航空戦艦「伊勢」と「日向」の物語
伊勢と日向は、もともと「航空戦艦」として計画された船ではありません。
最初は扶桑級の大型戦艦として計画されたのです。
扶桑級大型戦艦とえいば、
一番艦「扶桑」
二番艦「山城」
三番艦「伊勢」
四番艦「日向」
の4隻です。
大正2(1913)年の建艦計画です。
ところが建艦は、一番艦の「扶桑」の建艦が行われ出したところで、残る3隻が、無期延期になってしまいます。
国会から、財政上の理由で待ったがかかったのです。
日露戦争が終わって8年目、前年には朝鮮半島も併合しています。
「もう戦争は終わったのだ」
「だいたい海軍はカネを遣いすぎる」
「ハコモノ行政はけしからん。もっと民生にカネをつかうべきだ」
「国民の生活が第一だー!、年金を出せ〜!、政府の財政赤字をなんとかしろ〜!」
要するにいまと同じです。
けれど実はその2年後の1914年には第一次世界大戦がはじまっているのです。
なるほど戦艦の建造は、莫大なお金がかかります。
目先の国の財政を考えれば、青くなる者が表れても仕方がないことです。
ところがこの「財政上の理由で戦艦の建造を停止」した、ということが、後々、ものすごく大きな問題を引き起こしています。
国家の財政を破たんさせたのみならず、多くの日本人の生命と財産を失わせるきっかけまでなっているのです。
少し脱線しますが、このことについて先に述べておきます。
国家の最大の役割は、国民の生命と財産を守ることです。
ときに国家は、国民の生命と財産を守るために、無理を承知の財政出動をしなければならないときもあります。
それが「政治」というものです。
ところがもしかすると、日本が大東亜戦争に突入しなければならなかった原因は、実はこの大正2年の「財政上の理由で軍艦の建造を渋った」ことが原因であったかもしれないのです。
この当時、まだ航空戦の時代には入っていません。
世界の資源エネルギーの主役は石炭でしたし、戦艦も石炭で走りました。
「大鑑巨砲主義」という言葉がありますが、この時代は、巨大かつ頑強な装甲を施し、大口径の砲塔を据え付けた巨大戦艦こそが世界の海を制した時代だったのです。
そして世界は「力」が支配していました。
「力」の強い欧米列強は、「力」を持たない黄色人種や黒人を支配し収奪し、国家ごと植民地として支配下に置いていたのです。
植民地支配されたら、被植民地の民衆は、もはや「人」ではありません。
ただの動物です。
奴隷として雇用された者は家畜、そうでない者は、ただの野生の猿です。
殺されても収奪されても文句をいうことはできない。
そもそも言葉も通じない。
植民地支配者である白人の家内で、白人の若い娘さんが部屋でまるハダカになって着替えているところに、現地で雇用された有色人種の若い男性がいきなり入ってきても何の騒ぎにもなりません。
それはペットの犬が部屋にはいってきたのと同じことだからです。
つまり、人でありながら、人ではない。
植民地からの収奪が欧米列強の「富」の源泉です。
収奪することで、欧米列強はますます「力」を蓄え、強大な「力」を手中にしていたのです。
そんな時代の中で、明治維新後国力を増した日本は、
明治33(1900)年の義和団事件でその勇敢さと文化の高さを白人たちに見せつけ、
明治35(1902)年には、当時世界最強国家であった英国と対等な同盟関係を樹立しました。
明治38(1905)年には日本海海戦において、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破しました。
これによって日本は、有色人種でありながら、世界の最強国の一角を為すに至ったのです。
そしてこのことは、世界の被植民地国家の人々に、独立自存への大きな希望を与え、また日本は世界の有色人種民族の事実上のリーダーとなっていったのです。
そしてこのことは同時に、日本の存在を、欧米列強にとって、極めて邪魔な存在へと変えて行ったのです。
日本は、有色人種国家にもともと住む有色民族の憧れであり、期待であり、希望です。
ところが日本が希望となるということは、植民地支配をする白人たち(欧米列強)にとっては、自分たちの財を失う危険な存在になるということです。
それでも日本が英国と同盟関係にある間は、世界のどの白人国家も日本に手をだすことはできません。
世界最強の英国と、東洋の覇者の日本が、イーブンの戦力(海軍力)を持って同盟しているのです。
世界のどんな国であっても、当時、この二国を相手にして戦って勝利できる国などなかったのです。
のちの世でいえば、全盛期のソ連と全盛期のアメリカが、対等な同盟関係にあるようなものです。
この同盟に勝てる国は、世界広しといえども、どこにもない。
ところがそうした状況に先に変化を呼んだのは英国でした。
英国は明治39(1906)年、「ドレッドノート(Dreadnought)」という名の、革命的な超ど級戦艦を就役させたのです。
この船は、世界初の蒸気タービンエンジンを搭載した船です。
