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花王といえば、最近は在日支配とか反日タレントの広告起用とかで、保守の方の一部には不買運動などが広がっているそうです。
私は、昔から花王好きで、常に前向きに工夫した商品の開発をする花王の製品は、同じ商品を買うなら花王でと思っていたくらいです。
もし、乗っ取られ、社風が変わってしまっのだとしたなら、それはとても残念なことに思います。
昔から花王が好きだった原因の一つに、花王の創業者、長瀬富郎(ながせとみろう)の伝記があります。
小学校を出ただけで世間に出て働き、若くして支店長にまで大抜擢されるという才覚を見せながら、そのために変に自尊心ができて失敗し、丸裸になってしまう。
その地獄から再び立ち上がり、人の和を築き、みずからも一生懸命勉強して国産高給石鹸という新しいジャンルを開拓する。
自分が儲かれば良いというのではなく、どうしたらより多くの人々に喜んでいただけるのか。
そのことを一途に追求した、血を吐くような努力と精進の人生が、花王の創業者長瀬富郎の創業精神です。
長瀬富郎は、過労のために48歳の若さでこの世を去りました。
けれど、その創業精神は受け継がれ、儲かっている会社を貶めて奪って横取りして経営者だけが利益を掠め取る会社とはまったく対局に位置する自立した企業として花王は、次々と創意工夫を重ねた新製品を世に送り出した会社だったのです。
*
長瀬富郎は、文久3(1863)年、美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市)に生まれました。
12歳で小学校を卒業した富郎は、親戚の塩問屋兼荒物雑貨商「若松屋」に奉公に入りました。
相当努力したのでしょう。
なんと若干17歳で、もう、下呂支店を任されるまでに信頼されています。
若い時にこうして信頼され、支店長まで経験させられると、おかしなもので人間、ある種の自信過剰になってしまうものです。
富郎は、明治18(1885)年、23歳で店を辞めてしまいます。
辞めて何をしたかというと、それまでに貯めたお金150円を元手に、上京して米相場を貼ったのです。
いまなら、だいたい200万円くらいのお金です。
元手を増やして、商売でもやろうと思ったのでしょう。
ところがこれが、大失敗で、富郎は無一文になってしまうのです。
富郎が偉いところは、この失敗を教訓として、以後、とにかく
「堅実に生きる」
この一語を終生の誓いにし、それを守り通したことです。
ちなみに人は一般に「自分の成功と、他人の失敗からしか学ばない」のだそうで、だから、たった一度の成功体験に縋ってギャンブルにのめり込んだりするのだそうです。
「明治の気骨」と言うのは、こういう「失敗から学べる」ことを言うのかもしれません。
金を失った富郎は、日本橋馬喰町の和洋小間物商「伊能商店」に就職します。
この頃の日本橋馬喰町は、舶来品の専門問屋街で、マッチ、靴、洋傘、帽子、コーヒーなどが、ひかり輝くような高級輸入品として売られていました。
なかでも人気だったのが「石鹸」でした。
もともと石鹸は、安土桃山時代に「しゃぼん」の名で日本に入ってきたもので、このことは慶長元(1596)年8月の石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状で確認できます。
もっともその時代から江戸時代まで、石鹸は超高級品で、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことです。
もっとも安土桃山時代にやってきたスペイン人たちが、なによりも驚いたのが日本人の清潔さだったそうで、日本人はそれまで訪れたアジアの国々ともまったく違っていて、毎日風呂に入り、灰汁や米ぬか、豆の粉末をお湯で溶いたものなどを泡立て、へちまの筋や手ぬぐいなどで体をこすって入浴する。
人も町も清潔なことに、たいへんな驚きをみせています。
ちなみにスペインのイザベラ女王といえば、コロンブスの新大陸発見(1492年)のスポンサーとなった女王として有名ですが、この女王の自慢が、「生涯に二度、風呂に入った」ということだったそうです。
「生涯で二度」です。
一回目が生まれたとき。
二度目は、結婚するときです。
