
兼山の父の野中良明は、5千石の扶持を与えられる大身の侍だったのですが、慶長6(1601)年に山内一豊が土佐藩に移封になったときに約束された昇給が、殿さま(一豊)の死後に反故にされたことに腹を立て、土佐藩を脱藩して浪人になっています。
父は大阪で大阪の商家の娘を嫁にもらって兼山を産むのですが、その父も若くしてこの世を去ります。
当時の結婚は、家の人になるということを意味しましたから、母は実家に帰るのではなく、亡くなった夫の親戚を頼って兼山を連れて土佐に帰りました。
少年時代の兼山は、非常に学問ができて武芸も達者でした。
あまりに優秀な子だったので、13歳のとき、父の従兄弟で土佐藩奉行職であった野中直継の娘の市の入婿となります。
入婿というのは、いまでいったら婿養子(むこようし)のことです。
「ムコどの」といえば、『サザエさん』に出てくるマスオさんみたいですが、マスオさんは「フグ田マスオ」で、磯野家ではありません。苗字が違います。
野中兼山は、野中姓です。これがムコ養子と、戦後のマスオさんの違いです。
マスオさんが「磯野マスオ」になるみたいな話で、兼山は、親戚でお奉行の野中直継の養子となり、同時に娘の夫になったわけです。
そして15歳で元服しています。
寛永13(1636)年、養父の野中直継の病死により、兼山は家督を継いで、21歳で土佐藩の「総奉行」になります。
そして、土佐藩の二代藩主山内忠義は、兼山の才能を見込んで、彼に藩政改革の一切を委ねました。
もう一度繰り返しますが、
「藩主山内忠義は21歳の野中兼山に藩政改革の一切を委ねました。」
これはこれですごいことです。
藩主直々の上意ですし、総奉行ということは、簡単にいえば、藩主名代として、藩政の一切を取り仕切る仕事です。
それだけの仕事を委ねられたということは、たいへんな栄誉・・・と普通はお考えになると思います。
また、安倍総理が21歳の東大生に国政改革の一切を委ねるような話であり、若い人たちからみたら二代目藩主山内忠義という人は、すごい上司だなあと思われるかもしれません。
けれど、そこまでですと、ちょっと浅いです。
名誉な話であることは確かです。
しかし、ここまで思い切った人材登用というのは、もうひとつの理由があるのです。
この頃の土佐藩は、上士と郷士の対立がすさまじいものでした。
上士というのは、新たに土佐藩に転封されてやってきた山内家の譜代の家臣たちです。
郷士というのは、それ以前の長宗我部家の家臣だった人たちです。
この両者が、まるで60年安保、70年安保、東大安田講堂事件なみに、衝突し、争っていたのです。
もちろん理由は違います。安保ではありません。
長宗我部家というのは、平安中期から鎌倉、室町、戦国時代を生き抜いた名門中の名門です。
一時は天下を伺えるだけの勢力を持ちましたが、豊臣方に味方したため家名が途絶え、藩が廃絶となりました。
そこへ、出所のしれない、もともとは足軽で、たまたま運良く秀吉の子分になったから立身した、いわば成り上がりの山内家が転封してやってきたわけです。
要するに新たにやってきた成り上がり大名の山内の家人たちが、古い歴史を持つ長宗我部家の遺臣たちの前で大きな顔をしたために、怒った長宗我部の遺臣たちとの間で刃傷沙汰が相次いだのです。
これを抑えるために、初代藩主の山内一豊は、長曽我部の遺臣らを桂浜ですもう大会をするからと招待し、その場で彼らを捕縛して、73名をいきなり磔(はりつけ)にして殺しています。
こうなると、長宗我部の遺臣たちも黙っていないわけで、藩内では山内家の家来と長宗我部の遺臣との間で、毎日のように喧嘩や斬り合いが起こっていたのです。
まさにテロとの戦いですが、全体としてみると、理は長宗我部の遺臣の側にあります。
対立はピークに達していて、山内一豊は、城から一歩も出られない。
一豊が高知城を築城したときなど、なんと影武者を6人も連れて行っています。
その一豊が急逝したことは、藩政改革、つまり長宗我部の遺臣たちとの宥和のチャンスです。
というよりも、宥和に失敗し、藩の治安不始末が幕府で問題にされると、今度は山内家そのものがお取り潰しになる危険もあったのす。
ですから二代目藩主となった山内忠義は、ここで何が何でも藩内の混乱を収めなければなりません。