巨大戦艦でありながら、超高速走行が可能です。
しかも装甲は厚く、当時の世界のどんな大型戦艦の大砲の弾さえもはじき返します。
さらに世界一の巨大主砲を装備していて、この主砲は、世界のどの戦艦の最強装甲でさえも打ち破る威力を持っていました。
ドレットノートは、たった1隻で、他国の大型戦艦2隻分の戦力を有していたし、たった1隻で、当時の世界中のどの艦隊の大軍と勝負しても、圧倒的勝利を得ることができるだけの強力な力を保持した艦だったのです。
まさに八岐大蛇です。
破格のバケモノ戦艦です。
こうなると、世界は英国にひれ伏さないといけない。
なにせ、バケモノ戦艦「ドレッドノート」1隻が来るだけで、他の国々の艦隊は、ひたすら逃げまくらなければならなくなるからです。
そしてこのことは、日英関係にも、大きな変化を及ぼします。
英国にとって、たった一隻の「ドレッドノート」があるだけで、もはや日本との同盟関係など必要なくなったのです。
これがよく言われる「軍事バランスが崩れた」という情況です。
軍事バランスが崩れたということは、日英関係は、日本は英国の被保護国の地位になるということです。
当然です。
パワーバランスなのです。
片方が圧倒的に強くなれば、弱い方はただ庇護されただけの存在になる。
互いに銃を突き付けあい、相手が折れたら勝ったほうが、欲しいものを収奪するというのが世界なのです。
そこを勘違いすると、たいへんなことになる。
日本が被保護国の地位に落ちるということは、日本は東亜における英国の植民地支配を一方的に承認しなければならなくなるということです。
この時代、英国はアフガニスタン、パキスタンからインド、バングラディッシュ、ビルマ、マレーシアに至る広大な地域を支配し、また支那の福建省から四川省に至る地域も事実上支配していました。
タイは独立を保ってはいたものの、王室内部には英国の勢力が深く入り込んでいました。
それだけではありません。
たとえば東亜地域なら、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアも、それぞれ地域を勢力下に収めていました。
日本が英国の植民地政策を認めるなら、日本は同時にフランスその他の諸国の権益も認めなければならなくなったのです。
認めれば、日本の地位は一時的には安泰になります。
日本が列強の権益を侵さない。
日本が列強の植民地支配を認め、さらに彼等の支配権の確立のために協力する。
そういう選択です。
けれどそのことは、同時に日本の安全も損なうことになるのです。
どういうことかというと、列強は東亜諸国の植民地支配を確立したら、次は日本をも支配しようとしてくることは、火を見るより明らかなことだからです。
英米仏蘭露が束になってかかってきたら、さしもの日本でも対決することは困難です。
けれど、「ドレッドノート」の完成によって、日本が英国の保護国の地位に甘んじれば、世界は当然にそういう方向に動くのです。
また一方、日本が彼等欧米列強の植民地支配を、この時点で「認める」ということは、東亜の希望の星となった日本が、東亜諸国の有色人種に対する背信行為、裏切り行為となります。
つまり、日本は、欧米列強を敵に回すだけでなく、東亜諸国の有色人種さえも敵にまわすことになります。
そしてそのことは、欧米列強が日本を攻め滅ぼそうとするとき、彼等の常套手段として、植民地支配下においた民族を奴隷兵として、日本との決戦の最前線に送る。
日本は、まさに世界を敵に回して戦わなければならなくなるという結果をもたらすことになるのです。
その後の歴史を知っている私たちは、結果としてこのことが現実になったことを知っています。
日本は、東亜諸国への信義を大切にしたがゆえに、日本は世界を敵にまわして戦わなければならなくなったのです。
つまり、どちらに転んでも、日本は世界を相手に戦うことになったのです。
けれど、もしこの明治時代の終わり頃に日本が白旗をあげて白人諸国の軍門に降るか、昭和の大戦において敗戦を迎えたかには、結果において雲泥の差があります。
日本が最後まで自立自存のために欧米の植民地支配に抵抗したことで、結果的に世界から500年続いた植民地支配が終わりました。
けれどもし明治の終わりごろの時点で、日本が白旗をあげていれば、21世紀の現在においてもなお、世界の有色人種は植民地支配下に置かれていたであろうし、日本は列強の分割統治の植民地となり、いま全国各地で日本の復活を望む者たちが、いまの中東のように武装蜂起して国内はゲリラ戦が絶えない、そんな状況になっていたであろうと思います。
さて、話が大きく脱線しました。
英国が「ドレットノート」を建艦した。
このことで、日本はどうしたのでしょうか。
日本は、英国に対抗して、強大な力を持つ戦艦を建造しようという選択をしたのです。
なぜなら、日英の軍事バランスがくずれれば、同盟関係が主従関係に変化してしまうからです。
日本だけではありません。
