ちなみに主権という概念は、ヨーロッパ諸国がもともと暴力社会であったことに由来します。
誰もが誰もと敵対し、誰もが常に危険にさらされている。
敗れれば個人の誇りも貞操も、ありとあらゆるものが蹂躙されるのです。
だから身を守るために民衆が王の庇護のもとに入り、王が交戦権者となりました。
それが主権者のはじまりです。
元寇に話を戻します。
最近の教科書などには、「二度にわたる元寇のあと、鎌倉幕府は、文永、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった(外国からの防衛戦だったために恩賞を与える土地がなかった)ために、鎌倉幕府は外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと記述しているものがみうけられのだそうです。
本当にそうなのでしょうか。
そもそも鎌倉幕府の滅亡は1333年です。
これは弘安の役の五十二年後にあたります。
半世紀経過しているということは、元寇と鎌倉政権の滅亡には、因果関係はないということです。
なるほど鎌倉政権崩壊後、政権自体は源家(実権は北条家)から足利家に移りましたが、その後1868年の明治政府樹立まで、長い武家政治の時代が続いています。
鎌倉幕府は滅んだけど、征夷代将軍が交替しただけで、武家政権そのものは、元寇のあとも、まる六百年続いたのです。
つまり武家政権そのものが持つ信用は、鎌倉政権崩壊後も社会に保持されたのです。
ではなぜ鎌倉幕府が崩壊したかというと、それには別な理由があります。
相続制度です。
鎌倉武士たちの相続制度は、いまの日本と同じ均等配分方式です。
子供が5人いれば、財産は5等分されます。
実はこのことは、はたいへんな問題をはらんでいます。
鎌倉武士というのは、先に書きましたように、もともとは平安時代に生まれた私有地(新田)の開墾百姓です。
それが長い年月の間に、広大な領地を保有するようになりました。
彼らはその領地で、一族郎党を養い、その領土を武家の棟梁(とうりょう)である幕府に安堵してもらうという御恩を受け、その御恩に対するお礼として、一朝ことあればいざ鎌倉へと出陣する、つまり「御恩と奉公」の関係を持っていました。
その領地は、それぞれの武家の「家」を単位にまとまっています。
ですから子がいなくて「家」がなくなってしまっては、安堵してもらう領地があっても、安堵してもらう人がいなくなるわけですから、一族郎党が土地を失い、みんなが飢えてしまいます。
つまり彼らにとって、子を残すということは、たいへん重要なことだったわけです。
ところが昔は、子供は、たいへんよく死にました。
いまでこそ、一人っ子でも、ほぼ全員が成人を迎えることができますが、ひとむかし前までは、子が成人できるということ自体が、めずらしいことといってもいいくらい、たいへんなことでした。
ウチの死んだ祖母は明治の終わりごろの生まれですが、四人の男子を産み、そのうち二人が幼くして病没しています。
昭和のはじめですらそうなのです。
江戸時代の後期、桜田門外の変で殺害された大老・井伊直弼は、井伊家の十四男坊です。
長男が家督を継ぐ時代に、なぜ十四番目の男の子が家督を継いだかといえば、別に彼がとびきり優秀だったからということではなくて、一番めから十三番目までの井伊家の子たちが、みんな病没したからです。
それくらい昔は、子を大人に育てるのはたいへんなことだったのです。
だから子供が三歳、五歳、七歳になると、よかったよかったといって、お祝いをしたのが七五三です。
まして鎌倉時代が崩壊した頃というのは、井伊直弼の時代より六百年も昔です。
子が成人するだけでも困難な時代に、御家人たちが家を保持するためには、それなりに子をたくさんもうけなければなりません。
当然子だくさんになる。
その中で、生き残って成人した幾人かが家督を相続します。
ところが、ここでの相続が、実は「均等配分方式」だったのです。
するとどうなるかというと、仮に百人を養えるだけの土地があり、子が二人だったとすると、最初の相続では、子が二人なら、50,50に土地が分割されます。これが二代目です。
三代目になると、25になります。
四代目になると、12.50
五代目になると、 6.25
六代目になると、 3.00
七代目になると、 1.50
八代目になると、 0.75
つまり、七代目にはもう夫婦で食べて行くことすらできず、八代目になると、自分ひとりさえも食べられない。家が崩壊してしまうわけです。
この時代、元服も結婚も早かった時代ですから、一世代はおよそ20年で交替しています。
つまり20年×7代=140年で、見事財産が崩壊します。
実際、鎌倉幕府は数式通りに141年目に崩壊しています。
田んぼを均等に分けて財産相続することで、、国を滅ぼし、家を滅ぼすことを、後年の人は嗤って、これを「田分け(たわけ)」と呼びました。
よく時代劇などに出て来る「たわけものめがっ!」の「たわけ」です。