こうして置かれたのが、藩政改革のための「総奉行」だったのです。
そして、ここも大事なポイントなのですが、藩主が、藩政の安定化のために、人事を行った場合、一度出された人事の撤回や修正はありません。
どういうことかというと、
藩主が「藩政の安定化のために藩政改革を行う」、これは喫緊の課題です。
それをしなければ、藩がお取り潰しになってしまいます。
その対立の宥和のための「総奉行」です。
ですから総奉行は、全責任を担い、自分の名前で藩政の改革を進めなければならない(藩主に責任を負わせられない)のです。
自分の名前で藩政の改革をするということは、たいへんな権力を委ねられるということであるのと同時に、失敗も、苦情も、全部自分の名前になるということです。つまり全責任を負います。
要するに、失敗したら、ただ切腹では済まされず、お家断絶、家族ともども死罪になります。
しかも、藩主が一度「この者を総責任者に任ずる」と決めたら、その人事は撤回や修正ができません。
撤回や修正をしたら、藩主の権威に傷がつきます。
一度、上意が出されたら、終了時点は、本人の死か、藩主が新たに交代する日まで、その人事は動かされないのです。
要するに、主君の名によって任命を受けた者に解任はないのです。
ところが、政治というのは、いかなる場合でも「線引」ですから、必ず不満が出るものなのです。
つまり、百パーセントの善政は、不可能です。
ということは、藩政の大規模改革を実施すれば、いつかはそれによって不満を得た人たちへの責任を、誰かが取らなければならないのです。
そしてその責任をとるのも、総奉行その人になります。厳しいのです。
いまどきの特別担当大臣は、結果がどうなろうと責任をとることがないようです。
このような政治が行われるようになったのは、明治以降のことで、特に戦後はその傾向が顕著になりました。
しかし昔の高禄の武士には、常に切腹のリスクがついてまわったのです。
そういうことがわかるだけに、総奉行の必要性は藩の誰もが認識しているけれど、誰もその役目を引き受けたがらないわけです。
だからこそ、家老職の人たちもいれば、20も30も年上の人たちがたくさんいる中で、いわば新参者の野中兼山にお鉢がまわっています。
しかも、その改革には、相当の長期が予想されます。
一定の年齢と貫禄のある人を総奉行として、次々と総奉行の首をすげ替えて、という選択はできません。
そのようなことをすれば、藩の沽券(こけん)にかかわりるからです。
そこで白羽の矢が立ったのが、21歳の秀才である野中兼山であったわけです。
野中兼山には、この御役目をお断りすることはできません。
実の父が藩を飛び出したりしているし、養父は藩の重役です。
自分を拾ってくれた人たちに迷惑はかけられないし、これは上意です。
繰り返しますが、誰も引き受けたがらない、最後は必ず責任をとらされるという過酷な仕事だから、兼山にお鉢がまわってきているのです。
大抜擢には、そういう背景があります。
手放しで、栄達したと喜べる話ではないのです。
しかもこれから藩政の大改革を行うとなれば、年上の、藩内の諸先輩たちにも、言うことを聞いてもらわなければなりません。
すこし考えただけでも、胃を悪くしそうな大役なのです。
兼山が最初に総奉行として手掛けたのが、手結内(ていない)港と、津呂(つろ)港の港湾設備の改築です。
土佐の室戸岬といえば、台風が直撃する港ですが、彼はそこに、台風がきても安全な海抜11メートルの巨大堤防を築いたのです。
この工事に、長宗我部の元家臣たちに働いてもらいました。
まる三年の工事に動員された労働力は、延べ36万人にも達します。
手結内(ていない)港

さらに兼山は、長宗我部の家臣たちを「郷士」とし、山内家の家臣たちを「上士」とするという身分制度を考案し、実行することで、上士と郷士の身分格差を明確にしました。
そのうえで兼山は、今度は郷士たちに未開の土地の開墾を命じました。
そして新たに開墾した土地は、全部郷士たちに所有を認めることとしました。
山内家の家来たちと争うよりも、末代まで使える土地を開墾し、子や孫が腹いっぱい食べれることのほうが、現実的です。
