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はじめに絵を一枚、提示したいと思います。
これは、古くからある日本のカタチを絵にしたものです。
絵はクリックすると大きくなります。
全体として、日本はまず、天皇がシラス国です。
世界的にみれば「君主国」だとイメージするのでしょうが、日本の場合は諸外国における君主制と仕組が大きく異なります。
諸外国の君主制は、上下と支配の関係です。
日本ではこれを古い言葉で「ウシハク統治」と呼びます。
上の者は下の者に対する支配者です。
ですから国の最高位にある君主にとって、国内の全ては私有物であり、民衆は私有民です。
君主の下には貴族がいますが、その貴族たちは君主からみたら、私有物です。
その貴族たちは領民を持ちますが、貴族たちにとって領民は私有物です。
世の中のすべてがこうして上下と支配、支配と隷属によって構成されています。
これに対して日本の場合は、国の最高権力者は、天皇の下に置かれます。
民衆も天皇の下に置かれます。
ただし、異なるのは、臣も民衆も、等しく天皇の「おおみたから」とみなされていることです。
国の最高権威によって、すべての民衆が、臣も民も「たから」とされています。
民は天皇の「たから」です。
臣は、その「たから」を預かる立場です。
ですから臣の権力は、民に活力を与えるために用いられます。
つまり権力は、民の活力をサポートするためのものであって、権力者が民を支配するためのものではない、というのが、日本のカタチです。
天皇は、日本の最高神である天照大御神からの直系のお血筋です。
ですからそこに国の最高の権威があります。
そして天皇は、最高権威として、臣を任命します。
臣は人ですから、様々な欲もあれば、臣同士での意見の対立もあります。
しかしルールがあります。
それが「承詔必謹」です。
「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつ)しめ」と読みます。
聖徳太子の十七条憲法の第3条にある言葉です。
天皇は、最高権威として臣を任命していますから、滅多なことでは、その人事をひっくりかえすことはできません。
しかし、臣に明らかな行き過ぎがあったりすれば、それを軌道修正するための詔(みことのり)を発せられることがあります。
その場合、臣は、必ず、その詔をつつしんで受けなければならないとされています。
その臣は、民間をサポートし、民に活力を生むための存在です。
民が安心して安全に暮らせるように、ありとあらゆるサポートをする。
権力はそのために与えられています。
その権力の行使は、事件や事故があってから処罰するという、事後主義、厳罰主義ではなく、事件や事故が起きる前に、先に察して手を打つことが要求されます。
これが「明察功過」です。
「功も過(あやま)ちも、明らかに察せよ」と読みます。
これもまた聖徳太子の十七条憲法の第11条にあります。
こうして先に察して手をうってくれる臣は、民の安全で安心な暮らしをサポートしてくれる存在ですから、当然のことながら、民は臣を信頼します。
だらこそ民は、みんなのために生きるという姿勢が自然と熟成されます。
これを「背私向公」といいます。
「私に背(そむ)き、公(おおやけ)に向え」と読みます。
聖徳太子の十七条憲法の第15条にあります。
こうして安全に安心して暮らせる社会ができあがっているのは、天皇という存在によって、自分たち民が「おおみたから」としてもらっていることに基づきます。
ですから民は、天皇に感謝をします。
そしてその感謝は、氏神様への参拝や、初詣、あるいはお伊勢参りや、皇居への勤労奉仕というカタチで表現されます。
そして国の形の根本として「以和為貴」が柱とされています。
「和を持って貴(たっと)しとなす」と読みます。
聖徳太子の十七条憲法の第1条の言葉です。
これら「皇・臣・民」をつなぐ理念の根幹にあるのが「おおみたから」という概念です。
そしてこの概念は国の隅々にまで行き渡ります。
ですから過程においては、子は親にとっての「たから」です。
職場においては、社員は社長の「たから」です。
部長は、その「たから」を預かる立場です。
聖徳太子の十七条憲法が発布されたのは、西暦604年のことで、いまから1411年前の出来事です。
そしてこの十七条憲法の理念は、何もそのときに出来上がったのではなくて、それ以前から、日本古来の国のカタチとして出来上がっていたものを、聖徳太子が文字にしたものです。
初代の天皇は神武天皇ですが、その神武天皇の曾祖父が、天孫降臨してこられた邇邇藝命(ニニギノミコト)です。
なぜニニギノミコトが天孫降臨してこられたのかといえば、中つ国をシラスためです。
そしてシラス統治は、以上に述べた統治の仕組みに基づこととともに、もうひとつ、大切なファクターがあります。
上に「民の活力」という言葉を用いましたが、ニニギノミコトが行った最大の功績に、中つ国を「モノ作り国家として育てる」というものがありました。
別な言い方をすれば、産業育成です。
そこにある食い物や富を奪い合うという国柄は、欲望国家です。
人々が互いに自分の空腹を満たすために、まるでゾンビさながらに、互いに奪い合い、殺しあう。
