりにも稲作が形成されなければならないからです。
けれど、その痕跡はありません。
それどころか、岡山県の朝寝鼻貝塚では、稲に固有の「イチョウの葉」形のプラントオパール50個を6千年前の地層から検出していますけれど、実はさらにそこから2千年さかのぼった地層からもプラントオパールが発見されています。
2千年遡るということは、いまから8千年前ということです。
そして朝鮮半島では、いまから1万2千年前から7千年前までの5千年間、人類が朝鮮半島に生息していたいことを示す遺跡が、ひとつも見つかっていません。
つまり、支那から「朝鮮半島を経由して」日本に稲作がもたらされたということは、まったくもって考えられないし、実は、証拠さえないのです。
むしろ、日本列島で自生しいていた稲を、気象変動によって人々が保持したと考えられる痕跡(遺跡、遺構、遺物)の方が、現実に出土しています。
いまから8千年ほど前、地球気温の温暖化にともなって、日本列島にも稲が自生するようになりました。
ところがいまから7300年前、日本列島史上最大の火山の大爆発である、鹿児島沖のアカホヤの大噴火がありました。
この噴火で、鹿児島沖にあった大きな島がひとつ、まるまる吹き飛んでいます。
いまはその外輪山の一部が、薩摩硫黄島として残っているだけです。
これだけの大噴火があったとき、その島や周囲の島々、あるいは九州南部や四国南部などに住んでいた人々は、そこから避難せざるを得なくなったであろうことは、容易に想像できます。
一部の人々は、北へと避難したことでしょう。
また一部の人々は、船に乗って琉球列島から台湾、支那へと渡り、揚子江を遡って、そこで稲作を行いました。
これが支那の河姆渡(かぼと)遺跡です。
不思議なことがあるのです。
支那には、巨大な川が2つあります。
ひとつが黄河、ひとつが揚子江です。
黄河はわかります。
「河」は、河川のことであり、高台に登ってみれば、なるほど黄色い大河だからです。
「揚子江」とは何でしょうか。
「江」というのは、入江のことです。
川ではなく、海の一部だという意味です。
そして河姆渡遺跡は、揚子江の流域に6400年ほど前から発達した遺跡ですけれど、揚子江の流域です。
つまり、河姆渡遺跡の文明は「海の向こうからやってきた」ということです。
では、海からやってきた人たちというのは、いったいどこから流れてきた人たちなのでしょうか。
戦後の日本では、騎馬民族渡来説とか、稲作渡来説とか、とにかくありとあらゆる文明文化は大陸から朝鮮半島を渡って日本にもたらされたのだという説ばかりがあふれました。
けれど、もし日本が、大陸や朝鮮の文明によって形成されたなら、日本語はないはずです。
ところが、朝鮮語にはない、訓読みが、日本語にはあります。
どう考えても、日本には、古くからの日本文明があったということです。
そして戦後のインチキ学者が提唱した渡来説や縄文人弥生人入れ替わり説などは、昨今次々と発見された遺跡や遺構によって、そのことごとくが覆されています。
にも関わらず、いまだに戦後の渡来説にしがみついている学者もいるようですが、それらはもう学説ではなく、ただの政治です。
日本列島では、
11万年前には、石器が使われ
3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われ、
1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
1万2500年前には、漆が栽培され、
使われていたのです。
そしてプラントオパールと気象変動から、日本では8千年前には稲が食用に供されていたこともあきらかです。
文化文明には、二つの育ち方があります。
ひとつは、「減らす文明」です。
敵を殺し、奪うことで食う文明です。
殺すために、武器が進歩します。守るために城塞都市のような巨大な建造物が出来上がります。
そのかわり、農地などは平気で蹂躙され、減らされます。
もうひとつは、「増やす文明」です。
食うためにみんなで協力しあう文明です。
食うために農地が必要になります。
農地を広げるために、クワやスキのような道具類が発達します。
農作物を育てるために人の和が大事にされます。
日本文明は、ずっと後者の「増やす文明」です。
支那。朝鮮は、「減らす文明」です。殺し合い、奪い合う。
そしてそういうところでは、農業は育たないのです。
あたりまえです。
長い時間をかけて作物を苦労して育てるよりも、武器を突きつけて、収穫された食い物を奪うほうが安楽に食えるからです。
そういう文化の地域から、日本に農業が伝えられたと考えるほうが、異常です。

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コメント
たいこ
