カンボジアのPKOで自衛隊が出動したとき、辻◯清美はピースボートを繰り出して現地の自衛隊の駐屯地に行き、そこで「あなたたちはコンドームを持っているでしょ、出しなさい!」と、復興支援のために汗びっしょりになって働く自衛隊員のポケットを勝手にさぐりました。
隊員たちが唯一の楽しみにしていた数少ない缶ビールを見つけると、「こんなものを隠してた」とのたまって、ビールを勝手に飲んでしまってもいます。
阪神大震災のときには、災害支援のボランティアと称して2トン車に荷物を満載して現地にはいったけれど、そのトラックの荷台から出てきたのは、印刷機とチラシでした。
チラシには「災害時でも自衛隊の活動を許してはならない」と書いてありました。
要するに自分勝手な思い込みだけで、まじめに働く自衛隊員を批判し断罪し、被災して食べれなくなっている場所で被災支援を必要としている多くの人々を無視する。
これこそが思い上がりというものです。
その思い上がり議員が、民主党政権下では、東日本大震災のボランティア担当大臣でした。
理由はボランティアの経験が豊富だからなのだそうです。
もしその「豊富」というのがピースボートや、トラックに積んだチラシのことを指しているなら、とんだ茶番です。
チームでスポーツをしたり、仕事をした経験のある方なら、どなたでもおわかりいただけると思うけれど、現場というのは、判断の連続です。
具体的にジャッジをする人がいなければ、現場は混乱し、みんなの動きがばらばらになります。
このとき、リーダーに求められる最大の課題は、「泥をかぶる」ということです。
上杉鷹山は、19歳で米沢藩主となりました。
そのとき、これからどのようにしたらよいかと教えを請うた鷹山に、平洲は次のように答えました。
「勇なるかな勇なるかな。
勇にあらずして
何をもって行なわんや。」
大切なことは、勇気をもって行う、ということです。
そのためには、覚悟が大切です。
批判をするのは誰にでもできます。
けれど、実際にコトを進めようとすれば、いろいろな意見が出て議論は百出します。
上との調整も必要です。
そのときに、「責任は俺がとる」というリーダーが、現場にいなければ、何の判断もできなくなります。
ヒゲの隊長と呼ばれた佐藤正久先生は、まさに現場の総責任者として、全責任をかぶり、派遣先の民衆からも、隊員からも、同じく派遣された外国の軍隊からも、あらゆる方面からの尊敬を受けました。
まさに「勇なるかな」でした。
細井平洲は、他にも「先施の心」を提言しています。
「先施」というのは、先にほどこす、ということです。
人が何かをしてくれるのを待つのではなく、まず自分から働きかける。
自分から働きかければ、当然、そこには批判の声もでます。
世の中というのは、あちらたてればこちらたたずです。
彼を是とすれば、彼は非となる。そういうものです。
政治は「線引き」です。
どこで線を引くかを決めます。
線が法律であり、引く線を決めるのが国会、敷かれた線に従って行動するのが行政です。
ところが線を引くと、かならず不満の声もあがります。
たとえば「高速道路を1000円均一に」といえば、「いや、無料にしろ!」という。
「景気対策のために国債を」といえば、「国の借金を増やすのはけしからん!」となります。
けれど、そういう議論には「興譲」も、「先施」もありません。
自己中で無責任な批判があるだけです。
細井平洲は、享保13(1728)年に、愛知県東海市荒尾町の農家の次男坊として生まれました。
幼いころは、地元の観音寺の義観和尚について学んだのですが、しょっちゅう寺の木に登っては、和尚さんに木に吊るされて叱られたそうです。
きかん気が強くて、ものすごくワンパクな子供だったのです。
実はこの逸話が、後年、吉川英治の小説『宮本武蔵』の幼いころの描写になっています。
元文2(1737)年、平洲は若干10歳で名古屋に出て学び、15歳で京都に遊学しました。
翌年には、再び名古屋に戻り、中西淡淵に師事しました。
中西淡淵は、平洲に長崎遊学を進めました。
17歳で長崎に遊学した平洲は、中国人の教師について漢学を学びました。
これも歴史に残っている事実です。
江戸時代において、日本を代表する学者が、中国人教師から学んでいます。
日本人には、本来的に差別意識などまったくないのです。
昨今、差別と言って騒ぐ人がいますが、実は騒いでいる側の人たちが差別をしたいだけのことです。
24歳になった平洲は、学んだことを学問のために実践に役立てようと、江戸に出て「嚶鳴館」という塾を開きます。
ところが塾を開いたまではよかったのですが、世の中はそうそう甘いものではありません。
なにせ若すぎる学者です。
弟子がつかないのです。
塾は、生徒がいなければ収入がありません。
ようやく生徒になってくれた人も、なにせ長屋暮らしの貧乏な人々です。
お金はない。
ちなみに江戸時代の貧乏長屋というものは、家賃のない、つまり家賃が無料ところが結構ありました。