それが欲望国家です。
ニニギノミコトは、中つ国がそうならないように、みんなで協力して、産業を育成し、みんなでみんなのためにモノ造りをすることを大事とする国作りを実施されました。
いまからおよそ三千年前の出来事です。
そしてそのおかげで、いまでも日本はモノ作り大国です。
モノ作りというのは、相互信頼がなければ良い物はつくれません。
いまでも電子部品などをつくる工場では、日本人は何も言われなくても、中心点にきちんとハンダ付けをします。諸外国人では、そうはならないといいます。
こうして互いの信頼関係が充足された社会は、自然と豊かな社会になっていきます。
みんなで物作りをするのです。
当然になるべくしてそのようになるわけです。
民間が豊かであったという一例があります。
これは、先日行われた日本史検定講座で京大の宮田昌明先生から教わったことですが、明治のはじめに、小学校などを国中につくる学制が公布されました。
学制が公布されたということは、全国津々浦々で、小学校を作らなければならないわけです。
ところが当時の明治政府には、そんな財政的余裕はありません。
ではどのようにしたのかというと、明治政府は、ただ全国に向けて「小学校を作れ」と命令しただけです。
その命令によって、全国では、村毎に寄り合いを開いて、土地や資金を出し合い、小学校を作っています。
お金のない村では、いくつかの村が集まって、ひとつの小学校をつくりました。
明治時代から続く古い歴史をもった小学校は、日本中にたくさんありますが、それら小学校は、国費で築造されたのではなくて、最初は、民間が土地や資金を出し合って築造したものです。
なぜそのようなことができたのかといえば、民間が豊かで活力に余裕があったからです。
欲望国家に成り下がったいまの日本で、果たして全国で同じことができるでしょうか。
一方、おとなりの朝鮮半島や支那は、すくなくとも千年以上にわたって、ウシハク統治が行われています。
国が産業育成を図り、政治が民間に活力を与え、民がおおみたからとされるということは、一切なかった歴史を持ちます。
その結果、国は欲望社会となり、より欲深い者が民を足蹴にして収奪し、自分の胃袋を満たし、少しでも富が生まれれば、それをみんなで奪い合う社会になっています。
まるで地獄絵図そのものです。
日本もいま、そうなりつつあります。
なかには、むしろそうなることを望み、個人の利得だけを願う人もいることでしょう。
けれど、はっきりいえることは、それではみんなが幸福な社会というのは、絶対に実現しない、ということです。
先の大戦が終わってから、日本は外圧と内部にいる反日主義者たちによって、国の形が大きく変化しました。
このことについては、また稿を改めて書いていきたいと思います。
ただひとついえることは、実は大昔から、日本には上に示したような、ほんとうにありがたい、真の民主主義とも呼べる社会の仕組みがありましたし、それを実現できる社会を、国をあげて築いてきたという誇るべき歴史があるということです。
しかし、これまた大昔から、日本国内には、こうした国柄に反対し、天皇の存在をないがしろにし、民衆を愚民化させ、政治経済武力によって、国内でウシハク統治をしようとする者がいつづけたこともまた事実です。
これが実は反日主義者の正体です。
「民をこそおおみたからとする」ことに反対です。
なぜ反対なのかといえば、「我こそがおおみたから」でありたいからです。
あるいは、「我こそが最高権力者でりたい」、あるいは「我こそが賞賛を受けたい」からです。
この場合、そうした賞賛を求める人も、賞賛する人も、実はどちらも自分の欲望にとらわれています。
欲望があるから賞賛を求め、欲望があるから賞賛される人に近づいて、個人の利得を得ようとする。
誰しも生活がありますから、自分がより豊かになるためには、すこしでも権力に近づきたいと思うし、権力の恩恵を被ろうとするわけです。
実は、こうした欲望に人々がとらわれることを防ぐために、古来日本では、世襲が行われてきました。
そうすることで、足るを知る、歩をわきまえる、ということがたいせつなこととされてきたのです。
ものごとには、良い面、悪い面があります。
ただ、世襲を「うらやましい」と思うことは間違いです。
たとえば江戸の昔に、お殿様のことを「殿様であってうらやましい」と思う人は、武士にも町人にもお百姓さんにもいませんでした。
何かあったら、他人の責任を背負って切腹しなければならないのが殿様なのです。
早い話、川崎で中一児童が殺害されれば、川崎を治めるお殿様は切腹です。
代わりに腹を切ってくれる人はいません。
他人の罪で腹を切らなければならない。ワリの良い地位でも立場でもありません。
それを「うらやましい」と思うのは、我欲の虜(とりこ)になっているからです。
そうなると、周囲の全部が「おおみたから」であることが気に入らない。
自分だけが「たから」でありたい。
これが嵩ずると、反日になります。

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コメント
早蕨
メディアは、世襲を親の七光りとか、公平でないとか、悪だとか言っていました.