つまり兼山は、上士たちには名誉を与え、郷士たちには経済的利益を与えたのです。
「郷士」たちは、身分こそ山内家譜代の武士よりも低く置かれたし、藩士としては下級役人にしか登用してもらえなかったけれど、新田の開墾によって、それまでと比べたら、圧倒的に豊かな生活が送れるようになりました。
長宗我部家そのものも、なるほど斬首によって直系は絶えたけれど、傍系の一族はこの新田開墾によって帰農し、姓氏を島姓に変えるなどして豪農として生きながらえています。
ちなみに長宗我部家は、明治にはいってから再び姓を「長宗我部」に戻し、お家の再興をしています。
近年の時代劇などを見ると、土佐藩の「上士」たちは美しい着物を着ていかにも豊かそうに描かれ、一方「郷士」たちは、まるで乞食同然の貧しい生活に置かれているかのように描かれますが、これはまったく逆です。生活ぶりは郷士の方がよほど豊かだったのです。
有名な坂本龍馬は、土佐藩の郷士の出ですが、彼は脱藩後、全国を飛び回って幕末の志士として活躍しました。
全国を飛び回るには、食費も宿泊費もかかります。
それだけの経済的裏付けがあったからこそ、彼は幕末の志士として活躍ができたし、グラバーとの出会いもできたのです。
郷士は豊かだったといっても、豊かゆえに、なかには飲んだくれたり、遊郭にはまったり、バクチに走ったりして、身を持ち崩す者も出ます。
土佐藩は、そうした人に豪農や商人などに「郷士」株を売ることを認めました。
藩はその手数料をいただいて、藩の財政を潤し、同時に身代を潰した郷士への救済を与えたわけです。
ちなみに、おもしろいもので、郷士株を売っても、売った郷士は、武家としての身分は保障されています。足軽としてなどの録がもらえなくなるだけのことです。
買った豪商たちは、武家として苗字帯刀が許されています。
坂本竜馬の「坂本家」は、もともとは豪商、大金持ちの家です。
坂本家は「郷士株」を買うことで、「郷士」の身分を手に入れています。
岡田以蔵の家も、やはり郷士株を買った豪農の家です。
身分は足軽だから碌は少ないけれど、家は豊かで食うに困らない。
おかげで若き日の岡田以蔵は、安心して剣術の稽古に精を出せたのです。
話が脱線しましたが、こうして野中兼山は、「上士」と「郷士」の対立を解消しただけでなく、他にも植林や間伐の計画化を実施し、土佐の山林を守っています。
また、米価についても、それまで土佐藩内の米価は変動制で、豊作の年には米の値が暴落し、不作の年は暴騰するという状態だったものを、「公定価格制度」を導入することで、米価を常時安定させ、農民たちを手厚く保護しました。
実際、台風のメッカともいえる高知県(土佐藩)で、江戸時代を通じて飢饉の記録がありません。
自給自足経済であり、豊作と凶作が代わる代わるやってきた江戸日本において、野中兼山の行ったこの米価安定策が、どれだけ庶民の暮らしを助け、支えたか。
郷士、上士の区分も、争いを終わらせるため、米の備蓄は、万一の備え、新田は豊かな藩を築くこと。
野中兼山の政策は、いずれも「おおみたから」である民の生活を第一とする道であったわけです。
港湾設備の改修事業は、漁民たちに安定した港を与え、その結果生まれたのが土佐のカツオの一本釣りです。
カツオは、たとえば津呂の港だけで、年間の水揚高10万尾を誇るものに育ちます。
兼山は、このカツオの流通にも気を配っています。
漁師たちに、問屋を通さず商人と直取引することを認め、漁民たちの生活を著しく好転させています。
こうなると、さらに欲が出るのが人間というものです。
津呂村では、カツオだけでなく捕鯨にも進出していきました。
捕鯨は、冬季のひとシーズンで、なんと座頭鯨3頭、児鯨25頭、さらに背美鯨8頭、イワシ鯨1頭を仕留め、銀283貫という大金を稼ぎ出したとあります。
となりの手結内港の漁師たちも、こうなったら負けてられません。
漁師たちは、互いに競うように水揚げ高を伸ばし、生活はますます好転した。
港の改築工事が終わると、今度は、兼山は、郷士に平野部の新田開墾を命じます。
開墾したら、そこは自分の土地です。
土佐の郷士たちは、もともと一領具足といって、半農半兵の武士たちです。
新田開発となると、彼らは眼の色を変えて開発にいそしみます。