力の強い者が正義であり、力の弱い者はどんなに「正しいこと」を言っても、「力」の前には屈服せざるを得ない、そんな時代なのです。
だから世界は「ドレッドノート」の就役にともない、未曽有の巨大戦艦建造ラッシュになります。
日本ももちろんそうしようとしました。
ところが肝心の日本国内に、残念なことにそういう世界の情勢がまるで見えない政治家がたくさんいました。
英国が「ドレッドノート」を就航させたことが及ぼす未来図には、目もくれず、ただ新艦建造は予算がかかる、費用が莫大だとクレームをつける議会政治家が多数いたのです。
彼らは政府に対し、新型戦艦の建造の停止を要求しました。
国内景気が悪い中にあって、戦艦建造などもってのほか、戦争反対とやったのです。
ところが実はこのことは、言ってることと、そのもたらす効果が正反対の主張でした。
新造艦建造は莫大な費用がかかります。
けれど当時、その新造艦の建艦は、日本国内で日本人が行っていたのです。
つまり、国がそれだけ莫大な予算を遣ってくれるということは、国内に流通する貨幣の総量を増やし、国内景気を良くする効果があったのです。
そして世界最強の戦艦建造は、日本の武力を強化するというだけでなく、日米のパワーバランスを保持し、日本が世界最強国のままでいれるという効果ももたらすのです。
そしてそのことは、何より国民生活の安全を保障するものでもありました。
ところが現実の当時の選択は、結果として国会の主張を受け入れ、新造艦は建造するけれど、予算は10分の1に縮小するというものでした。
予算はない。
けれど国防は保持しなければ、日英同盟にさえもヒビがはいる。
そうした先を読んだ海軍は、やむなく少ない予算で、なんとかして強力な戦艦を作ろうとしました。
けれどその結果、設計に無理が出てしまったのです。
新造艦の「扶桑」は、ドレットノートの戦力には到底及ばないツマラナイ船になってしまったし、しかも4艦建造の予定が1艦だけになってしまったのです。
これによって何が起こったか。
まさに軍事バランスが崩れました。
このチャンスをほっておいてくれるほど、世界は甘くはありません。
日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。
そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、3:5:5と決めたのです。
当時、この会議の決定について日本政府の代表は、「これで軍事予算を軽減できて財政が潤った、世界が軍縮に向かって、良かったよかった」と、まさにドヤ顔でした。
国会は、自分たちが民生を大切にと政府に要求した結果であると、さかんに宣伝しました。
大新聞も、軍縮への歓迎一点張りでした。
こうして世論の後押しを得た政府は、なんと「陛下の勅許さえ得ないで」、独断でこの軍縮条約に調印してしまったのです。
これは幕末に井伊直弼が、天皇の勅許を待たずに独断で日米和親条約を締結し、その結果、日本の金(gold)が大量に日本から米国へと流出し、日本から金(gold)がなくなってしまったのと同じです。
とかく日本の政府が陛下を軽んじると、のちのちにろくなことが起きないことは、歴史が証明しています。
陸海軍とも政府に対し、「政府が勝手にワシントン条約を批准したことは陛下の統帥権の干犯である」と、この政府の対応を問題視しました。
国内の政治がこうして喧々諤々となった一方で、世界では、日本が条約を飲むやいなや、翌年8月には日英同盟が失効し、変わって米英が同盟国となるという結果が招かれました。
こうして世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
日英(5+5=10):米(5)
から、
日(3):英米(5+5=10)
という、パワーバランスになったのです。
日本は、著しく不利な状況に置かれることになりました。
軍事バランスが変化したのです。
日本はこれにより、東洋の「弱国」になってしまったのです。
こうなると、あとは日本の力を削ぐだけです。
最初はまず、東亜に住む日本人への暴行がはじまりました。
支那人華僑などにカネを渡したり、利権をちらつかせて反日デモを展開させました。
ただでさえ、日頃から鬱憤をつのらせている支那人たちです。
「日本人に対してなら、どんな酷いことをしても許される。それどころかカネまでもらえる」
だから彼らは、いたるところで反日デモ(抗日デモ)を行いました。
そして暴徒化した支那人たちは、いたるところで日本人を殺害しました。
ハリマオーで有名な谷豊の妹が、生きたまま首をねじ切られて、その生首でサッカーボールのように蹴られたという事件が起きたのも、ちょうどこの頃の出来事です。
そして米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に難癖をつけるようになりました。
そして支那国内にある軍閥に武器や糧食を渡し、外地にいる日本人を殺害したり、拉致したり、日本人婦女を強姦したりと、あくどい戦争挑発行為を行いはじめました。