鎌倉幕府は、こうした相続制度の欠陥による御家人たちの窮乏に対し、開幕から105年目の1297年(相続四世代目)のときに、「徳政令」といって、御家人たちの借金帳消し令を発布しています。
けれどこれは今風に言えば、破産宣告です。
現代社会でもそうですが、破産宣告を受けたら、もう借金はできません。
「田分け」によって、借金しなければ生活できないのに、借金ができないのです。
これはたいへんなことです。
こうして鎌倉幕府は、政権運営主体としての信用を落とし、結果として1333年に崩壊してしまうわけです。
鎌倉幕府の崩壊は元寇とは因果関係がないと書きました。
実際その通りで、江戸時代の武士たちにとっても、最大の褒め言葉は「お主はまるで鎌倉武士のようだ」というものでした。
外敵と戦って見事に国を守り抜き、誇り高く立派に生きた鎌倉武士は、時代を超えて人々の憧れの対象だったのです。
しかし、いくら高い誇りを胸に抱いていても、食べなければ人は生きていけません。
相続制度の根本的問題点によって、武士たちの生活が困窮すれば、武士たちはお金をつかわなくなります。
武士がお金を使わなければ、商業は沈滞化します。
商業が沈滞化すれば、モノの値段が下がります。
当然、農業生産物の値段も下がります。
そうなると農家の生活はますます苦しくなります。
つまりデフレです。
こうしたデフレに陥った世間をなんとかして経世済民のためにと立ち上がったのが、後醍醐天皇です。
これが「建武の中興」です。
ちなみに「経済」というのは隋代の儒学者の王通(おうつう)が書いた「文中子(ぶんちゅうし)」という書物の中に出てくる「経世済民」が元です。
後の世の幕末に英語の「Economy」の翻訳語にあてられるまでは、経世済民は、政治経済や行政司法立法などの政治全般を指す言葉でした。
そもそも鎌倉幕府は、天皇が認証を与えることによって成立している政権です。
その鎌倉政権が、事実上崩壊してしまったというなら、誰かが幕府にかわって政治の指揮をとらなければなりません。

私は、個人的には、後醍醐天皇というのは、もったいないことですが、とても責任感が強くて、また勇気があって、人間味豊かな天皇であったろうと思うのです。
と申しますのは、後醍醐天皇は、鎌倉幕府崩壊にともなう社会の混乱に、幕府を親任し、その権力に裏付けを与える存在であるべき天皇自らが、親政(しんせい)というカタチで政治の指揮を執ろうとなされているからです。
「親政」というのは、たいへんわかりやすい言葉です。
権力に認証を与えた「親(天皇)」が、「子(幕府)」にかわって直接政治の指揮を執るという言葉だからです。
後醍醐天皇は、政治の指揮を執り、全国で分割されてしまったすべての農地を、いったん古代律令国家の体制に戻すことを宣言されました。
古代律令国家の体制というのは、公地公民制です。
つまり、均等配分方式の相続によって寸断され、細分化されてしまっているすべの田畑を「公」のものとする、と宣言されたのです。
このことをもって後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒壊を仕組んだと解説している本が数多く見られますが、それは違うと思います。
なぜなら後醍醐天皇は、この改革を行うに際し、元号を「建武」としているからです。
「建武」とは、「武士の世を建てなおす」という意味です。
後醍醐天皇の大御心にあったのは、いったんは日本の姿を七世紀の古代律令体制の姿に戻し、相続制度を見直して経世済民を立て直した上で、あらためて「武」を建てる。
つまり武家に政権を委ねるという大御心であったのです。
後醍醐天皇の大御心には、明らかに混乱した民の窮状をなんとかしなければという動機があります。
だからこそ、後醍醐天皇のもとには、楠正成や児島高徳など、心がきれいで忠義心が強く、経済的にも比較的豊かな忠臣たち集いました。
ところが思わぬところで後醍醐天皇に障害があらわれました。
それは同じ朝廷内に、後醍醐天皇の行動に、疑念を持つ人たちが出てきたということです。
どういうことかというと、まさにそのことが、わが国の天皇という存在の本質なのですが、要するに「天皇親政」つまり、天皇が直接政治の指揮を執るということは、天皇が政治権力者、もっというなら、ただの「大王」の位置にまで降りてきてしまうということを意味するのです。
わが国における天皇という存在は、世俗にまみれた「政治」というものよりも、もっとずっと高位な位置にある存在です。
天皇は、わが国の最高神である天照大神から綿々と続く神の直系の子孫です。
その神の血統が、民衆の親となり、その親が政治を行う者に認証を与えます。
だからどのような政権下においても、天皇は神聖不可侵の存在ですし、一般の民衆は、天皇の民、すなわち公民(皇民)となることで、権力者による支配と、それへの隷従という奴隷的支配関係から解放されています。
それがわたしたちの国の基本となる形です。
ところが、後醍醐天皇が親政を行うということは、天皇がその政治権力者の地位にまで降りてしまうということになるわけです。
こうなると民衆は天皇の私有民です。
土地もです。