新田の開墾というのは、単に樹を切り倒し、土地を耕せば良いというものではありません。
田んぼですから、当然、水路もひかなくちゃならないし、そのための堤防工事など大規模な治水工事が必要となります。
自分勝手に適当な土地を開墾すれば良いというものではないのです。
組織だった活動が不可欠になる。
兼山は、これを旧・長宗我部の家臣団の序列をまるごと援用することで、大規模開発を可能にしています。
長宗我部の家臣たちは、手にした槍や刀を、スキやクワに持ち替えて、農地の開墾をしたのです。
これによって、土佐藩の米は、爆発的に増産されます。
幕末、薩長土肥の新政府軍の一翼として、土佐藩が大きな力を振るうことができたのも、こうした社会インフラが、土佐山内家の初期に構築されたからに他なりません。
この頃の兼山に、おもしろい逸話があります。
ある日、兼山が江戸の土産にと「ハマグリ」や「アサリ」を船一隻分持ち帰えったのだそうです。
江戸土産です。
みんなが貝汁が腹いっぱい食えると楽しみにしていると、人々の前で兼山は、持ち帰った貝を全部、土佐の海に投げ捨ててしまった。
驚く人々に、彼は「これは諸君へのお土産ではないです。諸君の子々孫々のためのお土産なのです」と嬉しそうに答えた。
集まった人たちは、兼山のそうした見識に、まさに舌を巻いたといいます。
実際、いまでも土佐湾は、「ハマグリ」や「アサリ」の海産物で潤いる。
こうした野中兼山の業績をみると、つくづく政治というのは百年、千年の大計によるものなのだなあと、感じます。
兼山の行った業績は、まだあります。
彼は、陶器、養蜂などの技術者を積極的に藩内に招き、殖産興業に勤めました。
いまでもたとえば陶器で、土佐焼といえば、有名なブランドです。
他にも兼山は、「念仏講」という民間組織などを作っています。
これは町内のみんなで積立金をして、誰かが亡くなったとき、みんなで丁重な葬儀を営もうというもので、いまでいったら、互助会のようなものです。
ところが兼山のすごいのは、この互助会を、単に積み金を行う民だけのものにしなかったという点です。
ここが、現代の互助会とおおいに違う。
四国は、中世からハンセン氏病患者の巡礼地だったのです。
巡礼の途中で亡くなる人も多い。
なにせ、体が腐る病気です。
誰だって遺体に触るのは気が引ける。
だからハンセン氏病の巡礼者の遺体は粗略に扱われていたのだけれど、兼山は「講」を通じて、これらも手厚く葬儀をし、丁重に埋葬させました。
いまどきの左翼が行う互助会とはえらい違いです。
遺体といえば、他にも、当時、難病とされた天然痘患者を、置棄(おきすて)にするという習慣がありました。
これは天然痘患者を、山に連れて行って置いてけぼりにして、飢え死にさせてしまうという古くからの風習なの兼山は、これを全面的に禁止し、藩内に、天然痘患者専用の介護施設を築き、葬儀もそこでできるようにしました。
野中兼山の施政は、常に遠大な理想に基づいて仕事をする、というところにあります。
目先の対処療法ではない。
「根治」を前提に政治を進めました。
ですから、兼山の施策は、何をしてもうまくいきます。
多くの善意ある人々が兼山に心服し、兼山を慕いました。
ここが昨今の政治との違いです。
昨今の政治は、目先の利害や利権によって動きます。
政治家の先生方は、そうではない、国家百年の大計に基いてと思っても、政治に資金を与えているスポンサーは財界であり、あるいは地下金脈を自在に操る在日マネーだったりします。
だから政治が、スポンサーである目先の利権に流されます。
だから失敗するのです。
典型的なのが、鬼怒川氾濫の引き金になった、河川敷の太陽光発電です。
本来あるべき、みんなの利益を図ることではなく、目先の特定の小金持ちの利益供与を、能書きだけで国政に持ち出すからあのような被害が起きます。
そういう意味で、野中兼山は、まさしく「よくぞ良い仕事をしてくれた」ということになります。
これは本来、ほめられるべきことです。
しかし、冒頭に書きましたように、政治が線引であるということは、不利益を被る人もいるのです。
しかもその改革が長期に及んだということは、それらの不満もピークに達するわけです。
その責任を、誰かがとらなければなりません。