そしてついには、日本に対してハルノートを突き付け、日本が戦争に踏み切らざるを得ないように挑発しています。
要するに、日本が支那事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「ドレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級4隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、ということです。
すくなくとも当時の国際社会にあって、「国が弱い」とみられる事が、どれだけ国民の命を危険なものに晒すことになるのか。
このことを、私たちはあらためて学ぶ必要があると思います。
軍隊は、戦争をするためのものだけではありません。
戦争や、人為的な悲惨や被害を未然に防ぐためにあるのが、軍というものです。
軍の最大の使命は「備え」であり、その「備え」が不十分になったとき、国も人も蹂躙されるのです。
まだ「明察功過」が生きていた当時の日本では、こうした未来予測をしっかりと行なう人たちもいました。
ですからこうした事態を予測し、扶桑級大型戦艦は、計画段階で予算の関係で待ったがかけられたものの、ようやく大正2(1913)年には「扶桑」、大正3年には「山城」が建造開始となりました。
ところが、本来の目的は、世界最強クラスの戦艦を建造しなければならないということが目的です。
ところが予算が大幅に圧縮されたのです。
結果、できあがった一番艦の「扶桑」、二番艦の「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというありさまでした。
要するに、予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。
これでは戦艦の体をなしません。
やむをえず「扶桑級」戦艦としての建造はあきらめ、あらためて「伊勢級」戦艦として、着工開始になったのが、「伊勢」と「日向」の姉妹戦艦でした。
しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にありません。
そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正6(1917)年、「日向」は大正7(1918)年にそれぞれ就役させることになりました。
そして大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、徹底的に船体の改良をされていきます。
そして、昭和9(1934)年、緊迫する世界情勢の中で、姉妹は大改装を施されました。
まず第一に、艦の主砲の最大仰角が45度に引き上げられました。
当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。そのかわり命中率が下がります。
それを「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の45度という、限界仰角にまで引き上げたのです。
もともとは、最大仰角25度で設計された船です。
それを一気に45度に引き上げたのです。
しかも砲弾の命中率さえも向上させたのです。
これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸びました。
なんと、33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。
次に装甲が格段に強化されました。
これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしないものとなりました。
さらに新型タービンエンジンを搭載させました。
船速は、25.3ノットまで引き上げられました。
それでもまだ世界の標準艦には追い付かないものです。
そして新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させました。
さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線を装備させました。
海軍は、なんとかして世界の艦隊レベルに追いついて行こうと努力したのです。
けれど、それでもやはり船速が遅いのです。
連合艦隊の機動部隊に参加するなら、最低30ノットは出なければ、他の艦についてけないのです。
大東亜戦争がはじまったとき、ですから「伊勢」と「日向」は、練習艦として配備されました。
実戦では使い物にならないとされたのです。
そんな姉妹が実戦投入されたのは、昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦からです。
「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練にいそしみました。
ところが訓練中に重大事件が起こってしまうのです。
昭和17(1942)年5月5日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしたのです。
砲塔部が吹っ飛びました。
乗員54名が一瞬にして亡くなりました。
やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部をそっくり外して、その穴を鉄板で塞ぎ、上に25ミリ四連装機銃を突貫工事で装備させました。
つまり主砲がない戦艦として「日向」はミッドウェー作戦に参加したのです。
本来なら、対艦主砲の代わりに機関銃を設置した艦など使い物になりません。
「伊勢」と「日向」がこのとき参戦させてもらえたのは、ただ一点、試作品とはいえ、レーダーが装備されていた、という理由です。
ところが船速の遅い船です。
艦隊のはるか後方を航行しているときに、せっかくのレーダーも、まったく活かされないまま、ミッドウエー海戦では日本海軍が大敗してしまうのです。
そして日本は、大切な空母をも失ってしまいました。
失われた空母力を補うのは喫緊の課題です。
さまざまな商船や、水上機母艦などが、空母への改造を検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。
そこで結局、建造中の大和型の大型戦艦の3番艦である「信濃」を空母に改造すること、および事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいるだけの「日向」、「日向」と同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されたのです。
しかし「伊勢」も「日向」も、もともと戦艦として設計された艦です。
だから艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。
これを壊して空母に改造するとなると、完成までに1年半はかかってしまう。
ならば艦の後部だけを空母にしようと出来上がったのが冒頭の絵にある「航空戦艦」という形です。
ただ、問題があります。
「伊勢」も「日向」も、艦の中央に巨大な艦橋があるのです。
つまり空母として航空機の発着陸に必要な十分な滑走路を確保できないのです。
そこでどうしたかというと、まず離陸は、カタパルト(射出機)で対応することにしました。
カタパルトを使えば、離陸に長い滑走路は必要ありません。
このためカタパルトは、新型のものを備え付けました。
これは、30秒間隔で飛行機を射出できる、当時としては最先端の技術品です。
これを二基備え付けました。
これによって、わずか5分15秒で全機発艦できるようになりました。
これまた世界最速です。
では飛行機の着艦はどうするのか。
甲板には、着艦に必要なだけの滑走路はありません。
つまり、着艦できません。
そこで「一緒に航海する空母に着陸させればよろしい」ということになりました。
といって、空母側だって艦載機を満載しているわけです。
そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがありません。
どうするかというと「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈になったのです。
残酷な話ではあるけれど、それは現実の選択でした。
そして「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、それぞれ大改造を施されました。
さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。
対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されたのです。
それだけではありません。
新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。
各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、超強力防空戦艦としての機能も身に着けたのです。
こうしてようやく完成した姉妹は、昭和19(1944)年10月に戦線に復帰しました。
そして同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊に、「航空戦艦」として参加することになりました。
ところが・・・です。
艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまったのです。
つまり、載せる飛行機がなくなってしまったのです。