イギリス女王、のエリザベス一世は、無敵艦隊でスペインを凌(しの)ぎ、世界一の文化の高さを誇った人ですが、この女王の自慢が、三か月に一度しか風呂に入らないこと。
これは宗教上の理由で、肉体は汚れたものだからキレイにすることはイケナイコトとされたという背景があったようです。
肉食で風呂に入らなければ、よほどにおったのではないかと心配になりますが、ヨーロッパは空気が乾燥しているので、香水を付けるだけであまり臭いとは感じられなくなったようです。
これに対し日本は高温多湿ですから、風呂にでもはいってさっぱりしなければ、体がベトベトしてどうしようもない。
お湯につかったり、沐浴したり、だから古代から日本人は風呂好きでした。
ついでにいうと、韓国には近代になって日本が統治するまで風呂も入浴の習慣もありません。
明治時代になって鎖国が解かれると、黒船の時代で海運力が増大し、また、西欧列強が東亜諸国にまで進出していた関係で、石鹸を輸入するのも、遠くヨーロッパから運んでくるのと違い、東亜の植民地化された近隣諸国から運んでくるだけでしたので、石鹸の値段が安くなったのです。
おかげで、またたく間に石鹸が庶民の間に浸透しています。
もっとも、そうはいっても輸入モノです。
爆発的な人気だけれど値段が高い。
そこで明治三年には大阪と京都に官営の石鹸工場が建設され、民間でも明治六年に横浜で和製石鹸の製造が始まったのですが、この石鹸の出来はイマイチでした。
原料となるヤシ油や苛性ソーダ、香料の入手が困難だったためで、結局国産品は洗濯石鹸くらいにしか使えなかったのです。
長瀬富郎は、ここに眼をつけました。
奉公先の荒物屋「若松屋」を一年あまりで退職すると、郷里に戻って資金を工面し、明治20(1887)年に、馬喰町の裏通りに間口二間(3m60cm)で「長瀬商店」を開いて、石鹸の卸売を始めたのです。
このとき富郎、24歳です。
商売は順調で、馬喰町の升屋旅館の三女なかとも結婚もし、商いは文房具、帽子、ゴム製品などにも広がって行き、一年後には表通りに店を構えるまでに発展しました。
富郎のおもしろいのは、この時すでに複式簿記による詳細な損益計算書も発行していることです。
とかく信用はこうした金銭に対するまじめさから生まれる。
長瀬商店の主要品目は、アメリカ製の石鹸です。
仕入れれば売れました。
ところが、これがなかなか入手できない。
一方で国産石鹸は粗悪で、納品しても苦情がきて返品されてしまう。
当時は返品は問屋が、かぶったのです。
富郎はここに目をつけました。
良質な石鹸を作ることができれば、それこそ右から左に売れるのではないかと考えたのです。
時を同じくして、国産石鹸の仕入先メーカーから、石鹸職人の村田亀太郎が退職しました。
富郎は、亀太郎に、長瀬商店専属で石鹸をつくらないかともちかけます。
そして友人で薬剤師の瀬戸末吉に分析の基礎を習いながら、亀太郎と二人で石鹸の原料や香料を調合に没頭します。
完成までは一年半かかりました。
ついに絶対の自信作の石鹸が完成しました。
かねてお世話になっていた高峰壌吉博士(ジアスターゼを発見した世界的化学者)にも分析結果を書いてもらいました。
製品はろう紙で包み、分析結果の紙を添え、さらに自分で描いた「花王」月のマークの図案を印刷した上質紙で、ひとつひとつの石鹸を丁寧に巻きました。
そして桐箱に三個づつを入れ、一箱35銭で売りだしたのです。
当時、アメリカ製の高級石鹸ですら、1ダースで28銭でした。
つまり三個で35銭というのは、飛びぬけて高価です。
富郎は、自信作の石鹸を、高級舶来品のようなブランド商品として売り出そうとしたのです。
狙いは当たりました。
桐箱入り花王石鹸が、贈答用に重宝されたのです。
富郎はさらに、高級ブランド品販売に際しての景品にも着目します。
石鹸を売るために、風呂敷、うちわなどを配布した。
さらに宣伝には、全国の新聞に積極的に広告を掲載しました。
鉄道沿線にある野立看板による広告も、花王が最初です。
鉄道網が全国に広がり、野立看板は、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に広がります。
また、劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布などもしています。