つまり公地公民ではなく、私有地私有民制になってしまうのです。
聖徳太子の御治世における十七条憲法においても、第一条は「和をもって尊しとなす」です。
つまり民の幸せ、民の安定、民の和が、第一条です。仁徳天皇も、かまどの煙の逸話にあるように、念頭にあったのは常に民の安寧です。
そしてそのためにこそ、古来わが国では天皇は、政治的権力と切り離した、もっと上位の存在とたのです。
このことがわが国の民が私有民として奴隷的支配をされないでいる民の幸福の根源的存在です。
このような社会構造を大切にしたからこそ、古来、天皇みずから政治を行おうとするときは、天皇はその位を子に譲って、子から上皇という位を授かって院政(いんせい)を行うといった、やっかいなことをしているわけです。
もし後醍醐天皇が、子の成良親王(なりよししんのう)に皇位を譲って院政をひくか、あるいは成良親王を、鎌倉幕府の将軍に任命して、成良将軍のもとに政治を行おうとしたのなら、建武の中興は、多くの臣官の賛同を得て大成功となり、その後の長い治世を築く土台となったかもしれません。
後醍醐天皇は、そうした日本古来の伝統的統治の体制と、いま目の前にある民の窮状との板挟みのなかで、ご自身でいま目の前にある民の窮状を救うという選択をなされました。
けれども結局後醍醐天皇の建武の中興は、それが天皇親政というカタチをとったがゆえに、これを拒否する多くの人たちの反対によって、持明院統の別な天皇(北朝)が生まれます。
明徳三(1392)年、明徳の和約(めいとくのわやく)によって、後小松天皇に皇位が譲られ、もとの日本古来の天皇の認証による権力者という社会形態に戻るわけです。
たしか司馬遼太郎の文芸春秋の冒頭言だったと思うのですが、友人の作家が「太平記」を書こうとしていることに触れ、
「あの時代はまさに権謀術数渦巻いた時代で、その時代を書こうとすると、たいていの人は頭がおかしくなってしまうので、やめたほうがいいと話した」と書いていたことがあります。
(読んだのが三十年以上昔の話なのでウロ覚えです。)
「太平記」は、室町時代に書かれたとされる本で、現存するものが全四十巻もある大長編です。
後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の中興の失敗と南北朝分裂、南朝の怨霊の跋扈による足利幕府の混乱までを描いた物語です。
原典があるわけですから、源氏物語や義経記のように、現代版の小説になりやすそうです。
にもかかわらずなぜ太平記を扱うと「頭がおかしくなる」のかというと、その時代が権謀術数渦巻く時代だったからだと解説されます。
しかしもしそうなら、逆に小説としてはおもしろい題材です。
実は、太平記の時代を扱うと、どうしても「天皇とは何か」という問題に触れなくてはならないのです。
司馬遼太郎の時代は、戦後の復興期にあたります。
この時代、日本の社会が戦前の常識を取り戻そうとすることは極端に否定されました。
いまではまるでおとぎ話のような話ですが、この時代、日本が国産の飛行機を作ろうとしただけで、連合国(United Nations)に楯突く兆しあり、ということで日本は再占領下に置かれる可能性すら否定できなかった時代です。
それだけに司馬遼太郎の歴史小説などは、乃木大将を否定したり、実際の史実とは、かなり様子の異なる「戦を仕掛ける戦国大名たち」を強調したりしていますが、それでも大流行の人気作家であったことは、氏の力量のなせるわざであったものと思います。
太平記を小説化しようとすると、どうしても、なぜ朝廷が南北に分裂したか、そもそも天皇とはなんぞや、という議論にどうしてもいたらざるを得なくなります。
そこを明確にしなければ、小説になりません。
だからこそ朝日に近かった司馬遼太郎は、それをわかって、友人の作家に、「太平記はやめとけよ。メディアから閉めだされるぞ」と言ったのではないでしょうか。
いまでもこうした言論への「潰し」活動はさかんに行われています。
これは、本来自由であるはずの学会でも同じです。
たとえばナチスドイツのアウシュビッツにおけるユダヤ人の虐殺は、ヨーロッパでは戦後、それをあったとする学者さんたちと、なかったとする学者さんたちで、激しい言論戦が展開されています。
内容的には、なかった派の方が、やや優勢です。
けれども日本国内では、なかったという議論があるということさえも、まったく報じられないし、学説の翻訳もされません。
あったかなかったかの議論さえ、知らされません。
まったく「あった」という先入観に凝り固まってしまっている、もしくは「なかった」という意見の存在さえも知らないのは、現在、世界の中で日本人くらいなものです。
※この記事で私は後醍醐天皇をどうのということを争点にするつもりは全くありません。
評価するのではなく、歴史はあくまで謙虚に学ぶものだというのが、私の基本的考えです。
そこは誤解のないようにお願いします。
※この記事は2013年2月の記事をリニューアルしたものです。

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コメント
