
山田先生が、最初に政治を志そうと思ったのは高校2年のときだったのだそうです。
このとき、世間ではロッキード事件がたいへんな騒ぎになっていました。
テレビで中継される国会喚問では、世間では大物と言われる人たちが、そこで「知りません、存じません、記憶にございません」と逃げ惑っていました。
同じ年、NHKの大河ドラマでは「勝海舟」を放送していました。
「幕末の群像があんなに真剣にお国のためにと戦っていたのに、いまのこの体たらくは何だ。どうして日本人はここまで低下してしまったのだろうか?」と疑問に思ったのが政治に感心を持った最初だったのだそうです。
「幕末の志士を作ったような学校を作りたい。」
そのときそう思ったそうです。
その志は今でも持ち続けています。
元海軍厚木航空隊の少尉だった父は「サラリーマンになれ」と言いました。
「弱い人のために働くことだ」とも言いました。
そこで京都大学の法学部に進学しました。
驚いたそうです。
京都大学では、なんと右翼が民生、中道が革マル、左翼が赤軍という棲み分けです。
大学で憲法講義をとると、昭和20年の終戦を「8月革命」だ、と教えていました。
日本国憲法は、革命による新政権の誕生を意味するのだという講義でだったそうです。
驚きました。
法というのは、嘘のうえに嘘を重ねることなのか?と疑問に思いました。
その頃の京都大学は、学戦運動のまっただ中で、学生たちは頻繁に集会を開いていました。
何のために猛勉強して大学にはいったのでしょう。
大学では、学生たちが学生たちに勉強をさせない。
だから集会のときに、「それはおかしいじゃないか」と発言したそうです。
以来、「山田はウルトラライトだ」と言われるようになったそうです。
学内には、左翼運動を警戒した警察官が立っていました。
大学3年のとき、松下政経塾の生徒募集の記事を目にしました。
資料を取り寄せてみると、そこにある志は、まさに自分と同じものでした。
もともと「学校をつくりたい」という志を持っていた山田先生は、そこで松下政経塾に入ることを決意しました。
友人や教授からは猛反対されました。
松下政経塾は、5年間の合宿生活です。
大学を出て就職するわけでもなく、そんなところに入ったら、人生を無駄にすると言われたそうです。
応募したのは二期生でした。
まだ松下幸之助さんが元気な頃です。
応募者は800人。三次面接で60人に絞られ、4時面接が松下幸之助さんでした。
「山田さんやなあ。あんた酒飲むのか?」
「はい。ラグビー部でしたから。飲みます。」
「飲んで歌唄うんかいな。そか。わかった。君、彼女おるんか?」
「おります」
「ここはなあ、5年間の全寮やねん。ガマンできるかあ?
ところで君、何になるんや?
なに、学校つくりたい? 政治家にならへんのか。」
「父もサラリーマンですし、なれないと思います。ですから私は政治家を作る人になりたいです。」
「政治家いうもんはな、運があればなれるんや。」
面接の会話はこれだけだったそうです。
最後に渋い顔になった幸之助さんを見て、山田先生は、絶対落ちると思ったそうです。
松下政経塾に入るには、この後、学校からの推薦状が必要になりました。
そこで学校に戻ってゼミの先生にお願いすると、
「お前、そんなに松下政経塾に行きたいのか。人生を棒に振ることになるぞ。なに、どうしても行きたい。それなら政経塾にいても、税理士の免許だったら簡単だから、塾に在学中に税理士の資格を取りなさい。そうすれば将来食いっぱぐれることもないだろう。どうしても推薦状が欲しいなら、税理士の資格を取りますと誓約書を書きなさい。そしたら推薦状書いてあげる」と言われたそうです。
それで、
「5年間、国家試験のために勉強します」と誓約書を書いて、やっと推薦状をもらいました。
いよいよ、松下政経塾に入る日がやってきました。
その初日に松下幸之助さんが塾にやってきました。
そして次のように言ったそうです。
「みんなご苦労はん。
松下政経塾は、
教えることなんてなんもあらへんで。
君たちには世間が学校や。 これから君たちで、
この塾をどうしたらいいのか考えてくれ。」
幸之助さんからいろいろ教えてもらえるとばかり思っていた塾生たちは、これを聞いてみんなびっくりしたそうです。
教えてもらって吸収するのではなく、一から十まで自分たちで考えろというのです。