植林ができる民族は限られているようですね。
また、日本人はすぐ開拓、開墾を考えますが、
これもどうやら誰にもできるというものでもないようです。
現在でも大陸の人々があちこちに移民難民で流れていきますが
ほとんど都市部で、荒野や原生林を開拓する民族はありません。
難民でも先進国でなければというのを見るにつけ、
昔、大陸から日本へ文化を伝えたとかいわれていても、
彼等は日本を開拓できるような人達ではないと確信しました。
彼らは当時の日本の都市国家に流れ込んで来たもので、
現在と全く同様にその都市の中に自分たちのゲットーを
作ったものではないかと考えてしまいます。
2015/10/20 URL 編集
くすのきのこ
世界最古の土器・・ウィキペデイアの記載は2009年に発表された資料を元
にされていますね。コレは要注意。ここのところ、日本で何か発見されると、
それより古いゾ~攻勢してるのはどこの国?チャイナです。数字を盛るのも、
学位をカネで買うのも当たり前のお国柄。第一、日本のラーメンのCMで
4000年のデントウと言ってたのを、まるっとプロパガンダに使いはじめ
さらに数字を盛って5000年とか6000年とか・・ハントウまでも調子
にのって5000年とか宇宙の始まりから~・・とか、あまりの飛躍で・・。
南京問題にしても、どんど~んと数字を盛ってしまい、当時の人口よりも数
字を盛ってしまうという失策となっていますよ。原爆死傷者よりも多い。
研究そのものを疑うわけではありませんが、トクアの国々の数字は疑いましょう。もちろんGDPの数字もです。
縄文土器はミステリアスですが、三輪大社、富士山などの位置については、
なんと南米のナスカとの関連を指摘している面白説もありますよ。エイリア
ン肯定派の説ですけれどね。菊花紋は、古代メソポタミアのシュメール、アッ
カド、バビロンの遺跡にも見られます。地域的にはエジプト~イスラム~イ
ンドまで広がっているそうです。菊花紋は、古代の人々には受けていたよう
ですねww多発的に好まれたのでしょうか?その時代も人の行き来があって
伝来してきたのかな?日本は博物館と言われる位に古い文物が残っていたり
しますし。海路?陸路?イメージは広がりますね。例えば、現在引揚げられ
ていない日帝海軍の船首に着けられている菊花紋・・遠い未来に”発見”され
たりする日がきたりするのでしょうか?
2015/10/20 URL 編集
-
ためになる記事をいつも本当に有難うございます。
世界最古の土器が日本の土器という点ですが、初めて伺った話なので調べてみましたら、
「世界最古の土器は中国で見つかった1万8千年前の土器」
と言う旨の記述がありました。(ウィキペディアなど)
鑑定の信憑性の問題で色々な見識があるか、最近発掘が行われて記録が更新されたかでしょうか。
その手の専門家ではない私ですが、僭越ながらコメントさせて頂きます。
2015/10/19 URL 編集
-
2015/10/19 URL 編集
古格
2015/10/19 URL 編集
えっちゃん
「増やす文明」の国に生まれてよかったなあといつも思います。
どこの地域でも、地図、伝えられた物が残り、調べたら力を合わせて堤防を築いた、新田を開発したなど先人の苦労が分かります。
小学校では、副読本で用水、林道、水道(どかんと呼ばれ、陶器製)などを学び、先人の労苦を知り感謝する教育がなされます。これは、教育研究所で、先生方が数年の歳月をかけ作成します。どの市町村でもなされているかは知りませんが。
このように、「増やす文明」では、先人に思いをはせ感謝できますが、「減らす文明」では、刹那的に生きるしかないでしょう。とにかく今。とりあえず儲かればいい、ご先祖の墓は暴かれ辱められる、このような国は気の毒としかいいようがありません。良い思想も、焚書坑儒で燃やされ、日本に伝わったものを読むしかないとは・・・。
日本に生まれて良かった。感謝できる先人がいて有難いと思います。
2015/10/19 URL 編集
-
大体、中国の一部に本当に農耕民族が居たとして、それが日本より古い時代からだと言い張るのなら、今の農耕の発達度合いが全く違うだろ?、その痕跡あるか?って聞いて見ても、もう、その段階で嫌な顔するんだよね。
それに、韓国人に至っては、米のとぎ汁に栄養があるんだから捨てないって話すら聞いた事がある。
なら、玄米食えよって話でしょ?。
美味しいものは美味しく食べたいでしょ?、農耕民族ならコメのとぎ汁なんて捨てるし、栄養ウンヌン言うんなら玄米食うよ。
米の食い方すら未だに解らん人すらいる韓国人が、 (まさか、全部だとはさすがに思って無いから) 稲作教えた農耕民族だなんて、それはさすがに思えんよ。
2015/10/19 URL 編集
junn
2015/10/19 URL 編集