くすのきのこ
据えて、上皇が政治を見るという形にしたが・・やはり武家社会への移行は
避けられなかったと・・コレは人口と領土が広がり、社会の仕組みが複雑化
したがためではないかな?揺らいではいけないない存在というものは、現社
会とは一線引いた所に在しなくてはならないから。そして、日本は天災国家
で・・望まなくても崩壊の危機は常にあるから尚の事・・揺らがない存在が
人々に希求されてしまう。人の心は虚弱な弱い所があるから・・。日本人の
現世主義も、どこか根性が据わっている気質も・・天災によって鍛えられた
のもあるだろうけれど、皇室の存在がアタリマエだからかもしれませんねww
アウシュビッツでは、沢山の人達がペストと栄養失調で亡くなられたけれど
も、ガス室による処理については懐疑論があります。フランスの大学教授を
始めイスラエルの人にも懐疑派がおり、様々な検証がなされています。そし
て死亡者の人数の記録も改められ、数が減っていたりします。捏造は、本当
に無くなった方々への哀惜の思いを貶める行為でしょうしね。合掌。
2016/01/26 URL 編集
にっぽんじん
その結果、折角の改善が改悪になるケースが沢山あります。規制緩和などはその良い例です。今朝の報道によると、コンビニなどのレジで銀行預金から現金を引き出せるシステムを検討しているようです。
こんな馬鹿なことを考えるのは「IT企業」だけではないでしょうか。現金を下ろすお客が並べばレジは混乱し、レジで働く人の負担も増えます。
銀行に買物に行くような改悪はやるべきではないと思います。政府は本気で検討するのでしょうか。
2016/01/25 URL 編集
東京ララバイ
平成28年1月20日(水)
(松茸のお土産)
北朝鮮は、六日、核爆弾を炸裂させた。
しかし、我が国外務省は、
平成十四年九月十七日に小泉総理と北朝鮮の金正日国防委員会委員長との間で交わされた
「日朝平壌宣言」を維持している。
我が国がこの「日朝平壌宣言」を維持するということは、日本側だけが、
「この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注する」ことになる。
その結果は、日本から北朝鮮に対する巨額の金の支払いに帰結する。
他方、北朝鮮側は、既に「この宣言に示された精神及び基本原則」を完全に無視している。
つまり、北朝鮮は、
「朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守する」ことも、
「ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく」ことも、
すべて完全に破っている。
では、北朝鮮が拉致被害者を解放して日本に帰国させる約束はどうなったのだろうか、と思われている方にハッキリ言っておく。
外務省がそのように説明し、小泉総理の北朝鮮訪問が「拉致被害者救出」の為だったと大いに喧伝されたから無理もないが、
実は、北朝鮮は、拉致被害者を解放して日本に帰国させる約束など、一切していない。
平成十四年九月十八日に外務省が拉致議連に「北朝鮮が拉致問題の解決を約束した」と強弁した「日朝平壌宣言」の文言は次の通りだ。
「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、
朝鮮民主主義人民共和国側は、
日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が、
今後再び生じることがないように適切な措置をとることを確認した」
この文言をよく読んでいただきたい。
北朝鮮が「確認した」のは、「このような遺憾な問題」が、
「今後再び生じることがないように適切な措置をとる」ことだけである。
これは、何を意味するのか。
それは、小泉訪朝団が、北朝鮮の金正日が九月十七日午前十時頃に、
拉致被害者は「五人は生きているが八人は死亡した」
と伝達した内容を真実として納得したことを示すものである。
つまり、平壌で日朝双方は、
拉致被害者「五人生存八人死亡」で
「拉致問題が解決したことで一致した」のである。
従って、文言は、
拉致は「日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題」であると「過去形」で書かれているのだ。その上で、つまり過去の「拉致問題の解決」を前提にして、
北朝鮮は「今後再び生じることがないようにする」と応じているに過ぎない。
そして、日朝の小泉と金は2002年9月17日の共同宣言で謳い挙げた。
「国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注することとし、
そのために2002年10月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした」と。
日朝の小泉と金は、実に、翌月には国交正常化交渉を再開すると約束したのだ!