「伊勢」と「日向」の姉妹は、フィリピン沖で、艦載機を載せないまま、米軍のハルゼーが繰り出してきた527機もの飛行機の大編隊と戦うことになりました。
この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を受けました。
ところが、この戦いで、敢然と猛火蓋をきったのが、「伊勢」と「日向」でした。
両艦あわせてほとんど損傷を受けないまま、100機近い敵機を撃墜してしまったのです。
さらに「伊勢」に至っては群がる敵機との戦闘のさ中に、自艦のエンジンを停止させ、被弾し沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業さえも行っています。
エンジンを停止すれば艦は停まります。
停まっている艦には、爆撃機の爆弾が当たるのです。
ですから本来は敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙なのです。
ところが「伊勢」の持つ強力な対空砲火は、敵の航空隊をまるで寄せ付けない。
しかも戦艦設計の強力な装甲は、敵弾を跳ね返してしまう。
だから戦闘のさなかに堂々と艦を停止させ、対空砲火で群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員100名余を、助けることができたのです。
これは海戦史に残る、ものすごい出来事です。
レイテ沖海戦敗戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失ってしまいます。
日本の戦況はますます厳しさの一途をたどります。
そのレイテ沖海戦で生き残った「伊勢」と「日向」は、武装した輸送艦として、主に物資の運搬に用いられました。
航空戦艦を輸送船に使うなどもったいない話ですけれど、当時の状況下では頑丈な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実だったのです。
こうして「伊勢」と「日向」は、昭和19年11月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運んできました。
途中で、何度も米潜水艦に狙われたのですが、そこはもともとが戦艦です。
なんなく敵潜水艦を撃退し、無事に、内地にたどり着きました。
そしてこのとき「伊勢」と「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ最後の航空燃料でした。
沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った最後の燃料です。
けれど最後の航空燃料を持ち帰った姉妹は、自分が海上走行するための燃料がなくなりました。
このため二艦は、呉の港の「海上砲台」として停泊したまま使用されることになりました。
終戦間近の昭和20年7月28日、呉の海軍兵廟は、米軍機の猛攻撃を受けました。
このとき「伊勢」と「日向」は、停泊したままで、まさに鬼神の如き戦いをしました。
途中で大破しました。
船底は、港の海底に着底してしまいました。
それでも「伊勢」と「日向」の対空砲は火を吐き続けました。
そしてついに対空砲火が底をつこうとしたとき、やむなく「伊勢」と「日向」は、群がる敵機に向かって主砲をドドンと放ちました。
戦艦の主砲の威力は強大です。
たいへんな爆風を伴います。
この主砲の発射の風圧によって、そのとき米軍機が、まるで空中のハエが突然死んで落下するように、パラパラと、まるで雨のように海面に落ちたそうです。
そしてこのときの主砲の発射が、日本戦艦が放つ最後の主砲発射となりました。
航空戦艦伊勢の最後

冒頭にも書きましたが、「伊勢」と「日向」の名前は、ともに日本神話ゆかりの名前です。
「日向」は、神話発祥の地、天孫降臨の地です。
神々の子孫である歴代天皇が祀られているのが「伊勢」です。
そして日本神話というのは、昨日の記事のオオクニヌシの物語にも書きましたが、神々の成長の物語でもあります。
いってみれば、できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。
そして、日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされませんでした。
その2隻が、ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなった折、誰よりも活躍し、最後の最後まで抵抗する要の船となり、そして最後まで抵抗して、日本海軍最後の砲撃を行って、沈黙しました。
それはまるで、日本神話そのものを見ているような姉妹の生涯でした。
なんだか、とっても身につまされるような気がします。
でも、「伊勢」も「日向」も、後世に生きるボクたちの目から見て、実に「かっこいい」って思います。
ありがとう!!伊勢、日向!!
ありがとう!!航空戦艦!!