実際、政経塾に入ってみたら、カリキュラムも何もないのです。
ただ、幸之助さんがまだ85歳でお元気だったので、一晩中議論したりすることができました。
そんな議論のとき、幸之助さんはときどき、塾生に本気で怒ったそうです。
たとえば、松下政経塾では、塾生となって最初の三ヶ月は、電気屋さんの売り子として働かされました。
当時の電気屋さんというのは、店で待っている店員さんではなくて、一件一件の家を訪ねて行っては注文をとってくるのが仕事でした。
「電気屋さんか。ちょうど良いところへ来た。テレビの調子が悪いんだ。ちょっと見てくれるか?」なんてこともありました。
見たところで、テレビの仕組みなんてわかりません。
けれど見なければお客さんに叱られますから、わかっているようなフリをして、テレビを点検して、
「どうもこれは工場に持って行かないとダメですね。持ち帰りますので預り証を書きますね」と言って、車にテレビを積み込んだりしたそうです。
安心したのが、「あら、電気屋さん、ちょうどよかったわ。電球が切れて困っていたの。あるかしら?」などというもので、大喜びでお店にとって返して電球を持ってその家に伺い、電球の交換をしたりしたそうです。
安心したというのは、これならオレにもできる、と思ったからです。
けれど、電気屋さんでの実習が終わると、今度は工場実習だというのです。
それで塾生の中には、「オレは電気屋になったんじゃない!」と言い出す者もいました。
そんなとき、幸之助さんは本気で怒ったそうです。
「君らは電気屋の店員で何を学んだ?何もないだろう。
店員でも丁稚でもな、
なりきって本気でやったら、
たとえ一日でも得るものがあるんや。
腰掛けやったら30年やってもわからん。
お客さんの家に行ってな、
ピンポン鳴らして、
十のうち、こっちに一でも非があったら、
相手が5歳の幼児でも、
土下座して謝まるくらいでなければ、 モノになどなれへんのや!」
そういう幸之助さんは、みんなといっしょに寮の掃除をするのですが、トイレの掃除に実にうるさかったそうです。
「トイレの掃除もできんような人間に、
国の掃除なんてできへん!」というのが、そういうときの幸之助さんの口癖でした。
それでも、実習が終わると、塾生たちには、今度はほんとうにすることがありません。
こんな毎日ではラチがあかないと、山田さんは日本を変えるために新しい政党を作ろうと、、何人かの仲間とともに塾長に相談したのだそうです。
塾長は、塾頭の幸之助さんに相談すると言いました。
何日か経って、塾長に呼ばれました。
幸之助さんが絶対にダメだと激怒しているというのです。
「どうしてもやりたいのやったら、塾を辞めてからやれ!」とも言ったというのです。
塾長も、ものすごく心配するし、幸之助さんも激怒しているというし、資金があるわけでもないし、だからそのときは、新党をつくることをあきらめたそうです。
ところがそれからしばらく経ったある日、幸之助さんが塾長に、
「自民党に代わる新党を作らなあきまへんな」と言い出したというのです。
「そういえば、しばらく前に、山田くんいうたかな。新党作りたい言うとったのは。彼、いまどないしてるんや」
「はい、会長のご指示に従って、新党はあきらめました」
「そうかあ。
そりゃあ残念やな。
誰が反対しようが、
言い出したらやりぬかなあかん。 すこしみそこなったかな」
この話を塾長から聞いたとき、山田先生は一生心に突き刺さるほどの衝撃を受けたそうです。
およそ国を変えようと志を持つ者、誰が反対しようがやると決めたらとことんやりぬく。
たとえ師匠から破門されたとしても、こうと決めたらテコでも動かぬ。それが志を立てるということなのだと、このとき、はっきりと幸之助さんから教わった、そう心に刻んだそうです。
こうして政経塾を卒業した山田先生は、熊谷弘衆議院議員の秘書を経て、1985年の東京都議会議員選挙に新自由クラブ公認で出馬しました。
出馬にあたって、資金などありません。
そこで、松下幸之助さんに頭を下げに行くことにしました。
「先生、選挙に出ます。つきましては、少々用立てをお願いします。」
これを聞いた幸之助さんは、山田先生の目をじっと見たあと、
「あかん。ワシがカネ出したら、君、落選するわ」
「なぜでしょうか」
「ワシがカネ出したとなれば、