これは、まさに、拉致問題が解決したから為しえた約束ではないか。
ここにおいて、小泉訪朝団が、
北朝鮮からトラック二台分の松茸のお土産を政府専用機に積んで帰国してきた理由も明かであろう。
松茸は、まさに小泉に対する拉致問題解決と国交正常化=カネの支払いに対するご褒美である。
それを小泉訪朝団は受け取って帰ってきた。
帰国する小泉訪朝団の仕事は、
平壌で合意した拉致問題解決=8名死亡を
その家族に伝達し息子や娘の死亡を信じさせて納得させることであった。
従って、官房長官と外務副大臣は、
「残念ですが、貴方のお子さんは既に死亡されています」
という断定的な死亡宣告を行ったのだ。
小泉内閣は、北朝鮮が渡した死亡年月日リストを隠し、死亡を確認もせず、
家族に死亡宣告をした。悪魔の所業ではないか。
この時、横田めぐみさんや有本恵子さんらは、
小泉内閣によって、生きながら消し去られる寸前だったのだ。
しかし、母の一念が、北朝鮮のウソを見破った。
「めぐみは生きている」と。
そして、8名死亡はウソだと分かった瞬間、
小泉総理らが北朝鮮から貰ってきた松茸は、
小泉・金の日朝双方の邪悪な合意を雄弁に裏付ける代物となった。
家族の集まる友愛会館に来た官房副長官に私は言った。
「松茸、どうするんや」
官房副長官は、絶句して顔を引きつらせた。
冒頭にも書いたが、安倍内閣と外務省は、今もなお、この「平壌宣言」を維持している。
これは、拉致被害者の救出のための宣言ではなく、
日朝国交正常化の為の拉致被害者を除去する宣言ではないか。
(山本美保さん)
昭和五十九年六月四日、二十歳の山本美保さんが住んでいた山梨県甲府から忽然と姿を消した。
その四日後、新潟県柏崎の海岸で美保さんのバックが発見された。
ここは六年前に蓮池さんらが北朝鮮に拉致された海岸だった。
美保さんの父親は山梨県警の警察官で、
その頃の行方不明者を徹底的に調べたが美保さんに該当するものはなかった。
失踪から十八年が経った平成十四年九月十七日、
小泉訪朝で北朝鮮が拉致を認め、翌月五人の拉致被害者が帰国してきた。
そして、俄に美保さんも拉致されたのではないかという疑いが高まった。
そのような折り、「特定失踪者調査会」が設立され、
山本美保さんを「北朝鮮による拉致濃厚の失踪者」のリストに入れた。
また、美保さんの同級生らが中心になり、美保さんの失踪の真相を究明する署名活動が始まった。
すると、平成十四年十一月から十五年十二月までの間に、二十万以上の署名が集まった。
いよいいよ、十三歳の横田めぐみさんと同じように、
二十歳の山本美保さんも北朝鮮に拉致されているという国民の思いが高まってきた。
すると二十万の署名達成から三か月後の平成十六年三月五日、
山梨県警警備1課長補佐から美保さんの実家に電話があり、二十年前に山形の海岸に漂着した遺体と美保さんのDNAが一致したとの連絡があった。そして、美保さんの家族が警備一課長らから説明を受けるために警察に行くと、既に、テレビで、二十年前の山形の海岸に漂着した遺体が美保さんであると判明したというニュースが流されていた。
その遺体は屍ろう化し歯が十三本も抜け落ちていた。
遺体発見は昭和五十九年六月二十一日、美保さん失踪は同年六月四日。
従って、その遺体が死後十七日以内の遺体であれば、
十七日間で屍ろう化し歯が十三本も抜け落ちるなどということはあり得ない。
また遺体の下着のサイズは美保さんの体型に合わない。
さらに美保さん失踪から十七日後に発見された女性の遺体を、
当時の山梨県警の美保さんの父親を始めとする警察官達が見逃すはずがない。
彼らはその時、美保さんの遺体ではないと判断しているはずだ。
残念ながら美保さんの父親は既に亡くなっているのだが、
父親は確実に、失踪直後に発見されたその遺体が美保さんではないと判断していたはずである。
以上を総合すれば、