では大家さんはどうやって長屋の維持費を出していたのかというと、長屋の人達が使う共同トイレに貯まる糞尿を、回収にやってくる農家の人たちに売っていたのです。
糞尿は、そのままでは、ただ臭いだけの汚物ですが、これを土に穴を掘った肥溜めに貯めて発酵させると、上等な肥料になります。
これを堆肥(たいひ)や下肥(しもごえ)といいました。
つまり、農家の人達は、堆肥を作るための材料を買いに来ていたのです。
長屋は、これを売ることで収入とし、その修繕費や、長屋ごとに設けられた番所の運営費に充てていました。
ということは、汚物が結構いい値で売れたということです。
逆にいえば、農家の人たちは、それを買うだけのお金があったということです。
世の中というのは、金持ちと貧乏人と、どちらが人数が多いのかといえば、圧倒的に貧乏人が多いものです。
これが世の常です。
ということは、経済的にみれば、農家の人たちが、町方の人たちの住居費を支えていたということになります。
つまり町方の貧乏人より、近隣の農家の方が、はるかにお金もあったし、暮らしも安定していたということです。
細井平洲の話しに戻します。
長屋の貧しい人たちを相手に、それでも平洲は誠実に学問を説き続けました。
人は、良いものはわかるものです。
誠実に学問を説き続ける平洲のもとには、次第に多くの人が集まりだしました。
中には、れっきとした藩の若侍たちなども、平洲の教えを求めて集うようになりました。
こうして、次第に平洲の「嚶鳴館」は、江戸で有名な私塾に成長していきます。
けれど、授業料の督促をしない平洲は、相変わらず貧乏なままだったそうです。
人に学問を教える。
それも、わかるように教えるということは、毎度の授業について、事前に十分な準備をして臨まなければ、できないことです。
1時間の講義なら、準備のために7〜8時間を要します。
それだけの準備をして講義をするから、わかりやすい講義になるのです。
ところが世間というものは、本人のこうした努力を差し置いて、平気で誹謗したり中傷したりするヤカラがあらわれます。
平洲は、いくら長崎まで行って学問をおさめたとはいっても、もともとは農民の子です。
だから、
「たかが農民風情に学問など語る資格はない」
「所詮は学者もどきの青二才であろう」
「古今の漢書を集めただけの寄せ集め、いいとこどりのパクリである。
「平州の論は俗説であって、学問の名に値しない」
「平州は学問を金もうけに利用しようとしている不届き者である」
といったものもあれば、尾ヒレ派ヒレをつけた平州の人格攻撃もあったようです。
たかが人の噂ですが、平洲自身にも悩みはあります。
貧乏しながらこのまま江戸にいて、この先一体どうなるのだろうか。
誰だって思うことです。
けれど平洲は思ったそうです。
死んだ母は、決して楽ではない生活の中で、幼い平洲のために、学費や遊学の費用を出してくれた。
「おまえは世のため、人のために役立つ、立派な学者に必ずなれる」と信じてくれた。
母の恩に報いるためにも、ここでくじけてはいけない。
学問で身を立て、世の中の役に立とうということは、他の誰でもない。自分で決めたことです。
ならば、明日を信じて、日々前進するしかない。
どんなに苦しくても辛くても、この道を進もう。
そうした姿勢で日々を送る平洲の名は、次第に高名なものになっていきました。
そして西条藩(愛媛県)、人吉藩(熊本県)、紀州藩(和歌山県)、郡山藩(奈良県)などから、藩の賓師として迎えられるようになったのです。
ところが次第に名声を得ても、平洲という男は、どこまでも謙虚です。
塾生が来ると、まず自分から進んで生徒たちに声をかけました。
その様子は、はたからみたら、どちらが生徒でどちらが先生かわからないくらいであったといいます。
平洲は、言ったそうです。
「上の者が、
下の者から声をかけてくるべきだ
などと思っていたら、
お互いがにらみ合っているような状態になってしまい、
下の者は寄り付けません。
寄り付く心がなければ、
親しみがなくなり、間が隔だたります。
これが結局は仲たがいのもとになるのです。」
加えて平洲は、名声がどんなに高まっても、身近な町民から身分の高い武士に至るまで、分け隔てなく学問を説きました。
けっして偉ぶるというところがなかったそうです。
こうした平洲の姿勢に、心を打たれた武士がいました。
宝暦13(1763)年、平洲が35歳になった頃のことです。
その武士が、米沢藩の家臣だったことから、彼は藩邸に帰ると、そこで周囲の者に平洲のすばらしさを語りました。
「平洲先生の教えは、実学を重んじるものです。
経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を
目的としています。
世の中に真に役立つ学者がいるとすれば、
それは平洲先生のことだと思います。」
この話が、藩主の元に届きました。
そしてそれほどまでに立派な先生なら、次の殿様になる治憲(はるのり、のちの上杉鷹山)の先生になってもらおうではないか、ということになったのです。