みんな安心するやろが。
けどなあ、山田くん。
選挙で票いれてくれはるのは、
100円、千円の寄付をする人たちや。
そうだ。いい知恵をあげよ。
奉加帳をつくるんや。
それでな、こういう日本をつくりますって書いて、あちこち持ってまわるんや。」
「わかりました。では早速用意します。そしたら先生、最初に書名していただけますか?」
「アホかいな。ワシが書名するのは最後の行や」
お金もない。人脈もない。幸之助さんも何も出してくれない。
なにもない中で、山田先生の最初の選挙の戦いがはじまりました。
どうしたら良いかもわからない。
公示後、山田宏と書いたのぼりを手に駅前に立つと、他の候補者も同じように駅前に立っています。
みんな一様に、背広にネクタイです。
みんなと同じじゃ駄目だと思った山田先生は、京大時代のラグビー部のユニフォームを着て、駅前に立ちました。
ハンドマイクを持って、一生懸命、訴えました。
けれど、忙しそうに行き来する人々は、誰一人振り向いてくれません。
着てくれたのは、
「おじちゃん、ラグビーしてるの?」と言って寄ってくる子どもたちだけでした。
投票日が来ました。
当選でした。
当選後、集まってくれた支持者の人たちが言いました。
「ウチの子がねえ、駅前で山田のおじちゃんていうラグビーやってる人と握手したって言うんですよ。どんな人か心配じゃないですか。そしたらね、選挙のポスターを指差して、この人って言うんです。だから夫婦そろって先生に入れたんですよ」
このとき山田先生は、
本当に自分に投票してくれる人というのは、我が子を愛する心を持つ、人を愛する心を持つ人たちなのだと学んだそうです。
******
以上が、山田先生のお話です。
約90分のお話でしたので、ほんとうはもっとずっとたくさんのお話がありました。
上は、その中の気になったポイントだけ書かせていただきました。
よく、志を立てるとか、不退転の決意とかいいます。
しかし松下幸之助さんの指導は、そんな言葉だけのなまやさしいものではななかった。
もっとすさまじい気迫のこもったものでした。
そして松下幸之助さんの気迫と指導を、
しっかりと受け継いだ山田宏先生は、
本気で都議に取り組み、
そして杉並の区長として杉並区の財政再建を果たし、
そして国政においても、堂々と日本の立て直しを実行してきています。
すごい人だと思いました。
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コメント
奴奈川姫
山田宏物語 第一章「幸之助と宏」とでも題しましょうか。山田先生のやんちゃな青春時代、左側通行の京都大学、政経塾の講義風景、松下幸之助氏がなぜ政経塾を作ったのか。松下幸之助氏の育成方針、基本は人作り。本気で怒る大人はありがたいと思います。残念なことに小生の周りには存在しません。勉強会を開いてカリキュラムは自分たちで決めなさいとは面白い講義であります。「死せる幸之助、生ける宏に払わす」のくだりは、幸之助氏の時空をも超える愛情の深さを感じとることができました。そして、現在、幸之助氏の志を継続させようと頑張っておられる山田宏先生。
1時間と長い動画ではありましたが飽きることなく楽しく拝見させていただきました。
この物語の第二章はどのような展開を迎えていくのか、今後の政界の動静が非常に楽しみであります。
「幸之助氏は本当に日本を憂いておられた」という言葉はとても重く心に残りました。
最後に、小名木さんに一つ質問が御座います。もしも小名木さんが日本人の眠っている魂に呼びかける文字を政党名にいれるとしたらどんな文字、言葉を選ばれるのかな?ということを是非お伺いしたいなと思いました。
駄文、長文にて失礼しました。
2016/01/13 URL 編集
下水油
2016/01/12 URL 編集
ポッポ
関西には元次世代の党の杉田水脈前衆議院議員がおられますが、杉田氏は「真の近現代史観」懸賞論文の佳作に選定されています。頑張っておられます。
本懸賞論文はアパホテルの主催で、第1回の際に母神俊雄氏が最優秀藤誠志賞を受賞されたことを皆様ご存じだと思います。
杉田水脈氏は、第7回のときには、最優秀藤誠志賞を受賞されていました。
2016/01/12 URL 編集
junn
2016/01/12 URL 編集