このメディアは、日本の伝統・技術継承及び国柄の永続を快く思っていないのか、世襲を否定しているのではないかと思います。
よくよく考えてみれば、新幹線技術を中国に売り渡したのも、社内の先端技術を韓国に供与したのも、すべて優秀なサラリーマン社長が目先の利益を求め、自らの名誉などのために行ったことではないのか。
世襲の凡人社長が、事業の後継者として長期的・永続的に発展させる方針のもとに事業を引き継ぎ、その会社を着実に発展させたほうが従業員及び日本国にとっても良いことではなかったか。
2015/12/10 URL 編集
shengxin
知らずと自分の仕事でしてたら余計なことをするなと先輩方から文句を言われてしまったのを思い出しますね。
自分の仕事で起きないように先に手を打つ。
結果日報には何も記入する事が無くなる。
しかし会社は記入が無い事が仕事をしていないと思い文句を言ってくる。
結果、他の仲間は事後処理的な仕事を選び、起きてからの対処に勤しむ。
そのためにその職場が安心して生活できず、ぎすぎすした感じに変わって行ったのを思い出しますね。
今の社会、目に見えた結果でしか物事を判断できないのかと思ってしまいますが、昔の警察官はそれを判って防犯意識で取り組んでいたように思えますが、今は自分が犯罪を行なうようになってしまいこれじゃ誰も警察を信頼しませんよ。
かろうじて警察という機関を信用しているだけ。
犯罪行為に対して一般人とは違う罰則の適用をすべきです。
取り締まるものに特別な権威が与えられているのですから、犯罪行為を犯せば重く罰するのが筋と思うのです。
公務員も同様で、汚職や職務上での犯罪行為は厳罰で臨むべきかと。
そのための身分保障と思いますね。
外務省職員は特に国に関してもっと考えるべきですよ。
国益を損ねる行為には特殊な能力を発揮できますのにね。
2015/12/10 URL 編集
にっぽんじん
その発言に対して世界中から批判が相次いでいます。アメリカ在住のイスラム教徒からも「イスラム教徒全員がテロリストではない」と彼を非難しています。
ISIS組織の蛮行に怒りを向けるのなら分かるがトランプ氏を批判してもテロは無くなりません。イスラム教徒が非難すべきは同じイスラム教を名乗る「過激派イスラム教徒」です。
世界のイスラム教の指導者は「過激派イスラム教徒」を非難し、先頭に立って攻撃すべきではないでしょうか。テロの根源がイスラム教にあるのは間違いありません。イスラム教指導者の声が聞こえないのは私だけでしょうか。
2015/12/10 URL 編集
ポッポ
素晴らしいことだと思います。
日本人にとって不幸なことは、日本の中にいるがために、日本の良さを深く知らないことだと思います。
そして、天皇は日本の良さを自慢せず、声高に話されることもなく、ただ民を見守っておられるだけなのです。
他国の統治者と比較するとき、その差がよく理解できると思います。
靖国神社の爆破事件の犯人(韓国人、27才)は9日に来日し、「正当な理由がないのに神社の敷地内に侵入した」として、建造物侵入の疑いで逮捕警視庁に逮捕されました。
この事件、犯人は警察によって特定されましたが、すでに韓国に帰国していたため、本来ならば警察は「犯罪人引き渡し条約」によって韓国に犯罪容疑者の引き渡しを依頼し、韓国はこれを受けて犯罪容疑者を逮捕し、日本に引き渡さなければならなかったと考えるのですが、犯人は何故か9日に日本に来たため、(本人は、靖国神社のトイレを見に来たと言っているそうです。)警察はこれを察知して逮捕したとのことですが、却って疑問が増えました。
2011年12月に中国人が靖国神社を放火し、さらにこの中国人が2012年1月に在韓日本大使館に火炎瓶を投擲した事件がありました。
このときの韓国は、中国の要請に応じた韓国が犯罪人引き渡し条約に抵触しない政治犯だと認定して、この中国人を中国へ送還しているのです。