これには藩の事情もありました。
米沢藩は上杉謙信の家系です。
米沢藩の石高は15万石(実高30万石)ですが、そこに会津藩にいた上杉家120万石が、家臣6千人を連れて転封してきたのです。
当然、藩の会計は苦しいものとなります。
やりくりをするために借財を重ねた結果、すでに藩の借金は20万両に達していたのです。
このため藩には、高邁で高給な学者を招くだけの経済的余裕がなかったのです。
けれど、そこそこ高名な学者を招かなければ、藩の名に傷がつきます。
その点、平洲先生は貧乏塾長であり、そのくせ各藩に招かれて教師を務めた実績もある。
現実問題として平洲は、上杉家にとってもちょうどいい存在であったわけです。
こうして細井平洲は、米沢藩江戸藩邸のお抱え文学師範となり、当時14歳になる上杉治憲公(のちの鷹山)の教師となります。
平洲は、治憲公に、
「學思行、相須(がくしこうあいまつ)」と説きました。
学び、考え、実行 することの三つが揃って、初めて学んだことになるのだという思想です。
そして藩を立て直すためには、まず、殿ご自身が手本を示さなければなりませんと説きました。
また、すぐれた人材を育てよ、とも説きました。
鷹山は、この教えの通り、新藩主に就任するとすぐに民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)、財政に明るい莅戸善政を登用し、江戸藩邸における藩主の給料もそれまでの1500両から、いっきに209両に削減しています。
さらに藩内に漆や桑の木を植えて、米沢の特産物を増やし、これによって藩の財政を潤すとともに、浅間山の噴火による天明の大飢饉に際しては、非常食を普及させ、自らも粥をすすって倹約に努めています。
また、藩士たちの給料の減少分については、武士といえども、自ら畑を耕しし、植林する等、藩をあげての財政再建に取り組みました。
もっともこの途上で、質素倹約を説き、藩士の俸禄を減じた鷹山は、家臣たちから「主君押込」にもあっています。
これは、主君の横暴が目に余るとき、家臣たちが主君を座敷牢に閉じ込め、主君が改心するまで、座敷牢の外と中で、徹底的に話し合うというものです。
最終的にどちらかの納得がえられなければ、主君は幕府の許可を得て放逐されます。
民こそが大事とする江戸社会の理念は、大名に対してもたいへんに厳しかったのです。
このときの主君押込では、結果として家老たちが逆に鷹山に説得され、鷹山は晴れて藩主に返り咲いています。
寛政8(1796)年、鷹山と出会ってから、32年目の年、平洲は、はるばる江戸から米沢を訪ねています。
このとき、鷹山公は、わざわざ城から10キロも離れた普門院というお寺まで、平洲を出迎えに出ています。
後年、安永9(1780)年、平洲は53歳で、徳川御三家筆頭の尾張藩に招かれました。
そして藩校明倫堂(現、愛知県立明和高等学校)の学長になっています。
それでも平洲は、請われればどこにでもでかけて行き、身分の差なく、百姓町人たちにも、わけへだてなく学問の素晴らしさ、学び、考え、実行することの大切さを説き続けました。
享和元(1801)年、細井平洲は、73歳でこの世を去りました。
いま、平洲の墓は、米沢市の松岬神社に、上杉鷹山とともに祀られています。
わたしたちは、こういう先達の支えによって、いまの日本を築き、また未来の日本を担っているのです。
※この記事は2011年3月の記事のリニューアルです。

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コメント
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少し前に某携帯会社のCMで、年貢を厳しく取り立てる悪代官を描いていましたが、日教組の作為的な歴史教育がいかに害悪だったかをつくづく感じました。(あの会社の人たちはわざわざウソを広めたいのかもしれませんが)
そして今日のお話を読むにつけ、ねずさんのお話のような、真の生きた歴史教育の必要性を改めて感じました。
反日勢力には、日本人が昔から努力し、協力しあって生きてきたことを教えられると都合が悪いのでしょうけれど。
徐々にでも正しい教育に立ち戻っていくためには、今、将来を担う子供たちの教育が大切と思います。
2015/11/08 URL 編集
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本当に人材を育てる実学なんですね。けれど
それは細井平州や中江藤樹のような人徳者が
説いて初めて実学として活きていくものだと想いました。
2015/11/07 URL 編集
えっちゃん
心が清々しくなりました。
「天地明察」の映画を思い出しました。 出演者, 岡田 准一 · 宮崎あおい でした。 冲方丁の原作も素晴らしかったです。
2015/11/07 URL 編集
junn
2015/11/07 URL 編集