二十年後に美保さんの家族にも知らせずに実施したDNA鑑定で、
突如漂着遺体のDNAが美保さんと一致したとする警察の発表は
美保さんが北朝鮮に拉致されたとする関心の高まりをみて、
拉致問題と美保さん失踪を無関係とするために為されたものと判断するのが合理的である。
そして、この判断は、拉致問題を常に日朝国交正常化の「障害」と位置付けてきた小泉・金の日朝平壌宣言の方針に合致するのである。
山本美保さんと漂着遺体のDNA一致の発表は、「拉致問題の大きな闇」である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上引用
山本さんのお父上は警察官であった
これが、一層胸に突き刺さる
2016/01/25 URL 編集
人生いろいろ、私もいろいろ
小坪さんは、独自のサイトを立ち上げました。
表現の自由の限界のためです。強い意思の表れです。
2016/01/24 URL 編集
-
ねずさんのブログにあるようなお宝情報も、知っていることが多いです。
その者の説では「鎌倉政権は、たとえは悪いけど民主党政権のようなものだった。
後醍醐天皇は、日本的ではない人だったため、日本的な人たちから反感が出た。楠正成は○○じゃないか」とのことでした。
ねずさんの説と似ているので一理あると思いました。
2016/01/24 URL 編集
ポッポ
お節介かも知れませんが、
貴方の「不正投稿」として拒否された文章の中に、
>「私は5人の兵士と、慰安婦○イプし○しました。
との表現がありました。
この○のような表現がありますと、内容が過激な又はどこかのコードに引っ掛かるのを避けるためでしょうか、「不正投稿」として拒否されることがあります。
これは、ねずさんの判断ではなく、自動処理だと思います。
不正投稿として拒否される表現は他にもありますので、記述される際には、表現を変えるか、言葉の一部を○に変えて後は想像してもらうことにして、文章にすれば良いと思います。
2016/01/24 URL 編集
きりふ
コメ参加の方の、コメントが繋がらない件は、最近どうやら特定のワードの言〇弾〇がかかっているらしいです。あちこちのブログでも同様のことが起きています。仕掛けているのがお堀の中という厄介な代物だそうです。戦前の日本に戻したい、もっと言えば悠久の日本精神を取り戻したい。戦後日本がダメになった元凶と今、静かに戦いの真っ最中です。
そんな中に一民草として、昔からのしきたりや古典(百人一首等)が、揺り戻しのように無性に欲しくなり、だけど作者を見てこの人は大丈夫?とためらってなかなか手が出ませんでした。
なのでねず先生の書籍は私にとっては救いの本です。教科書でさえ真実を曲げて教えられている可能性のある昨今、ねず先生の貴重なお話に心の落ち着きを感じて救われる日を過ごしております。ありがとうございます。これからもたくさん拝読させて戴きます。
長々失礼いたしました。
2016/01/24 URL 編集
ねじゃか
理由は分かりませんが、結局小坪先生の所に投稿させて頂きました。
頑張って書いた文なので、ねず先生にも皆様にも見て頂ければと思います。
この文章も何か不都合があれば削除してください。
また書かせて頂きます。
2016/01/24 URL 編集
-
吉川英治氏の私本太平記を学生時代に読みましたが、楠木正成の忠義も自決した最期も見事に描かれていました。それだけでなく悪人の代名詞と言われていた足利尊氏を度量のある多くの武士達に慕われた立派な存在として描かれていたのも良かったです。
司馬遼太郎は南北時代を描いた人間はキチガイになると言ったとしたら、偉大な先輩作家である吉川英治に失礼だなと想いました。
2016/01/24 URL 編集
junn
http://www.yaita.eei.jp/diary_10058.html
2016/01/24 URL 編集