2011年の事件を検討するならば、韓国は今回の事件の犯人を、日本から引き渡しの依頼があった場合でも、政治犯として逮捕させないことも可能だったわけです。(反日の韓国に、適切な条約の運用がないことは、うんざりする程の事例があります。)
しかし、韓国が犯人を逮捕して日本へ引き渡しますと、韓国国内から日本に犯人を引き渡したことへの批判が非常に多く出されます。
それに、犯人は自分で靖国神社へ行ったことを、日本のマスコミに対して認めましたが、爆破のことは否定しています。
それなのに、犯人はマスコミに対応した翌日に来日し、靖国神社のトイレを見に行くと言ったのです。(日本で逮捕状が出ているのは知っている筈です。)
私には逮捕されるために、日本へ来たとしか思えません。
何故、犯人は日本へ来たのかと妄想するのです。
靖国神社は、アメリカならばアーリントン墓地に相当します。従って靖国神社への爆破は、世界のどこの国でもテロ行為だと認識されると思います。
韓国人がこれを実施したことから、日本から引き渡しの依頼があったときに、韓国が引き渡しを了解すると、反日の韓国民は日本に引き渡すことに反発し、韓国政府は引き渡すことができなくなるでしょう。
しかし、政治犯だから引き渡さないと日本に通告した場合には、日本はもとより、先日テロによって大被害を受けたアメリカ、フランス、ロシア等から、韓国はテロ支援国家だと認定されます。
このテロ支援国家認定は、韓国は絶対に避けたいと考えると思うのです。
結局、韓国は日本から引き渡しの依頼が来る前に、犯人を日本に行かせることで、自国民の批判とテロ支援国家の認定を避けたのではないでしょうか。
あとは、犯人を追求して送検し、裁判所で実刑以上の判決が出ることを期待したいと思います。
ボヤキですが、最近の弁護士会は黙秘を推進していますし、裁判所は刑を軽くし過ぎることがありますから、ジックリ見ています。
2015/12/10 URL 編集
国民
科学的な証明すら、袖の下賄賂が当たり前の中韓の連中に蔑ろにされ、大学の本来あるべき姿、学問をきちんと身につけるということすら今の日本では難しくなっているように感じます。
そんな風潮の中、聖徳太子不在説が流れているのはやはり日本の歴史を貶めたい輩が跳梁しているからなのでしょうか。
2015/12/10 URL 編集
みやび
今日は、図入りでの分かりやすい解説をありがとうございました!
12月7日配信の「ねずさんのメールマガジン」にありましたが、「人類の幸運」の一つが、今日の図なのですね。
***
ただいえることは、日本は、幸いなことに、古い時代の伝承がまるごと生き残った、世界的に見てもきわめて稀有な国であるということはいえると思います。
つまり、洋の東西を問わず、古代文明のある種の共通項となったものの原典が、実は、現代にまで伝承されている。
もっというなら、それは日本が多民族等に滅ぼされるという経験を持たない唯一の民族であるということからくる人類の幸運が、日本には、まだ残されている、ということなのではないかと思います。
そういう点が、これから、もっともっと解明されていくと、世界の本当の仕組み、人類社会の本来のあるべき姿までが、くっきりと浮かび上がってくるのではないかと思うのです。
***
これからも、日本が持っている「人類の幸運」を、解き明かしていただけるのを楽しみにしております♪
2015/12/10 URL 編集
junn
2015/12/10 URL 編集
junn
http://blog.livedoor.jp/acablo-nakagawayatsuhiro/archives/46959168.html
2015/12/10 URL 編集
junn
法務省案に最も近い「選択制」を採用しているただ一つの国・スウェーデンが議論の俎上に登らない。そこには推進派にとって都合の悪いこんな事情があった。
2015/12/10 URL 編集