高級品にして粗利率を高めた分、宣伝費を多くかけたのです。
そして石鹸の大当たりから、薬剤師の瀬戸の指導のもとで、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始しました。
ちなみに富郎は、明治の末期(明治41年)には、広告に、稀代の美人芸妓とされた萬龍を起用しています。
この萬龍という女性は、赤坂の芸子で、日露戦争の際に、出征兵士のために慰問用絵葉書で大人気を博し、明治41(1908)年には、文芸倶楽部誌の「日本百美人」投票で一位になった女性です。
萬龍を起用した花王石鹸のポスター(明治41年)
萬龍の写真

富郎は、花王石鹸の成功を受けて、明治33年には、化粧水「二八水」も発売しました。
この頃、花王石鹸の成功を真似て、偽物の「香王石鹸」なるものが出回りました。
ところが富郎のすごいところは、「花王」だけでなく、事前に「香王石鹸」でも商標登録をとっていたのです。おかげで富郎が勝訴。
偽物を撃退しています。
明治28(1895)年には、花王石鹸は4.4万ダース、金額にして3万円を売り上げました。
明治29年には、東京・向島に新工場を建設。
明治40年には、売上10万円を突破。
しかし、富郎は、それまでの過労が重なり、明治43年には床につくようになり、明治44(1911)年に、48歳の若さで、この世を去ります。
亡くなる直前、長瀬富郎は、長瀬商店を合資会社長瀬商会に改組しています。
合資会社長瀬商会が、花王石鹸株式会社に改組したのは、富郎没後の大正14年のこと。
現在の社名「花王株式会社」に社名が変わったのは、昭和60年のことです。
長瀬富郎が、亡くなる前に残した花王の理念です。
*******
人ハ幸運ナラザレバ
非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ
運ハ即チ天祐ナリ
天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ
*******
人は幸運でなければ、立身は困難である。
その運とは、天のたすけである。
天のたすけを得るには、
常に身を正し、正しい道を歩みなさい、といった意味です。
たとえばエジソンだって、99%の努力と1%の幸運だと言っているわけです。
本当の成功者というのは、「天佑を得た者」であるといえます。
「天佑」とは、天の加護であり、天の助けです。
「道を正して待つ」とは、不断の努力を重ね続けることです。
ちなみに今月号の「玉響」で、中矢代表が面白いことを書いておられました。
一部を要約すると次のようになります。
人は神様を「まつり」ますが、
神様が人を「まつる」ことはありません。
「まつる」というのは、
神様の波動に自分を同化させる
という意味があります。
つまり、良い人と付き合えば自分も成長し、良からぬ人と付き合えば「朱に染まれば赤くなる」で、穢れを拾うことになる。
では「良い」とは何かといえば、簡単にいえば人の悪口を言わず、人の和を築き、正しい心を取り戻すために努力することなのであろうと思います。
そのために神社に行って神様をまつり、心の洗濯をするという歴史をずっと紡いできました。
そうやって天をまつり、人の和を築きながら、謙虚な努力を欠かさない。
結局、花王という会社が大企業になれたのも、創業社長の命まで縮めてしまうほどの「不断の努力」と「知恵」と「人の和」にあったのだと、思います。
花王に限らず、日本企業はかくありたいものだと思います。
※この記事は2010年5月の記事のリニューアルです。

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コメント
一有権者
私も以前の某TV局の偏向報道を境に反日報道に対してどこの会社がスポンサーなのかを調べるようになり残念ながら該当すると思われる会社のものは不買をしております。在日企業と判ったものはなおさらです。
一人一人の行動は些細なものでも多くの人がこのような事がらを知り行動すれば必ずや天誅が下ると信じております。
2015/11/02 URL 編集
くすのきのこ
後藤新平氏の言葉が浮かびました。カネを残すのは下、事業は中、人を残す
のが上。本当に、理念の後を継ぎ、さらに伸ばしてくれる人物を残すのは難