そして責任を取らせるためには、理由も必要となります。
二代目藩公が急逝し、三代目藩主が後を継ぐ段階で、それが行われます。
まず藩内には、野中兼山に関する中傷が撒かれました。
そして若い三代目藩主に対し、「これまで兼山は、筆頭国老の体面をも踏みにじり、独断専横を行ってきた」と、兼山打倒のための「弾劾書」が提出されます。
狭い世間なのですから、これは兼山も承知のうえのことです。
弾劾書の内容は、次の3つです。
一、武士たちが租税で苦しんでいる
一、農民たちが工事で苦しんでいる
一、町人たちが御用金で苦しんでいる、
そして不満のある農民、漁民、町人の代表に、藩主の前で藩政への苦情を上申させました。
そもそも封建制度の中にあって、藩政を公然と批判させるなどということは、通常ではありえないことなのです。
それが行われた。
つまり、その責任は、二代目藩主の責任ではなく、総奉行であった野中兼山の責任であるという、これはセレモニーです。
~~~~~~~~~~
ふだんは、民のことなど考えもしない彼らが、この時ばかりは“民の声”を持ち出した。
ここにも彼らの狡猜さと、いかに追放の口実を欲していたかを見ることができる。
事実、土佐藩において、このように民の意見に耳を傾けることなど、このあと、ただの一度もなかったのである。
(「野中兼山」横川末吉著 吉川弘文館)
~~~~~~~~~~
と、横川末吉氏は、これを老獪な藩の筆頭家老の仕業としていますが(私も以前そのように書かせていただきましたが)、けれど、その弾劾は、兼山も承知のうえのことです。
要するに、藩主交代を機会に、兼山一人が、藩論の不満の責を負うというカタチをつくることによって、次の世代に反省を引き渡すとき、不満をそれによって完全に封じ込める。
なにごとも、藩のためだったのです。
これはいまどきの国政の、口先だけの「日本のため、国民のため」とは意味が違います。
いまどきのことは、やっていることは、自己の保身と権益の確保拡大が目的です。
けれど兼山の譴責は、自分がすべての責任を負うことで、藩政を保持し、藩の百年の平穏を生み出そうとするものです。
背私向公。
覚悟が違うのです。
筆頭国老らの「弾劾書」が出でから、わずか十日後、野中兼山は、総奉行職を解かれ、蟄居が命じられました。
蟄居を命じられた日、兼山は屋敷で彼は子供たちを集めて次のように語っています。
~~~~~~~~~~
お前たちはまだ幼い。
いまここで、父の申すことがわからなくても、その芽を、そち達の胸の中に残し置いておきなさい。
やがてお前たちの心の中で、それが大きな木となり枝となって、はっきりとしてくる日がかならずやってくる。
人というものは、いかなる場合でも休んではならぬ。
どのように踏まれても叩かれても、いつでも再び飛び上がる、以前よりもっともっと高く飛び上がれるという、心の備え、身の備えをしなければならぬ。
土佐、いや日本国はこれから日一日と開けてゆく。
人もふえるであろう。
そうなれば、ひとりの野中兼山では足らなくなる。
百人の兼山、千人の兼山が必要となるであろう。
そなたたちは、ひとりのこらず、この父の上に立ち、この父を土台にして立派な野中兼山にならなくてはならぬ。
~~~~~~~~~~~
兼山蟄居後、兼山が登用した人々も、次々と追放されました。
そして彼自身にも切腹の命が下されるだろうとの噂が広まりました。
ところが、寛文3(1663)年12月15日、表向き、兼山は病となり香美郡山田村中野(土佐山田町)で、あっけなく急死したとされます。
享年49歳です。
病死と伝えられているけれど、実は、腹を切ったのであろうと読むことができます。
兼山の没後、彼が辞職時に一切言い訳をしなかったことが仇となり、兼山の一族は、以後、一か所に押し込められ幽閉されます。
その幽閉が解かれたのは、なんと40年後です。
誰もが兼山の功績を知っています。
知っていながら40年の幽閉というのは、表向きは幽閉だけれど、実態は藩をあげて兼山の家族を守ろうとしたのです。
すべての責任を兼山に負わせながら、表向き家族を幽閉するとして、藩は総力をあげて兼山の家族を守ったのです。
「え?」と思われるかもしれません。