そして、
取り戻そう!日本。
※この記事は2011年2月の記事をリニューアルしたものです。

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コメント
とみー
涙が止まりません。
本当にほんの少ししか自分は知らないんだなぁと、恥ずかしい限りです。
最期の伊勢の写真。
疲れたよーって苦笑いしているようにも見えます。
本当にお疲れ様。
ありがとう。
私たちも頑張るからね。
2015/10/28 URL 編集
名無しさん@ニュース2ch
ひゅうが型護衛艦、ひゅうが/いせ と、
今の時代も姉妹でいるのには、よいものですね。
2015/10/28 URL 編集
森本満
2015/10/25 URL 編集
たまにはコメントしてみます。
何となくしみじみと子供の記憶がよみがえります。
今日も良い記事有難うございます。
敬具。
2015/10/24 URL 編集
Lopez
今回の「伊勢」「日向」のお話は、涙腺が緩みっぱなしでた。
このお話しが、世界を救うでしょう。
2015/10/24 URL 編集
にっぽんじん
どちらかが「嘘」をついています。恐らく「嘘つき」は韓国マスコミでしょう。「願望」を記事にするのは韓国マスコミの常套手段です。いかにも事実であるかのように「こうあって欲しい」といった「願望」を記事にします。
何とも「汚いやり方」です。「日本が謝罪すればそれで済む」と言います。済まないのが韓国です。いや済ませないのが韓国です。一度謝罪すれば2度、3度とお代わりが続きます。
韓国人慰安婦問題は既に終わっています。今は、日本の問題ではなく、韓国の問題です。この問題では一歩も譲っていけません。それよりアメリカ公文書で明らかになった韓国軍慰安婦問題を解決すべきではないかと助言した方が親切です。
2015/10/24 URL 編集
一有権者
今の日本政府や政治家、役人にもこのような人達が結構いるのではないでしょうか。?
過去から教訓を学びそれを今に生かす事ができているのか。?どうも私にはそう思えません。
つい最近のユネスコの遺産登録についての中国、韓国の工作活動に残念ながら我が国の政府や害務省はどれだけ国益を守る為に活動したといえるでしょうか。?
結果は見るも無残でまたしても我が国の国益は損なわれ日本人の信用と名誉は貶められましたが、害務省は何の役にも立たないどころか「事なかれ主義」で省益が最優先と見え、とても外交能力を持っている省庁とは思えません。
さて伊勢型戦艦ですが日本戦艦12隻の中でも活躍した戦艦だと私は思います。
一番活躍したのは建造が一番古い金剛型巡洋戦艦を改装し高速戦艦に生まれ変わった金剛、比叡、榛名、霧島ですがそれにも類するものではないでしょうか。
残念ながら扶桑型は改装されても増速は望めず、防御力にも脆弱さがあり最後はレイテ沖の海戦で悲壮な最期を遂げたことは皆様ご存知の事と思います。
戦後の私達は死ぬ事を判って居ながら子孫たちの為自分の命を投げ出して戦ってくださったご先祖様の為にも本来の日本国を取り戻さなくてはならないと思います。
2015/10/24 URL 編集
岡山のネトウヨ
ここ数年、帝国海軍の軍艦を模したゲーム、アニメ作品が登場し興味を持ち始めた方々も多いように思います。(艦○○など)
軍艦にまつわる小ネタを一つ。よくアチラの方々は戦争当時日本は沖縄を見捨てたとプロパガンダしています。よくそんなこと言えるなと感心するのですが、そんな方々に聞きたい「では何故戦艦大和はお金や食料等生活必需品を大量に積んでまでして特攻せにゃならなかったのか?」
ちょっと考えれば分かることです。当時日本にはまともな資源などありません。国民皆節制して必死に生活されていました。それでも沖縄に物資を運び入れようとしたのは、政府が沖縄を必死で守ろうとしたからです。大和といえば海軍最後の切り札で極秘情報になっていました。その艦をほぼ特攻に近い形で出撃させたのは、そういう意思の表れなのです。
個人的に好きな話は戦艦長門の最期ですね。終戦まで生き残った長門はその後米軍に接収され核実験の実験艦として使われてしまいますが2発の爆弾を米艦が沈む中生き抜き、数日後静かに沈んでいった。まるで長門に武士の魂が入っているかの如きその最期の話には感動を覚えます。是非皆さんも帝国海軍艦についてもっと知っていただけたらと思います。
2015/10/24 URL 編集