しいのでしょうね。花王は買わん~になってますww。理由は4年前のフジ
テレビ前のデモが大きく報道されなかったからです。日本の主婦の方々が、
フィギュアスケートにおける日本人選手の活躍を視聴し、応援していたのに
もかかわらず報道体制に不備があり、その偏向ぶりに意見しても改善が見ら
れなかった。そこでフジテレビのスポンサーをチェックし不買運動を草の根
ながらに始められたのですね。花王はその一つでした。メダルをとっても国
歌の放映がカットされ、何故かハントウの国歌の部分が流れる。開催国の放
送では勿論、日本の国歌が流れてましたよ。そんな事もありました。デモだ
けでは効果が薄い。ですからカネの流れを抑える。まるでガンジーさんのやっ
た不買運動ですねwwガンジーさんにも名言があります。
あなたが行う行動が ほとんど無意味だとしても それでもあなたは それ
をやらなければなりません それは世界を変えるためではなく あなたが
世界によって変えられないようにするためです。
ww花王は買わ~ん・・です。あ、ロッテもです。
2015/11/02 URL 編集
次郎左衛門
久方ぶりです^^
今回のお話も大変に勉強になりました。
何故、かつてのヨーロッパ人が“南蛮人”と呼ばれていたのかが今日漸く分かりました。
極めて清潔な日本人からしたら、彼らの体臭はそれはそれは鼻の曲がることだったでしょう;
…生涯で風呂に入ったのがたったの二回…、…すみません、ちょっと脳が上手く動いてくれません^^;(笑)
逆に日本では、“神様は綺麗な場所にだけ降りてきて下さる”という教えがあるほどに清潔を尊んだんですよね^^
…自分も幼稚園時代、粘土を練る時間より手を洗っている時間の方が長かったとか…(それはそれでどうかなと;(笑))
ねず先生、今日も大変面白く素晴らしいお話、ありがとうございました^^
自分は日々、心の底から先生を応援しております^^!
では!
2015/11/01 URL 編集
たまにはコメントしてみます。
良いことを受け継ぐために教育や家庭環境はとても大事ですが、戦後70年で負けたがゆえに日本が受けた痛手は深刻だと思います。
核家族化による社会倫理の破壊や日本の破壊を狙っている外国勢力によるマスメディア乗っ取り、教育組織の腐り具合や悪党の政治家の多さなどは痛手の深刻さを良く表していると思います。
しかし、インターネットの情報拡散により気づき始めた人が増え続けていることは希望を抱かせるもです。しかし、そのインターネットも攻撃されて言論弾圧が頻繁に起きています。悪党の日本弁護士会がその片棒を担いでいるのですから大変な危機だと思います。
ねずさんの様な発信がとても大事なのです。
暗い話ばかりではいけないので、さっき面白いものを見つけたのでリンクを貼ってみます。
最近は忙しい人やうぶな人も騙されにくくなって来た様です。良いことですね。
「正義の見方」というサイトです。
http://www.honmotakeshi.com/archives/46768248.html
この記事の元ネタは2chですね。そちらのリンクも貼っておきます。
【サヨク画報】しばき隊、アンチをブロックして安倍総理を「頑張れ」「辞めろ」でアンケート⇒応援が圧勝⇒削除
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1446342905/
敬具。
2015/11/01 URL 編集
にっぽんじん
渋谷の祭りに子供達はいたのでしょうか?
変な国になったものです。
2015/11/01 URL 編集
-
いつだったか、ある人にこんな事を言われたよ。
『○○君、欧米にはさ、キリストは一人しかいないんだよね。
でもさ、日本には歴史の中にも、今の世にも、キリストなら沢山いるんだよ。
当たり前過ぎて意識してないけどね、行為だけ見てても、そんならこの人もこの人もそうじゃんって言うほど沢山いるんだよね。』
奇跡で喜んでる低質な人はさて置いて、その行為として考えるなら、本当に沢山いるんですよ、不思議なほど。
今回の話は、そんな事をふと思い出しましたね。
別の事になるけど、小名木さんは個人的に中矢さんと関わるのは良いと思いますが、そこまでにしておいて欲しいです。
2015/11/01 URL 編集
junn
2015/11/01 URL 編集