しかし、幽閉中の家族の生活の面倒は、全部藩が見ているのです。
どうして藩が、兼山の遺族の生活の面倒を見たのでしょうか。
正しいことをする。
民のために政治を行う。
そのことは、とても素晴らしいことです。
しかし、それには、常に責任がついてまわります。
そしてその責任をキチンと果たすことが、民にたいしても、藩にたいしても、明確に求められたのが、江戸時代の政治です。
野中兼山が生前に残したエピソードに、次のような話があります。
ある日、すさまじい暴風雨となったとき、灌漑のために築いたばかりの堤防が切れるのではないかと、ひとりの役人が見回りにでたそうです。
見れば豪雨により、川はどんどんと水かさを増していきます。
たいへんに危険な状態です。
けれどその暴風雨の中で、その役人は、できたばかりの堤防の上で、腹ばいになって堤防の無事を確かめているひとりの武士の姿を発見したのだそうです。
それが野中兼山でした。
彼は藩を預かる執政として堤防の無事をたしかめるために、嵐をついて出てきたのです。
兼山は轟々と流れる川面を見つめながら、役人に言ったそうです。
~~~~~~~~~~~
この堤は、未来永劫切れることはないよ。
なぜなら野中兼山、私のためにひと塊の土、ひと筋の水も動かしていないからだ。
すべて藩主のため、領民のため、ひいては日本国のためです。
この心は、誰も知らなくても天のみ知っている。
~~~~~~~~~~~
兼山は、自らの私欲を捨てることで、一念を天に通じさせたのかもしれません。
同じく野中兼山の言葉に、次のものがあります。
~~~~~~~~~~~
たとえ90歳、100歳まで長生きしても、死後ひとりもその名を伝えないのでは、虻(あぶ)も同然である。
長生きの甲斐もない。
~~~~~~~~~~~
兼山は、人生の短い幕を降ろしました。
しかし兼山が残した偉業は、土佐藩繁栄の礎となり、21世紀を迎えたいまでも、高知県に息づいています。
歴史上、偉業をなせば、からなず不利益を被る、つまり既得権益を持っていた人が生まれます。
それに対する責任をも、きちんとまっとうしていく。
それを明確にしていたのが、武士の社会というものでした。
野中兼山を考えるとき、まったく別な時代、別な場所で語られたひとりの人物の言葉を思い出します。
次の言葉です。
~~~~~~~~~~~
日本民族が今まさに滅びんとする時にあたり、
身をもってこれを防いだ若者達がいたという歴史が残る限り、
五百年後、千年後の世に、
必ずや日本民族は再興するであろう。
~~~~~~~~~~~
大西瀧治郎中将の言葉です。
自己の保身と他者への中傷、批判を繰り返し、なんでも悪いのは「人のせい」にすような馬鹿者たちはどうでも良いのです。
それはただの「痴れ者」です。
そうではなくて、良いことをすれば、不利益を被る人もいる。
利益を得た人たちには責任を果たしています。
利益を与えているからです。
けれど責任者というのは、不利益を被った人たちへの責任も求められるのです。
そういうことを、ちゃんと踏まえて、政治が行われることが、昔は、普通の常識であったということです。
それが日本における、本当の勁(つよ)さであろうと思います。
※この記事は2010年11月の記事をリニューアルしたものです。

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コメント
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今の政治家や官僚は、失敗しても税金で国民が責任を支払う。
俺たち富裕層はバッチリ節税しているから大丈夫!
といういことなのでしょう。
安倍さんはそのような人とは違う、武士のような覚悟をもって
再登板した、と思っていました。
でも慰安婦冤罪合意で裏切られました。
在外邦人が困っているのに…
今までの政治家と変わらなかったから失望して
年明けからの日経平均が連日下落していたのかな??とか
つい妄想してしまいました。
外務官僚が主犯なんでしょうが。
2016/01/14 URL 編集
だいだい
日本が永遠に富み栄えていく原点と感じいりました。
ありがとうございました。
2016/01/13 URL 編集